真実を求めて




 ゲオルグの謎


                                                 2014年8月28日 柴田昭彦 新規作成
                                                 2014年8月30日 一部修正
                                                  (トラ-クル全集を確認し、該当する詩がないことを証明)
                                                 2014年8月30日 C.V.ゲオルギウの著書の言葉の掲載頁を紹介
                                             2014年8月31日 石原氏の「ゲオルグ」はどうして生まれたのか
                                             2014年9月28日 一部修正

                                             2014年10月18日 追加リンク:
「たとえ世界の終末が」の言葉
                                             
2014年10月24日 追加(石原氏の「ゲオルギウの言葉」説)
                                             2014年11月9日  追加・修正

 


1.「ゲオルグ」とは誰なのか?(寺山修司の「いたずら」をめぐって)
2.石原氏の言う「ゲオルグ」とは誰なのか?
3.ゲオルク・トラ-クルはこの詩の作者なのか?
4.アシジの聖フランチェスコのエピソードについて



1.「ゲオルグ」とは誰なのか? (寺山修司の「いたずら」をめぐって)


 「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」


 この言葉を石原慎太郎氏(1932~)は、「東欧の詩人ゲオルグ」の詩の一節として紹介している(2007年6月4日、サンケイ新聞連載記事)。

 
 しかし、「東欧の詩人ゲオルグ」という言葉では、曖昧であり、特定の人物に確定することは難しい。


 そのため、筆者は、寺山修司(1935~83)が『ポケットに名言を』(1977年)の中で名言の一番最後に掲げた次のような言葉に注目していた。


 A「もし世界の終りが明日だとしても私は今日林檎の種子(たね)をまくだろう。 ゲオルグ・ゲオルギウ」(角川文庫、154頁、平成17年改版)


 しかし、誰もが、とまどうように、「ゲオルグ・ゲオルギウ」なる人物は、ルーマニアの政治家「ゲオルグ・ゲオルギウ・デジ」しか見当たらない。


 ところが、同じ『ポケットに名言を』(角川文庫、平成17年<2005年>改版)を見ると、次の言葉がある(80頁)のがわかります。


 B「女の祖国は若さです。若さのあるときだけ、女というものは幸せなのです。 ゲオルグ・ゲオルギウ「第二のチャンス」 」


 AとBの言葉を両方とも掲載している名言事典としては、梶山健編『世界名言事典』(明治書院、昭和41年<1966年>)があり、『ポケットに名言を』の前身書である、寺山修司『青春の名言』(大和書房、昭和43年<1968年>)の種本の一つとなった可能性が考えられる。

 『世界名言事典』(昭和41年)に掲載された、AとBに該当する言葉は次のとおりである。


 A「*いかなるときでも、人間のなさねばならないことは、」<例えば、世界の終焉が明白であっても、自分は今日、林檎の樹を植える>ことだ。(最後の瞬間を支えるものは希望である。)―ゲオルギウ「二十五時」 」(179頁下段)

 B「*女の祖国は若さです。若さのあるときだけ、女というものは幸せなのです。―ゲオルギウ「第二のチャンス」 」(47頁下段)


 『世界名言事典』(昭和41年)の巻末に索引があり、ゲオルギウについては次のようになっています。

 ゲオルギウ Gheorgiu(ママ)、Constantin Virgil (1916~)ルーマニア 作家


『第二のチャンス』(筑摩書房、昭和28年6月30日発行の初版)の361頁には、Aのほうは、次の言葉になっています。
           (初版の「明白」を、昭和28年7月10日発行の再版では「明日」に正しく訂正してある。)

A「どんな時でも人間のなさねばならないことは、たとえ世界の終末が明白であっても、自分は今日リンゴの木を植える・・・・」


『第二のチャンス』でBも探してみました(8月30日)。通読しながら、『世界名言事典』の他の句も見つけました。下が訳書での言葉です。

事典:「いかなる不幸のなかにも幸福がひそんでいる。どこによいことがあり、どこに悪いことがあるのか、われわれが知らないだけだ」
17頁:「どんな不幸の中にも幸福がひそんでいるのだ。どこに善いことがあり、どこに悪いことがあるのか、僕たちが知らないだけなのだ」

事典:「孤独はこの世でもっとも怖しい苦しみだ。どんなにはげしい恐怖にも、みんながいっしょなら堪えられるが、孤独は死に等しい」
18頁:「孤独はこの世で一番恐しい苦しみだ。どんなにひどい恐怖にも、みんないっしょになら堪えていけるが、孤独は死に等しい」

上の二つはすぐに出てきたので、見つけやすかった。しかし、次の「女の祖国は」のほうは、ずっとあとで、299頁にやっと見つかった。

事典:「女の祖国は若さです。若さのあるときだけ、女というものは幸せなのです」
299頁:「女の祖国は若さなのですよ。若さにいる時だけが、女というものはしあわせなのよ」


3つとも、世界名言事典の引用文と違うので、世界名言事典は、原書から独自に翻訳したものであることがわかる。

299頁に見られる言葉は、『第二のチャンス』の中の女優、エディ・タールが言った言葉である。

B「女の祖国は若さなのですよ。若さにいる時だけが、女というものはしあわせなのよ。」(「第二のチャンス」299頁)


●従って、「寺山修司のBの文」については、『世界名言事典』の引用文と「完全に同一である」ので、問題なく、これが種本と確認できる。訳書に載っている文章はそれとは食い違っている。世間では、寺山と事典の共通する文章が広く用いられている。訳書からの引用文は見当たらない。

●一方、「寺山修司のAの文」は、やっかいである。『世界名言事典』が訳書の初版の誤植「明白」を引き継いでいるのに訳文が食い違うというのは、訳書を参照して、アレンジしたのだろう。寺山修司のAの文章はそれとは大きく違う(木・樹と種子の違いは大きい)ので、Aの「引用元」は謎ということになるのだが、おそらく、世界名言事典の文章をもとにして、寺山が、独自にアレンジした可能性が高いと思う。

一方、寺山が著書において、Bの出典を「第二のチャンス」とし、Aのほうには出典が示されていない点も気になる。

『世界名言事典』にはAの出典が「二十五時」とあるが、実際には、Aの言葉は見つからない(本当は「第二のチャンス」にあるので当然です)。
従って、Aの出典はわからなくなってしまったので、寺山はAの出典を示さず、作者名のみとしたのかもしれない。


とにかく、寺山のAとBの二つの引用からわかることは、推理も交えると、次のとおりとなる。

(1)寺山修司がBを『世界名言事典』から引用した可能性は高い。引用文が同一だからである。
(2)従って、寺山修司は、AとBの二つがルーマニアの作家コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウ(1916~)の言葉と知っていたはずである。
(3)だが、寺山修司は、なぜか、二つの引用句の作者を同一の「ゲオルグ・ゲオルギウ」と記載している。揺るぎのない記載である。
(4)推測では、寺山は確信犯で二つの言葉を、ルーマニアの政治家「ゲオルグ・ゲオルギウ・デジ(1901~65)」に結びつけたのだと思われる。
(5)その理由は、この言葉を、「革命」に関する名言23句の中に置いていること、その23句の一番最後の句であること、そして「革命」の名言は一番最後に置かれているので、結果として、名言全ての最後の句であることなど、重要視している。これは、より強く注目を引くための「しかけ」をしたのではと考えられる。この言葉が「革命」の名言であるためには、「(虚偽であろうとも)ルーマニアの革命家の言葉であることがふさわしい」のである。
(6)「ゲオルグ・ゲオルギウ」って誰だ、あのルーマニアの革命家のことか、本当にこう言ったのか?と「革命の言葉」として注目させる魂胆だったのでは。
(7)実際のところ、この言葉の出典をめぐっては、いろいろなアプローチが行われて、常に注目を浴びる言葉として継続している現状がある。
(8)つまり、今となっては、裏付けることは不可能だが、状況証拠から、「ゲオルグ・ゲオルギウ」と記して「ゲオルグ・ゲオルギウ・デジ」と思わせるように(虚偽で)記載したのは、(「自伝の捏造」や「いろいろな騙り」で知られる)寺山修司の「確信犯によるいたずら」だったのだろう。読者をだますことが目的だったのである。そして、それは「ポケットに名言を」が「ゲオルグ・ゲオルギウ」の言葉と記載して、再版され続けることによって、現在も、読者をだまし続けているのである。(それは著者の完成された著作であるから、著者の意思を反映しており、明白な誤りであっても、「確信犯の記載」である限りにおいて、訂正されることはありえないであろう。)


(2014年10月10日、追加)

