小樽観光質問集 掲示板より


線路が見えました 投稿者:張碓から 投稿日:2008年 9月27日(土)14時

張碓から銭函にかけて、国道5号線を走り左折すると新しく出来たと思われるきれいで大きな道路があります。
海を見ようとその道路を走って車を止めてみると、木々の間から線路が見えました。海とギリギリのところを列車が走っている写真が撮れましたので、掲載します。ただし、写真のサイズの設定がうまくいかなかったため、きれいな写真をのせられませんでした。後日またよいものを載せます。ここ最近小樽行きの汽車に乗っていません。今張碓駅はあるのでしょうか?海水浴時は何年か前まで止まっていたようですが・・・。

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汽車のある風景

小樽鉄道の歴史 投稿者:わが街小樽掲示板管理者 投稿日:2008年11月17日(月

@道内初の鉄道建設は何故小樽だったのか。

明治維新により日本の近代化政策は、順調に進められてはいたが、欧米列強に並らぶ国家建設を目指す政府は、遅れている産業革命を推し進める為に、欠かせられない石炭資源の確保の必要に迫られていた。

明治12年に幌内地区に良質の炭田があるとの報告を受けた開拓使では輸送ルートを検討、札幌〜石狩湾への輸送後小樽港港への海上輸送案もあったが、最終的に札幌〜小樽手宮間の鉄道施設案が採択された。

当時の政府の対応は驚くほど早く、建設に着手してから.6ヵ月後に完成という突貫工事だった。幌内炭田の調査報告から、1年後の明治13年の事である。これは新橋〜横浜、神戸大阪に次ぐ、全国3番目の鉄道敷設である。この事は当時の政府が北海道や小樽に掛ける期待が如何に大きかったかを物語っている。


A建設時の状況


開通当時は小樽市内には4か所のトンネルがあった。1個所目は水天宮下2箇所目は南小樽駅東側、3個所目は平磯岬すぐ続いて4か所目のトンネル(現存)であるが、地盤が弱く安全走行に支障を来した水天宮、南樽箇所は切り割とし陸橋を設けた。平磯岬トンネルの1か所は山を切り崩して埋め立て地を造成、後に小樽機関区、木材の乾燥場として小樽発展に寄与したがそれも取り壊され現在はウイングベイとなっている。

張碓駅建設


張碓駅は1905年(明治38年)に北海道炭鉱鉄道銭函〜朝里間の駅として開設翌年に国有鉄道に編入された。昭和44年貨物扱いは廃止されたが、海水浴客向けの臨時列車駅として運行、しかし駅には跨線橋がなく人身事故が多発し遊泳禁止に伴い廃駅となった。
張碓はアイヌ人から、カムイコタン(神のいます処)呼ばれていただけあってどこか神秘的で、隠れた秘境として訪れるマニアもいたが、かってはあつた直接駅に通じる人道も現在は自然に還り、仮に一般の人にはあまり知られていない新しい住宅街からの連絡を辿ったとしても線路脇に道路がなく、駅までの道のりは遠く危険ではあつた。秘境化した同所を求めて訪れるマニアの多くは直接駅にたどり付こうとして崖を下り死亡者も出た為廃駅となっていた同駅は平成18年7月に完全徹去された。


教えてください 投稿者:厚揚げ 投稿日:2007年12月15日(土)11時35分58秒

「村並制度」とは、何ですか?読み方も含めて教えてくださる方がいましたら、
よろしくお願いします。

村並制度ご質問回答について 投稿者:わが街小樽管理人 投稿日:2007年12月24日

村並制度(むらなみせいど)を知るには先ず徳川幕府と小樽の関係を知る必要があります・

江戸時代徳川幕府の経済体制は米本位でした。当時蝦夷地と呼ばれた北海道の統治を任されていた松前藩は、米の獲れない蝦夷地の特殊事情から、幕府の許可のもと家臣への俸禄は米ではなく、アイヌとの交易を認め、その収入を俸禄として家臣に与えていました。家臣達は交易取引を、決められた区域毎に商人に任せ、利益の一部を運上金として収めさせていました。この交易の決められた区域を「場所」といい、その商人を場所請負人と呼んでいました。この場所請負人が場所毎に作ったのが運上屋(家)です。その後オタルナイ場所は隆盛を極めその財政に目を付けた幕府は(これには諸説色々あります)オタルナイ場所を高島場所と、現在の妙見川{旧オコバチ川)を堺にしたオタルナイ場所の2場所とし、村並制度を布き統治しました。時は1865年明治維新の3年前の事である。当時の
人口314戸1143人でした。


