刃物を研ぐ
現代人の生活では、刃物を研ぐということはほとんど無いだろう。主婦で包丁を研ぐ人は珍しいし、包丁を持っていない主婦すら居るという話を聞いたことがある。ナイフは替え刃式が主流であるし、大工の道具ですら、替え刃式が出回っている。使い捨ての方が、手間がかからず便利だというわけである。
私がやっている木工仕事では、刃物は自分で研ぐ。電動木工機械の刃物は、自分では研げないので、専門の研摩業者にお願いするが、いわゆる手道具の類、カンナ、ノミ、小刀などは全て自分で研ぐのである。研ぎが上手いか下手かで、作業の能率は大きく変わるし、加工の精度にも影響する。特定の刃物が上手く研げないという理由で、それを使った加工を断念せざるを得ない場合もあり得る。刃物の研ぎの腕前が、その木工家の作風にも影響を与えかねない。研ぎとはそれほど重要である。
刃物研ぎは難しいと考える人が多いだろう。確かに、コツを掴むまでは難しいし、熟達するまでには相当の訓練が必要である。しかし、一旦その技術を身に付ければ、刃物研ぎはなかなか面白い作業である。とにかく、研ぎ直した刃物の切れ味は、素晴らしい。それだけでも、十分に楽しいのである。私が刃物を研ぐ際には、ちゃんと研げたかどうかのチェックとして、手の甲のうぶ毛を剃ってみる。スッと切れたら、研ぎ上がりである。ちなみに、市販のカッターナイフで、これができるものは有るだろうか。
研ぐことで刃物が鋭い光沢を現すのも、見ていて楽しいものである。男の子なら、必ず興味を覚える、危険な楽しさである。仮に納屋の奥で、古い、錆びた刃物が発見されたとする。そのような状態のものを、ちゃんと研ぐのは手間と時間がかかるが、研ぎ上がって鋼の輝きが出たのを見るのは、大きな喜びである。その瞬間を頭に描きつつ、無心になって黙々と研ぎ続けるのが、男の子である。
刃物を研ぐという作業は、刃物を手で持って砥石の上を滑らせるという、見かけは単純な行為である。ところが、手で刃物を一定の角度に保持し、前後に動かすということは、やってみればなかなか難しい。木工道具のように、様々な形、様々なサイズが有るものは、なおさら面倒である。刃の幅が6センチを越えるカンナ刃も有れば、幅5厘(約1.5ミリ)のノミも有る。刳り小刀のように細長い刃も有れば、丸ノミのようなU字形の刃も有る。長い柄が付いている突きノミは、バランスを取り難いし、豆カンナの刃は指で持つにも小さい。用途によって刃の研ぎ角度を変えることもある。そんな刃物たちのバリエーションの全てに、自分の一対の手だけで対応して、研がなければならないのである。
刃物をシャープに研ぐために大切な事は、基準となる平面を作るということである。私が米国の木工学校「カレッジ・オブ・レッドウッド」を訪問したとき、生徒の一人から日本の小カンナを見せられ、その研ぎ方を質問されたことがある。日本の刃物の良さは、近頃米国の木工世界にも知れるようになり、興味を持って手に入れている人もいるのである。しかし、その使い方は、まだ良く知られていないようだ。その時も私は、平面作りを強調した。まず砥石の面が完全に平らであること。そして、カンナの刃の裏が完全な平面であること。そのような状態に持っていかなければ、正しい研ぎはできない。その点を説明し、後は手本として研ぎを実演して見せた。刃を保持するときの手のポジションなども解説した。そして丸っこかったその刃先が、ピシャリと鋭く研ぎ上がったのを見ると、青年は「オウッ、グレイト」と言った。
ご家庭でも、包丁くらいは研いでもらいたいものである。包丁が良く切れれば、出来上がった料理の味が違うと言う。そこまでの微妙な違いは分からなくとも、切れない包丁では料理を作るのが楽しくなくなるのは事実であろう。嫌な思いをして作る料理の味が悪いということも、あり得るかも知れない。我が家では、私が包丁を研いでいるが、コツを覚えれば主婦でもできる作業である。そのノウハウを、ここに伝授しよう。
