昔の大工仕事はコスト・プラス・フィー


 コスト・プラス・フィーとは、聞き慣れない言葉であろう。これはプラント建設業界における、契約形態の一つである。私は技術屋なので、契約関係の詳しいことについては分からない。また、コスト・プラス・フィーの中には、色々な形態があるとも聞いたことがある。それはさておき、以前私が勤めていた会社の中で言われていたコスト・プラス・フィーとは、次のような概念であったと思う。

 コストと言うのは、ハード面の費用である。つまり、建設資材を購入するなどの費用のことを言う。それに対してフィーというのは、設計料などソフト面の費用である。コスト・プラス・フィー契約というのは、コストは掛かっただけお客が支払い、フィーも掛かっただけお客が支払うという契約である。なんだ当たり前のことではないか、と思われるだろう。しかし良く考えると、この当たり前のことが結構難しい。

 コスト・プラス・フィー契約というのは、比較的新しい概念であり、おそらく1970年代に登場したものだと思う。それまではランプサム契約が主流だった。ランプサム契約と言うのは、一括いくらの契約である。エチレンプラントを一基建設するのに、契約金額が400億円だとすると、それには全ての費用が入っているとする契約である。資材費も設計費も工事費も、ハードもソフトも全て含んで400億円ポッキリなのである。

 このランプサム契約は、お客の立場としては、実は不安がある。乱暴な言い方だが、大金を払って安物を掴まされる危険が潜んでいるからである。もちろんプラントを発注する際には、分厚いボリュームの契約書を取り交わす。その契約書の中に、機器、設備に関する詳細な品質条件が記載されている。それをきちんと守らせれば、一応不安は無いとも言える。しかし、現実問題として、知らぬうちに紛れ込んでいた粗悪品によってプラントが停まりでもしたら、被害は甚大である。

 特に受注競争が激しく、厳しい金額で契約が決まった場合など、業者側としてはあらゆるコストダウン策を考える。費用をケチるために、100の品質の資材を納めるべきところ、80の品質の資材で誤魔化すことも、あり得ない話ではない。契約書の抜け道が見つかれば、「この資材で文句を言われる理由は無い。最終的にプラントが完成すれば良いのだろう」と開き直る可能性もあるのだ。

 これに対して、コスト・プラス・フィー契約の場合は、建設資材は直接お客が買うのである。建設業者はその仲立ちをするだけである。高級な機器設備は価格も高いが、お客がOKすれば、それが採用されるのである。建設業者としては、安物を勧める理由も無い。むしろ、ちゃんとした設備を買ってもらった方が安心である。このシステムであれば、お客にとって期待外れの設備が納められる危険が無いのである。もちろんお客が正しく判断できるようなサポートを、建設業者は提供しなければならない。お客の方も良く勉強をして、間違いの無い買い物をしなければならない。そして、お客にとっては、直接メーカーから購入することによって、新しいコネクションが生まれるし、製造業界の事情についても知ることになる。それは将来プラントをメンテナンスしたり、増設したりする際に、役立つノウハウとなるものだ。

 コスト・プラス・フィー契約では、設計費などのソフト費用は、掛かっただけお客が支払う。しかし、ずるずると仕事を長引かせて建設業者に儲けられては叶わないから、上限を設定する場合がある。また、契約時点でソフト費用を一定金額に決めてしまう場合もある。これをフィックスドフィー方式と呼ぶ。しかし、基本的には掛かっただけ客が支払うのである。これは逆に言えば、働いた分しか金を出さないということでもある。掛かったぶんだけの金額をお客から支払ってもらうためには、建設業者側にはそれを証明する義務がある。仕事内容を非常に細かく分類し、どの仕事に何人の社員が何時間かかったから、合計これだけの金額になりましたというレポートを、定期的にお客に提出しなければならない。その内容に疑義があれば、お客はクレームをするし、ひどい場合は支払いを拒否する。働かないのに、あるいは手を抜いたのに、偽りの代金を請求することは許されないのである。

 概念的にはこんなところであるが、実際にコスト・プラス・フィー契約でプラント建設を請け負うのは大変なことだったらしい。1980年当時、この契約システムで巨大化学プラント建設のプロジェクトを遂行できるプロジェクト・マネージャーは、世界に何人も居ないと言われたほどである。

