冒険者または PC の存在について   ◇

  1. はじめに
    このキャンペーンワールドにおける、プレイヤーキャラクターの存在についての私の考えをここで述べます。
    (他のキャンペーンワールドやDM の考え方と異なるかもしれません)
    私がこのキャンペーンワールドで再現したい出来事、描きたい出来事、というものがあって、それらを表現するために私自身が考える、
    『このワールドに存在するPCというものはなんぞや?』
    という部分の説明です
    キャンペーンワールドの存在意義についてではありません。そこに存在するPCについてのお話です。

  2. PC の存在
    プレイヤーが直接ワールドに介入するためのインターフェイスのことです。

    まず、PC は主人公なんかではありません。

    PC は別段、特別な存在でも選ばれた存在でも何でもありません。
    そこらへんにころがってるどこにでもあるようなありふれた存在だ、という認識を持ってください。
    道端の石ころに、あなたはどれだけ気を遣いますか?
    あなたの PC は、同じように道端に転がっている無数の石ころの中のひとつでしかありません。
    ただし、数ある NPC の中において、プレイヤーによって操られることができるという点でのみならば、PC は特殊な存在だということができるでしょう。
    しかしそれだけのことでしかありません。

    『あなた』にとっては『彼』は友人です。
    しかし視点を変えて、『彼』に原点を定めるならば、
    『彼』にとっては『あなた』が友人なのです。
    そして『彼』にとっては、『あなた』のほうこそが、
    "彼" という代名詞で呼ばれる側に映っているのです。

    つまり、お互いに立場は等価である、というところで、誰もが特殊な存在などではないのです。
    逆を言えば、誰かが特殊な存在であるのなら、その他の誰かもみな、特殊な存在になってしまうということです。
    相対的な立場・視点にたつことから、はじめていきましょう。

    なので、子どもがすきそうな展開:
    「主人公がやたらめったら特殊な背景をもっている」
    というものは想定していませんし、それを追い求めることもしません。
    第一、PC は主人公ではないのですから。
    (そんな安っぽい展開には、それこそ NPC たちにやってもらいましょう!)
    視点が相対的でないため、一方的な見方しかできなくなる可能性が非常に高いのです。

    ガンダムがいるから一年戦争がおきたのではなく、一年戦争がおきたからガンダムが登場したのです。
    ガンダムだけにスポットをあてて”一年戦争キャンペーン”を行ったとしても、お話の幅は大したものにはならなかったでしょう。
    ホワイトベースがジャブローに向かったので、アフリカ戦線が語られることはありませんでしたが、ガンダムだけにスポットを当てた狭いキャンペーンワールドではないため、アフリカ戦線を題材にした”アフリカ戦線キャンペーン”を行う余地が、”一年戦争キャンペーン”という巨大なキャンペーンワールドには存在できるわけです。

    なぜこのように PC をとらえるかといえば、これが万人に平等に機能するルールをもつ、RPGというゲームだからです。
    ルールの上では、"主人公" も "脇役" も、同じ土俵で振舞うことになります。
    主人公のヒットポイントが 8 点で、脇役のヒットポイントも 8 点しかないのなら、二人ともドラゴンに噛み付かれて 8 ポイント以上のダメージをヒットポイントに受けた場合には、ルールに従って二人とも死ななければならないのです。

    ルール上での平等はしばしば、ルールをもたず、ゲームではない、例えば映画や例えば小説などでの表現には不適切なのです。

    あきらかなる雑魚がニュータイプのサイコミュによるビット攻撃をひょいひょいとよけまくることはできませんが、"主人公" ならば、「ええーい!」などと台詞をいいつつ、弾幕にかすらずに重要 NPC たる "ライバル" の機体にビームサーベルでの接近戦を挑むことが可能なのです。
    ところがこの表現では、『公平さをもつルール』の存在する『ゲームという表現媒体』においては、「不公平」の一言で片付けられ、表現技法として成立し得ないのです。
    雑魚も "主人公" も "ライバル" も、ルールに従ってダイスを振り、弾幕をよけなければならないのです。
    ゲームにはゲームの、小説、漫画、アニメ、映画などにはそれらの、相応しい表現技法というものがあってしかるべきなのです。