 寺山修司の人となりについては、いろいろと書かれている。「虚構」「捏造」「確信犯」という言葉と結びつくほどである。

 たとえば、寺山修司「私という謎」(講談社文藝文庫、2002年)の解説(川本三郎)がそれらをしっかりと表すキーワードを綴っている。

 「寺山修司は、お話づくりの名手である。」
 「お話づくりの名手」とは、こういう、現実の話のなかに巧みに虚構を交えてゆく寺山修司のスタイルをさしている。
 「寺山修司は、虚構によって、現実の向こうに広がってゆく、もうひとつの世界を見ようとしている。」
 「寺山が、しばしば自分の過去を虚構化した」
 「無論、寺山修司は確信犯”ウソつき”である。」
 「寺山の言葉を借りれば「思い出を捏造する」である。」
 「手を加える。作り変える。寺山修司は、その”編集作業”に惹かれる。」
 「「童謡」という文章のなかでは、子供の頃から、言葉の間違いを意識的に行なってきたと書いている。「贋金つくり」である。」

 そして、核心的な言葉が現れる。

 「私はあらかじめ与えられたものではなく、自分の手を加えて完成したものだけが、『自分の文学』なのだと信じ、贋作をつくっては自分のノートにしまっておくようになった

 「寺山はパロディよりも、もっと切実な気持で、過去を、言葉を、思い出を作り変えたかったのだ。」

 「そのほんとうの「記憶」のなかに浮かびあがってくるのは、ある風景である。戦争、出征して行った父親、戦死、父の不在、米軍キャンプで働く母親、あるいは、青森の空襲。その風景は確かにあった。しかし、寺山が上京した頃から始まった高度成長の時代と共に戦争も父親も、空襲も母親も、遠くへと消えはじめた。明るい時代の隅へと追いやられていった。そのとき、寺山修司は、思い出を、記憶を、作り直しているといいながら、実は懐しい、遠い日の風景へ戻ろうとしたのではないか。」


 これらのコメントは、主として自伝にまつわるものであるが、いろいろなところで「確信犯の捏造」をしていることの証左となる。
 

 Air Log:「もし世界の終わりが明日だとしても には、次のように書かれている。

 「ゲオルグさんて何者かしらと検索したら、なんと人違いだという記事を発見。ゲオルギウさんも引用だったという」

 「誰の言葉であるかも知りたいけど、それを選び取ることこそセンス。」

 「そしてやっぱり寺山さんのこの訳が一番美しい、というかかっこいい。」

     もし世界の終りが明日だとしても私は今日林檎の種子(たね)をまくだろう。 ゲオルグ・ゲオルギウ



さらに、下のような、朝日新聞そっくりのリベラル(自由主義)としての左翼思考(イデオロギー優先のためなら捏造も許される)に染まった考え方を示すサイトM.A.P. after 5 情報の言葉がある。いわば、進んでだまされること(ゲオルギウを作家ではなく、革命家のことだと信じること)によって、自己陶酔に身を置くというわけである。寺山が「革命」の名言(本来は違うのだが)に位置づけたことを進んで受け止めるのである。いわば、寺山のだまそうとして企んだ偽装をまるごと信じることに意義を感じるのである。信じることは自由だし、いわば創作としての「革命家の言葉はかっこいい」のだが、それと真実とは相容れない。朝日新聞の思想(反原発)によって、吉田調書の内容を勝手に捏造することは許されていいはずがない(リベラルを気取る人々の思考の最低ぶりを示す一例ではないだろうか)。

M.A.P.after 5 情報

09/10/10 : 世界の終りが明日だとしても

僕が若き頃、寺山修司の「ポケットに名言を」で知った一文。
「もし世界の終りが明日だとしても私は今日林檎の種子をまくだろう。」

寺山は、この一文をゲオルグ・ゲオルギウのものだとした。ゲオルグ・ゲオルギウとはルーマニアの革命家である。だが、事実は違うらしい。
でも、僕にとって重要なことは、寺山修司が、この言葉を名言だと考え、さらにそれが革命家の言葉であったということに、若き僕が心動かされたということ。
そして、長い時を隔てて、今日、それを思い出したということ。

真実が、いつも史実でなければならない、と、いうわけではない、と、いうこと。

沖縄のことを考えている……

 (文責:高山正樹



寺山修司による、「もし世界の終りが・・」の言葉が、革命家「ゲオルギウ」の言葉であるという虚言は、この言葉を何としても「革命」に結びつけたいという寺山の欲求によって生まれた虚構であって、『ポケットに名言を』に、この言葉が「ゲオルグ・ゲオルギウ」の言葉として載せてあること自体が、寺山の思想の体現の一つなのである。今でも、だまされ続ける人が増え続けることこそ、寺山の意図することであったに違いないのである(実際に、そのとおりの経過をたどり、現在進行形で進んでいる物語である)。

だが、そうであるからこそ、私達は、寺山の「ウソ」であることを、はっきりと認識しておく必要があると思うのである。

吉田(詐話師)による「強制連行」の「ウソ」は、害毒を垂れ流し続け、日本の国益を損ない続けている。
寺山の「革命家ゲオルグ・ゲオルギウの言葉」という「ウソ」は、今でも拡散し続けていると思うのである。





2.石原氏の言う「ゲオルグ」とは誰なのか?

 石原氏の言う「東欧の詩人ゲオルグ」については、ずっと、手がかりがなく、寺山修司の言う「ゲオルグ・ゲオルギウ」のことだろうと漠然と考えていた。だが、それなら、石原氏は、どうして「ゲオルギウ」と言わないのだろうか、という疑問は常に頭に残っていた。本サイト「真実を求めて」の開設(2007年)以来、7年間の長期にわたって、ずっと、謎は解けないままであった。

 2014年8月26日、月刊ウイル(WiLL)の2014年10月号を読んでいて、「連載 東京から日本を―石原都政回想録―第八回 NYで遭遇した9・11 石原慎太郎」(196~207頁)の中の、次のような文章が目に入った(207頁)。


 こんな意識を抱えながら、ある時立ち寄ったどこかの居酒屋で、思いがけぬものを目にして膝を叩いたものです。その店には、焼き鳥などの煙で色がついたのだろう古い色紙が掲げてあり、私と同世代の作家ながら思いがけず早世した開高健の文句が書かれていました。
 よく読むと、
「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日、リンゴの木を植える」という、実に印象的な文句でした。これは私が親しく、極めて評価した作家のひとりでもあった開高健の独自の名文句かと思ったら、よく調べると、実は、ポーランドの詩人のゲオルグ・トラークルの書いた詩の一説(ママ)だったと分かりました。
 ところがその後、ある人からこう教えられました。それはゲオルグのオリジナルの文句ではなしに、かつてキリスト教の改革を説いてプロテスタントの大きな宗派を創設したマルティン・ルターの文句でもあったそうです。
 いずれにしろ、この文句は人類の将来にとってきわめて暗示的なものです。


今まで、石原氏の書いた記事の中で、「東欧の詩人ゲオルグ」とあっても、これほど具体的な詩人の名前が出てきたのは初めてだったので、さっそく、検索をしてみて、過去には「オーストリアの詩人ゲオルク・トラ―クルの言葉」とインタビューでしゃべっていたことがわかった。

この時点で、石原氏の言う「ゲオルグ」が、「ゲオルグ(ゲオルク)・トラ―クル」を指していることが私にとって明確となった。


 朝日新聞(2009年11月12日)の朝刊「オピニオン」欄の2020年のオリンピック誘致にもう一度名乗りを上げた石原知事へのインタビュー記事に、次のようにあった。石原氏へのインタビュー ※ンターネットの引用には「ゲオルグ」とあるが、出典の朝日新聞には「ゲオルク」である。


「オーストリアの詩人ゲオルク・トラ―クルの言葉に『たとえ明日地球が滅びても、君は今日リンゴの木を植える』というのがある。いい文句です。だからね、東京だけでもリンゴの木を植えようと思っている。何と言われようと」






さらに調べると、大阪の建築家、守谷昌紀氏の紹介する「心の琴線に触れた言葉」(2005年10月4日)に次のようにあった。大阪建築家
(ただし、2014年9月2日には、筆者のアドバイスにより「トラークル」は「ゲオルギウ」に修正済みであり、「トラ-クル」はもう消えている。)

明日世界が滅びるとしても、今日あなたはりんごの木を植える。
 - ゲオルグ・トラ―クル -  ドイツ表現主義最大の詩人。開高健が日頃引用していたことばを石原慎太郎がディーゼル規制キャンペーンの際に披瀝して運送業界に協力を仰いだ。


もうひとつ、守谷氏の紹介している開高のことばがあり、以下のようにトラ-クルの紹介が加えられている(2006年9月20日)。
(ただし、2014年9月5日には、筆者のアドバイスにより、この「メモ」は閉鎖されたので、もう閲覧できない。)

