東清鉄道
ウラジオストック
北鮮・浦塩航路
Ussurysk 
北鮮・浦塩航路 
ウスリースク方面
ハバロフスク方面
ハルビン方面
1840年阿片戦争が起こり、清国は1842年の南京条約を契機にイギリス、アメリカ、フランスなどに開港して列強の力が急速に極東に及んできた。これを受けてロシアは英仏艦隊によるカムチャッカ侵攻を危惧するようになり、アムール川を唯一の現実的交通手段ととらえ、清国との国境問題がクローズアップされるようになった。1858年の愛琿条約、1860年の北京条約で、アムール川左岸はロシア領とアムール川右岸はウスリー川以西を清国領、以東はロシア領として国境線が確定した。ウラジオストックが開港したのは1861年。オデッサ(ウクライナ共和国)からの義勇艦隊による定期航路が1880年にひらかれ、1891年にはロシア帝国皇太子ニコライの臨席のもとウラジオストックでシベリア横断鉄道の起工式が行われ、93年にはニコリスクウスリースキーまで、97年にはハバロフスクまでのウスリー鉄道が開通した。ヨーロッパまでの路線は、難工事が予想されたアムール川沿いの路線よりも、中国満州地方を横断する東清鉄道経由の開通が早く、1901年11月3日であった。1904年には周バイカル鉄道が完成し仮線だったバイカル湖上連絡が置き換えられ完全な鉄道が完成した。1905年の日露戦争のポーツマス講和条約において、東清鉄道支線の南半分が日本に割譲されることなり、大連を含む遼東半島を失ったロシアは、極東の不凍港としてのウラジオストックに再び注目せざるをえなくなり、港湾都市の整備を加速させた。
1907年には道路の舗装、1912年には路面電車の路線完成し、ヨーロッパへの路線も日本の勢力が入り込んだ中国満州地方を横断する東清鉄道よりも自国領内を通過するアムール線が軍事上有利として1916年にハバロフスク経由アムール線を開通させた。ちょうどこの頃、1914年からの第一次世界大戦では、戦争で疲弊した民衆の不満が爆発して1917年のロシア革命、国内戦争、外国干渉軍のウラジオストック出兵へと続いた。日本の干渉軍は他国軍が撤兵した後も極東に居座り続け、1920年ロシア・ソビエト共和国は、緩衝軍と敵対しているソビエト政府とは関係のない緩衝国である極東共和国を樹立して日本の撤兵に尽力し、1922年10月撤兵に成功した。極東共和国は11月にはロシア・ソビエト連邦共和国に編入されている。シベリア撤兵以来日本からの欧亜連絡は再びスエズ運河経由の船旅中心となった。日ソ通商条約の締結により、1927年にはシベリア鉄道経由での欧亜連絡が再開されたが、1941年には第二次世界大戦のためにシベリア横断急行の運転中止、戦後も外国人の乗車が許可されたのは1966年になってからであった。ウラジオストックの街が一般旅行者に解放されたのは1991年になってからであった。
 
ウラジオストック駅
上3枚: 現在の駅は1909-1911にかけて完成した。(2000-9)
下: 旧駅舎は1894に完成した。 Vladimir k. Arseniev, 1997 Ussury publishing
 
右: 1:25,000地形図 1939年測図
Vladivostok