米軍によるイラク攻撃が始まった2003年3〜4月、協会ではマスコミ6社(新聞2社、テレビ4社)からの取材に応じました。
◆ テレビ局「オ・グローボ」(O Globo) 取材の模様
取材日:2003年3月24日午前
取材場所:サンパウロ市 イビラプエ―ラ公園内 日本館庭園
出演:森田隆 会長(被爆地=広島・直爆)、森田綾子 事務局長(同)、岡田公生 氏(広島・入市被爆)

◆ 日刊紙『ジアーリオ・デ・サンパウロ』(Diario de S.Paulo) 掲載記事
掲載日:2003年4月1日付
取材場所:在ブラジル原爆被爆者協会事務所
証言:森田隆 会長、岩崎清孝 理事(被爆地=長崎・入市被爆)

被爆者が懸念示す 第三次世界大戦への恐怖
〜 米軍、イラクで女性、子供7人を殺害
イラク戦争の報道に、広島、長崎で被爆した人々が第二次世界大戦での忌まわしい記憶をよみがえらせている。当時暮らしていた都市が破壊される瞬間を目の当たりにし、現在サンパウロに在住する被爆者らはいま、新たな世界的戦争への恐怖を募らせる。イラクでは31日、米軍が検問所で停車しなかった車1台を銃撃し、女性と子供7人が殺害される事件が起きた。(国際1面、3面に詳報)
(写真=森田隆さん「戦争はもうたくさんだ。もし第三次大戦が起きるようなことがあれば、世界は滅びる」)
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※見出しのみ
米、“サダムの国の人々”を正面攻撃〜 米軍が31日、イラク南部のナジャフで車1台を銃撃 イラク人の女性、子供7人を殺害
一般市民に死者
連合軍、バスラ制圧できず
英軍、追加派兵を否定
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戦場からの生の映像 原爆の恐怖呼び覚ます
原爆投下から60年近くが経とうとしている。広島、長崎で被害に遭った被爆者の団体はいま、被爆当時の記憶を呼び覚まし、新たな国際紛争に憤りを見せている。
【パトリシア・エベリン記者】
(写真〈右上〉=森田隆さん(79)、妻とともに。広島で破壊された建物の写真を示す)
(写真〈左下〉=岩崎清孝さん(69)、テレビの戦争の映像に「胸が締めつけられる」)
米国が広島、長崎への攻撃を加えてから、およそ60年になろうという今。イラクから送られてくる生の戦争の映像は、人々の胸に1945年の原爆がもたらした破壊と殺りくの記憶をよみがえらせている。日本で原爆に遭遇し、現在はサンパウロに住む被爆者たちは、現場からの映像や写真を見るたび、巨大なキノコ雲が引き起こした「あの日」と似た恐怖を感じると話す。いまも新たな世界的戦争を恐れるほどに、当時彼らが受けた心の傷は深い。
「地獄でした。皆が死に、人々は黒く炭になった。何もかもが破壊つくされました」。広島の大惨事を生き残った一人、森田隆さん(79)は当時の記憶をこう語る。「子供たちが死んでいる。辺りは見渡す限り民間人が苦痛にあえいでいる。指導者も同じ。身分の上下なく、救いなどなかった。皆同じでした」。
日本を代表する都市の一つを瞬時に消滅させた原爆。それは生き残った人々に、背中に負わせた“やけど”をはるかに上回る、底深い“心の傷”を刻み込んだ。「アメリカに強い憤りを感じます。アメリカには、長崎に、2発めの原爆を落とす必要などなかったのです。そしてアメリカは今もなお戦争を続けている。悲しいことです」。
1945年8月6日 午前8時15分。エノラ・ゲイと名づけられた爆撃機によって原爆が広島に投下された。その時、森田さんは市内で路上を歩いていた。「20歳でした。当時憲兵をしておりまして、その時は山腹に地下壕づくりをするため、同僚を引き連れて指揮者として現場に向かっていたのです。突然、爆弾が私の背後で炸裂しました。その時、いったい何が起きたのか誰もわかりませんでした。15分も過ぎると、町じゅうが暗くなりました。悪臭が漂い、市内がすべて破壊されているのをこの目で見たのです」。
47年前(1956年)、森田さんは、同じく被爆者である妻と2人の子供を連れ、船に乗りブラジルへ渡ってきた。日本の貧しさから逃れてきたのだった。1984年、在ブラジル原爆被爆者協会を設立する。その森田さんは現在、イラクでの戦闘を、自らの被爆体験と重ね合わせる。「戦争はもうたくさんです。もし第三次大戦が起きるようなことがあれば、世界は滅びます。なぜなら、今日多くの国が核を持っているのですから」と強く主張した。
さらなる亡霊(恐怖)
長崎で被爆した岩崎清孝さん(69)も、森田さんと同じ意見を分かち合いながら、核による悲劇が起こり得る可能性を憂慮している。「今の核兵器はより強力になっている。あの当時でも、長崎で2万7千人(訳注:7万4千人の誤植?)が亡くなったことを思うと、現在ならどうなるか」。岩崎さんは今回ペルシャ湾岸で核兵器が使用されることはないと思っているが、それでも近い将来使用されることが起きるのではないかと懸念している。
ブラジルに暮らして53年が経つ今でも、テレビで米国とイラクとの戦闘場面を見ると、日本での不幸な体験を思い出すという。「胸が締めつけられ、痛みます。私たち被爆者は、戦争を見るたびにいつも思い出させられるのです」。岩崎さんは当時まだわずか11歳だった。原爆が落とされた時、海岸で友達と遊んでいた。海岸は爆心地から12`bあった。「ここ連日、イラクで水や食料が不足している状況をテレビで見ました。戦闘の後はすべてが破壊されたままで、いま多くの人たちが、私たちが経験したのと同じ苦難を歩んでいます。とても痛ましい話です」。
人生における悲惨な体験を通して、米軍の攻撃により被爆した人たちは、いま、戦争のない世界を強く望んでいる。それはすなわち平和、である。岩崎さんは「戦争はやめるべきです。戦争は長引けば長引くだけ、多くの命が失われます」と語った。「戦争に勝者はありません、傷つくのは常に民衆です」、そう森田さんが言葉をつないだ。
〔解説〕 ブラジル、135人の被爆者を“保護”
1945年8月、米国は日本に最初の原爆を投下した。広島市は、キノコの形状をした巨大な雲の下に消滅した。わずか数分のうちにすべてが破壊され、多数の人命が失われた。第二次世界大戦の終結は間近に迫っていた。しかし、そのわずか3日後に、もう一つの原爆が長崎市上空に落とされた。
在ブラジル原爆被爆者協会によれば、両都市で被爆した135人が現在ブラジルで暮らしており、広島出身者が多い。