真実を求めて



「この秋は〔も〕 雨〔水〕か嵐か知らねども 今日(けふ)のつとめに 田草取るなり」の道歌のルーツ

                                                              2014年11月8日、新規作成(柴田昭彦)
                                                        2014年11月9日、道歌の出典頁を掲載
                                                        2015年1月20日、追加


 この歌のルーツは、横山丸三(コトバンク)(よこやま・まるみつ)(1780~1854)の「淘詠集」の中の道歌の一つである(真実を求めて参照)。

 横山丸三は、春亀斎と号し、淘宮術(Wikipedia)(開運の術)の創始者であり、その道歌を収めた「淘詠集」は淘宮術の経典の一つに位置づけられる。

 ところが、新渡戸稲造の「世渡りの道」(1912年)において、何らの根拠もなく、二宮尊徳(1787~1856)の歌として紹介されてしまう。

 二宮尊徳の道歌を収録している信頼すべき文献には、この道歌は、どこにも見当たらないのである。横山丸三の道歌なので当然だろう。

 ただし、横山丸三の道歌では一貫して「水か」となっているのに対して、伝二宮翁の道歌としての紹介ではすべて「雨か」に変えられている。

 横山丸三の道歌で一貫して「つとめに」とあるものが、伝二宮翁の道歌の場合、新渡戸の影響なのか「つとめの」と「つとめに」が混在している。

 また、丸三の道歌は、幕末の淘宮術への弾圧のため版本でなく、秘伝として写本で伝えたため誤写も生じ、「この秋は」と「この秋も」が併存する。

 丸三の遺墨(下図参照)には「此あきも」とあり、多くの文献に「この秋は」とあるのは、その誤写のひとつと考えられるので訂正すべきだろう。

 この道歌は横山丸三の詠んだものといえるが、それにもかかわらず、今日、多くの人々が二宮尊徳の道歌と誤解したままになっている。

 「横山丸三の道歌」とか、「詠み人知らず」とかするよりも、「二宮尊徳の道歌」とするほうが紹介しやすいから、偽って利用されたのだろう。

 この道歌には、二宮尊徳と交流のあった小谷三志(1766~1841)の詠んだものという一説もあるようだが、三志の道歌にはなく、誤説だろう。

 安井一守講述「淘詠集講義 下」(昭和5年)(下記資料参照)には、この歌が古人の詠んだものと聞き及んでいると記述している。しかしながら、古人の詠んだとされる和歌、道歌の中に具体的に、この歌を見つけることはできない。おそらく風聞であって、具体的な収録本は存在しないのだろう。
 横山丸三の一番弟子である竹元斎量丸(ちくげんさい・かずまる)が書写したと思われる写本(明治4年)(下記資料参照)には、丸三が百姓に出会い、その言葉を聞いて、この歌を詠んだのだという本間女史の話が載せられており、この話が真実なら、横山丸三のオリジナルの歌と考えてよいと思われる。もちろん、過去に、すでに作者不明の類似の歌が存在していて、語り継がれており、それを参考にして詠んだということはありえるだろう。

 ※出典における国立国会図書館のデジタルコレクションでの該当コマについては真実を求めてにおいて明示しているので参照されたい。

 ※この一覧表の下に、主要な文献における、この道歌の掲載ページから抜粋して紹介しておいたので、内容の変遷を確認されたい。

 ※二宮尊徳研究の権威であった
佐々井信太郎氏が、この道歌は「二宮先生以外の人の作である」と断定しておられることに、人々は耳を傾けるべきではないだろうか(「解説二宮先生道歌選」現代版報徳全書、昭和34年。平成5年改版。報徳二宮神社・報徳博物館で入手できる)。

 ※佐々井信太郎(1874~1971)兵庫県生まれ。文学博士。東洋大学教授、大日本報徳社副社長、教育審議会委員、内務省委員、一円融合会理事長。著書に『二宮尊徳研究』(昭和2年)、『二宮尊徳伝』(昭和10年)ほか多数。『二宮尊徳全集36巻』(昭和2~7年)を編集。

 ※この道歌を「二宮尊徳の歌」として紹介しているサイトに、佐々井氏(1959年)や八木氏(1982年)の情報、国会図書館の「レファレンス事例」(2013年)などをお知らせしたところ、「インターネットサイト(または書物)の記載をそのまま信用して、出典の確認は取らなかったので、尊徳の歌ではないということに思い至らなかった」というようなことであった。
そういうわけで、孫引きによる「二宮説」は今も拡散し続けている。