開高健の好きなことば
「明日世界が滅びるとしても、今日あなたはりんごの木を植える」
詩人 ゲオルグ
ドイツ表現主義最大の詩人。第一次世界大戦後の荒廃した生の極限で、肺腑にせまる肉声の真実を響かせ、凝縮した表現で、存在することの痛みと没落からの救済をうたった、夭折の詩人ゲオルグ・トラークル。

開高が日頃引用していたことばを石原慎太郎がディーゼル規制キャンペーンの際に披瀝して協力を仰いだ。

守谷氏にメールで出典をたずねると、「私は、開高健のファンで、彼が好んで使っている言葉という認識でした。それが、石原慎太郎元都知事が、東京都のディーゼル規制キャンペーンを大々的に打っているとき、新聞のインタビューで、『開高健が好んで使った、詩人ゲオルグ・トラ-クルの言葉』と紹介していました」とのことで、開高氏の旧友である石原氏の言葉なので出典が不明でも「信用してもよいだろう」と考えて掲載したという。正確な出典を知っている訳ではないという。(2014年8月28日付のメールによる)

つまり、守谷氏の記載の根拠は、石原氏によるディーゼル規制についての新聞記事であることがわかる。

曖昧さが残るので、守谷氏の根拠について再度おたずねすると、不確実な記憶で書いたとのことで、出典として、石原慎太郎のエッセイ「日本よ」(2004年10月4日)を提示された(2014年8月31日付のメールによる)。この石原氏の文中には「開高健がよく引用していた詩人ゲオルグ」の言葉とあるのみで、「トラークル」は見当たらない。結局、「トラークル」がどこから出てきたか曖昧なままだが、とにかく、石原発言がルーツであることは間違いないようだ。


石原氏の「WiLL」での表記の「ゲオルグ・トラ-クル」については、朝日新聞インタビュー記事にあるように、通常は「ゲオルク・トラ-クル」と表記され、Wikipediaゲオルク・トラ-クルに詳しい。

ゲオルク・トラークル(Georg Trakl, 1887年2月3日 - 1914年11月3日)は、オーストリア詩人第一次世界大戦前夜、凝縮された表現と象徴主義にも通じる色彩感覚で世界苦 (Weltschmertz) をうたった、ドイツ表現主義最大とも評される夭折の天才である。

・「トラークル全集」(青土社、1987年)に挿入された以下のチラシには、トラークルについて、簡潔明瞭にまとめられていて参考になるだろう。






Wikipediaの記事および上記チラシなどから、簡単にまとめてみると、次のような経歴であり、27歳で亡くなった夭折の詩人ということがわかる。
(まことに申し訳ないが、筆者は、2014年8月26日に生まれて初めて知るまで、まったく一度も耳にしたことのない詩人名であったことを申し上げておきたい。もちろん、「知る人ぞ知る有名詩人」なのであろうが・・・。)


オーストリアのザルツブルクに生まれ、ギムナジウム在学中の17歳ごろから詩を書き始める。18歳で中退後、薬剤師を目指し、21歳でウィーン大学薬学科入学。23歳で薬剤師資格試験に合格。25歳からインスブルック(オーストリア)の編集者フィッカーの支援によって、彼の詩の雑誌への掲載が行われ、26歳のとき、初の「詩集」が出版された。このころ、匿名の大富豪(実は哲学者ウィトゲンシュタイン)の資金援助を受ける。27歳のとき、グローデク(現在のポーランド)で第一次世界大戦での薬剤士官候補となり、オーストリア軍の衛生兵として従軍するも、激戦地での死傷者の惨状を直視できず、ピストル自殺未遂を起こす。鬱病のため入れられたクラカウ(現在のポーランド)の精神病棟で病状が悪化し、コカインの過剰摂取のため自殺同然で死亡した(27歳)。ドイツ表現主義を代表する詩人と位置づけられる。トラ-クルの色彩語の独特の配剤には、若いころに洗礼を受けた象徴主義、とりわけ、ランボーの影響が見られる。トラ-クルの作品を高く評価した思想家・芸術家には、ウィトゲンシュタインのほかにハイデッガー、リルケがいる。

(※なお、トラークルの存命当時はオーストリア=ハンガリー帝国であり、ポーランドが国土を失っていた時代にあたる。トラークルが27年間の生涯の大半を過ごした地域は、今日のオーストリアの領域であるザルツブルク・ウィーン・インスブルックである。現在のポーランド領であるグローデクやクラクフに滞在したのはわずか2ヶ月間ほどであり、しかも、オーストリア兵としての従軍であった。従って、ポーランドの詩人とする一部の人<それは石原慎太郎のことである>の主張は正しくない。)


ここで、高木彬光氏が、「リルケ」の言葉としていることが思い起こされる。


「たとえ地球の滅亡が明日に迫ろうと私は今日林檎の樹の種子を植える」

    (高木彬光『ノストラダムス大予言の秘密』(日本文華社、1974年、238頁)


リルケの詩集には、この言葉は見当たらないし、もし、どこかでリルケが言った言葉だとしたら、必ず、よく知られているはずであるから、このリルケ説は否定されている。

それでは、石原氏が言う「ゲオルグ・トラ-クル」の言葉だということを裏付ける資料は存在するのであろうか。


ここで、もう一度、インターネットで情報を探してみた。そうすると、「2003年12月名言集」なるものの中に次のようにあることを見つけた。

2003/12/30(火)

明日世界が終わる
と分かっていても
私は今日
リンゴの木を植えるだろう。

ゲオルグ・トラ-クル
(20C初頭ドイツの詩人)



この掲載の根拠については名言集の作者にたずねようと試みたが、結局、返信は得られなかったので、今のところ不明である。この名言集が、今わかっている「ゲオルグ・トラ-クル説」の最も古いものとなる。

これが石原氏の言う「詩人ゲオルグ」の出典なのか、それとも、この名言集のほうが石原氏の影響を受けたものなのか?

語句の言い回しを見る限り、開高健氏のものとも、石原氏の紹介する語句とも、異なっており、別の情報の存在が見え隠れする。

インターネット検索も重ねたが、根源資料はなく、ここで、その典拠の追求は停止してしまった。

石原氏が、新聞インタビューに際して、この言葉をよく引用するにもかかわらず、実際に類似の言葉がまさしく掲載されている、コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウの「第二のチャンス」(1953年邦訳)についての言及が一切無く、石原氏自身は、その出典を、原典にあたって、調査したことがないと思われるのである。

筆者は、年代を追って、石原氏が、この言葉が誰の言葉なのかについて発言したものを並べて、確認してみることにした。併せて、過去にインターネットを賑わしていた、この言葉の作者についてのサイト情報がいかなるものであったかと、当時、インターネットをにぎわしていた情報のサイトをさぐり、「言葉の言い回し」によって、誰が発信源なのかを整理して、追求してみようと思う。

