子供のケンカの命がけ
 佐世保でクラスメイトをカッターナイフで切り殺した小学校6年生の女の子は、「問題なく」育っっていたそうだ。その親によると。「まじめで、成績もよく、何の問題もなかった」と。

 親の目からみて、親の大人の基準で「問題がない」、という意味だとしたら、それこそが問題だったのではないかしら?人ひとり、まっとうな「問題のない」大人になるのは、とても難しいことだ。普通なんらかの問題を抱え、周囲と衝突したり、妥協したり、悩んだりして生きていく。

 子供で経験が浅いがために他人と摩擦が起こったときにうまく対処できないのはわかりすぎるほどよくわかる。追い込まれ、逃げ場がなく、自分なんかこれっぽっちも価値のない人間だと絶望する。その気持ちが、自分の肉体も含めた、物理的対象への攻撃として現れることがあるのもよく分かる。が、正常な発育をしていれば、その攻撃性には限度がある。いくらなんだって頚動脈を深く切り裂くほどの力をこめて友達に切りかかったりしない。

 子供のケンカが命がけになるとき、社会はどうなっちゃうんだろう・・・いや、昔から子供同士のケンカは命がけだ。でもその命は、LIFEではなく、意地とか自身の存在意義、EXISTENCEのようなものだったと思う。無視というかたちでその端緒をきることの多いいじめは、EXISTENCEへの攻撃であるとき、死よりもつらいものになりえる。いじめを苦に自殺するというのはそういうことではないかと思う。

 だが、ケンカがそのままLIFEへの攻撃に直結するならば・・・ちょっとその子供は異常だ。どこかで社会化に失敗している。

 集団・群れを形成する動物は、成員間が守るべきにルールを持っている。それは自然環境のなかで自分たちの群れを維持するための、生存戦略であり、効果的に繁殖していくための方法論でもある。基本的に群れのメンバーの間では殺し合いをしない。序列を決める争いをする場合、降参サインがきちんとあって、そのサインが出た途端、優位者は攻撃を止める。逆に単独生活をする動物は、敵同士になった場合殺し合いをしかねない。だからこそ、なるべく逢わないよう、お互いを避けるように行動している。

 人間は群れを作る動物の一種で、道徳とか宗教とかいったものは、本来それぞれの環境で効率よく生活し、群れを維持するためのルールであったと思う。「殺すなかれ」というのは、どんな社会にもあるルールであり、宗教・道徳も命じている。(まあ逆説的な見方だと、文明を築いた人間が、互いに殺しあうこからこそ、「殺すな」という命題が生じるのだが。)

 これは集団で作業をするにはくてはならないルール。逢う人逢う人に対し、いちいち相手が自分を殺すだろうか、殺さないだろうか、などと考えていては作業は遅々として進まない、どころか、そもそも集団でひとつの作業なんてできっこない。これがまず根本なんだと思う。この根本原理は通常社会の成員に意識されずに刷り込まれている。

 もし未開社会でルールを身につけていない子供が出現したら、社会を放逐されるか、殺されるかするだろう。イニシエーション儀礼というのは、子供から大人の仲間入りをするときに擬似的な死を経験させることによって、その身体に完全にルールを定着させるためだ。

 若き日の釈迦がかつて城を出た途端に目にした 生老病死 の四つの苦のうち、生と死は隠蔽されがちだ。人間社会はこの四つの苦しみから出来上がっているといってもいいのに。生というのは気が付けば受けているもの。特にこどもがそれを意識することはペットの出産にでも遭遇しないかぎり難しい。


2004.06.03
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