※この一覧表のまとめ作業を通して推定できる「紹介の歴史」を提示しておく(筆者が材料から推理したものなので、その点は留意のこと)。
 すなわち、
明治・大正時代には、この歌は(「雨」でなく「水」と詠んだ形で)横山丸三の道歌として知られていた。
 
昭和の初期、戦前においては、国家の推進策と連動して、この歌は教育や一般の場において、広く、刻苦勉励を勧めるために積極的に用いられた。ただし、淘宮術の開祖である横山の言葉として紹介されることはなく、一般には作者不明の歌とされた。ただし、俗説としての「二宮翁説」は、新渡戸の著書の影響もあり、一部では流布したようである(制作年は不明で裏付けに乏しいが、愛知県の小学校の二宮金次郎像の台座に、この歌が刻まれた例が、そのことを物語っているように思われる。もちろん戦後の制作であっても同様のことが言える)。
 
戦後には「二宮翁説」は否定され、作者不明の歌として紹介されることが多くなった。ただ、一部では、根強く「二宮翁説」が生き残っていた。
 平成7年に京都大学名誉教授の会田雄次氏が著書で「二宮尊徳の詠んだ和歌」と紹介したことがきっかけとなって、俗説が一気に広まってしまい、
いろいろな著書において「二宮尊徳説」が記載され、定着するようになる。その影響のもとに、平成20年の「福田内閣メールマガジン」での「二宮尊徳説」の広報がきっかけとなって、インターネットでも一気に「二宮説」が定着するようになる。
 平成25年、国会図書館で実施された「この道歌のルーツ探し」が「レファレンス事例」として、インターネットで公表されて、ルーツは「横山丸三の道歌」であることが明確となり、少なくとも
「二宮尊徳翁の歌ではない」ことが知られるようになり、今日に至っている。
 ただ、残念なことに、先行著書やインターネットの記述を孫引きする人は多く、「間違った二宮尊徳説」は拡大再生産が継続中である。

※この歌は、「五七五七七」の形の「短歌」であり、広くは「和歌」である(少数派ながら、「五七五」の「俳句」と間違える人がいる)。また、教訓的な短歌は「道歌」とも「教訓歌」とも呼ばれる。この道歌では、「今日」を「けふ」と旧かなづかいの「二文字」で数えることで「七文字」となる。「田草とるなり」を「田の草をとる」に差し替える人がいるのは、「七文字」にするためである。周知のことで、全くの蛇足であるが、付記しておく。

年代 出版年月 出典 掲載されている道歌    ※(  )内は、原文におけるルビ 道歌の作者等
1854以前 不明
(安政元年以前)
「先師遺墨集(カラー版)」(日本淘道会、平成18年)60頁 此あき水か嵐かしらねとも きふのつとめに田艸取也

               ※「きふ」は「きょう」のことである。
横山丸三
1866  慶応2年6月  「淘詠集」(竹元斎量丸編纂・校訂) この秋は水かあらしか知らねどもけふの勤に田草とる也

※上記の遺墨集には「此あきも」とあるので「この秋は」は誤りと思われる。その後の刊本の多くが「この秋は」としているのは、この慶応2年本の影響によるものらしい。結果として、両方が併存することになっている。
横山丸三
1871 明治4年(書写)  「淘祖大先生淘詠集」(前半)。後半に「竹元集 初編」を収める。後半末尾に竹元斎量丸の明治四年の記載がある写本。誰の筆写かは不明であるが、量丸の可能性が高い。  此(この)秋(あき)水(みづ)か嵐(あらし)かしらねども今日(けふ)の勤(つとめ)に田草(たぐさ)とるなり 淘祖大先生(横山丸三)
1880 明治13年8月 北條宇輔編輯「淘祖春亀斎丸三道謌集 初篇」(北光堂)廿三丁表 此(この)秋(あき)ハ水かあらしか知(し)らねどもけふのつとめに田草(たくさ)とるなり 横山丸三
1891 明治24年5月 「淘詠集」(原田義方・発行)二十四丁 此秋ハ水か嵐かしらねともけふのつとめに田草とるなり 横山丸三
18--  刊年不記
(明治中期か?)
「淘詠集抄」(出版者不明)十一丁表 此秋ハ水か嵐かしらねどもけふのつとめに田艸とるなり  横山丸三 
1911 明治44年5月 伊東喜一郎編「淘詠集」(博秀社)二六丁表 この秋水かあらしか知らねともけふのつとめに田草とるなり 横山丸三
1912 明治45年2月 天源淘宮術研究会著述「淘祖春亀斎丸三翁道歌集」(松成堂須原屋本店)四二頁 此(この)秋(あき)は水かあらしか知(し)らねどもけふのつとめに田草(たくさ)とるなり 横山丸三
1912 明治45年2月  森友道「淘宮術と処世」(博文館)一五六頁  此(こ)の秋(あき)は水(みづ)か嵐(あらし)か知(し)らねども今日(けふ)の勤(つと)め田草(たさ)取(と)るなり