まず、次のような一覧表をごらんいただこう(2014年8月28日作成)(2014年10月17日一部修正)。

No 月日 出典 石原氏の紹介の内容(誰の言葉か 
★その他の人の紹介(誰の言葉か)
  2001年 11月  石原慎太郎:「人間」の運命(石原慎太郎・瀬戸内寂聴「人生への恋文」(世界文化社、2003年所収)  開高健がよく色紙に書いていた言葉  
2002年 1月 「東京都環境基本計画」の巻頭言(知事挨拶) 開高健の言葉。
2003年 4月30日 ★インターネット「神学のよくある言い回し」 C.V.ゲオルギウの小説「二十五時」にある言葉らしいとして紹介している(「二十五時」は誤り)。「一般にルターの作であると言われるが確証がなく、後にルターに帰せられるとされた言い方である」とされていることを初めて紹介している。キング牧師説があることも紹介。(春原禎光による)
2003年 12月28日 ★インターネット「2003年12月名言集」 ゲオルグ・トラークル(20C初頭ドイツの詩人)
(この名がインターネットで最初に紹介されている)
  (※推定だが、石原氏の言葉によった可能性が高い。)
2004年 5月14日
10月4日
5月:東京都知事・記者会見
10月:産経新聞の石原氏のエッセイ日本よ
開高健が寝ころんで書いた言葉。ゲオルグの詩として紹介。
2004年 6月23日 ★インターネット「エネルギー政策と京都議定書」 ★開高健が生前よく色紙に書いていた文言。
マルティン・ルターの言葉と言われている。
2005年 6月16日 ★インターネット「にきび・ニキビ跡・敏感肌のケア」(livedoor Blog) ★開高健が好んで色紙に書いていた、詩人ゲオルグの言葉。
2005年 8月21日 ★インターネット「絶叫機械+絶望中止」 ★寺山修司「ポケットに名言を」のゲオルグ・ゲオルギウ説のほか、ルソー、ゲオルギウス、ルターの諸説があることを紹介している。ゲオルギウの「第二のチャンス」の本を紹介(未読)。
2005年 10月4日 ★インターネット「大阪 建築家」 ★建築家:守谷昌紀「ゲオルグ・トラークルの言葉」(2005年10月4日)
(守谷氏によると、東京都のディーゼル規制キャンペーンに際して、産経新聞2004年10月4日のエッセイ「日本よ」で石原知事が「
開高健がよく引用していた詩人ゲオルグの言葉」と紹介していたことが根拠という。2014年8月28日・31日の筆者宛メールによる。)(従って、「トラークル」は確認できない。)(2014年9月2日には筆者の指摘で、「ゲオルギウ」に修正されたので、「トラークル」は消えている)
2006年 1月15日~24日 ★インターネット「ミニマル・キッチン」 C.V.ゲオルギウの小説「二十五時」にある言葉として紹介(誤りで正しくは「第二のチャンス」)している。ドイツのヘッセン教会の回状(1944年10月)が初出であることを初めて紹介している。一般にルターの言葉と言われるが確証はなく、ルターに帰せられている言葉であることも紹介している。
10 2006年 5月3日 ★インターネット「sometimes little hope」 ★開高健が好きな言葉。ルターあるいはキング牧師の言葉といわれている。
11 2006年 9月20日 ★インターネット「開高のことば」(メモ) ★守谷昌紀「夭折の詩人ゲオルグ・トラークルの言葉
(※石原氏の産経新聞記事によったものというが、2004年10月4日のエッセイには「詩人ゲオルグ」としか見えない)(2014年9月5日には、筆者の指摘により、このメモの記されたサイトは削除された)
12 2007年 1月20日 ★インターネット「原田治幸氏の体験談のまとめの言葉」 ★開高健の言葉。もとはマルティン・ルターの言葉
13 2007年 3月5日 トップインタビュー(第1回2016年オリンピック開催への熱意) ゲオルギウという詩人のとても美しい言葉。
14 2007年 6月4日 産経新聞の石原氏のエッセイ「日本よ」 どこかの居酒屋で見た開高健の色紙の言葉。
東欧の詩人ゲオルグの詩の一節
15 2007年 6月20日 ★インターネット「真実を求めて」 ★柴田昭彦の調査により、ルーマニア生まれでフランスに亡命した作家・詩人コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウが著書「第二のチャンス」(1952年原著)において、マルチン・ルターの言葉として紹介したものと判明。言葉そのものはドイツ・ヘッセン教会の回状(1944年)が初出である。ルターの言葉そのものでないことは確かだが、一般にルターに帰せられている言葉である。
   2009年 1月5日  産経新聞の石原氏のエッセイ「日本よ」
マルチン・ルッターが説き、東欧の詩人ゲオルグが歌った
 
 
   2009年 8月1日発行
(7月1日発売) 
 文藝春秋 2009年8月号
石原慎太郎:「日米安保」は破棄できる
ポーランドの詩人・ゲオルグの言葉
16 2009年 11月12日 朝日新聞の朝刊「オピニオン」欄の
知事へのインタビュー記事
「東京五輪再挑戦のわけ」
オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの言葉
(聞き手は、朝日新聞編集委員・刀祢館正明)
17 2011年 7月26日 ★鎌倉ブログ「時雨日記」鎌倉ブログ ★旅行ライター・写真家:森川孝郎
ポーランドの詩人・ゲオルグの言葉
(※森川氏は、石原氏が産経新聞に書いたエッセイによったという。2014年8月30日の筆者宛メールによる)
18 2012年 6月30日 「アジア大都市ネットワーク21」の総会での話 ポーランドの詩人、ゲオルグの詩の一節
19 2013年  2月11日   衆議院予算委員会での維新の党代表の石原氏による代表質問 ポーランドの詩人ゲオルグの言葉、マルティン・ルターの言葉として引用し、紹介 ⑦ 
  2013年  10月1日  石原慎太郎「追想40年 時代の鑿岩機として」(「正論」2013年11月号) 開高健の色紙の言葉。東欧の詩人ゲオルギウの言葉。  
20
2014年 1月7日 ★インターネットの「クール・ネット東京」の
センター長のセンターブログ「リンゴの木」
「東京都環境基本計画」の巻頭言(石原元東京都知事)
★元を辿れば
ドイツの神学者マルティン・ルターの言葉
21 2014年 8月26日(発売) 「WiLL」2014年10月号の「石原都政回想録」 開高健の色紙の文句。
ポーランドの詩人のゲオルグ・トラークルの書いた詩の一節
マルティン・ルターの文句


上の表から、石原氏が、この言葉の出典として言及している内容は、石原氏自身のものであり、他人の記述に影響を受けたものではないと推測できる。先後関係から、一見、石原氏が何かのサイトから引用したように見えても、実際は、石原氏自身の発言が引用されて、インターネットに掲載されているということにある。

石原氏の新聞記事における、誰の言葉かという表現は次のように変化を遂げている。

①開高健の言葉として紹介(2001年以降)
ゲオルグの詩として紹介(2004年
③ゲオルギウの詩として紹介(2007年)(2013年)(ただし、2007年のものは削除され、石原氏自身の手による表記かどうか確認できない)
東欧の詩人ゲオルグの詩として紹介(2007年
⑤オーストリアの詩人ゲオルク・トラ-クルの詩として紹介(2009年)(ただし、朝日新聞編集委員・刀祢館正明の書いた記事である)
ポーランドの詩人ゲオルグの詩として紹介(2009年)(2012年)
⑦ポーランドの詩人ゲオルグ・トラ-クルの詩として紹介(2014年)

*マルチン・ルターの言葉である事を紹介(2009年・2013年・2014年)



②の「ゲオルグ」の詩として紹介(2004年)したとき、すでに「ゲオルグ・トラ-クル」説(2003年)があった。これが、誰の話によるものか不明だが、おそらく、「2003年12月名言集」の作者が、石原氏の言及によって、記載したのではないかと思われる(推測)。

③の「ゲオルギウ」説については、2005~6年ごろのインターネットサイトの動きに影響された可能性があるが、すぐに石原氏自身で否定したのか消えてしまう。すでに、掲載サイトは削除され、石原氏による表記なのかどうかすら、確認することはできない

(2014年10月24日、追記)
「正論」2013年11月号の石原氏の記事「追想40年 時代の鑿岩機として」において、石原氏が「ゲオルギウの言葉」と紹介していることを新たに確認できた。ただし、内容から考えると、石原氏自身の記載なのかどうか不明である。内容から判断すれば、編集段階で修正された可能性も考えられる。



④は「ゲオルグ・トラ-クル」説をより明確に肯定した結果として書かれた表記のようである。だが、なぜ「東欧の詩人」として表記し、「オーストリアの詩人」としないのか、理解に苦しむところである。

⑤でようやく「オーストリアの詩人」となった。この当時、すでに筆者の調査で、「C.V.ゲオルギウの言葉」と判明したにもかかわらずである。筆者のような素人の調査は信用できないということなのだろう(実際、筆者は、2007年以降、石原知事あてにC.V.ゲオルギウの言葉であることを知らせたことがあるが、「都庁あて」および「産経新聞出版あて」であったので、結果として、なしのつぶてであった。自分の発言に関連する重要事項であるにも関わらず、関係者が知らせずににぎりつぶしたのか、あるいは知事に届いても読まれなかったかのどちらかであろう。)(もっとも、『石原慎太郎の東京大改革』(青春出版社、2000年)の169頁には、当時の石原知事あてに「手紙は一日約二万通も届く」とあり、処理のミスによって、友人からの私信が届くのに2ヶ月もかかったり、医療ミスで亡くなった人の遺族からの再調査を求める手紙が届かなかったりしたという。知事あての手紙の大半は都の関係部局によって処理される仕組みだが、私の出した石原知事あてのゲオルグに関する手紙が誰によって、どのように処理されたのかは定かでない。それにしても、一日二万通とはすさまじい。本当なのか、と疑ってしまうが、さて?)

