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以下、本稿は、向井昭治さんが2005年、病床で執筆されたものです。
被爆体験記
向井昭治 広島県 78歳
はじめに
被爆体験による苦悩は生涯、背負って生きていかなければなりません。
最も心配なのは子供や孫への遺伝です。終戦間もなく結婚し長男が生まれましたが、生後わずか一カ月後に原因不明の病気で死去。そのショックからは、未だ立ち直れないでいます。
きちんとした根拠があったことなのか、医師から「被爆者だから子供をつくるな」と言われ、周囲の人からも責められました。息子の死の責任が私にあるのだと思うと、やりきれません。
ブラジルに渡ってきて今年で50年になりますが、私が被爆者であることについて、子供や孫に詳細を語ったことはありません。仕事や結婚に影響するのではないかと恐れていたからです。
78歳の私は2、3年前から急に体調を崩して、1週間に3回人工透析を受けなければなりません。歩行も困難で喉の筋肉も弱まっており、コーヒーを一杯飲むのにもひどく咳き込んでしまいがちです。残された命を考えた時、やはり自分の体験を記しておくべきだと思ってペンを取りました。
生い立ち
本籍は広島県豊田郡(現賀茂郡)豊栄町。昭和2年(1927年)7月5日、呉市の近くで生まれました。
男5人女1人の6人兄弟の長男。5歳のころまでここで育ち、警察官だった父親の退職に伴い、広島市左官町(被爆の中心部)に移りました。母親は吉島町に菓子屋を持ち、せんべいなどを売っていました。
私は尋常小学校卒業後、広島市商(観音町)に入学。出来ることなら大学にも進んで商業を修めたいと考えていました。しかしあの1発の爆弾で、夢ははかなくも散ってしまい、その後の人生が狂ってしまうことになったのです。
私は1945年当時、学徒動員のため同じく観音町にあった三菱造船所で働いていました。任されたのは事務系の仕事でしたが、これは私が非力だったからだと思います。
自宅から職場までは2キロ〜2キロ半。毎日午前7時に学校で朝礼を済ませた後、職場まで移動。午前8時から仕事が始まりました。
国のために働くことが当然だった時代で、私も兵隊にあこがれ何度も航空兵に応募したものです。
原爆投下の瞬間
8月6日。
その日はもちろんいつもと何の変わりなく始まりましたが、仕事に取り掛かってから間もなくのことでした。
ピカッ──。
閃光が走ったと同時に轟音がとどろき、私は咄嗟に机の下にもぐりこみました。
実は会社の工場で溶接などを行っていたので、事故で爆発が起こったのかと直感的に思ったのです。それで近くにいた同僚たちにも、すぐに避難の姿勢をとるように伝えました。
一瞬のうちに14万人以上の人間を奪い、町を廃墟にしてしまう爆弾だったと誰が思いましょうか。
事務所は木造2階建て。私の部屋は1階にあり、窓に背を向ける形で腰をかけていました。ひどい爆風によって事務所は瞬時に倒れ、多くの同僚が壁やロッカーなどの下敷きになってしまいました。
幸い私は窓から戸外に脱出することができましたが、事務所で働いていた140人のうち生き残ったのは、たったの4人くらい。多くは内部に取り残されてしまいました。
建物にはすぐに延焼。悲鳴が外部にも聞こえ、阿鼻叫喚する様が手に取るように分かりましたが、〃火の海〃を前になすすべが全くありませんでした。
そのような錯乱状態の中で、市の中心部から夥しい数の被災者が逃れてきました。
皮膚が爛れて垂れ下がっている人。爆裂したときの閃光で失明して逃げ惑う人。ある人は、身につけている服に火がついて皮膚が焼けているではありませんか。そんな地獄絵巻きに目を疑いました。
死臭というか、燃えている人間の臭いというのは実に嫌なものです。移住後養鶏に携わったことがあり鶏の血の臭いには慣れていますが、あの時の臭さは今でも鼻について忘れられません。
原爆が投下された時、真っ先に気になったのは両親のことでした。
実家は左官町にあり、そこが被爆の中心地だったのですから。同僚の福井さんも両親を心配しており、2人で会社を後にして自宅を目指しました。
脱出行
三菱造船所のあった観音町から左官町までは、江波→舟入→土橋→横川といくのが最短距離です。しかし、路上は罹災者が安全な場所に避難しようと、押し合いへし合いしている状態で、燃え盛る火の手が前方を遮っていました。