(※ 「勤める」の「る」は明らかに誤植。同じ著者の「淘宮と開運」(大正7年)には、「たぐさ」になっていて、2箇所が食い違う。)
淘宮術の道歌
1912 大正元年10月 新渡戸稲造「世渡りの道」(実業之日本社、三四四頁)
(新渡戸稲造全集 第八巻、1970年)
この秋(あき)は雨(あめ)かあらしか知(し)らねども
          今日(けふ)のつとめ
草(くさ)を取(と)るかな
二宮翁
1913
(1914)
大正2年12月(国会図書館蔵書は奥付に手書きで大正3年1月印刷・発行と訂正) 竹内勝太郎(竹内師水)編「淘詠集」(永楽堂書店)四十三頁 この秋(あき)は水(みづ)かあらしかしらねどもけふの勤(つと)めに田草(たぐさ)とるなり 横山丸三
1914 大正3年6月 「淘詠集 全」(淘友会編輯・発行)下巻十四丁表 此(この)秋(あき)水(みづ)かあらしか知(し)らねどもけふのつとめに田草(たぐさ)とるなり 横山丸三
1918 大正7年8月  森友道「淘宮と開運」(東亜堂書房)172頁  此(こ)の秋(あき)は水(みづ)か嵐(あらし)か知(し)らねども今日(けふ)の勤(つと)めに田草(たぐさ)取(と)るなり 淘宮術の道歌
1929 昭和4年1月 「金言名句人生画訓」(修養全集第3巻)(大日本雄弁会講談社)37頁 この秋(あき)は水(みづ)か嵐か知(し)らねども、今日(けふ)のつとめに田草(たぐさ)とるなり 道歌
1930  昭和5年5月  安井一守講述・瀬戸元栄編輯「淘詠集講義 下」(淘友会)34~35頁 (上・中巻は昭和4年9月・11月に発行)  此(この)秋(あき)水(みづ)かあらしか知(し)らねどもけふのつとめに田草(たぐさ)とるなり

(講義)「既に古人に此詠あるやに聞及べるが、それは兎も角、此秋と云へば過ぎし年の秋に比例する意味にて、今年の秋洪水に襲はるゝか、又は暴風雨に悩まさるゝかして、秋収(しうしう)に減損を来すや否やは予知し難きも、農者は其身の務めとして、今此処に田の草を採りて只だ稲の成育を助くるのみとの意にて、是と同じく人は結局現在に生て今日の職務を果すことが肝要にて、将来の事は其時に到らざれば判らぬものである」
横山丸三
(既に古人に此詠あるやに聞及べる)
1934 昭和9年5月 新渡戸稲造「人生読本」(実業之日本社、52頁)(新渡戸稲造全集第十巻、1969年) この秋(あき)は雨(あめ)か嵐(あらし)か知(し)らねども けふの努(つと)め種(たね)をまくかな ある狂歌
1940頃 昭和15年頃 矢内正一「人間の幸福と人間の教育」(創文社、昭和55年)249頁  この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草とるなり

(※著者が40歳になろうとする昭和15年頃の日記の見返しに記した歌)
古い歌
  昭和前期頃?  「全国文学碑総覧」(日外アソシエーツ、平成10年)564頁  この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめに田草とるなり
        (半田市亀崎町亀崎小学校 二宮尊徳像台座刻)
 

    (※設置年代は不明だが、昭和前期のものであろうか?) 
二宮尊徳 歌碑
1943頃 昭和18年頃 田中賢一「小丸川殉職碑と特攻隊員榊原達哉」(財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会・会報「特攻」第42号、平成12年2月、15頁)(インターネットより)(「賽の河原に祀られた戦争の記憶~高鍋大師~」の記事も参照) 何日(いつ)行くか何日散るのかは知らねども
    今日のつとめに吾ははげまん