 さて、昔の大工の仕事は、このコスト・プラス・フィー契約だったと私は思うのである。私の家内の実家では、はるか昔に自宅を建築したのだが、そのときの思い出話を聞いて、そう感じた。

 年配の大工が、ほとんど一人で家を作りあげる。建て前の時には大勢の人手を頼むが、それは一日で終わる。それ以前と以降の作業は、助手程度は使うにしろ、少しづつコツコツと、ほとんど一人だけでやりとげるのである。だから、建設には非常に長い日数がかかる。その手間代として、日当に日数を掛けたものを、施主は延々と支払うのである。仮に建設が予定より長引いたとしても、長引いただけ金を支払うというわけだ。

 家を建てるという仕事には、不確定な要素がつきものだと思う。材料は木という自然素材である。予想以上に狂いが出ることもあれば、その反対もあるだろう。材木の使い回しを変えなければならない事態も発生するだろうし、天気によって左右される部分もある。また、建設中に間取りの変更が生じたり、意匠の変更が生じることもある。このように様々な理由で、予定したスケジュール通りに行かない場合がありうる。工業的に画一化されていない建材を使えば使うほど、この傾向は強くなるだろう。仕事にどれくらいの時間がかかるかは、やってみなければ分からない部分がある。プラスであろうとマイナスであろうと、その予定からずれた部分を、施主か業者のどちらかに無償で負わせるのではなく、お金で精算しようというのが、この方式である。

 一方、建設資材となる材木などは、施主が直接購入する。大工に伴われて材木屋へ出かけ、気に入った物を施主が直接買うのである。もちろん大工がいろいろアドバイスをする。品質と価格のバランスを大工が説明し、施主は自分で納得したものを購入するのである。床柱などの造作材は施主の趣味が現れるものだから、このような買い方は理に叶っている。

 大工がダラダラと仕事を長引かせて、必要以上の金をせしめる心配は無いのだろうかと考えてしまう。そんな心配は、金と能率しか頭に無い、現代人の下衆な考えであると家内に言われた。大工と施主の間には、良い建物を作りたいという共通の目的で結ばれた、強い信頼関係があるのだ。施主が大工を疑うなどということは、あり得ないのである。疑うくらいなら、頼まない方が良いというわけである。腕の良い大工で、他からの仕事が数年先まで順番を待っているのだから、仕事を長引かせたりする理由など無い。また、おそらく仕事の手を抜くなどということは、金輪際できない種類の職業人なのだろう。良い仕事には時間がかかる。逆に時間をかければ良い仕事ができる。そういう世界なのである。考えてみれば、当たり前の事である。

 また、施主も大工を大切に扱う。施主の奥さんは、毎日必ず10時と3時にお茶とお菓子を運び、ときには夕方仕事が終わる頃にコップ一杯の酒を出す。職人をおだてるわけではない。職人が気持ち良く仕事を行ない、良い建物が完成するように、施主も一役買っているのである。

 最近の住宅建築は、40日工法などと言って、わけの分からないスピードで建ててしまう。しかも、価格競争が厳しいので、職人は工務店から釘の数を三分の一にしろなどという指示を受けることもあるそうだ。乾燥が不十分で、電動カンナで削ると木屑が舞い上がらずに、ポタポタと下に落ちるような木材を使うこともあるらしい。一定の金額で請け負ったら、「後は野となれ山となれ」なのである。施主には、建築の細部は分からない。工務店が手を抜いても、知るよしも無いのである。契約する時の金額はお得でも、そしてちょっと見た目にはステキな家が出来上がっても、肝心な部分がいい加減な仕事では、施主としては堪らない。でも、工務店側に言わせれば、「こんなに安い金額で、こんなに短い納期なら、この程度の仕事で当たり前」なのかも知れぬ。なんと殺伐とした世界であろうか。

 昔の大工仕事は、一徹であった。ガラス張りの明朗会計だから、リスクも無いが、逆にボロ儲けもありえない。仕事が続けていけるなら、別に金持ちになる必要もなかったのだろう。良い仕事をして、立派な建物を残す。それだけで満足したのだ。そして、施主の側からすれば、一見節操が無く不合理に感じる契約形態が、実は良い建物を手に入れるための良策だったのである。それはまるで、プラント建設業界に於けるコスト・プラス・フィーの概念そのもののように、私には思われるのである。

(Copy Right OTAKE 2003)                                        

→Topへもどる