この場合の村並とは村制度からきており、幕府の蝦夷地での政治や経済体制、いわゆる”村並”は1801年に道南6カ所の場所が和人の出稼ぎが定着し始めた事から、内地並の村制を敷いたのが村並制度の始まりです。制度としての本質は村制度です

江戸幕府の士農工商体制下における、税制について述べます。江戸幕府の全国統治は、幕府領、旗本領、藩領、神社領等があり税制も士農工商の身分制度により、それぞれ異なっておりました。そこで身分制度と税の仕組みを下記に記します。

身分制度と仕組み

朝廷・(御料3万石) 幕府・(天領400万石)

公家・(全体で7万石) 大名・(全体で2.250万石)

     「士」

臣従・俸禄・家臣・藩士他に神宮・僧侶・等 直参・旗本(全体で300万石)以上大まかな系図ですが、武士には税金は掛からなかった。(全体人口割の10%)

村方3役

名主 (1村1^2名)代官の命を受け、人別改・年貢等の村政一般を受け持つ
組頭・ 名主補佐百姓代・名主・組頭の監視役・

     「農」

本百姓〜 田畑を所有・検地帳登録・年貢負担・寄合参加資格があった。
小作人〜 寄合参加名子 隷農 寄合参加はなかった。
以上農民の全体に対する人口割は80%で主たる課税の大半を占めており、それだけに統制は厳しかった。

     「工商」

町役人↓町年寄り・町奉行の下町政全般を受け持つ町名主・ 町年寄りの支配下、町内の公務を行う地主・家持・町政参加 運上金 冥加金等の負担地借・店借(店子) 税負担なし・ 町政参加せず工 親方・従弟商 店主・番頭・丁稚商人は蔵元・為替小・造酒業・廻船業等の場合は免許料が科せられた・その他裕福な商人には、町火消しや、木戸番の雇用維持費、橋の建て替え費用、祭りの費用などの負担を強いられた。



小樽の消火栓 投稿者:小樽市民です 投稿日:2007年 6月 3日(日)12時27分23秒

はじめまして!いつも楽しくホームページ見ています。
管理人さまが小樽が大好きなのが伝わってくるページですね!


さて、小樽に住んでいながらふと不思議に思うことがあります。
それは消火栓の色です。
他の地域はどうなのかわかりませんが、
小樽にはさまざまな色の消火栓があるように思います。
小樽ジャーナルにも掲載されています
.
色は地区によって異なるのでしょうか・・・?知っている方がいたら教えていただきたいです。

小樽の消火栓 補足説明 投稿者: わが街小樽管理人 投稿日:2007年 6月 3日(日)

面白い質問ですね。早速小樽ジャーナルを拝見して見ました。小樽は山坂が多く、水道水の圧力を同じにするため配水池が42カ所設置されている。この配水池の42系統別に、昭和50年に消防本部の職員の提案で系統別に色分けしたものだという。赤17、黄4、青6、黄赤10、青赤5の42系統に分けられ、市内全域に消火栓は1,604カ所もあり全国的にも珍しいものだ以上が小樽ジャーナルの記事ですが、具体的には青の消火栓を二基使用し消火活動をしていたとします。この場合水圧の関係からこれ以上同地域での消火栓使用が無理と判断された場合は隣接の消火栓から近い場合等は、色の違う消火栓からホースを引き込む為の目印として色分けしている様です。http://www.otarukankou.jp

花園公園の家 投稿者:hiroe 投稿日:2007年 2月17日(土)23時06分6秒
この間 花園公園の裏手で素晴らしい建造物を見ました。でも以前に見た記憶のある家でした。一度見たら忘れられない独特な家なのです。そう!私が20年あまりも前の小学生の頃、子供心にも感銘を受けて写生した家でした。きっと有名な建築家が建てた家なのだろうと、調べて見ると張り、中山美穂ラブレターの坂別邸を建てた田上義也という建築家と同一人物でした。こんな家がまだ小樽にあつたのだという事が嬉しくなり、皆さんに知って頂きたくて書き込みをしました。

「小樽市の田上義也」で検索すると画像が出てきます。
こんな家が映画のロケに使われたら、きっと素晴らしいと思います。

花園公園の家hiroeさんへ 投稿者:わが街小樽 管理者 投稿日:2007年 2月18日(日)