(※宮崎県児湯郡高鍋町の小丸川の北岸の台上にある高鍋大師というお堂の境内の殉職碑の裏面に刻まれた歌。戦争中に榊原中尉ら聯隊将校によって小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事で昭和40年に現在地の境内に移された。平成9年頃に石碑の由来を刻んだ銅板が刻まれて殉職碑の由来が明らかにされ、この歌の内容も示された。)
(※この歌は、「この秋は・・・」の歌と直接の関連はないが、「知らねども、今日のつとめに」が共通することから、語句を取り入れた歌である。)
歌の作者は、昭和18年6月18日の演習で徒渉中に小丸川の増水で殉職した八勇士の一人である伊藤成一中尉とも、この演習を計画した榊原達哉中尉ともいうが定かでない。
1944頃 昭和19年頃  澤口重徳「温習」(海軍経理学校第36期のホームページ)(インターネットより) この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草取るなり

(昭和19年頃、海軍経理学校において、文官・武官の教官方が生徒を激励する際に説いた言葉の一つ)
 ―
1959 昭和34年5月 佐々井信太郎「解説 二宮先生道歌選」(現代版報徳全書10)(報徳博物館発行)(一円融合会発行、報徳文庫発売、平成5年改版、151頁および209・211頁)(報徳二宮神社・報徳博物館で入手可) この秋は雨かあらしか知らねども 今日のつとめに田草とるなり たれかの歌(二宮先生以外の人の作)
1961 昭和36年4月  安井一守先生講述「淘詠集解義 全」(淘友会発行、非売品、237~8頁) ※この歌についての解説内容は「淘詠集講義 下」(昭和5年)とほぼ同じである(一部修正)。  此秋水かあらしか知らねどもけふのつとめに田草とるなり

(解義)「既に古人に此詠あるやに聞及べるが、それは兎も角、此秋と云へば過ぎし年の秋に比例する意味にて、今年の秋洪水に襲はるゝか、又は暴風雨に悩まさるゝかして、秋収(しうしう)に減損を来すや否やは予知し難きも、農者は其身の務めとして、今此処に田の草を採りて只だ稲の成育を助くるのみとの意にて、是と同じく人は結局現在に生て今日の職務を果すことが肝要にて、将来を予想しての利害は、其時に到らざれば判らぬものである」
横山丸三
1969 昭和44年10月 新渡戸稲造「人生読本」(新渡戸稲造全集 第十巻、教文館、246頁)(実業之日本社、昭和9年)  この秋は雨か嵐か知らねども けふの努め種をまくかな  ある狂歌
1970 昭和45年3月 新渡戸稲造「世渡りの道」(新渡戸稲造全集第八巻、教文館、234頁)(実業之日本社、大正元年)  この秋は雨かあらしか知らねども 今日のつとめ草を取るかな 二宮翁
1972前後  昭和47年前後 玉川大学・玉川学園「玉川学園の石碑・像マップ」(インターネットより)  この秋は雨か知らねども今日のつとめに田草取るなり

(※玉川学園のキャンパス内の、町田・横浜・川崎の三市を分岐する場所の道路際に設置された自然石の石碑に刻まれている詩)(「」ではなく、「」と刻んである。「くによし書」とあり、創立者小原國芳の書であろう)
二宮尊徳翁
1979 昭和54年1月 扇谷正造「現代ビジネス金言集」(PHP研究所)212~214頁 この秋は雨か嵐か知らねども きょうのつとめ田草とるなり

(※著者がみちのく銀行頭取の唐牛敏世氏との対談で聞いた長寿法をひと口で表したのが、この歌の信条だという。白寿翁の哲学として紹介)
 ―
1980  昭和55年9月 矢内正一「人間の幸福と人間の教育」(創文社)249頁 この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草とるなり