⑥さて、「オーストリアの詩人」であったはずが、いつのまにか、不思議なことに、「ポーランドの詩人」に変わってしまった。定見も何も感じられない。

なぜ、そのように変えたのかを考えてみたとき、関連するサイトがあるではありませんか。次のサイトです。鎌倉ブログ

鎌倉ブログ「時雨日記」鎌倉の四季と観光情報(2011/07/26)

「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」
ポーランドの詩人・ゲオルグの言葉。


これは、鎌倉の観光スポットのガイドサイト「鎌倉紀行」管理人で、鎌倉・江ノ島を中心に活動する旅行ライター・写真家の森川孝郎のブログです。

森川氏にメールで問い合わせると、この「ポーランドの詩人・ゲオルグ」というのは、石原氏が産経新聞に連載していたエッセイに基づいて書いたということらしいのですが、該当のエッセイには「東欧の詩人ゲオルグ」としかありません。森川氏は独自に「ポーランドの詩人ゲオルグ」と書いたのでないことは確かなので、情報源は石原氏にほかならないという結果となる(2014年8月30日のメールによる)。

森川氏に問い合わせたあとになって、文藝春秋(2009年8月号)の石原慎太郎「『日米安保』は破棄できる」の中で、136頁に「ポーランドの詩人・ゲオルグ」と書いていることがわかったので、石原氏のほうが先行していることがわかり、森川氏が引用にすぎないことが裏付けられた(2014年9月2日に確認)。

石原氏にとっては、オーストリアも、ポーランドも、東欧であって同じ場所だというわけなのだろう。(ちなみに、かつては「東欧」所属であったが、冷戦終了後の区分では、両方とも「中欧」所属になるようです。)

⑦については、曖昧さはなく、「オーストリアの詩人ゲオルグ・トラ-クル」を、「ポーランドの詩人ゲオルグ・トラ-クル」に変えてしまっていることが明確になる。

ゲオルク・トラ-クルは、その生涯の大部分(27年間)をオーストリアで過ごしている(Wikipedia)。ポーランドと接点を持つのは、27歳にガリツィア(今日のウクライナとポーランドの一部)で従軍し、鬱病によりクラクフ(今日のポーランド)の精神病棟に入れられて亡くなる時だけである。それも、9月~11月3日まで、たかだか2ヶ月に過ぎない。しかも、当時はオーストリア=ハンガリー帝国であり、ポーランドは独立していないのである。ポーランドが独立するのは、1918年のことである。ゲオルク・トラ-クルは、生まれてから亡くなるまでの27年間の大半をオーストリアの地域で暮らしている。それを、自殺する最後の27歳のときに2ヶ月だけ滞在した場所が現在のポーランドの土地であるという理由で「ポーランドの詩人」に変えてしまうなどというのは、間違いであろう。

ルターの言葉であることについては、2009年1月5日の「日本よ」の記事「経済性なる欲望からの解放」の中で述べている。また、2013年2月の衆議院予算委員会でも石原氏が「ルターの言葉」として紹介している。しかし、日本では、すでに、1953年にゲオルギウの本が出て、ルターの言葉であると知られていたはずなのだから、もっと早くふれるべきであった。
   たとえ明日世界が滅びようとも・・・個別記事アーカイブ 2013年2月13日・14日投稿記事


先後関係はともかく、今一度、上の表を、限定的にわかりやすく抜粋したら、次の表のようになります。

No 月日 出典 石原氏の紹介の内容(誰の言葉か) 
★その他の人の紹介(誰の言葉か)
  2001年 11月  石原慎太郎:「人間」の運命(石原慎太郎・瀬戸内寂聴「人生への恋文」(世界文化社、2003年所収) 開高健がよく色紙に書いていた言葉   
2002年 1月 「東京都環境基本計画」の巻頭言(知事挨拶) 開高健の言葉。
2003年 12月28日 ★インターネット「2003年12月名言集」 ★「ゲオルグ・トラークル(20C初頭ドイツの詩人)」
(この名がインターネットで最初に紹介されている)
 (※推定だが、石原氏の言葉によった可能性が高い。)
2004年 5月14日
10月4日
5月:東京都知事・記者会見
10月:産経新聞の石原氏のエッセイ日本よ
開高健の言葉。ゲオルグの詩
13 2007年 3月5日 トップインタビュー(第1回2016年オリンピック開催への熱意) ゲオルギウという詩人のとても美しい言葉。
14 2007年 6月4日 産経新聞の石原氏のエッセイ「日本よ」 開高健の色紙の言葉。
東欧の詩人ゲオルグの詩の一節
  2009年 1月5日  産経新聞の石原氏のエッセイ「日本よ」
マルチン・ルッターが説き、東欧の詩人ゲオルグが歌った

 
  2009年 8月1日発行
(7月1日発売) 
 文藝春秋 2009年8月号
石原慎太郎:「日米安保」は破棄できる
ポーランドの詩人・ゲオルグの言葉
16 2009年 11月12日 朝日新聞の朝刊「オピニオン」欄の
知事へのインタビュー記事
「東京五輪再挑戦のわけ」
オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの言葉
(聞き手は、朝日新聞編集委員・刀祢館正明)
17 2011年 7月26日 ★鎌倉ブログ「時雨日記」 ★旅行ライター・写真家:森川孝郎
ポーランドの詩人・ゲオルグの言葉 
(※森川氏は、石原氏が産経新聞に書いたエッセイによったという。2014年8月30日の筆者宛メールによる)
18 2012年 6月30日 「アジア大都市ネットワーク21」の総会での話 ポーランドの詩人、ゲオルグの詩の一節
19  2013年  2月11日 衆議院予算委員会での維新の党代表の石原氏による代表質問 ポーランドの詩人ゲオルグの言葉、マルティン・ルターの言葉として引用し、紹介 ⑦ 
  2013年  10月1日  「正論」2013年11月号の「追想40年 時代の鑿岩機として」 友人の故開高健が居酒屋の色紙に書いていた言葉。
東欧の詩人ゲオルギウの言葉。
③ 
20 2014年 1月7日 ★インターネットの「クール・ネット東京」の
センター長のセンターブログ「リンゴの木」
「東京都環境基本計画」の巻頭言(石原元東京都知事)
★元を辿ればドイツの神学者
マルティン・ルターの言葉
21 2014年 8月26日(発売) 「WiLL」2014年10月号の「石原都政回想録」 開高健の色紙の文句。
ポーランドの詩人のゲオルグ・トラークルの書いた詩の一節マルティン・ルターの文句


石原氏は、助言を受けて、2009年以降、ルターの言葉であることも言うようになりました。遅きに失したという感じです。石原氏は、ここらで、もう、曖昧な「詩人ゲオルグ」のことは書くべきではないと思う。長年にわたって、ずっと「ゲオルグ」と書いてきたので、今さら「ゲオルギウ」と訂正することはプライドが許さないかも知れないが、「過ちては改むるに憚ることなかれ」ではないでしょうか。


この言葉がルターに帰せられている言葉であることについては、以前から、いくつも知られている。

たとえば、柳田邦男『ガン50人の勇気』(昭和56年、文藝春秋)(1989年、文春文庫)には「私はリンゴの樹を植える-原崎百子」があり、昭和53年6月27日夜に書いた原稿の中で、百子さんは「それでもやはり私はリンゴの樹を植える」と書き、百子さんはルッターの言葉が若い頃から好きだった、とある。8月10日、百子さんは43歳で肺がんで亡くなったが、ルッターの「たとえ世界が明日終りであっても、私はリンゴの樹を植える」の言葉を支えにして、生きたのであった。

柳田邦男『新・がん50人の勇気』(2009年、文藝春秋)(2012年、文春文庫)の「意味のある偶然 武満徹」には原崎さんのことや、精神科医・西川喜作氏のことなどが書かれている。1990年代半ばに、小金井市の病院ホスピスではルッターの言葉が50少し過ぎのがんの男性M氏を支えたという。次のような言葉がある。

「M氏は親交のあった作家・開高健氏が原稿用紙にペンで書いた言葉を額に入れて壁に飾り、最後まで心を気高く維持して生き抜く支えにしていた。その言葉は、まさにルッターの言葉だったが、ちょっとだけ開高氏らしい言葉がつけ足されていた。
<たとえ地球が明日滅びるとも貴方は今日林檎の木を植えます。ほんとかね・・・・・・>と。」

「開高氏がどんな機会にルッターの言葉を知ったのかは、わからない。もしかすると、M氏は精神性を深く追い求める若い頃からの生き方の中で、ルッターの言葉に出逢っていて、人生の持ち時間がわずかしかない事態に直面した時、その言葉の実践者となったことを開高氏に語ったのかもしれない。そして、M氏がユーモア精神の持ち主でもあることを知っていた開高氏が、あえてルッターの言葉の中の「私は」を「貴方は」に置き替えて原稿用紙にリフレインし、ちょっぴり「ほんとかね・・・・・・」とつけ加えることで、息苦しくならないような支え方をしたのかもしれない。」