私もあの家の事は気になって居ました。改めて紹介のページを閲覧しましたが、矢張り何度見ても素晴らしい家ですね。その上環境も又素晴らしく、家の前は自宅の庭の様に花園公園の白樺林が広がり、映画のロケ地として最適です。
こんな場所をプロの映画人が見逃す筈も無く、恐らく何らかの事情があるのでしょう。小樽を舞台にした映画や、テレビドラマは数多くあり、ロケ地で有名になった名所も多数ありますが、小樽はロケ地だけがすべてでは無い筈です。若しかしたら小樽を好きな皆に知られていない場所も多くあると思われます。これを機会に知られざる小樽紹介を皆さんで展開してみませんか。

追記 しかしこの様な建物を穴場といって仕舞っては家の所有者に対して失礼に当ります。
穴場という呼び方は飽く迄もでも、風景や自然環境に留めるのが本筋と考えます。又紹介は民家等の場合は所有者の具体的な氏名の公表は確認が必要な場合もあるかと思います。

気になるあの建物!hiroさんへ 投稿者:わが街小樽管理人 投稿日:2007年 5月14日

以前に投稿されたhiroさんへ 確かに気になる家ですね。この建物は当初中山美穂主演映画ラブレター主人公が住む家のロケ地として候補に挙がっていたものと聞きおよびます。しかし残念ながら実現されず、同じ設計者に拠る”坂別邸”となった訳です。それでも映画関係者はこの建物によほど思い入れがあったのか、郵便配達人が雪道をバイクで走る背景にほんの2秒ほどですが、撮影されております。雪解けを待って撮影致しましたがパソコンが機嫌悪く掲載が遅れました。

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気になるあの家



運河沿いの倉庫について教えて!! 投稿者:TAKUMI 投稿日:2007年 5月 3日(木)
札幌市在住のTAKUMIと申します。昨年余市方面に行った際、小樽運河に立ち寄りデジカメで気に入ったスポットを沢山撮ってきまいたが、添付画像の「運河沿いの倉庫」の用途不明部分が有りますので、何方かお判りの方がいらしたら教えて下さい。@扉と扉の間に設置されている鉄骨の枠組みの用途。A下部水面に浮いている黄色いマットの様な物の用途。変な質問ですが・・・宜しくお願いいたします。

運河船着場

運河船着場

:運河沿いの倉庫について教えて!! 投稿者: 投稿日:2007年 5月10日

TAKUMI様小生の散歩コースなので回答というより推理をしてみました。下記の拙画像をご参照ください。

(1)鉄骨拙画像にあるよう上部に巻上機のようなものが見えます。多分に荷物を昇降する装置かと思います。

(2)黄色いマットこれは船着き場として使う物と思われます。拙画像の右にあるようなボートに人員や荷物を積み降ろしするためでしょう。

*以上の推理で如何でしょう。



こんにちは 投稿者:to吉郎 投稿日:2006年 2月23日(木)11時31分5秒

こんにちは to吉郎です・・。
お世話になっております。会社の行事がありまして「定山渓温泉」に行ってきたのですが、「小樽の朝里川温泉もお湯は一緒だよ」みたいな話を聞きました。
確かに峠をはさんで裏表のような気がするのですが・・そんな話を聞いたことがありますか?

小樽の歴史をまとめる作業は非常にたいへんな事と思いますがどうぞ宜しくお願いします。
また小樽の温泉ネタがありましたら、お手すきの時に教えて下さい。

小樽発祥のあらまし@ 投稿者:KO こうじろう 投稿日:2006年 2月23日(木)15時17分9秒
江戸時代徳川幕府の経済体制は米本位だった。当時蝦夷地と呼ばれた北海道の統治を任されていた松前藩は米の獲れない蝦夷地の特殊事情から、幕府の許可のもと家臣の俸禄は米ではなく、アイヌ人との交易を認め、その収入を俸禄として家臣に与えていた。家臣は交易取引を決められた区域毎に商人に任せ、利益の一部を運上金として収めさせていた。この交易の決められた区域を「場所」といい、その商人を「場所請負人」と呼んいた。この場所請負人が場所毎に作ったのが「運上屋(家)」である。その後オタルナイ場所は繁栄し、その財政に目を付けた幕府はオタルナイ場所を、高島場所と現在の妙見川「旧オコバチ川」を堺にしたオタルナイ場所の二場所とし、村並制度を布き統治した。時は1865年明治維新の3年前の事である。なお当時の人口は314戸1143人であった。

