ボケの住む町



**小学3年生の拓也は運動が苦手です。徒競走ではいつもどんじりです。今日の体育はクラス対抗リレーでした。拓也は遅く走ったうえにバトンを落としてしまい、クラスは最下位になってしまいました。

**放課後、ひとりで校門を出ようとしたとき、同じクラスの男子数人が拓也を取り囲みました。今日のリレーは拓也のせいで負けたと怒っているのです。
**「カメ、カメ、のろまのカメ!」
**体の大きな浩一がいうと、みんなも輪唱するように同じ言葉をくり返しました。
**「リレーの日は、お前学校休めよな」
**浩一が意地悪そうな目つきでにらみます。拓也は流れ落ちそうになる涙をこらえて、ぎゅっと歯をくいしばっていい返しました。
**「ぼく、休まないよ」
**「生意気なやつめ!」
**浩一の合図でみんなが次々と拓也のランドセルをけりました。やっとのことで拓也は走って逃げました。 **くやしくて涙があふれてきます。心の中は浩一たちへの憎しみの思いでいっぱいでした。

**公園の前を通りかかると、のら犬のボケのすがたがえました。ボケは体全体ふさふさとした灰色の毛でおおわれ、背中と足に黒いぶちのある中型犬です。おとなしくてほとんど吠えたことがありません。鼻が長くて間が抜けたような顔をしているのでボケと呼ばれていました。
**ボケがどこからきたのか、いつごろから町に住みついたのか、誰も知りませんでした。

**拓也はちょっと寄り道をして公園に入っていきました。ボケは拓也をみかけると、しっぽをちぎれるようにふって寄ってきました。
**「カメ、カメ、のろまのカメ!」
**拓也は、さっき浩一たちにいわれた言葉をそのままボケに返しました。それからボケの頭をげんこつでたたき、しっぽをひっぱりました。ボケはどんなことをされても、ほえたり、歯をむき出したりしません。

**拓也は、浩一にランドセルをけられたことを思い出しました。ボケが浩一に見えてきます。ボケの背中に思いっきりけりを入れるとすっとしました。ボケは「キャイーン」と一声鳴いて、逃げていきました。
**「こら、待て」 **拓也は追いかけました。ボケは薬局の裏の倉庫の前までいくと、とつぜんきりのように消えてしまいました。
**拓也はおどろいて倉庫のとびらをガンガンたたきました。とびらは固く閉ざされています。鍵がかかっているようです。
**ふと、足元をみると銀色の鍵が落ちています。(倉庫の鍵かもしれない)拓也は、鍵をひろうと鍵穴に差してみました。とびらは音もなく開きました。中はまっ暗です。

**「ボケ、どこにいるんだ?」
**拓也が倉庫の中に足を入れると、とつぜん誰かにものすごい力で右腕をひっぱられた感じがしました。体がどんどん倉庫の奥に引きずりこまれていきます。体は宙に浮いているようです。拓也は、おそろしくてぎゅっと目をとじていました。


**地に足がついた気がしたので目を開けると、拓也はみたこともない町の中にいました。レンガ色の石畳の道の両脇に赤や黄色の三角形の屋根の家が建ち並んでいます。どの家も小さな窓がふたつと茶色い木のドアがついていました。
**目の前の家のドアが音もなく開きました。拓也は、出てきたものをみて腰をぬかしそうになりました。ボケそっくりの犬が服を着て後ろ足で立っているのです。
**「ボケなの?」
**拓也がたずねると、犬は口を開きました。
**「そうだ。でも、ここではサラテルと呼ばれている」
**「ボケ、しゃべれるの? ここはどこ?」
**「ここは、人間からいじめられたり、捨てられたりした犬の住む町なんだ」
**いじめられたと聞いて、拓也はどきっとしました。ボケにあやまろうと思いましたが、言葉が出ません。
**「これから祭りがはじまる。一緒にいこう。少し暑いが、これを着なさい」
**ボケの手には犬の着ぐるみがありました。
**「人間がこの町にきたことがわかると、大変なことになるからね」

**ボケに渡された着ぐるみは、大きなゴールデンレッドリバーの毛皮です。中にもふわふわの毛がありました。
**拓也は、着ぐるみを頭からすっぽりかぶりました。目のところが透明なガラスになっていて外がよくみえます。

**ボケは、背中をまっすぐ伸ばして2本足で歩きはじめました。向こうからシェパードがやってきてボケに頭を下げました。
**「サラテルさま。どこにいってたんですか?」
**(サラテルさまたって……。ボケはここでは偉いのかなあ?)拓也はガラスの目からボケを横目でみました。

**「新しい仲間を連れてきたんだ」
**ボケが拓也を指していいました。
**「おい新入り、よろしくな。おれ、プルっていうんだ。お前の名前は?」
**「ぼ、ぼくは拓也」
**「人間みたいな名前だな」

**プードルが走ってきていいました。
**「サラテルさま、もうすぐ祭りがはじまりますよ」
**「拓也くん、急ごう」
**ボケは古代ローマの競技場のようなところに拓也を連れていきました。きらびやかな衣装をつけた何百匹もの犬が2本足で立って歌いながら踊っています。そのまわりを何千匹もの犬が取り囲んで手拍子を打っています。

