つばさをなくした天使1 ** 1いたずら天使エル **むかし、イスラエルにベテスダという名前の池がありました。 池の水は、ときおりだれかがかきまぜたようにうずを巻いて動きます。そのとき、いちばん最初に池の中に入った人は、どんなに重い病気の人でも治ってしまいます。 四角い池のまわりに足の踏み場もないほど病人たちが横たわっていました。遠く外国からも大勢の病人が次々とやってきました。病人たちは池の面をじっとながめていました。 病気が治るのは、水が動いたとき、はじめに入った人ひとりだけです。病人たちは次に水が動いたときは、自分がいちばんに入ろうといっときも池から目をはなしません。 池の水は、3日も続けて動いたり、一か月も動かなかったりと気まぐれでした。 人の目には見えませんが、6人の天使たちが銀のスティックを持ってかきまぜていたのです。 神さまからの合図があると、リーダーのカミルが仲間の天使を呼び集め、池におりてってかきまぜます。 池をかきまぜる天使の中にエルといういたずらな天使がいました。 エルは早く池をかきまぜたくてうずうずしていました。この前かきまぜた時、池のまわりにいた人たちがすごい顔つきで、いっせいに池の中に入っていったようすを思い出してひとりごとをいいました。 「人間っておもしろいなあ……。後から入った人は、治った人を見てくやしそうにしていたっけなあ……」 エルは、くすくす笑いました。 「あれから十日もたつのに、まだカミルはかきまぜにいこうっていわない。つまんないなあ……。よーし、ちょっと人間をからかってやろう。」 エルは、カミルたちにないしょでスティックを持ってこっそり池へ降りていきました。 エルは銀色に光るスティックで、水面をサアーッとなでました。 「うわーっ、水が動くぞ!」 人々は、われ先にと水の中に入っていきました。 「やった! おれがいちばんだぞ。」 手の不自由な男が叫びました。 「ややっ、おかしいぞ! 水が動かない。」 男はがっかりして、よろよろと池から上がりました。手は治っていません。 エルは、うれしそうに池の上を飛び回りました。 「やーい、だまされた。今日は動きませんよーだ」 エルは舌をぺろっと出して言うと、天にもどっていきました。 ** 2なくなったスティック それから3日ほどして、カミルが仲間を呼び集めました。いよいよ本当に池をかきまぜる日がきたのです。 天使たちはスティックを持って池の上におりました。かきまぜる前に輪になってぐるぐる回りながら踊ります。それから静かに水面に立ち、かきまぜるのです。 エルはうれしくて、スティックを思い切りふり回してかきまぜました。 「エル、あんまりふり回すとシャミルのように落としてしまうよ。」 と、カミルが言いました。 2年ほど前、シャミルという天使がうっかり池にスティックを落として、取りに行ったまま帰って来ないのでした。 「平気さ。ぼくは落としたりしないさ」 エルは、片手でスティックを大きくふりました。その拍子にスティックがエルの手からするりとぬけて、どこかへ飛んでいってしまいました。 「エル、早くさがしにいっておいで!」 カミルがさけびました。 「次に池をかきまぜるときまでにもどってこないと、お前の羽はなくなってしまうからね」 「わかった。すぐもどるから」 エルはあわててスティックの飛んでいった方へ降りていきました。 (池の中に落ちたんじゃないから、すぐみつかるさ) エルは、あちこち飛び回ってさがしました。でも、スティックは見つかりません。 「変だなあ。あれは光っているから目立つはずなんだけど……。」 エルは、歩いてさがすことにしました。エルの姿は人間には見えません。池のまわりには、大勢の病人がいました。目が見えず、つえをつ いている人。はうように歩いている人。毛布にくるまって寝ている人。ぐったりとした子どもを抱いた母親。 みんな悲しみに満ちた目をして、じっと池の水面を見ていました。 (色んな人がいるんだな) エルは地上に降りてみて、はじめて気づきました。 「天使さん。何さがしているの?」 突然、後ろから声をかけられました。おどろいてふり返ると、エルより少し背の高い少年が立っていました。 「君、ぼくのこと見えるの?」 エルがたずねると、少年はにっこり笑ってうなずきました。 「それじゃあ、スティックも見えるよね。池をかきまぜるスティックを落としちゃったんだ」 「それは大変。一緒にさがしてあげるよ」 「ありがとう。助かるよ」 エルと少年は、歩き回ってあちこちさがしました。