私は逃げ惑う人の流れに逆らって市の中心部に進まなければならないため、前進することは不可能だと判断。一旦引き返し、江波にあった陸軍の射的場の壕に身を寄せました。
しばらくしてからのことです。
「ここに向井(次男・春治)の兄貴が寝とる」。
後から逃げ込んできた連中が私の姿を確認し、吃驚した声を上げたのです。
弟は当時松本商業に在籍しており、私と同様に学徒動員で舟入のポンプ会社で働いていました。 彼らに弟の消息を尋ねたところ、「もう死んだだろう」とがっくり肩を落としました。
私も「目の前の惨状を考慮すれば、目撃者の証言に間違いないはずだ。実家の家屋も焼失し、両親もおそらく助かってはいないだろう」と観念。その途端、脱力感に襲われてその場にへたり込んでしまいました。
茫然自失して、どれくらいの時間が経ったのでしょうか。私の名を呼ぶ声が耳に入っ
てきました。
最初はけが人が呻吟しているのかと聞き流していましたが、不審に思って壕の上に出てみたら死んだものと思っていた春治だったのです。
全身血だらけの満身創痍でほとんど口を聞くことができず、草むらの中に身を横たえていました。
彼の姿は今考えても、ぞっと身が縮む思いです。
後で本人に聞いたところ、原爆が投下された瞬間に仮死状態に陥って意識を失っていたらしい。家屋が火に飲まれたため、その熱で意識が戻り何とか射的場までたどり着いたそうです。
弟はその後3年間生死の境をさまよい、いつ葬式を挙げてもおかしくない状態でした。
射的場を出た私は春治を背負って、全身に水を浴びた後、猛火の中を突き進みました。
江波から渡し舟で吉島町に移動。千田町→紙屋町と電車通りに沿って進み相生橋を渡りました。本川に浮かんでいる死体は、川中に捨てたごみが橋げたにひっかかるように流れていました。
このようにしてやっとたどり着いた自宅は、無残な状態に変わり果てていました。練炭に火がついて内部に入るのは不可能だったので、そのまま姉と弟たちが疎開している賀茂郡豊栄町に向かうことにしました。
大通りは死体で埋まっており、遺体を踏みつけて歩くほかに手段はありませんでした。
横川から可部方面に向かう汽車は原爆投下の影響で止まっていましたが、復旧後の第一便に乗り込みました。
「とにかく広島から、早く脱出しなければ命は助からない」。
精神的にはもうギリギリの状態で、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていたような気がします。不安なまま約30分間、汽車に揺られ、その間に日が暮れていきました。
可部の駅前で待っていたのは消防団で、オニギリを乗客に差し入れしてくれていました。消防員の勧めで、可部の寺で一泊。翌7日、芸備線に乗って、ようやく豊栄町にたどり着きました。
両親の消息が掴めないままだったので、重傷の春治だけを疎開先に残し、8日に兄弟みんなで広島に戻りました。原爆病についての知識は全く無かったので、結果的に弟たちに入市被爆させることになってしまいました。
自宅から見つかった遺体は全部で6体。しかし、それが両親だという証拠はない。
だから亡くなったとあきらめきれず、何日間も宇品から己斐まで収容所を捜し歩きました。夜中、雨天の中でも死体をかき分けたりして……。
「今、あんたのお父さんと話したばっかり」
と声をかけてくれる人も現れましたが結局両親の行方は分からず、2週間以上経った後、自宅付近の人骨を拾い、両親の遺骨としたのでした。
そして長男の私が喪主となり、葬式を営みました。
被爆後の生活と結婚、長男の死
私に残されたものと言えば、仕事の作業着と50銭硬貨1枚だけ。その作業着もよれよれの服で50銭硬貨も大田川を渡った時の船賃に払ったので、文字通りすっからからんでした。
世間は冷たく、被爆が伝染するのではないかという差別はひどい。
長男の私は、当時18歳。一番下はまだ、6歳か7歳でした。弟たちを姉の家に預け、私は叔父の斡旋で国鉄(広島駅前)に入社しました。
しかし、戦後の混乱期。給与はわずかなものでした。弟たちは学校に通っていましたが、居候の身分に変わりはなく、ずいぶん惨めな思いもしたようです。
食糧難だったわけですから、姉の嫁ぎ先といっても経済的な余裕は無かったのです。
私はまもなく職場で先妻の千恵子(山口県出身)と出会って恋に落ち、結婚の約束を交わしました。しかし向こうの両親を前にして、被爆者であることをどうしても打ち明けることができませんでした。血統を悪くみられ、破談となるのを恐れたからです。