(※著者が40歳になろうとする昭和15年頃の日記の見返しに記した歌)
古い歌
1982 昭和57年10月 八木繁樹編著「二宮尊徳道歌集」(緑蔭書房)134頁 この秋は雨かあらしか知らねどもけふのつとめに田草取るなり 天保2(?)伝二宮翁道歌。二宮尊徳の作ではないようである。
1982 昭和57年10月 八木繁樹編著「二宮尊徳道歌集」(緑蔭書房)314頁 この秋は雨か嵐か知らねどもけふの勤めに田草取るなり 古歌。また小谷三志の歌ともいう。
1984 昭和59年5月 「弓道教本第四巻-
理念と射技詳論」(全日本弓道連盟)45頁
この秋は水か嵐か知らねども  ただひたすらに田の草をとる 道歌
1988 昭和63年11月  横山正三「淘祖の後姿を追って」(小晌会発行、非売品)50頁(昭和43年2月24日の記念講演「淘祖のお叱り」を「淘道」に掲載したもの) この秋水かあらしかしらねども けふの勤めに田草とるなり  お道歌(横山丸三) 
1995  平成7年5月 会田雄次「日本人として言い残しておきたいこと」(大和出版)236頁 この秋は雨か嵐か知らねども 今日の務め田草取るなり  二宮尊徳が詠んだ和歌
1998  平成10年5月 「全国文学碑総覧」(日外アソシエーツ)563頁 この秋は雨かあらしかしらねども 今日のつとめに田草とるなり
                     (大府市吉田町生田八幡社)
二宮尊徳 歌碑
1998  平成10年5月 「全国文学碑総覧」(日外アソシエーツ)564頁 この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめに田草とるなり
        (半田市亀崎町亀崎小学校 二宮尊徳像台座刻)
 

    (※設置年代は不明だが、昭和前期のものであろうか?)
二宮尊徳 歌碑
1998 平成10年9月 木村山治郎編「道歌教訓和歌辞典」(東京堂出版)321頁 この秋は雨か嵐か知らねども きょうのつとめに田草とるなり 作者・出典未詳
1998 平成10年10月  淘誠会編輯「名古屋の淘宮史Ⅱ」(創立七十周年記念冊子)1頁  この秋は水か嵐か 知らねども きょうのつとめに 田草とるなり 淘祖(横山丸三) 
2000 平成12年2月 会田雄次「人生の探求 変わるものと変わらないもの」(大和出版)236頁 この秋は雨か嵐か知らねども 今日の務め田草取るなり 二宮尊徳が詠んだ和歌
2000 平成12年4月 堀健三「幸福の研究」(文芸社)97頁  この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草取るかな たしか二宮尊徳の歌
2000  平成12年6月  日本淘道会編集部編纂「淘祖御道歌集(第一部・第二部)」42頁  この秋水かあらしかしらねども けふ(きょう)の勤めに田草とるなり 横山丸三 
2000 平成12年10月 久米建寿「名歌人生読本 -短歌にまなぶ日本の心-」(文芸社)143頁 この秋は雨か嵐か知らねども今日の勤めに田草(たぐさ)取るなり 横山丸三
2002 平成14年6月 林兼明「人間革命と宗教革命」(冨山房インターナショナル)131頁、132頁 来む秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草取るなり

(※元原稿は、ガリ版の「いのちの花道・人類の叡智」(昭和36年8月)で、「二十一世紀のビジョン いのちの花道」(昭和41年)として自費出版。)
二宮尊徳
2003 平成15年5月 葉室頼昭「心を癒し自然に生きる」(春秋社)131頁 この秋は雨か嵐か知らねども 今日のつとめに田の草を取る 二宮尊徳の有名な歌
2004 平成16年3月  鍵山秀三郎「一日一話」(PHP研究所)100頁(6月9日) この秋は雨か嵐か知らねども 今日の勤めに田の草を取る  ― 
2004 平成16年4月  北川八郎「ブッダのことば「百言百話」(致知出版社)126~7頁 この秋は、雨か嵐か知らねども、われは今ある田の草取るなり 誰かの歌
2004 平成16年7月  木村純夫「愚直に生きる セ・ラ・ヴィ―半生の記」(文芸社)209頁  この秋は 雨か嵐か知らねども 今日の勤めに 田の草を取る  すでに亡くなった父の、いつも心に残っている言葉の一つ 
2004  平成16年9月 金子健「農を憫れむ」(埼玉県神社庁報、第百六拾八号、H16.9.1、9頁)(インターネットより) この秋は雨か日照りか知らねども 農の務めと田草取るなり 二宮尊徳
2004 平成16年9月  ティーケイシー出版編集部・編「座右の銘 信念・勇気・決断―自らの道をひらく」(発売:本の泉社)524頁(※2009年に新装版を発行) この秋は雨か知らねども きょうのつとめ田草取るなり。

