その後も彼女は、越前北ノ庄城(柴田勝家とお市の方が再婚したため)、山城淀城、小田原、筑前(現福岡)名護屋城(秀吉が朝鮮遠征の拠点としたため)、山城伏見城、大阪城と生涯、城を転々とした。
 越前北ノ庄城が落城したときも、敵の部将は秀吉であった。その後、茶々は秀吉の側室となって淀城へ移った頃から、淀殿と呼ばれるようになった。 後に二人の子を産む。しかし、これが悲劇の始まりでもあった。
淀殿は、近江・長浜の出身である。七つの年まで近江にいた。童女の頃は、常に敵軍が山城(小谷城)を包囲していた。毎日の様に銃声を聞いていたのではないか。その敵の部将が木下藤吉郎(後の秀吉)であった。
 母は信長の妹・お市の方であった。浅井が敗れ、お市の方とその三人の娘(淀殿は長女)は信長にひきとられ清洲城へ送られる。
 
 
 豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善のため1594年成伯法印(長政の従弟)を開山として建立した。寺号は長政の法号養源院をとったものである。
 建立後ほどなく火災で焼失したが、1621年徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建した。

 この本堂の正面と左右の廊下の天井は、1600年関ヶ原合戦の前哨戦で伏見城が落城した際、家康から同城の守備を命じられた鳥居元忠以下の将士が自刃した時の板間を用いたものと言われ、俗に血天井と呼んで知られている。
 血天井は、この寺以外にも源光庵、正伝寺、大原の宝泉院等にも伝わる。

 本堂の松の間の襖絵「松図」十二面及び杉戸絵八面(いずれも重要文化財)は俵屋宗達の筆と伝えられ、杉戸には唐獅子、白象、麒麟を描いている。

 本堂の前に大きな桜の樹がある。私は血天井を見たのはここがはじめてであった。(2001年4月) 血天井の話を聞いた後と先とでは、なぜか桜の樹も花も違って見えた。

 良く晴れた日であった。桜の花には幸い香りがない。
 「開きそろった桜の花には優雅と頽廃との神秘な調和がある」と誰が言ったか。 帰りに仰ぎ見た桜はなぜか泣いている様に見えた。

養源院




 淀城跡(淀殿の頃の淀城はここより、少し北にあった)