この彼(上記のM氏)のことは、山崎章郎『僕のホスピス1200日 自分らしく生きるということ』(海竜社、1995年)(文春文庫、1999年)の「第6章 僕はあなたの生き方にわくわくした」に紹介されている。額入りの開高氏の原稿用紙は、ホスピスの面談室の壁に彼(M氏)の思い出としてかけてあるという。それは作家の開高健氏が彼のために書いた自筆の短い文章「たとえ地球が明日滅びるとも貴方は今日林檎の木を植えます。ほんとかね・・・・・・」とあった。



西川喜作『輝やけ我が命の日々よ-ガンを宣告された精神科医の1000日』(新潮社、1982年)の冒頭に柳田邦男「西川先生のこと -序にかえて」(昭和57年初秋)が掲載されている。西川氏が昭和54年10月に入院した日、医長室の西川氏の机上に「文藝春秋」の昭和54年11月号が置いてあった。その夜、柳田邦男氏の書いた「ガン 50人の勇気」を一気に読み終え、柳田氏への手紙を書いたという。柳田氏の書いた冒頭の「西川先生のこと」には、西川氏からの手紙が次のように引用されていた。(西川氏は昭和54年3月に48歳で発病し、昭和56年10月に国立千葉病院で亡くなった。)

入院した夜、一気に私は貴殿の書かれた文章を読ませて頂いたわけです。・・・・・・『たとえ世界が終りであっても、私はリンゴの樹を植える』という
ゲオルギウの文章は、ガンが宿ってガンとわかった時以来、私の気持に似通ったものがあり、深く胸をうたれました。



童門冬二氏は、『男の論語 下』(PHP研究所、2000年)の中で、この言葉を「人生信条」とし、講演や書いたものの中で必ず紹介していると述べ、それを、ルーマニアの作家コンスタンチン・ゲオルギュの言葉として紹介している。

「たとえ世界の終末が明日であろうとも、わたしは今日リンゴの木を植える」


童門冬二氏の『人生を選び直した男たち』(PHP研究所、1988年)(PHP文庫、2000年)の「あとがき」の末尾には次のようにあるので、以前の著書にも、この言葉が「座右銘」として紹介されてきていることが推察できる。(ここでは、「・・・とも」が、「・・・と」になっている。)

 たとえ 世界の終末が明日であろうと 
   わたしは今日リンゴの木を植える
                          コンスタンチン・ゲオルギュ



ルーツをたどれば、この言葉は、長く、多くの人々の人生の支えになってきたことがわかる。それだけに、その出典も、大事に正しく伝えてほしいと思うのであるが、いかがであろうか。


ここで、この言葉の歴史を簡単にまとめておこう。一次資料に当たればわかることが、曖昧にぼかされてきた歴史が浮かび上がる。

   なお、具体的な言葉の言い回しの比較については、「たとえ世界の終末が」の言葉を参照されたい。

1944年 ドイツ・ヘッセン教会の回状世界で初めてこの言葉が現れる(ルターの言葉と「偽装して」記載)
1952年 C.V.ゲオルギウが「第二のチャンス」でルターの言葉として紹介
1953年 「第二のチャンス」の邦訳出る。この言葉(初版に「明白」 再版で「明日」と訂正)が日本でも知られるようになる
1966年 梶山健編「世界名言事典」でルーマニアの作家C.V.ゲオルギウ「二十五時」(まま)の中の作「間違って」紹介
1968年 寺山修司「青春の名言 心さびしい日のために」でゲオルグ・ゲオルギウ」の作「偽装して」紹介
1971年 寺山修司の映画「書を捨てよ 町へ出よう」で「ゲオルギウ」の作と紹介(フルネームは示されていない)
1970~80年代 開高健(1989年没)が生前、この言葉のアレンジしたものを好み、人の求めに応じて、色紙にさかんに書いた
1974年 高木彬光「ノストラダムス大予言の秘密」で「リルケ」の作「間違って」紹介
1977年 寺山修司「ポケットに名言を」でゲオルグ・ゲオルギウ」の作「偽装して」紹介
1979年 「文藝春秋」11月号で、「ガン 50人の勇気」の「私はリンゴの樹を植える」でルターが語ったと伝えられる言葉として紹介
1981年 柳田邦男「ガン 50人の勇気」(単行本)で、ルターの語ったと伝えられる言葉として紹介(「ゲオルギウ」にはふれていない)
1982年 柳田邦男「西川先生のこと」(西川喜作『輝やけ我が命の日々よ』所収)の中の西川医師の手紙の中で「ゲオルギウの文章」と紹介
1988年 童門冬二「人生を選び直した男たち」で、コンスタンチン・ゲオルギュ」の言葉を座右銘として紹介
1997年 梶山健「世界名言大辞典」でルーマニアの作家C.V.ゲオルギウ「第二のチャンス」の中の作「正しく」紹介(収録書名を初めて訂正した)
1999年 ヘレン・エクスレイ「希望のことば」でルターの言葉として紹介される
2000年 童門冬二「男の論語 下」でルーマニアの作家「コンスタンチン・ゲオルギュ」の言葉として、自らの人生信条として紹介

2001年 石原慎太郎、<「人間」の運命>と題した往復随筆(『人生への恋文』所収)で、「開高健がよく色紙に書いていた言葉」として紹介
2002年 荻野目慶子「女優の夜」でルーマニアの作家「コンスタン・ゲオルギウ」の作と紹介(仏語読み「コンスタンタン・ゲオルギウ」のことだろう)
2003年 テレビドラマ「僕の生きる道」で紹介されて有名になる
2004年 石原慎太郎、産経新聞連載エッセイ「日本よ」で、「詩人ゲオルグ」の言葉と紹介する
2007年 石原慎太郎、産経新聞連載エッセイ「日本よ」で、「東欧の詩人ゲオルグの詩」と紹介する
2007年 徳善良和「マルチン・ルター 生涯と信仰」において「ルターの言葉ではないがルターの信仰をよく表す言葉として位置づける
2009年 石原慎太郎、産経新聞連載エッセイ「日本よ」で、「マルチン・ルッターが説き、東欧の詩人ゲオルグが歌った」詩として紹介する
2009年 映画「感染列島」で紹介されて有名になる
2009年 石原慎太郎、「文藝春秋」8月号で、「ポーランドの詩人ゲオルグの言葉」と紹介
2009年 石原慎太郎、朝日新聞11月インタビュー記事で、オーストリアの詩人ゲオルク・トラ-クルの詩と紹介(編集委員・刀祢館正明による)
2014年 石原慎太郎、雑誌「WiLL」10月号で、ポーランドの詩人ゲオルグ・トラ-クルの詩で、もとはマルティン・ルターの言葉と紹介する


(2014年10月16日、追加)
 石原知事が、この言葉を「ゲオルグというオランダの詩人の言葉」と発言しているという、東京都庁のウェブサイト:「石原知事と議論する会」の記事(平成20年5月1日更新)を見つけた。通常、石原氏の書いたものには「ポーランドの詩人ゲオルグ」とあるので、この記事は平成19年(2007年)9月6日の都庁大会議場での発言内容の要約を行った「生活文化スポーツ局広報公聴部」の要約の記録のミスであろうと思われる。「ポーランド→ホラント=オランダ」なのであろうか?オランダであれ、ポーランドであれ、ゲオルグ・トラークルのことならば、オーストリアが妥当である。また、「ゲオルグ・トラークルの言葉」ということ自体が間違っているので、救いようがない。




3.ゲオルク・トラークルはこの詩の作者なのか?

まだ、もう一つ、懸念材料がありました。

それは、ゲオルク・トラークルの詩集や全集に、この詩があるのかどうかという点でした。

しかし、今までの調査では、このマルティン・ルターが言ったとされる言葉は、ドイツのヘッセン教会の回状(1944年10月)が「初出」とされていますから、オーストリアの詩人リルケ(1875~1926)がそうであったように、オーストリアの詩人ゲオルク・トラークル(1887~1914)の生存年代は、トラークルを絶賛したリルケの生存年代にすっぽりと含まれており、1944年に初出の言葉が、1914年以前に存在することは考えられないということになります。

もしもトラークルの言葉の中に、この詩が含まれていることが明らかとなったならば、それこそ、大きな話題となってもよさそうな内容となる。なのに、そのような話題は、どこにも見当たらない。私はごく最近までトラークルを知らなかったが、その詩は広く読まれており、熱心な読者も多いのであるから、そのような注目すべき詩が存在すれば、リルケの場合と同様に、広く知られているはずである。

ゲオルギウの著書「二十五時」の中に、この詩が書かれているかどうかの調査のときもそうであったが、実際に、確かめてみなければ、どのような結果になるかはわからない。実際にゲオルギウの著書「第二のチャンス」を調べたときは、まさに、第二のチャンスであったと、洒落でも何でも無く、思い起こす。実際に、その巻末に、該当する詩がマルチン・ルターの言葉として載せられていることを発見したとき(2007年)は、感無量であった。


(2014年8月30日) 全詩を納めた『トラークル全集』(1987年)に、リンゴの木を植える、云々の言葉がないことを確認!