小樽発祥のあらましA 投稿者:KO こうじろう 投稿日:2006年 3月 3日(金)18時12分14秒

北海道の地名の大多数は、アイヌ語に由来しているがその意味するものは、地形と蜜接な関係にある。小樽の語原となった「オタルナイ」も例外ではなく、アイヌ語で”砂の中を流れる川”の意味がある。然し此処で一寸とした疑問が残る。山坂の多い小樽に果たして”砂の中を流れる川”なる地形が存在するのだろうか。実はこのオタルナイは、400年程前現在の札幌市の西区から銭函の浜辺を、大きく蛇行しながら石狩湾へと流れていた、新川と呼ばれる川が起源だったのである。(発祥の記念碑は樽川にあります。b画像参照)その河口に松前藩の八木勘右門が漁場を開き、これをオタルナイ場所としたのが始まりである。然し漁業は隆盛であつても、船の出入りする港としては、機能的ではない為利便性の高い現在の小樽市内入船河口に、小樽場所を移したが名称はそのまま受け継がれた。以後その名はオタルナイから、オタナイ、尾樽内、小足内、舗足内と変化し、小樽となったのは、明治2年に維新政府が蝦夷地に開拓使を置き、名称も北海道と改めた時からである。

樽川オタルナイ記念碑



なるほど(^‐^)
投稿者: 投稿日:2006年 3月 4日(土)14時34分1秒

全く知りませんでした!小樽とは‥そんな由来と経緯があったのですねぇ…。結局のところ、元々の土地とは無関係な地名が付けられたって事ですものね。あれ?じゃあ、アイヌの人達は昔小樽を何と呼んでいたのでしょう?とても気になりますねー(^-^)深く考え過ぎでしょうか?

オタルナイは新川(札幌)の下流に!
? 投稿者:KO こうじろう 投稿日:2006年 3月 4日(土)16時48分17秒

Nさん当然の疑問ですね。小樽の地名についての、「オタルナイ」は意外に何処を探してもありません。そこで憶測して見ました。昔和人の様に住んでいる「場所」を広い意味で統治し政治を施さなかったアイヌ人に、広い土地の名称は必要だったのでしょうか。例えば札幌はアイヌ語で「サツ ホロ」といい、豊平川を限定しています。豊平川の事はサツ(乾いた)ホロは(広い)という意味ですが、乾いた広い豊平川とは少し変です。恐らく良い意味で広い川原の事を指しているのではないかと推察致します。アイヌ人の地名の付け方は、その土地の自然環境の特色を具体的に表記したものが多く、又その特色はごく一部の狭い区域に限られていたように思われます。広く解釈して、昔の円山から豊平川を堺に、札幌としたのは和人です。話題を小樽に戻します。小樽にも色々なアイヌ語の地名があります。稲穂はアイヌ語でイナウ(木でケヅッタ幣(ヘイ)色内 イオルナイ(足跡)等です。然し此処で憶測を働かせると昔のアイヌ人は所謂和人や、現代人の様に区域(町内)を連結して広域活動をしていたとは考え難く、従って小樽も札幌も大きな地域としての呼び名は無かったと思われます。注 アイヌ人、和人と呼称を分けておりますが、他意はありません。文章の記述上止む無く使用させて頂きました。


小樽は街そもののが開拓博物館
投稿者:KO こうじろう 投稿日:2006年 3月 5日(日)16時27分19秒

近代史的に札幌等の経済状況や、文化の発展度合いを見ると、結果的に大多数の部分で明治時代に先人の残した、偉大なる資産を消滅させております。事の善し悪しは、論議の分かれる処ですが、それに伴い遺産を守ろうとの見地から開拓村や明治村等が開設されました。然し此処に残念な事があります。この「場所」を見学しても、これは飽く迄も所謂「展示物」でしかなく、そこに生きた人々の生活感が伝わって来ないのです。(知識で想像は出来ますが・・・)一方小樽の場合は小樽市指定の歴史的建造物は約70棟あり、その主要物件が街並として保存されており、しかも倉庫群は商業施設として転用、中でも特筆に値するのは、100年以上も時を刻み続ける大時計を設置、明治29年建設の建物その儘で営業を続ける商店ありで、明治の街並と人間の息吹が、其の儘現代にタイムスリツプ出来る街になっております。以上これから先、ある程度の変容は避けられない小樽に、私たちはどう拘わって行けば良いのかの指標になればとの想いから記入致しました。
岩永時計店

