1920 |
2月8日、京都市清水寺下、父正平、母千鶴の三男として生まれる。本名雄三。祖父正慎は清水寺の寺侍で、勤王志士。 |
1914 12歳 |
京都市東山区安井小学校卒業。京都市立陶磁器試験場附属伝修所ロクロ科に入所。 |
1917 15歳 |
伝修所ロクロ科卒業京都市立陶磁器試験場に助手として勤務。当時河井寛次郎、濱田庄司両氏が東京の高等工業を出て、技手として陶器を研究中。濱田氏より窯業科学等を教わる。 |
1921 19歳 |
英国より帰国の富本憲吉氏が大和安堵村に釜を築き陶器の研究を始めたので陶磁器試験場をやめ、富本氏の助手として大和に行く。 |
1924 22歳 |
富本氏のもとを辞し京都ヘ帰り、関西美術院洋画研究所に通院、デッサン・洋画の研究のかたわら、図書館などに通い広く学ぶ。家(京都市清水新道石段下)に仕事場を作り作陶を始める。 |
1926 24歳 |
中島光子と結婚 |
1928 26歳 |
第9回帝展に"呉須薊文かきとり花瓶"出品、初入選。以後13回連続入選。 |
1929 27歳 |
第10回帝展に"だりや文呉須花瓶"入選。 |
1939 37歳 |
第3回文展に"柘榴土焼花瓶"特選。 |
1950 48歳 |
第6回日展に審査員となる。"雲之図壺"出品。 |
1953 51歳 |
皇太子殿下ご渡英の歳"柘榴染付大花瓶"一対ご用命を受け、在英大使館に備え付けられる。京都市立美術大学の陶磁器科助教授に就任。 |
1956 54歳 |
第3回日本伝統工芸展で"山水染付壺"が最高賞である日本伝統工芸会賞を受賞。岐阜県多治見にて志野焼を研究製作。 |
1958 56歳 |
京都市立美術大学の教授に任命される。 |
1965 63歳 |
10月、京都市立美術大学学長となる。 |
1967 65歳 |
イラン(ペルシャ)ラレージン村に滞在し現在の窯材料を用いて作陶。 |
1970 68歳 |
紫綬褒章受章。 |
1973 71歳 |
11月、勲三等瑞宝章受章、京都市文化功労者章受章。 |
1974 72歳 |
2月、京都府美術工芸功労者章受章。 |
1975 73歳 |
5月、九州有田にて"梅染付大皿"完成。 |
1977 75歳 |
3月、染付技法の重要無形文化財保持者としての認定を受ける。 |
1980 78歳 |
10月、紺綬褒章受章。 |
1983 81歳 |
5月から6月にかけて「富士」に挑む人間国宝「近藤悠三展」を開催。 |
1984 82歳 |
現代陶芸の精華ー近藤悠三とその一門展を開催。 |
1985 83歳 |
死去。 |
近藤悠三のページ
金彩染付石榴皿
染付釉裏紅梅瓢瓶
柳呉洲赤絵徳利
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