森林は金の卵を生むニワトリ?



 以前ある市民講座を聴講した。テーマは森林と人の生活の関わりについて。講師は某国立大学の名誉教授で、林学の権威である。その講演の中で、こんな発言が講師の口から出た。

 「林業というのは森林から材木を切り出す行為です。これは森林がある限り、永続的に繰り返し収穫できるのです。まるで森林は金の卵を生むニワトリのようなものです。これを利用しない手はありません」

 私は理科系の人間であるから、質量保存の法則とか、エネルギー保存則、あるいはエントロピーの法則などというものを、物を考える基本の一つとして位置付けている。そんな私からすれば、理科系の権威の先生から発せられた上の発言は、どう見てもおかしいように感じられた。

 畑から野菜を収穫することを繰り返せば、だんだん土地が痩せていって、そのうちまともな野菜は採れなくなる。毎年同じような収穫を得ようとするなら、畑に肥料を入れなければならない。こんなことは常識である。ならば何故森林は一方的に木材を収穫することが許されるのか。

 この疑問はずっと私の頭に付きまとっている。あるとき、ちょっと知り合った林学の教授に、手紙で問いあわせてみた。その教授からは「それは施業という林学独特のシステムに関わるたいへん重要なテーマです。今度一杯やりながら討論しましょう」との返事が来た。ところがその教授は、その機会を待たずに癌で他界された。私の疑問は晴れずに続いた。

 その後、ある会合の席で、林学科の学生に同じ質問をしたこともある。話の分かりそうな男の子だったから聞いてみたわけだが、結論として「森林は十分に大きいから、そんな心配をする必要はない」との返事だった。これでは答になっていない。彼は「大竹さんは何故そのような心配をするのですか」とあきれ顔であった。

 長野県を揺るがした田中知事の脱ダム宣言の頃、川や自然に関わるシンポジウムを聞きに行った。パネラーの一人のC.Wニコル氏が次のような発言をした。これは印象に残った。

 「カナディアン・ロッキーの山中の森林から切り出した木材を分析すると、鮭の遺伝子が発見される。カナダではヘリコプターで鮭のペレットを空から森林に蒔いている」

 木材からどのようにして鮭の遺伝子を抽出するのか、私には分からないが、これが事実だとすると、生態系の循環が森林を生かしていることになる。そして、ヘリコプターによる施肥は、その生態系の循環を補足する目的だと解釈される。

 植物は空気と水と日光だけで成長するわけではない。リンやカリウムなどの微量元素を吸収しなければまともには育たない。その微量元素が何らかの方法で補充されなければ、森林とても次第に衰退していき、しまいには枯れてしまうだろう。では、どのようにして補充されるのだろうか。ヘリコプターで肥料を蒔いている国もあるようだが、先の林学の権威の先生によると、そのような人為的なことをしなくても、森林は生存を続け、さらに人間による永続的な収穫にも耐えるのだと言う。そこに大きな秘密があるように感じた。

 ちょっと尾籠な話になるが、昔の百姓家では、通りすがりの旅人が宿を乞うと喜んで応じ、礼はいらぬから、厠で用を足していってくれと言ったとのこと。つまり下肥を提供してくれるなら、宿を貸そうということなのである。本当か嘘か分からないような話だが、理屈は通っている。つまり、米や野菜を収穫して他の地域に出してしまえば、それと共に養分の元も持ち去られてしまう。遠くへ持ち去られたものを取り戻すには、自分たちの糞便では効果が足りない。遠くから来た人のモノが必要なのである。

 森林を生育させる養分は、枯れ葉が堆積してできた自然の堆肥の中にあるという説が一般的である。しかし、自然の堆肥に含まれる成分は、その場に存在し続けるわけではない。雨水によって地下にしみ込み、それが地下水に溶け込んで流れ出し、川となって海まで落ちていくのである。海へ流れ込んだ養分は、植物性プランクトンを育てる。そのプランクトンを食べて魚が生活する。だから、魚が多く分布する場所は、沿岸から限られた距離の海域に限られるという。沿岸に近い海域は、川から供給される養分が豊富だからである。

 この事実は、とりもなおさず、森林の土壌に形成された養分が、水に溶けて流れ出してしまうことを示している。

 近年、海の漁師が山に樹を植え、森を育てるという話を耳にするようになった。魚が良く生育できる環境は、元をたどれば森林にあるのだということが認識されてきたのであろう。しかし、樹を植えることだけで森林が豊かになるのであろうか。それは間伐などの森林整備をしろというような問題ではなく、樹木の生育に必要な養分の元がどこから供給されるかという疑問である。