道内初の鉄道は何故小樽手宮だったのか
投稿者:KO こうじろう 投稿日:2006年 3月 8日(水)23時30分56秒

明治維新により日本の近代化政策は、順調に進められてはいたが、欧米列強に並らぶ国家建設を目指す政府は、遅れている産業革命を推し進める為に、欠かせられない石炭資源の確保の必要に迫られていた。明治12年に幌内地区に良質の炭田があるとの報告を受けた開拓使では輸送ルートを検討、札幌〜石狩湾への輸送後小樽港港への海上輸送案もあったが、最終的に札幌〜小樽手宮間の鉄道施設案が採択された。当時の政府の対応は驚くほど早く、建設に着手してから.6ヵ月後に完成という突貫工事だった。幌内炭田の調査報告から、1年後の明治13年の事である。これは新橋〜横浜、神戸大阪に次ぐ、全国3番目の鉄道敷設である。この事は当時の政府が北海道や小樽に掛ける期待が如何に大きかったかを物語っている。

小樽商人の気概此処に!
投稿者:KO こうじろう 投稿日:2006年 3月24日(金)01時32分18秒

小樽の運河沿いに立ち並ぶ倉庫や、銀行街に立つ商店には特徴的な飾りがある建物が多い。例えば運河プラザや小樽博物館の屋根の鯱(しゃちほこ)です。又名取商店(大正硝子)や多喜二に見られる、二階のひさし上部に突き出た「卯建ち」なるものも、今の北海道には珍しい造形物です。この”うだち”は当時火事の多かった小樽で、類焼を避ける防火壁として施工された物で、一般の民家よりも建築費が嵩み、かっては成功者が建てた事から、成功者とそうでない者を区別して、うだつが上がる、上がらないの語原となったと云われております。この事は当時の小樽商人のプライドの高さを示す事例の一つですが、あの時代所謂内地から、北の果ての”新天地”に移住してきた人々にとって、商売の成功、不成功は人格を定める尺度そのものだったのかも知れません。然し一方では貧富の差はかなり激しかった様です。小樽の人に「しゃちほこ」や「うだち」の話をした事がありますが、「へ〜ぇ、そんな物あったっけ」でした。意外と知らない人が多いのです。
多喜二




素朴な疑問
投稿者:R 投稿日:2005年 1月13日(木)12時07分15秒

はじめまして。小樽に関して調べものをしています。そこで疑問がいろいろ出てきたのですが御存知の方、どうぞお答え下さい。1.小樽と言えば倉庫ですが、あの中には何が入っているのでしょうか?2.最盛期には銀行や商社が立ち並んだといわれていますがなぜ現在は、それらが跡だけ残して撤退(?)したのでしょうか?3.にしん漁として栄えた町ということですが、なぜ今は廃れてしまったのでしょうか?

