日蓮宗大本山本圀寺の元塔頭で、1535年4月、日映上人により創建された。しかし、翌年に本圀寺一山は法難のため焼失してしまう。その後、再興され1560年には、足利十三代将軍義輝が、天下太平の祈願を催した。この祈願の時に、義昭(後の十五代将軍)は、真如院に現在保存されている名石の烏帽子石を移したと記されている。

 その後、1568年に織田信長が義昭を真如院に招いている。名園のあった真如院に義昭を招いたのは政治的な意図があった。義昭は義満(金閣)、義政(銀閣)と同じく大の庭園愛好家であったらしい。この点に着目した信長は、義昭の歓心を買うために、庭園を造らせたのだろう。そして京へ進出するために足利義昭という伝統的な権威を必要とした。

 真如院の庭園の特色は、小判石を鱗形に敷いて、水の流れの小浪を表現しているところである。室町時代の影響を受けながら、桃山初期に創られた庭園である。今は何度かの移転で規模も縮小されてしまっているが、当時はかなり大きな庭園であったらしい。

 義昭は天下人信長がデビューするには必要な人物であった。上洛した後、義昭は信長を副将軍に任命しようとしたが、これを信長は断っている。この時、義昭には「権威」があった。そして信長には「軍事力」があった。もう一つ政権に必要な物「賞罰権」をめぐって駆け引きがこの後行われる。
 二人がこの庭の前に立って、それぞれの思惑を隠して対峙していたのである。

真如院