    好きな小説があって、それを目指してPCを作成すること、それは大いに結構なことです。
    ですが、あなたの PC は小説の主人公ではなく、ゲームワールドのコマでしかないため、小説の主人公のような活躍は期待できません。
    なぜならば、ゲームと小説は、表現技法が全く異なる娯楽だからです。
    小説での主人公たちは、それを書き続ける作家の手によって活躍させられているにすぎないのです。
    一人の人間の思惑通りにしか動かされていないわけで、主人公には自分の振る舞いの選択など、かけらもありません。
    まして、ピンチに陥った主人公や、仲間を殺されて怒り狂う主人公が、「うぉー!」などと鬨の声を上げてルール無視な戦いを繰り広げるなど、公平なルールというものをもつ RPG(というゲーム)では無理なことなのです。
    さもなくば、いわゆる "いやぼーん" と呼ばれる陳腐な展開になるだけです。

    ところがこれは RPG なので、コマであるPCは、一人の人間(小説なら作家、映画なら映画監督)によって思い描かれたストーリプロットをただただなぞるだけの存在などではなく、与えられた選択肢を、また時には自ら思いついた選択肢を、自分自身で選び取ることができ、そういった、選択という名の能動的な作業があるからこそ、RPG がゲームでいられるのです。
    (DM が思い描いた、本人だけは少なくとも美しいと考えているシナリオにおいて、あなたのPCたちが、あなたの選択ではなく、語り手のDMによるしゃべりだけで一方的に進路を決定され、彼の考えた美しいストーリーをなぞらされるだけ、というゲームを思い浮かべてください。少なくともゲームとしては成立していないし、あなたは何をするためにそのテーブルにやってきたのか?と自問自答をすることになるでしょう。そしてもう二度と、一本道マスターの元でRPGをやりたいとは思わないでしょう)

    ルールによる公平さを保ちつつ、雑魚とちがって弾幕をよけまくる "主人公" または "ライバル" を登場させるための手段としてすぐに思い付かれることが、『レベルアップによるデータ的な強化』なのだと思います。
    RPG はその PC を表現することとその過程を楽しむゲームであると私は考えます。
    なので、「データ的に強力な存在にしてしまう」という手段でのみ、他者と差別化することだけを目標として RPG を遊んでほしくはありません。

    RPG を、「キャラクターが成長するゲーム」と捉えている人にとって、「成長する要素が一切ないRPG」を遊ぶことは、果たしてできるのでしょうか…。

    当然ですが、PC はプレイヤーの強さ願望のはけ口になることなどできません。
    経験点というものが一切手に入らないシナリオであっても、RPG ならば楽しむことができるのです。 育てゲーでは、目標を遂行できないためクソになってしまうでしょうが。

    PC にスポットを当てさせることができるのは唯一、その PC のプレイヤーの選択のみです。

    あるいは、「人間、誰にでもドラマがあり、彼一人の人生のみをトレースした場合には、彼は、彼の人生という舞台の上でならば、主人公となりうる」ということで、強いて言うなら、ワールドに存在する全ての生き物が主人公となりえます。

    RPG においてはそれができるのは、数多くの NPC のなかからプレイヤーによって選ばれたPCだけが、ゲームのなかでそういったスポットを浴びることができる、あるいはクローズアップされる、ということになります。

    いかにして「平凡からいち早くぬけだせるか?」。
    ここが、ゲームを通して PC たちに表現してもらいたい部分であり、その過程をプレイヤーのみなさんには楽しんでもらいたい部分であると考えています。
    平凡から抜け出すためには、
    小説家が考えた素晴らしい背景など必要ありません。
    映画監督が思い描いた素晴らしい背景など必要ありません。

    プレイヤーの、RPG というゲームに対するハンドリングテクニック(いわゆる『上手さ』)だけが必要になります。
    同時に、平凡であるがために主人公なんかではない、特別な存在ではない、というわけです。

    このキャンペーンワールドに存在する PC は、最初は誰もがこの状態にある、と考えてください。

  3. 冒険者の存在
モドル

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