素朴な疑問 Rさんへ
投稿者:掲示板管理者岡本 投稿日:2005年 1月14日(金)19時26分37秒

あなたがお調べの目的は、どのような立場なのでしょうか。学実的なものと一般的知識では大幅に回答内容が変わると思われます。一見単純な疑問に見えても実は非常に回答し難い内容ですね。ここでは一般的な内容でお答え致します。(失礼ですが質問者の年齢等を明記して頂ければ、回答方法も具体的に絞れるのですが。)
@小樽の倉庫の件
明治から大正にかけて本州の財閥や資本家が、当時北海道の経済拠点であつた小樽に、多数進出を図り物流拠点の一貫として、主に自社製品保管の為、次々と倉庫を建設していつた。当時の主な業種は海産物、食料品,衣料品等であるがその他生活用品全般にわたり、小樽の業者は北海道全体の経済を支配していた。(倉庫の現状についてはAの後に述べます。)
A-1 大正末期には現在と同程度の人口を擁し、昭和20年の第2次世界大戦の敗戦を迎える迄、道内の経済の中心的役割を果たしていた港街小樽も、ロシアと言う交易の場を失い所謂”斜陽小樽”と呼ばれる様になっていった。それでも20年代後半までは鰊の漁獲量も多く何とか経済も持ちこたえ、昭和35年頃にはまだ各都市銀行も多くあり、道内金融機関の本支店を合わせると40近い金融機関が小樽にはあった。これは当時の人口約21万人からすると驚異的な数である。その頃までは不景気乍ら未だ繊維問屋等を中心に、辛うじて小樽に本支店を置いている企業も多かったが、日本全体がトラック運送の時代に突入、物流管理と販売の拠点は札幌へと移り、以後小樽からは優良企業の撤退が続きそれに伴い銀行の数も減っていった。
Aー2 現在小樽には約20社の倉庫業者がいるが、その業態を大別すると、陸海運の為の倉庫保持、飼料、製粉業者の自社倉庫、要冷蔵食品の委託保管、その他委託保管等と多岐に亘っているが、現在は一部業者を除き倉庫の活用方法も多様化し従来の利用法に加え、トランクルームと呼ばれる専用コンテナでの一時預かり(家の増改築時の荷物、オフイスの書類の一時預かり)やトラック輸送の一時預かりと、幅を広げております。しかしかって小樽が大いなる繁栄を極め、銀行街等は「北のウオール街」と呼ばれた時代の倉庫の数は想像以上に多く、大半は空き家となっていました。それが運河埋め立て後の小樽に一大観光ブームが訪れ、これ等の倉庫も今では商業施設等に姿を変え、中には「小樽市指定歴史的建造物」として保存されている物件もあります。商業施設化の具体的な例としては、旧小樽倉庫は、現在小樽市博物館として、(小樽倉庫は他にも多数あります) 木村倉庫は北一硝子3号館、その他運河食堂、なにこれ貿易、海猫屋、六花亭北の美術館、運河プラザ等など数多くあります。
B小樽が鰊漁として栄えた街という事は一面的な捉え方と思います。なぜ廃れたかについては、つれない様ですが、これはもう北海道を含め小樽に鰊が回遊して来なくなったからです。しかし鰊漁が廃れたからといつても、そこに携わった人々が居なくなった訳ではなく、過去の経験を活かし他の漁業に就事した方、水産加工業に転向された方等色々居られる事と思われます。さらに網元の建物としては、有名な「銀鱗荘」 祝津の「鰊御殿」等があり小樽観光に寄与しております。
以上参考になりましたでしょうか。一応は歴史的な背景を踏まえて、お答えした積りですが本格的に統計数字等を配したものであれば、回答の仕方も変わると思います。
以上色々拙い説明をしてきましたが最後に、投稿者「R」さんの言われる〜それらが跡だけ残して徹退〜について述べます。
昭和40年以降の小樽は、銀行 商社等徹退の続く多難な年月の連続でした。
銀行を例にとると旧三井銀行を除き小樽から銀行が徹退していつたのは、小樽に観光ブームが訪れるかなり以前、今から30年以上も前のことなのです。都市銀行が集まるような大きな都市の場合、何がしかの方法で復元力があり、札幌市の大通り等では銀行街消滅などと言う現象は起きないでしょう。しかし当時人口18万の街に都市銀行と呼ばれる銀行が8行もあつたのです。商社も三井、三菱等そうそうたる有名会社が名を連ねており、それらが短期間に徹退を繰り返し小さな街である小樽市全体が対応出来なかった訳です。ところが去られて見るとこの建物が素晴らしい。何とか保存しょうと云う機運が高まり「小樽市指定歴史的建造物」となった訳です。ですから今でもあそこは何々銀行だったと言う具合に歴史として名を残すことになり、跡だけ残つた様に見られますが本来徹退とはそういうものでしょう。もし歴史的建造物として保存されていなかった場合は、そこに銀行があった事等は忘れ去られ、所謂○○銀行の跡地としての認識は無くなっていたと思われます。しかしその跡地という認識が観光客に、浪漫と郷愁を呼び起こさせ、小樽を訪れる動機を作り出しているのではないでしょうか。

ありがとうございました!
投稿者:R 投稿日:2005年 1月24日(月)13時52分58秒

御回答ありがとうございました。
数日間、ネットが出来ない環境にあり、お返事が遅れましたことをおわび致します。私自身は20代ですが、仕事で児童書(のようなもの)を作っております。詳しくは、ここには書けませんが、北海道(例えば小樽)の観光情報などを調べていたのです。それで、小樽という街について個人的にも疑問が生じ、質問させて頂いたというわけです。

御回答、大変分かりやすく非常に興味深うございました。ガイドブックやネットで調べても、小樽はロマンの街だとかかつて栄えた街、としかなく非常に疑問に思っていたのです(私の調べ方が甘かったのかもしれませんが…)旅行で一度だけ小樽に行ったことがあるのですが、小樽の歴史を予習しておけば、もっと心に残った思い出になっただろうな、と少し残念に思います。まだ未定ですが岡本様の御回答を子供向けの文にして、一部紹介させて頂くかもしれません。どうもありがとうございました。