(※「風」が採用されているので昭和47年前後に設置された玉川学園の石碑を参照したものだろう。ただし、石碑には「今日のつとめに」とあるので、引用の際に少し変えていることがわかる。)
二宮尊徳 
2005 平成17年5月  日吉神社(秋田市新屋)「ひよし」(H17.5.16)2頁(インターネットより)  この秋は雨か嵐か知らねども 今日の勤めに田草取るなり 二宮尊徳翁作と伝えられる古歌
2006 平成18年9月 大橋幸雄「仰げば尊し祖国日本よ:日本への建白遺書」(文芸社)9頁  この秋は雨か嵐か知らねども、今日のつとめに田の草を取る 尊徳の仕方
2007 平成19年3月 斎藤亜加里「道歌から知る美しい生き方」(河出書房新社)32頁 この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日の勤めに 田草取るなり 二宮尊徳
2007  平成19年8月 寺田一清編「二宮尊徳一日一言」(致知出版社)122頁(7月24日の言葉) この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめ田草取るなり 二宮翁道歌
2007 平成19年12月  高田明和「明日に希望をつなぐ 東洋のことば」(すばる舎)200頁  この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日の務(つと)めに 田草とるなり  二宮尊徳
2008  平成20年7月  玄侑宗久(第20回「国際美術工芸協会展」講演会、神戸にて、2008年7月) (玄侑宗久「観音力」2009年に収録) この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日のつとめに 田草とるなり 二宮尊徳 
2008 平成20年7月 福田内閣メールマガジン第40号(2008.7.24)(インターネットより)  この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日のつとめ 田草とるなり 二宮尊徳
2008 平成20年10月 開善寺(長野県飯田市)「禅林世語集」2008.10.29(インターネットより) 此の秋は水か風かは知らねどもその日のわざに田草とるなり。  ―
2008 平成20年11月  玄侑宗久「日曜論壇 金風」(「福島民報」福島民報社、2008年11月2日号)(インターネットより) この秋は雨か嵐か知らねども今日の勤めに田草とるなり 二宮尊徳翁
2009 平成21年3月  玄侑宗久「観音力」(PHP研究所)89頁
(第20回「国際美術工芸協会展」講演会、2008年7月) 
この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日のつとめに 田草とるなり 二宮尊徳
2009 平成21年6月  「座右の銘」研究会・編「座右の銘 意義ある人生のために」(里文出版)524頁(2004年版の新装版として発行)  この秋は雨か知らねども きょうのつとめ田草取るなり。

(※「風」が採用されているので昭和47年前後に設置された玉川学園の石碑を参照したものだろう。ただし、石碑には「今日のつとめに」とあるので、引用の際に少し変えていることがわかる。)
二宮尊徳
2009 平成21年7月 斎藤亜加里「親から子へ代々語り継がれてきた教訓歌」(きこ書房)58~59頁 この秋(あき)は 雨(あめ)か嵐(あらし)か 知(しら)ねども
今日(きょう)の勤(つと)めに 田草(たぐさ)取(と)るなり
二宮尊徳
2011 平成23年1月  「年の初めに」(校長だより、2011.1.1、桃山学院中学校高等学校)(インターネットより) 明日の日は 雨か嵐か 知らねども 今日の努めに 田草摘むなり
(原典は二宮尊徳の「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田の草を取る」)
校長の好きな一首(原典は二宮尊徳)
2011 平成23年4月  仁木 幻「心道学 賢人の教訓編」(電子書籍、eブックランド社)93頁  来る秋は雨か嵐か知らねども今日の勤めの田草とるかも 二宮金次郎翁の教訓(ツイッターより)
2011  平成23年4月  北川八郎「ブッダのことば「百言百話」新装改訂版(致知出版社)130~1頁 この秋は、雨か嵐か知らねども、われは今ある田の草取るなり 誰かの歌
2011 平成23年11月  おのみち地域SNS:
ウェルズのブログ(2011.11.5)で紹介された、山根成人氏が自著にサインとして書いた二宮翁の言葉 (インターネットより)
この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめの田草刈るなり 二宮尊徳翁の言葉
2012  平成24年9月 西村眞悟の時事通信(H24.9.7)(インターネットより) この秋は、か嵐か知らねども、今日の務め草を刈るかな 二宮尊徳の歌(眞悟氏の母による)
2013 平成25年4月  玄侑宗久「流れにまかせて生きる:変化に応じる「観音力」の磨き方」(PHP研究所)105~6頁  この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日のつとめに 田草とるなり 二宮尊徳
2013 平成25年7月 レファレンス事例詳細(国立国会図書館)2013.2.28事例作成、2013.7.18登録・更新(インターネットより) この秋は 雨か嵐か知らねども 今日のつとめ 田草取るなり
                         (質問者の引用文)
横山丸三
2013 平成25年8月 坂部達夫税理士事務所のABCネットニュース2013.8.12(インターネットより) この秋は雨か嵐か知らねども、今日の勤めに田草取るなり 詠人知らず