結局、一言も言い出せないまま、入籍をすることになりました。
今考えれば、岳父も義母も薄々は私が被爆者であることを分かっていたはずです。というのは、私が広島育ちだと知っていたからで、義兄はレントゲン技師でした。私たち家族の事情を理解した上で、結婚を許してもらえたと思います。世間では原爆病は遺伝すると偏見を持たれていただけに、恵まれた状況にあったのでしょうか。
妻はまもなく妊娠しましたが、私は耐え難い重圧に苦しめられるようになりました。身体障害者として生まれてくる被爆2世が少なくなかったからです。
手足の指はきちんと5本あるか。千恵子が長男を出産した瞬間、まずチェックしたのは子供が五体満足かどうかということでした。
息子は健康に生まれ、すくすくと育ってくれているようにみえましたが、一安心したのもつかの間、生後1カ月に最も恐れていたことが起こったのでした。原因不明の病気で体調を崩し、そのままこの世を去ったのです。
はっきりした根拠があるわけではないのですが、どうしても被爆と結び付けて考えざるを得ませんでした。
「あなたは被爆者なのだから、もう子供はつくるな」。
医師からも、そう諭されました。
息子が亡くなった原因は私にあるのだと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになりました。
このような状況を幼い弟たちは固唾を呑んで見守っており、彼らの将来にも暗い影を落とすことになりました。
「原爆病は遺伝するからもしれないから、結婚は出来ないのだ」
と思い込ませるには、十分な出来事なことだったのです。
ブラジル移住
新聞でブラジル移住の話を知ったのは、沈うつな日々を送っているときでした。
「新しい一歩を踏み出すには、何か動かなければならない」──。
その足で県庁に飛び込んで説明を受けました。食べていくのに精一杯の状況でしたから、新天地での生活にかけてみようと思ったのです。
リンス(ノロエステ線、サンパウロから四百三十六キロ)近くのカフェランジャでコーヒー園を営む広島県出身者の呼び寄せという形で、姉の家族4人と私たち兄弟5人、計9人のブラジル移住が実現。1955年5月21日にサントスに上陸しました。
ちょうどコーヒーの収穫時期でした。
ブラジルでの新生活も、決して甘いものではありませんでした。コーヒー園の主な仕事は草取りでしたが、農業経験はまったく無かったため、日々の労働がかなり体に堪えたのです。
ついに妻が体調を崩してしまいました。
私たち夫婦2人は、姉や弟たちと別れてサンパウロに向かうことを決意。ジョンメンデス広場(東洋人街近く)で日本製品の卸売りを行っていた広島県出身のニシタニさんを頼り、妻は自宅療養をする
ことになりました。
その後私は旧日伯銀行、旧東山銀行を経てサントアマーロの日系養鶏場に勤務。ここで20年近く働き、最後には経営にも関わるようになりました。
在ブラジル原爆被爆者協会が1984年に創立。森田隆会長と親しくなったこともあり、同会長の日本食品店「スキヤキ」の名を使わせてもらい、サンベルナルド・ド・カンポで店をオープンさせ、10年くらい営業しました。店は数年前に閉め、現在に至っております。
銀行員時代に長女(48歳)、養鶏場で次男(43歳)が誕生しました。また原爆の影響が子供の体に表れるのではないか? 長男を生後すぐに失っていただけに、悩みの種は尽きませんでした。
私が被爆者であるということについて、子供たちに直接言い聞かせたことはありません。結婚や就職に不利となることを恐れたからです。子供には差別や偏見で惨めな思いをしてほしくない。ひたすら、そう願いました。ただよそから聞いてきたり、在ブラジル原爆被爆者協会に携わって私が外出するようになって、私の過去に気付いたようですが……。
妻は2人の子が10代のころがんで死去。子供には辛い思いをさせましたが、1981年に後妻の幸子を迎えることができました。
趣味や娯楽と言えば、たまに魚釣りにいくぐらい。いつの時代も、仕事を優先させて生きてきたように思います。
それは被爆者であるという事実を忘れ、精神のバランスをとろうとしていたのかもしれません。
被爆者が家庭を持つのは、夢のまた夢とも言われていましたから。
病気
体力には自信があったほうで、国内でも何百キロという距離を運転しても平気でした。
しかし、数年前から顔面や手が腫れるようになり始めたのです。