まず、砥石を購入する。荒めの砥石と、仕上げ用の砥石の二種類を手に入れる。荒めの方は1000番、仕上げの方は4000番くらいで良いだろう。荒物屋などのお店で聞けば揃えてくれるだろう。買ったばかりの砥石は、平らだから問題無いが、使い始めるとすぐに凹んでしまう。それをまた平らにすることが重要である。平らにするための簡便な方法は、コンクリートブロックにこすりつけることである。同じ種類の砥石を二つ持っている場合は、双方をこすり合わせて平らにする方法もある。しかし、コンクリートブロックを使うのが、一番手っ取り早い。
砥石は使う前に水に浸して、十分に水分をしみ込ませる。私の工房では、砥石は常時水を満たした容器の中に沈んでいる。使う時は水から取り出し、凹んでいる場合はコンクリートブロックにこすりつけて平にする。砥石の表面が平らでないと、上手に研げない。平らであることを確認したら、作業をする台の上に、動かないように固定する。砥石がグラグラするようでは、具合が悪い。流し台の上に湿らせた雑巾などを敷き、その上に砥石を乗せても良い。要はぐらつかなければ良い。
砥石がセットできたら、包丁を持って、適当な研ぎ角度をつけて砥石に当てる。この適当な角度というものは、文章で説明できるものでは無いので、実際に自分でやってみて覚えるしかない。あとは、その角度を同じに保ちながら、前後に往復させれば良い。角度を同じに維持するのが難しいところだが、一つのヒントは、刃を砥石の長辺に対して直角に置くのではなく、斜にすると良い。その方が、角度を保ち易い。無理に力を入れて砥石に押し当てる必要は無い。余計な力を入れると、かえって角度が不安定になる。刃を保持するためにしっかりとグリップを固め、あとはスッスッと砥石の上を滑らせれば良いのである。写真では、刃が手前を向いた状態で研いでいる。私は右利きなので、包丁の柄を右手で持つ方がグリップが固定しやすいからだ。
包丁は、刃の長さが砥石の幅より広いので、刃の先と元だけに力を入れて砥石に押し付けると、砥石の角に当るところが研げ過ぎて、刃が波打ったようになってしまう。それでは切れる包丁にはならない。まな板に当る部分と当らない部分ができてしまって、切ったはずのタクアンがつながったりする。これを避けるためには、砥石の上に載っている部分にのみ力が加わるように、手のポジションや力の入れ方を工夫する必要がある。
刃が長いので、一発では研げない。端から順番にずらして研いでいく。少しづつ重なるようにずらすのだが、重なる部分だけが余計に研げないよう、注意する。先端に近くなると、刃先がカーブしているので、研ぎ難くなる。しかし、この部分はあまり切れ味を求められないだろうから、ほどほどにしておいても良い。
荒い砥石で片面がひと通り研げたら、同じ面を仕上げ砥石で研ぐ。ひと通り研げたかどうかの判断は、「刃返り」が付いているかどうかで見る。研いだ面の反対側にバリのようなものが生じれば、研げたと判断して良い。仕上げ砥石も、使い方は同じである。ただ、研いでいるうちに、ヌルヌルしたクリ−ム状のものが生じる。このヌルヌルが研ぎの役に立つので、水で洗い流さない方が良い。
片面が仕上がったら、反対側を研ぐ。片刃の包丁の場合は、反対側は平らである。その平らの面を砥石にピタリと密着させて、先ほどの「刃返り」が取れるまで往復運動する。これに使う砥石は仕上げ砥石だけである。荒い砥石は使わない。
両刃の包丁の場合は、先にやった片面と同じことを反対の面にもやる。「刃返り」が取れたら、一応終了である。しかし、鋭さが不十分だと感じたら、仕上げ砥石のみを使って、また最初の面を研ぎ、さらに反対側を研ぐということを繰り返す。
文章で書けば、こんなところである。あとは実地に挑戦してみて、技を身につけるしかない。ただし、ここに書いた基本的なことには、注意を払っていただきたい。そうすれば、研ぎすました鋭い刃物の切れ味を、楽しめる日が来るだろう。
(Copy Right OTAKE 2003)
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