木取りという作業


 木取りという作業がある。製作の最初の工程で、原材料から部材を切り出す作業である。

 木材は自然素材であるから、原材料の板一枚ごとに形や表情が違う。真っ直ぐなものも有れば、曲がったものもある。捻れたものや、反ったものもある。また、整った木目のものがある一方、節や割れなどの欠点を有するものもある。さらに、虫にひどくやられている場合もあるし、腐れなどが入っていることもある。

 そのように、多種多様な差異を持った原材料から、目的とする部材に相応しいものを選別して切り分けるのである。そこには木材を扱うことの、固有の難しさがある。

 だいぶ前になるが、木工家具の勉強をしている若者が、私の工房へ見学に来たことがあった。話をしているうちに、「木工家具作りでは、何が一番難しいですか」という問いが出た。私は、難しいかどうかはさておき、一番嫌いなのは木取りの作業だと答えた。若者は意外だといった顔になり、「木取りが一番面白いじゃないですか。これから作る物のイメージを頭に描いて、それに合った材を整えるのですから、創造的な楽しさがあると思います」と言った。

 実際に私は木取りが嫌いである。嫌いと言うと誤解を受けるかも知れないので、「気が進まない、憂鬱な作業」とでも言っておこうか。とにかく木取りのときは仕事が進まない。原材料の板を前にして、ボーッと立ったまま時間が過ぎることもある。

 くだんの若者が言ったように、木取りは創造的な作業だと思う。それは間違いない。しかし、その反面、大きなリスクも伴う。木取りで選んだ材は、製品になるまで付いて回る。木取りの善し悪しで、製品の出来上がりが左右されると言っても過言ではない。木取りでミスを犯せば、それは最後までつきまとう。木取りの後の加工段階では、多少のミスはどうにでもなるが、木取りのミスだけは、取り返しが付かないのである。

 そのプレッシャーが、私を木取り作業から遠ざける。

 目の前に原材料が並べてあって、好きな物を選んで自由に使って良いと言われたら、木取りは創造性に満ちた楽しい作業にもなろう。しかし、生業としてやっている木工に於いては、「良い所取り」だけで済ませるわけには行かない。良い所も悪い所もあり、癖も欠点もある原材料の束から、「ここには使える」、「ここには使えない」という判断をしながら選別をしなければならないのである。悪い材や、欠点のある材でも、実用的に問題が無ければ、それで済ませられる部分に回す。そういう工夫をすることが、木取り作業の本質だと私は思う。

 以前、こんな木工家の話を聞いたことがある。家具を作るのに、一本の丸太から良い所だけを選んで使うのだと。それは丸太のほんの一部でしかない。後の残りは全部捨てるのだそうである。本当か嘘かは分からないが、そんな御大尽のような仕事をやっている木工家は極めて稀であり、ある意味で異常である。そんな事を自慢げに述べ立てる木工家には、多少の疑問を抱かざるをえない。

 木取り作業は、ジレンマとの闘いである。それは自然素材を扱う木工の宿命でもある。自由に、勝手に、能率良く、それでいて綺麗に格好良く仕事をやり遂げたいと願う人間に対して、「そうは行くか」と立ちはだかるのが木材の多様性である。その多様性の御機嫌を伺い、人間社会の価値観との擦り合わせをし、なんとか上手く納めなければ、木工は成立しない。その出発点が、木取り作業なのである。木工を続けて行く限り、木取り作業の憂鬱から開放されることは無いのだろう。

 ところで、以前民芸家具の工場に勤めていた人から、面白い話を聞いたことがある。

 その人は入社した時、木取り専門の部門からスタートしたのだが、他の同僚が次第に「組み立て」に移って行ったのに対して、自ら希望して木取り部門に残って勤め上げたとのことだった。

 まず、民芸家具の工場に木取り専門の部門があるということが、私にとって意外だった。

 その民芸家具会社は、責任製作と称して、職人が一つの作品を最初から最後まで手がけるということを宣伝文句にしていた。それなのに、木取りは組み立て部門の職人ではなく、別の担当者がやっていたのだ。

 仕事の流れはこういう感じだったらしい。まず組み立ての職人に対して、上から「洋服タンスを三本」というような指示が来る。その職人から木取り部門に、使う部材の木取りの依頼が来る。木取り部門のチーフが木取り作業員の中から一人を選び、仕事を指示する。木取り担当者は原材料の山から材を抜き出し、切り分け、部材としての形になるまで、つまり巾と厚みと長さを決めるところまで機械作業をする。加工の終わった材をまとめて積んでおくと、組み立ての職人が取りに来る。

 何故木取り専門の部門があるのですかと聞くと、答えは明瞭であった。組み立ての職人に木取りからやらせると、良い材ばかりを使ってしまい、悪い材が余ってしまって困るからだと。

 それは理解できる。自分が買っているわけでも無い材が、余ろうがどうしようが、組み立て職人にとっては関係の無いこと。良い材は見た目も良いし、加工もやり易い。そういう材ばかりを選んで、見映えの良い製品を手際良く作りたいと願うのは、自然なことである。そのような職人の心理を押さえた上での、分業体制なのである。

 しかし、木取り担当者が整えた材を、組み立ての職人が拒否するということは無いのだろうか。「こんな材は使えない」と言って、突き返すことも有りうるのではないか。

 それは有りうることだが、そういうことが起こらないように、信頼関係を築くことが大切だったそうである。そのためには、内緒で職人の要望を叶えてやることもあったらしい。例えば、職人が部材の加工を失敗したときに、補充の材をこっそり入れてやるとか。

 また、組み立て職人からクレームが来ても、木取り部門のチーフが説明をすれば、職人が引き下がるのが常だったと。チーフはそれほど良く木の使い方を知っていたのだそうである。

 木取り担当者の中にも、良い材ばかりを選んで使う人もいたようである。そうすれば職人との関係が上手く行き、仕事がやり易かったからだろう。それでは悪い材が余ることになるが、それはチーフが心得ていて、仕事の回し方で調整していたらしい。大工の世界では、「木使い、人使い」というような言葉があるらしいが、木工家具工場でもそのようなことがあったのだろう。

 話をしてくれた人はどういう仕事ぶりだったかと言うと、良い材と悪い材の使い分けにやりがいを感じていたとのこと。民芸家具は塗装で黒く塗ってしまうので、材の選別にはあまり気を使わなくて良いところがある。しかし、木目の合わせ具合などは、微妙に違いが現れることもある。また、節などの欠点がある材は、内部の見えない所に回すなどの工夫をして、なるべく無駄が出ないようにする。そういうことをずうっと続けてやっていると、それなりに熟練の域に達して、面白さを感じるようになったとのこと。

 改めて木取りという作業の、重要さと難しさが伝わって来る話であった。



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