実は自動車事故を起こしてフロントガラスで頭をうったのですが、それが原因でそれまで隠れていた病気が一気に噴出したのかもしれません。事故の1週間後に手が不自由になって箸を
持てず、日伯友好病院で手術を受けました。
その後、ブラジルの医療機関で診察を受けたところ、医師はアレルギーだと診断。食事療法などを指導しました。しかし、病状は一向に回復に向かわず、結局、被爆者であることを告げました。
主治医は、原爆病には無知で自分には手に負えないといって、ほかの病院にいくよう勧めるだけでした。
2、3年前に、自費で訪日。広島市で50日間入院して治療を受けました。その結果、腎臓が20%しか機能していないことが分かり、人工透析が必要だということになったのです。
帰国の時に1カ月分の医薬品もいただくことができました。
日伯友好病院には日本で原爆病の研修を受けた医師が在籍。帰国後すぐに診察を受けにいったところ、親切に応対してもらえた上、サンベルナルドの市立病院で人工透析を受ける手配までしてくれました。公立病院では順番待ちがひどいのが普通ですが、この医師が知人を紹介してくれ迅速に対応してもらえたのです。
被爆者協会と在ブラジル・アメリカ原爆被爆者裁判
在ブラジル原爆被爆者協会は、森田隆会長の呼びかけで1984年に創立されました。
在外被爆者の参加を促す新聞記事が邦字紙に掲載され、私の目にも留まりました。被爆者援護法が日本で成立。被爆者に対する各種の救済が行われていました。しかし、海外に一歩足を踏み出した途端、援護の枠から除外されてしまうので、私たちにとっては不公正な制度としか解釈のしようがありませんでした。
そのような状況の中で、森田会長が「被爆者はどこにいても被爆者じゃないか」と旗を振ったのです。
私も同会長の考えに共鳴。会の創立に私も加わる決意をしました。
実は被爆者協会の旗揚げに先立って、弟から日本の援護をブラジルでも受けられないだろうかと兄である私に相談。広島県人会に足を運んだのですが、期待した返事はもらえませんでした。
悩んだ末に、県知事宛に直接要請書を送付することを決意。実行に移しましたが、結局その願いは聞き入られませんでした。
それでもあきらめがつかず、突破口を見つけたいと試行錯誤を繰り返していたころ、森田会長が目の前に現れたのです。
同じ志を持っている人がいると知って、頼もしく思いました。
年をとっていくと体が衰えるため、最も不安なことは健康問題です。
特に、ブラジルでは医療コストが先進国並みで健康保険料が高く、多くの被爆者は保険に加入することができないでいました。 したがって健康管理手当てを受ければそれだけ安心できるわけなのですが、協会の要望は日本政府には受け入れてもらえず、苦難の連続でした。
在外被爆者を対象に、隔年に巡回医師団が派遣されています。診察を受けるだけで治療までしてもらえず、現地としては物足りなさを感じているのが実状です。
足立弁護士、田村教授が2002年2月に来伯。協会関係者と話し合った結果、我々の権利を認めてもらうには裁判しかないという結論に達しました。
森田会長がまず、提訴。私たち9人が原告に、加わることになりました。
母国である日本政府を相手取って、訴訟を起こすことに抵抗がなかったと言ったらやはりうそになるでしょう。たとえ、食い詰めて外国に出たとしても、日本は私たちの故郷なのですから。
「カネが欲しいからやっているんだろ」
と揶揄されることもありました。
私たちの思いを聞き入れてもらうのには、裁判を起こすしかない状態にまで、心身ともに追い詰められていました。
在外被爆者の裁判は郭裁判の大阪高裁判決を機に、国が姿勢を軟化。今では海外居住者も手当てを受けることができるようになり、みんな喜んでいます。もっとも手当ての申請は在外公館で受け付け可能になりましたが、手帳の取得自体は訪日しなければならないというような問題は残っていますが……。
私もまだ時効問題について、裁判で争っています。これは、幼いころから辛酸をなめてきた弟たちに、被爆にまつわる問題をきちんと整理・解決してやりたいという一心から、やっていることなのです。
日本に住んでいる被爆者と同等の援護を弟たちにも受けさせてやりたいと思っています。
私は今80歳に手が届きそうな年齢になり、あと何年生きられるか分かりません。
しかし、被爆で受けた苦しみは一生ついて回ることでしょう。
戦争をすると、多くの一般市民を巻き込み、そして傷つけるということを世界に伝えていかなければなりません。
2005年11月30日
(了)