<1854年以前>
「先師遺墨集(カラー版)」(社団法人 日本淘道会 創立六〇周年記念)(平成18年刊行)  (日本淘道会提供)(会員限定本)

※横山丸三(1780~1854)の遺墨であり、「この秋は」ではなく、「この秋も(此あきも)」が本来の歌であることがわかる。

※ここには「志ら年ども」とあるが、一般的な表記に従えば、「しらねとも」と読み取るべきであろう。


<1866年>
「淘詠集」(淘祖お道歌集)(竹元斎量丸 編纂・校訂)   (日本淘道会提供)

※この校訂版には明らかに「この秋は」と読み取れるが、先師遺墨と照らし合わせると、「この秋が正しいと思われる。

※後の刊本の多くが「この秋は」としていることが多いのは、この1866年(慶応2年)版の影響と見られる。




<1871年>
「淘祖大先生淘詠集」(前半)および「竹元集 初編」(後半)   (末尾に明治四年の記載がある写本)
  (末尾に竹元斎量丸の名前が見えるが、量丸自身の筆写本か、それを他の誰かがさらに筆写したものかは不明)   (筆者<柴田昭彦>蔵)

※竹元斎量丸(ちくげんさい・かずまる)とは、佐野清右衛門氏のことで、淘祖横山(春亀斎)丸三の直弟(天保元年入門、天保六年皆伝)。佐野量丸。

下図は、上記写本の前半を占める「淘祖大先生淘詠集」(淘祖大先生とは横山丸三)の中の、「こ」の部の一部。

※竹元斎量丸は、「此秋ハ」ではなく、「此秋」と記載している。後の伊東喜一郎(M44)、淘友会(T3)、横山正三(S63)に継承されている。


※上記の頭注について

 「この秋も」の歌について、次のような頭注が付けられており、重視されていた歌であることがわかる。
 
読み下しについては筆者(柴田昭彦)の解読力では及ばなかったので、筆者の恩師で郷土史家の脇坂俊夫氏(西脇市明楽寺在住)に協力をいただき(2014年12月)、次のように読み取ることができたので、紹介する。


此秋も  此(この)のうたハ □(抹消) 四五月の ころ向島辺の 田畔(たんぼ)にて百姓(ひやくせう)二 出(で)あいなされ

御苦労と御あい さつありしに百姓 曰(いわ)く何此秋に なりて風か雨が あれバ皆無二 なるけれど元 ハ今日様へ御勤 メなり」

ト申せしに 大先生難有 事ヲ聞セ下さり たりトて御詠 なされしと 本間お八十女史 之御話



 この注記によって、「水か嵐か」が、「風か雨が」という百姓の言葉によったものであることがわかる。

 この歌が、二宮尊徳の歌として間違って紹介される際に、「雨か嵐か」に読み替えられるのもむべなるかな、と思われる。


<1880年>

北條宇輔編輯「淘祖春亀斎丸三道謌集 初篇」(北光堂、明治13年)より。淘宮術の横山(春亀斎)丸三の道歌であることが明確である。
※国会図書館のデジタルコレクションによる。




<18--年>

「淘詠集抄」(刊年不記、出版者不明)(明治中期ごろか?)  (筆者<柴田昭彦>蔵)





<1912年>
新渡戸稲造「世渡りの道」(実業之日本社、大正元年)より。「二宮翁」の歌と
紹介しているが、出典は不明。根拠なき誤りか。



<1913年(1914年)>
竹内勝太郎(竹内師水)編「淘詠集」(永楽堂書店)(大阪府立中央図書館蔵書:大正2年と印刷)(国会図書館蔵書:大正3年と手書きで訂正)より。
横山丸三の道歌であることは明らかである。

※序文に「従来旧式淘宮家(たうきうか)は、一切淘書を印刷に付することを厳禁し、都(すべ)て写本を以て伝習することにして居る為め、・・・中々正確な原本を得ることが六(むづ)かしい、著者は入門当時、故永井直清(ちょくせい)氏(一元先生皆伝)より借受けて謄写したものを根本として、其後故桑島光品(くわうひん)氏(一元先生皆伝)が開祖の手書(しゅしょ)されたものを、其儘写したいふ本を借りて、対照訂正し、尚又社友数人の手に在るものをも借り来りて、比較損益したものが本書である故、先々(まずまず)やゝ正確なものであらうと思ふ」とある。その文中の「一元先生」とは、吉川一元であり、弘化元年(1844年)に淘祖横山丸三に入門。丸三の死後、竹元斎佐野量丸に師事し、明治15年(1882年)に皆伝を受けられた。