**ドッグー・ドッグー、犬の町
**人間なんかにじゃまされない
**犬だけの平和な町
**ドッグー、ドッグー、犬の町
**人間なんかに負けないぞ
**明るくゆかいな犬の町

**みている犬たちも立ち上がり、体を前後にゆすって歌いだしました。拓也もつられて体をゆすりました。
**着ぐるみの中で汗が滝のように流れます。拓也は、のどがカラカラになりました。

**「氷水はいかがですか?」
**マルチーズがよちよち歩いて水を配っています。
**「ぼくにも下さい」
**拓也は水をもらうと、ぼうしをぬぐように頭の部分を取って水を飲みました。
**「ああっ、人間だ!」
**「どうして人間がいるんだ?」
**犬たちが口々に言って、拓也を取り囲みました。(しまった。着ぐるみを着てないと大変なことになるっていわれてたのに……)
**拓也は救いをもとめてボケをさがしました。たくさんの犬に囲まれてしまったので、ボケがどこにいるのかわかりません。

**「人間はぼくたちの敵。死刑だ」
**「死刑だ」 
**犬たちが叫びました。
**「ボケ、ボケ、助けて!」
**拓也は声のかぎりに叫びました。


**「お前達、自由と平和のこの町で死刑を行うのか?」
**りんとした声が響きました。ボケが競技場の真ん中に立って叫んでいました。しばらくの間、犬たちはしーんと静まりました。
**「死刑はやめて、かみつきの刑にするかな」
**「そうしよう」
**犬たちは顔を見合わせていいました。
**「わかった。かみつくがよい」
**ボケがいうと、犬たちはとがった牙のある歯をむき出しました。

**拓也は恐ろしくて目を閉じ、じっと身を固くしていました。ところが何も起きません。10秒、20秒……時間がどんどんたってもちっとも痛くありません。
**犬の気配もしないので、そっと目を開けると犬たちがボケを取り囲んでいました。いってみると、何匹もの犬がボケの耳やしっぽや足にかみついていました。
**「拓也くん、今のうちに逃げなさい。わたしの家のドアが人間界への通り道になっているから」
**ボケが苦しそうにいいました。
**「でも、ボケは……」
**「わたしは、大丈夫だから。さあ、早く」
**拓也は走って競技場を出ました。
**「ごめん、ボケ。ぼくは、お前のことをいじめたのに、おまえはぼくの代わりに……」
**拓也の目から涙があとからあとから流れ落ちました。

**石畳の通りまでくると、ボケの家がみえてきました。ドアは開きません。鍵がかかっているようです。拓也はさっき倉庫を開けた鍵をポケットから出してみました。鍵は鍵穴にぴったりあいました。
**ドアを開けると真っ暗で、中に入ると向こう側にかすかな光がみえました。光の方へ歩いていくと、拓也は倉庫の中にいることに気づきました。倉庫の扉が半開きになっていてそこから光がさしていました。扉を開けて外に出ると、夕闇がせまっていました。

**数日後、拓也が道を歩いていると、一匹の犬が足を引きずって歩いてくるのがみえました。それは、ボケでした。拓也はボケのところまで走っていきました。
**ボケの両方の耳は食いちぎられたようにぎざぎざになっています。右前足と左後ろ足に傷があり、しっぽの先もちぎれていました。
**ボケは拓也をみるとうれしそうに短くなったしっぽをふりました。
**「ボケ!ごめんね。ありがとう」
**拓也はボケをしっかりと抱きしめました。
**次の日の夕方のことです。拓也は、ボケにあげようと冷蔵庫からこっそり取ってきたソーセージをポケットにつっこんで公園にいきました。
**植え込みの陰からわいわいとさわぐ声が聞こえてきます。近づいていくと、5年生か6年生くらいの体の大きい小学生が数人、同じクラスの浩一をとり囲んでいました。

**「お前、3年生のくせに生意気なんだよ」
**ひとりがいって浩一の胸ぐらをつかみました。浩一は真っ青な顔をして震えています。

**(この前、ぼくにひどいことをしたからバチが当たったんだ)拓也はそう思って知らないふりをして公園を出ようとしました。かかわれば、自分も大変な目にあわされてしまうでしょう。
**そのとき、滑り台の後ろからボケが足を引きずってやってきました。ボケは悲しそうな目をしてじっと拓也をみつめました。

**拓也ははっと胸を突かれたような気持ちになりました。くるりと向きを変えると、浩一のところへ走っていきました。
**「弱い者をいじめるのはやめろよ!」
**拓也は自分でもびっくりするほどの大きな声を出していました。
**浩一を取り囲んでいた上級生たちがいっせいに拓也をみました。拓也は恐ろしくて体がこわばりました。背中に冷や汗が流れ落ちるのがわかりました。

**上級生が拓也に向かってきたとき、ワンワンと激しい犬の鳴き声がしました。みると、ボケが歯をむき出して吠えています。
**上級生たちは驚いて逃げていってしまいました。
**「ありがと、拓也」
**浩一が照れくさそうな顔をして笑いました。
**「お礼なら、ボケにいってよ」
**拓也も照れくさそうに笑いました。

**ボケはふたりにやさしい眼差しを向け、先のちぎれたしっぽをいつまでもふっていました。



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