公園の中に建てられた標石だけでは、どんな門だったか想像できそうもないので、門の復元模型があると聞いて、三条高倉にある京都文化博物館まで足を運んだ。 その時に撮したのが左の2枚である。

 もとの名は羅城門であり、「らせいもん」とか「らいせいもん」と言われていたらしい。平安京を象徴する顔であった羅生門であるが、羅生門があったのは、千年の都の最初の二百年くらいであった。建築物としては構造的に不安定であったらしく、台風などにあおられて816年に転倒、後に再建されるが980年に再び倒壊、以後は建てられることはなかった。

 羅生門が物語に登場するのは「今昔物語集」である。ここでは門の上層部は死体置き場として描かれている。

 案内板には芥川の小説「羅生門」とあるが、正確には黒澤明が映画化したのは「藪の中」である。この中で羅生門は戦後の復興へのあかしとしてイメージされた。

 平安京の羅生門を見ることはできないが、二十世紀の羅生門として、京都駅の駅ビルがそう見えなくもない。 京都は今も昔もしたたかに新しいものを吸収してきた都市でもある。
 ビルでは違和感があると思われるなら、平安神宮の應天門(オウテンモン)にその昔を偲ぶことができなくもない。
 平安京の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通)と九条通との交差点に、都の正面入口として羅生門が建てられていた。

 門は二層からなり、瓦葺き、屋上の棟には鴟尾(シビ)が金色に輝いていた。正面約32m,奥行き8m、内側、外側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。

 1107年正月、山陰地方に源義親(ヨシチカ)を討伐た平正盛(マサモリ)は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還している。つまりこの門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅生門」は、この門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに明治28年建立の標石を残すのみである。

 −− と標石横の案内板に書かれている。

羅生門