 石原氏の「ゲオルグ・トラークルの詩の一節」が誤りであることを証明するには、その全集・詩集を調査するしかない。

 そこで、8月30日、トラークルの全詩・散文・評論・戯曲・書簡を遺稿も含めて網羅した『トラークル全集』(青土社、1987年)の全頁の調査を行った。先に出ている『トラークル全詩集』(青土社、1983年)にある作品はすべて全集のほうに転載されているので、全集を調べれば充分である。

 1000頁を越す『全集』の全頁を完全に読んだわけではないが、「林檎」という言葉は全頁の紙面から拾い出し、見逃さないように努めた。

 結果を申し上げると、「林檎の木を植える」という内容の詩・文章は一切、見つからないということが判明した。

 調べ上げたと言うことを証明するために、「林檎」というキーワードの『トラークル全集』(青土社、1987年)における掲載箇所(9ヶ所)とその文言を掲示しておこう。

(1)70頁・・・甘く 林檎が香る。喜びが輝くのは それほど遠いことではない。

(2)85頁・・・林檎の枝々からは、聖なる響きが降りそそぐ。

(3)123頁・・・林檎の木が 裸のまま 静かに沈んでいく 黒く腐った その果実の色どりのなかへと。

(4)152頁・・・戸棚で 林檎が香る。祖母が 蝋燭をともす。

(5)180頁・・・そして お前は 長い間 後ろを振り返っている。銀色の歩みがねじれた林檎の木の陰に。

(6)189頁・・・庭で 林檎が 鈍く 柔らかく 落ちる。

(7)233頁・・・湿った大気のなかで 咲きほころぶ林檎の枝が揺れ、

(8)665頁・・・林檎の木々の下を、女たちの 嘆きは 銀色に花咲いて。

(9)669頁・・・林檎の木々の下を、女たちの 嘆きは 銀色に花咲いて。


 以上のとおり、『トラークル全集』には、「林檎の木を植える」という句は存在しないことがわかる(疑いの向きは、全集を全頁、確認いただきたい)。

 つまり、ここに、石原氏のいう「詩人ゲオルグ・トラークルの詩の一節」という説明は完全に誤りであることが裏付けされたことになる。


(2014年9月17日、追加)
 念のため、上智大学の中村朝子氏(『トラークル全集』の訳者)に、トラークルの言葉に「林檎の木を植える」という句がないということを確認していただいたので、その返信メール(9月16日付け)をご紹介しておきたい。

「上智大学広報グループから、頂いたメール拝読いたしました。確かに、ご指摘の通り、その詩句はトラークルの詩にはありません。おっしゃるようにルターの言葉として流布しているように記憶しております。そしてまたトラークルを「ポーランドの詩人」とすることも間違っております。彼はハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)のザルツブルクに、シュヴァーベン・ハンガリー系の父とチェコ・ズデーデン系の母のもとに生まれており、その出自を「ポーランド」とは関係づけることはできません。もしかしたら、第一次大戦中に、薬剤師試補として召集され、今のポーランドのクラクフの病院で死去したことを石原氏は誤解しているのかもしれません。『トラークル全集』をお手に取っていただいたこと、大変うれしく存じます。中村朝子」



(2014年8月31日)

 さて、最後に、石原氏の「詩人ゲオルグ」という説はどのようにして生まれたのだろうか?

 石原氏は「よく調べると、実はポーランドの詩人のゲオルグ・トラークルの書いた詩の一節」としている(WiLL 2014.10)。

 してみると、開高健の言葉を居酒屋で目にして感動したとき、後に、いろいろな資料で調べたに違いない。

 石原氏がいつ、色紙を目にしたかは定かでないが、2002年1月の「東京都環境基本計画」の巻頭言には出てくるので、当然、それ以前である。

 石原慎太郎・瀬戸内寂聴『人生への恋文 往復書簡』(世界文化社、2003年)(文春文庫、2008年)の<「人間」の運命>と題した石原氏の書簡
2001年11月に書かれたもので、次の通りである(後の「日本よ」での記載と比較すると微妙に違い、初期の考え方がわかり、興味深い)。


 この今になって私は、死んだ同世代の作家の開高健(かいこうたけし)がよく色紙に書いていた言葉を思い出すのです。彼自身の言葉か、それとも彼が好んだ誰か先達(せんだつ)の言葉だったのでしょうか。この前ある小料理屋でたまたま目にして、もの凄(すご)く鮮烈な印象を受けたものでした。彼はそこにも書いていました。
「明日世界が滅びるとも、
今日、君はリンゴの木を植える」
、と。
これは今になればなるほど美しい言葉だ、いや、美しい志だと思う。
多分、地球は抗(こう)しがたく、七、八十年後にはきっと滅びるでしょう。しかし私たちはそれぞれ誰かのために、私は私の孫の持つだろう子供や孫たちのために、たとえ一本だろうと、リンゴの木を植えたいと思っています。



 石原氏が紹介する開高健の色紙の言葉の内容は、公表毎に、いつも異なるのだが、この2001年当時の内容は、比較的、開高氏自身のものに近い(ただし、「滅びるとしても」という言い回しを勝手に「滅びるとも」に変えている)。後になるほど、言い回しのアレンジの仕方がエスカレートするのである(だんだん、開高氏の言い回しの原型をとどめなくなってゆく)。


 石原氏がいつ、開高健の言葉を「ゲオルグの詩」と認識したのかも不明だが、ディーゼル規制キャンペーンの始まったときらしい。


 そうすると、石原氏が1999年4月に東京都知事に当選し、2000年にディーゼル規制のための条例を制定し、条例が施行されたのが2003年10月からであるから、キャンペーンは当然、2003年から行われたことだろう。2003年12月のサイトに「ゲオルグ・トラークル」とあることと符合する。ただし、2004年には、石原氏自身の書いた文には「詩人ゲオルグ」としか出てこない。

 2004年の時点で、石原氏の認識では、この詩の作者は、「ゲオルグ」だった可能性が高い。

 この詩を「ゲオルグ」のものだと公表している文献は、寺山修司『ポケットに名言を』の「ゲオルグ・ゲオルギウ」説しかない。

 従って、やはり、「よく調べてみたら、ゲオルグの詩の一節だった」という表現にとどめられたのだろう。


 2007年の段階では、「東欧の詩人ゲオルグ」という認識であった(広義概念では東欧にルーマニア・オーストリア・ポーランドを含む)。

 2009年11月12日になって初めて、朝日新聞紙上で、「オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの詩」と紹介された。ただし、この記事は、朝日新聞の編集委員の刀祢館正明が聞き手として石原氏へインタビューを行い、刀祢館氏がまとめたものである。石原氏自身が「オーストリアの詩人ゲオルク・トラ-クル」と言ったのかどうかは不明である。ほんの少し前の時期、文藝春秋2009年8月号に石原氏自身が「ポーランドの詩人ゲオルグ」と書いているので、それと矛盾していることから、石原氏自身が「詩人ゲオルグ」と言っただけなのに、刀祢館氏が勝手に解釈して、「オーストリアの詩人ゲオルク・トラ-クル」と記事に書いた可能性もありえる。

 従って、「ゲオルグ・トラークルに確定させた」理由は、よくわからないとしか言いようがない。


 単なる石原氏の勘違いなのか?

     ・・・・・
数々の誤報で有名な朝日新聞への掲載なので、聞き手の編集委員が誤って「トラークル」に同定した可能性もある。

     (すなわち、石原氏は、インタビューで、「東欧の詩人ゲオルグ」としか言っていないのに、「ゲオルク・トラークル」と勘違いしたとか?)