<1914年>
淘友会編輯「淘詠集 全」(淘友会発行、大正3年)より。「此秋
」であることに注意。

※淘友会は、安井一守(初代会長)によって、明治44年(1911年)に創設された。後の日本淘道会(1944年創立)の前身にあたる。




<1929年>
「金言名句 人生画訓」(修養全集第三巻)(大日本雄弁会講談社、昭和4年)より。

※作者名を示さないで道歌の一つとして紹介している。その当時、横山丸三の道歌のままの「水か嵐か」の表記であることに注意。




<1959年>
安井一守講述・瀬戸元栄編集「淘詠集講義 下」(淘友会、昭和5年)より。 (上巻・中巻は昭和4年発行)

「既に古人に此詠あるやに聞及べる」とある。
  しかしながら、今日、その元歌とされる「古歌」なるものはどの文献にも見つからない。おそらく、風聞に過ぎないのだろう。

1871年(明治四年)の写本の頭注に見えるように、横山丸三自身が、出会った百姓の言葉をもとにして詠んだ歌とみてよいだろう。

※淘友会は、安井一守(初代会長)によって、明治44年(1911年)に創設された。日本淘道会(1944年創立)の前身にあたる。




<1959年>

佐々井信太郎「解説 二宮先生道歌選」(現代版報徳全書10)(報徳博物館、昭和34年)(一円融合会発行、報徳文庫発売、平成5年改版)より。
「此の秋は・・・」は
「たれかの歌」であり、「二宮先生以外の人の作」であることを明確に示している。






<1982年>

八木繁樹編著「二宮尊徳道歌集」(緑蔭書房、昭和57年)より。「この秋は・・・」は
二宮尊徳の道歌と誤伝されたことを明確に紹介。

<1988年>
横山正三「淘祖の後姿を追って」(小晌会発行、昭和63年、非売品)(昭和43年2月24日の記念講演「淘祖のお叱り」を「淘道」に掲載したもの)
「この秋
」の表記であることに注意。

※横山(春直斎)正三(まさみつ)は、淘祖横山(春亀斎)丸三(まるみつ)の曾孫で六世祖家。日本淘道会小晌支部長・理事・理事長をつとめた。
 



<1995年・2000年>
会田雄次「日本人として言い残しておきたいこと」(大和出版、平成7年) この本が、誤った二宮尊徳説を平成時代に広めることになったようである。
なお、
会田雄次「人生の探求 変わるものと変わらないもの」(大和出版、平成12年)は、その改題版であり、同じ内容である。会田氏は京都大学名誉教授であり、文明評論家として幅広く活躍されたが、この歌の作者を二宮尊徳として紹介した点に関しては、不注意であったと言わざるを得ない。





<1998年>
木村山治郎編「道歌教訓和歌辞典」(東京堂出版、平成10年)より。この道歌を「作者・出典未詳」と紹介している。

<2000年>
日本淘道会編集部編纂「淘祖御道歌集(第一部・第二部)」(春亀斎横山丸三先生遺詠)(平成12年)より。 (日本淘道会提供)(会員限定本)

※日本淘道会において
、「この秋も」を正しいものとして扱っていることがわかる。

※日本淘道会で過去に「淘詠集」として数版発行され、平成3年に第五版として「五十音別淘詠集」が発行され、この本はその改名改訂版である。



<2000年>
久米建寿「名歌人生読本 -短歌にまなぶ日本の心-」(文芸社、平成12年)より。

※誰もが尊徳説を唱える中で、過去の文献をよく調べて、
横山丸三説を説いた貴重な本。厳密には、「雨」→「水」と差し替えるべきである。




<2007年>
斎藤亜加里「道歌から知る美しい生き方」(河出書房新社、平成19年)より。誤った二宮尊徳説が採用されている。




<2007年>
寺田一清編「二宮尊徳一日一言」(致知出版社、平成19年)(7月24日の言葉) ここでも、誤った二宮翁説が採用されている。




<2009年>
斎藤亜加里「親から子へ代々語り継がれてきた教訓歌」(きこ書房、平成21年)より。誤った二宮尊徳説は今でも根強く広められていることがわかる。