でも、スティックは見つかりません。 ** 3ナタブさん 日がかたむきうす暗くなりはじめると、少年がいいました。 「今日はもうあきらめて明日にしよう。明日になれば、きっと見つかるよ。ぼくの寝場所で休むといい」 エルはしかたなくうなずいて、少年の後についていきました。 少年は途中で物売りからパンを買うと、横になっている男の人のところへ持っていきました。 「ナタブさん、具合はどう? 今日はめずらしくやわらかいパンが手に入ったよ」 少年はパンを小さくちぎると、男の口へ持っていきました。 「今日は食べたくない……」 ナタブさんは、やっと聞き取れるほどの声でささやきました。 「だめだよ。少しでも食べなくちゃ」 「今日は女の人が池に入って病気が治ったらしい……」 「この次はぼくがきっと、ナタブさんを池に入れるよ」 「足の悪いお前じゃとうてい無理さ」 「ぼくの足、治ったんだよ」 少年はナタブさんの前でぴょんぴょん飛びはねました。 「お前、どうして治ったんだ?」 「うん……。自然に治ったんだよ。だから、ナタブさんをおぶって池に入れられる。さあ、食べて元気だしてよ」 「ありがとうよ、シャミル」 ナタブさんは涙をためて、パンを口に入れました。 「シャミルだって! 君、天使のシャミルなのかい?」 エルは叫びました。 少年はちょっとうなずいて片目を閉じるとナタブさんに水を飲ませました。 ナタブさんが眠ってしまうと、少年はエルの方を向いて話しました。 「ぼくは、天使のシャミルだよ。でも、今は人間さ」 「どうして人間になっちゃったの?」 「池の中にスティックを落として、みつけられなかったから、羽が消えちゃったんだ。町で暮らしているうち、だんだんと人間の体になってしまったのさ」 「人間の体になった?」 「半年も地上で暮らしていると、天使だって人間になってしまうのさ」 「へえっ!」 エルは自分も人間になったらどうしようと思いました。 「人間って弱いんだよ。ぼくは、ちょっところんで足にけがをしたんだ」 シャミルは長服の上からひざのあたりを指さしました。 「ほおっておいたら、ばい菌が入って、ちゃんと歩けなくなってしまったんだ。それで、治したいと思って、またこの池にきたのさ。そこで、このナタブさんと出会ったんだ」 シャミルはぐっすり眠っているナタブさにやさしい視線を送りました。 「ナタブさんは気の毒なんだよ。三十八年も病気が治らず、歩けないんだ。池がかきまぜられたとき、ナタブさんが池に入ろうとすると、先に誰かが入ってしまうんだ」 シャミルはため息をつくと、エルにもパンを食べるようにすすめました。 エルはスティックのことが気になって食べる気にもなりません。 「ぼくはどうしてもナタブさんを池の中に入れてあげたい……」 シャミルは、横になると毛布にくるまって眠ってしまいました。 ほんのりと夕焼け色を残していた空が、だんだんとコバルト色に変わり、星がひとつ、またひとつと輝きはじめました。 「うーっ……」 すぐそばでうめき声がして、エルはびっくりしてふり返りました。ナタブさんが、額に汗をたくさんかいて、うめいています。 シャミルがさっと起きあがって、ナタブさんの汗をふいて水を飲ませました。 すぐ向こうでも、うめき声を上げている人がいます。 「ああいやだ。天の国では苦しんでいる人なんかだれもいなかったのに……ああ、早く天に帰りたい」 エルは空を見上げながら、夜が明けるのを待ちました。 ** 4アリサ 翌朝早く、エルがスティックを探しに出かけようとしたとき、ひとりの少女がかごをかかえてやってきました。かごの中には干した魚がたくさん入っています。 「シャミル、魚が手に入ったのよ。ナタブさんにも食べさせてあげて」 少女は、エルが見えないので、エルを通りこしてシャミルのところにかごを持ってきました。 シャミルはほおをりんごのように赤くして、 「いつもありがとう、アリサ。お母さんの具合はどう?」 「昨日、池の水が動いた時、いちばんに入ってすっかり元気になったのよ」 「そうか、それはよかったね。じゃあ、もうここにいる必要はないんだね」 シャミルはさびしそうな目をして、じっと少女を見つめました。 「そうなの。これからベタニアの町へ行くの。でもわたし、シャミルとナタブさんが治るまでときどきここにくるわ」 「ありがとう、アリサ。ぼくの足はもうよくなったんだよ」 シャミルは、アリサのまわりをぐるっとひとまわりしてみせました。 *************************つづく Next→ |