 微量元素といえども、重量のあるものは必ず低い方へ移動する。それを再び高みへ届けるには、何らかのエネルギーが必要である。水は太陽の熱エネルギーで蒸発し、空へ上がり、そしてまた雨となって降る。しかし、蒸発する過程で水は何ものも同伴しない。重力によって海まで落ちた栄養成分は、雨によって陸に戻されることはない。

 日本各地で、海の漁師が山の上の神社に魚や貝を捧げるという伝統が残っているようである。海からかなり離れた山の中の神社の土の中から、サザエやアワビの貝殻が発見されるそうである。これは、先に述べたように、漁師が海の幸の起源は山の森林の中にあるということを直感的に知っていたことによるものなのか。そのために、山の神にお供えものをして、豊漁を祈願したものなのか。私はそれだけに留まらないと思う。漁師たちの行為には、海にまで落ちたある種の貴重な物質を、再び山に帰すという象徴的な意味も含まれていたように、私には思えるのだ。

 一方、林業を営む山の民が、シーズンの仕事始めの日に、海の魚と塩と酒を持参して山に登るという話も聞いたことがある。それらの供物を森の木の根元に据え、山仕事の無事を祈願するのである。祈願が終わると、酒は男たちがその場で飲んでしまうが、魚は森に捧げ、塩は地面に蒔く。これも、単なる神事とは様相が異なるように思う。やはり海のものを山に帰すという、自然の摂理に習った行為を、象徴的に表しているのではないか。

 魚類の中には、川で生まれ、海に下り、そしてまた川を遡って産卵して一生を終えるものがある。鮭もそうである。なぜこのような習性があるのだろうか。川で生まれた魚は川で暮らし、海で生まれた魚は海で暮らせばよいではないかと思う。しかし現実には、何千キロもの海の旅の後、河口からわざわざ川に入り、上流まで遡って来る魚があるのだ。

 鮭が産卵のために遡上する。それをクマがつかまえて食べる。ワシも食べるし、そのおこぼれをカラスも食べる。それらの動物が森林の中で糞便を出す。あるいは死んで土に帰る。その土から芽生えた植物をシカやサルが食べる。そのようにして、鮭が自らの体内に蓄えて海からもたらした物質は、森林の中に広がっていく。そのような生態系の循環が森林を育む。そして森林からしみ出した養分が、海の生き物を育む。

 遡上する魚は、重力で海に落ちた物質を、またもとの山、もとの森に戻す「運び屋」の役割をしているのだと思う。逆に言うと、そのような役割を担うものがなければ、自然は維持できず、森林は衰える。森林が衰えれば、海の生物は暮らせなくなる。「運び屋」の存在は、そのようにならないための、自然のシステムの一部なのであろう。重力という自然現象に逆らって生き続けようとする生き物の世界の、なんとスケールが大きく、たくましいことか。

 海の物質が森林を生かす。人間にも、同じようなことが言えるかも知れない。

 シベリアの内陸深い土地では、海産物が手に入らないために、皮膚病などの慢性化しているところがあると聞いた。日本でも、山国信州には「塩の道」というのがあって、日本海で取れた塩を内陸に運ぶ街道があった。海の成分は、人間にとっても大切なのである。

 これは私の持論であるが、魚を捕り、海草を採って生活している漁師、そして海水から塩を作る塩田の仕事。これらは、海水中の大事な成分を地上にもたらして、人々の口に入るようにしてくれる、有り難い仕事だと思う。偉大な仕事だとも言える。

 さて、テーマに戻るが、確かに森林は金の卵を生むニワトリのようなものかも知れない。人が自然の邪魔をしない程度に「おこぼれ」として材木を戴くぶんには、森林は限り無い寛容さを示してくれるのだろう。人間などおかまいなしに、そして人間の知恵などはるかに及ばないところで、自然は粛々としてその営みを続けているのである。

 しかし、程度の問題は別としても、何もしないで戴くだけという発想が、大自然の倫理として許されるであろうか。さらに、相手を痛めつけてその上戴くだけということが、平然と人間の手によって行なわれたとき、大自然の審判はそれを見逃してくれるだろうか。  


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