1958年に、
石原慎太郎(1932~)は、寺山修司(1935~83)開高健(1930~89)
、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、羽仁進、山田正弘、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人と一緒に社会運動団体「若い日本の会」を結成して、1960年の安保闘争で、安保改正反対を表明している。従って、寺山修司は石原慎太郎・開高健と共に安保闘争に身を投じた仲間なのであった。

それにもかかわらず、この詩の作者を、寺山が「確信犯で、革命家ゲオルグ・ゲオルギウ」に捏造したことを、石原氏が知っているのかどうかさえ定かではない。この詩を小説で紹介したのが「詩人・作家のコンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウ」であることは、「ちょっと調べればわかるようなこと」であるにもかかわらず、石原氏が、どれだけ真剣に、この詩の作者のことを調べたのかどうかが、皆目わからないのである。人からの情報提供も大量にあるであろうに、どうして、この詩の真の作者や紹介者のことを探ろうとしないのかがわからないのである(「ルター」の言葉らしいということについては、2009年頃から紹介しているが)。

インターネット情報はたくさんある。また、「ゲオルグではなく、C.V.ゲオルギウである」ということは、それこそ多くの人から聞かされることも多いはずである。それにもかかわらず、「C.V.ゲオルギウ説」を受け入れることなく、徹底して、「東欧の詩人ゲオルグ」「ポーランドの詩人ゲオルグ」「ポーランドの詩人ゲオルグ・トラークル」と我が道を行くように、一貫して、堂々と、しかも国会のような公の場で、そしてはっきりと証拠が残る新聞記事や著書の中で、訂正することなく、そう述べ続けている理由が、どうも腑に落ちないのである。

考えられることは3つぐらいだろう。すなわち「①聞く耳を持たない(確信犯で捏造し、虚偽情報を広めている)。②間違えたことはわかっているが、プライドがあるので、いまさら訂正することはできない(間違いでも、そのまま貫き通すつもり)。③耄碌している(正しい情報を突き止めることができない)。」となる。私は①ではないかという考えが脳裏に浮かんだ時期もあったが、やはり、②か③ではないかと思うようになっている。石原氏は、捏造した寺山修司のことは眼中になく、ただ、この詩は「詩人ゲオルグ」のものだという幻想にとらわれて、真実が見えなくなっているように見受けられるのである。「ポーランドの詩人ゲオルグ(・トラークル)の詩」であるという主張は、結果としてだけ見れば、寺山と同じ捏造に等しいものになってしまっている。残念なことである。しかも、有名人であるが故に、悪影響も大きい


 
今日でも、寺山修司は、『ポケットに名言を』で、この言葉を革命家「ゲオルグ・ゲオルギウ」のものと記して、読者をだまし続けている。

 石原慎太郎氏は、この言葉を「東欧の詩人ゲオルグ」「ポーランドの詩人ゲオルグ(・トラークル)」のものと記して、間違った情報を発信し続けている。


 
(筆者は、状況証拠から考えられる推論を述べているだけであって、寺山氏や石原氏を中傷する意図は全くない。誤解のないようにお願いする。言論の自由があり、名言の作者名を創作することもひとつの著作のあり方であって、読者が創作と承知していればよいのである。吉田清治の本は「小説(フィクション)」と承知していればよいのであって、「事実(ノンフィクション)」として扱うことが間違っているのである。もちろん、「確信犯でだまそうとする相手」には、それなりの対処方法が必要であることは言うまでもない。寺山氏と石原氏の言葉には「眉にツバを付けて」聞くことが適切であろう。


 
石原慎太郎の著作から、詩の作者の表現の変遷が分かるように並べてみよう。朝日新聞のインタビュー記事、最新の「WiLL2014年10月号」の記事も再掲しておくので、読み比べていただきたい。なお、石原氏が「ルターの言葉」とも紹介するようになるのは、下記のように、2009年1月からである。年代を経る毎に、詩の内容は開高氏の表現からかけ離れ、「ゲオルグ」の紹介が間違いを深めてゆく様がありありとわかるであろう。「ゲオルグ」を知らなかった2001年11月当時の瀬戸内寂聴への往復随筆の内容が最も間違いが少ないのは皮肉なことである。

(2014年10月24日、追記)
石原氏は2004年以降、「詩人ゲオルグ」と一貫して間違って紹介しているものだとばかり思っていたが、「正論」2013年11月号(10月1日発売)の石原慎太郎「追想40年 時代の鑿岩機(さくがんき)として」の中で、下のように紹介していることに気がついた。「ゲオルグ」で一貫しているという立場から考えれば、「詩人ゲオルギウの言葉」とあるのは、正論編集部による修正が加えてある可能性もあるが、実際のところは不明である。


 
友人の故開高健が居酒屋の色紙にこんな言葉を書いていた。
「明日世界が滅びるとしても、今日、あなたはリンゴの木を植える」
 東欧の詩人ゲオルギウの言葉だったが、これは私たちの愛する子孫に対するささやかな責任の履行ではないか。



2001.11(石原慎太郎「人間」の運命)

 (石原慎太郎・瀬戸内寂聴『人生への恋文 往復随筆』世界文化社、2003年;文春文庫、2008年、74~5頁)

   ※文中の開高健の言葉は、正確には「明日
世界が 滅びるとしても 今日、君は リンゴの木を植える」である。

 


「日本よ」(産経新聞 2004.10.4)     「日本よ」(産経新聞 2007.6.4)         「日本よ」(産経新聞 2009.1.5)
    


2004.10.4(「日本よ 、再び」124頁)   2007.6.4(「平和の毒、日本よ」69頁)     2009.1.5(「平和の毒、日本よ」165頁)
            



2009.8(「文藝春秋」) 石原慎太郎「「日米安保」は破棄できる」




2009.11.12 朝日新聞オピニオン欄のインタビュー記事




2013.11(「正論」) 石原慎太郎「追想40年 時代の鑿岩機として」




2014.10(「WlLL」) 石原慎太郎「NYで遭遇した9・11」





4.アシジの聖フランチェスコのエピソードについて

ここで採り上げるのが適切かどうかはともかくとして、疑わしいもののオンパレードである中の一つのエピソードとして採り上げてみたい。

M.エンデ、E.エプラー、H.テヒル著、丘沢静也訳『オリーブの森で語りあう ファンタジー・文化・政治』(岩波書店、1984年)の238頁に次のようなくだりがあるのです。エプラーが、「ぼくたちの持ち時間がどれぐらいあるか」が気になって仕方がないと吐露し、残された時間に、ぼくらは何をすることができるのか?、という問いかけに対して、エンデが次のように答える。



 エンデ ぼくとしては、小さなエピソードをひとつ紹介することしかできない。ある日、聖フランチェスコは庭にでて、ニンジンの種をまいていた。そこへ旅人が通りかかって、「かりに、来週にも世界が滅び、そのニンジンを食べることもできなくなるとします。そのことをご存じだとしたら、聖フランチェスコ様、なにをなさいますか?」聖フランチェスコはしばらく考えてから、こういった。「このまま種をまきつづけるさ」。

このエンデの言葉に続いて、エプラ-が次のように言っている(240~1頁)。

 エプラー マルティン・ルターが、これから植えようとするリンゴの木のことを話すとき、おそらく彼は聖フランチェスコから学んでいたわけなんだろうね。ぼくじしんルター派の人間だから、そういう態度をまったく知らないわけじゃない。「持ち時間はあるのだろうか」とたずねられたとき、ぼくはしばしば「わからない」とこたえる。わかっているのは、いま自分がなにをしなければならないか、ということだけだ。


 つまり、アシジの聖フランチェスコが、ニンジンの種を播いていて「来週世界がほろびるとも、今日私はニンジンの種をまく」と言ったというのである。

 次のサイトには、このエピソードをめぐる話題が、リンゴの木のエピソードの謎(筆者のサイトも参照している)とからめて、採り上げられているのである。

    明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」の来た道-安渓遊地


 このサイトでは、さまざまな伝承を書き留めた史料を読み解きながら実像に迫っているジュリアン=グリーンの「アシジの聖フランチェスコ」(人文書院)を読んだが、その中には「ニンジンのエピソード」はなかったと述べている。

 「そして、その生活スタイルを知ったとき、基本的にほどこして生きていた彼やその「小さな兄弟」たちが自分でニンジンを育てそうもない、ということが実感されてしまったのです」と安渓氏は述べている。

 そして「エンデが何にもとづいてあのようにいったのか、リンゴの木を植える話は、はたしてルターのオリジナルなのか、といった疑問に逢着してしまいました」とも述べている。

 もっともな疑問であり、結局のところ、「リンゴの木の話」はルターが言った確証はなく、1944年10月に初めて世に出たエピソードである以上、ルター自身の言葉では無いことが証明されてしまっています。

 したがって、ルターが「リンゴの木の話」を言っていないのならば、「ルターが聖フランチェスコから学んだ」ということ自体が成立しないわけである。


 「モモ 時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」(岩波書店)の作者(1973年)であるドイツ人のミヒャエル・エンデ(1929~95)は、現代ドイツを代表する物語作家であり、アシジの聖フランチェスコのエピソードも、おそらく、ルターの「リンゴの木の物語」にもとづいて、創作された物語なのではないだろうか、と思われるのである。
 

(Wikipediaより)アッシジのフランチェスコ

アッシジのフランチェスコFrancesco d'Assisiラテン語Franciscus Assisiensis、本名 ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Pietro di Bernardone1182年 7月5日 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた[1]中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会聖公会で崇敬される。また、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっている[2]