刀痕 弾痕 探訪記 的
「時代祭りの鑑賞」

時代祭りとは、平安京始めの延歴より、明治に至る1100年間の,
文物風俗を模した衣装を着けて、神幸列にお供をする豪華な祭礼であります。

幕末刀痕と弾痕を探訪する当室と致しましては、祭りに登場されていた明治列の歴史人物様を、
登場順に無理矢理お招きして、「拘りや、敢えて話すこじつけの、
刀痕弾痕話」をお聞きしてみようと思い、当サイトを立ち上げました。

行列は幕末志士列」から始ります。
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維新勤王指揮官
  白い被り物は、「白熊(はぐま)」と言い、長州藩士指揮官が用いたものとの事です。
  黒い被り物は、「黒熊(こくま)」と言い、薩摩藩士指揮官が用いていたとの事です。
  赤い被り物は「しゃぐま)」と言われ、土佐藩が用いていたとの事ですが、何故か同藩は当祭りに参加していません。
  (祭りの案内放送を速記した要旨で、聞き間違いも御座いますので、史実家の方はKBSで再確認してください)
 

招待維新人物等(出場順) 人物、衣装紹介(祭パンフから抜粋) 志士から頂戴の仮想コメント
 山 国 隊
 幕府の遺臣が東北で反抗した時、丹波の国の有志が山国隊を組織して官軍に参加しました。
 列は当時の行装を模したもので、三斎羽織、義経袴、下に筒袖の衣、鉢巻をして足元は、脚絆、足袋、草履履きです。
 鉄砲を背負い、刀を佩びています。

 
 丹波の国の有志で組織した勤皇部隊で、東北の宇都宮城奪還作戦に参加しました。
 東山道軍総督府に属し、鳥取軍や土佐軍と共に、大鳥圭介や新選組を相手に戦いました。
 貴頁、探訪記にアップされている、常光寺や興法寺に残る弾痕は、この時の攻防戦で出来てしまったものなんですよ。  (弾痕の部 栃木編)
 桂小五郎 (木戸孝充)
 萩藩士、王制復古に尽力し、維新事業に功績があった人。
 西郷隆盛、大久保利通と共に、維新三傑と称せられる。


 池田屋事件の時、多くの仲間が新選組にやられ、私だけが助かりました。
 その夜、一度宿にも行ったのですが、まだ時間が早かったので、近くの友達を訪ねている間に事件が起こりました。
 大層な切り合いで「京都三条大橋にも刀痕」が残ったとの事ですが、左様な訳で、私は現場におらず誰がやったか分らないのですよ。 (刀痕の部 京都編)
 西郷吉之助
 薩摩藩士、憂国の志厚く、島津斉彬に抜擢され国事に奔走。
 長州藩と幕府の間に尽力し、維新の大業を助成した人。
 上野戦争は、私が現場指揮を取り、そこに銅像も造っていただいております。
 彰義隊も強く、黒門、輪王殿、永久寺等に篭り抵抗しましたので、銃砲戦をやりましたから、お山の寺院様等に、多くの痕跡を残す結果となって、申し訳なく思っております。
 え?、天王寺や永久寺に残る刀弾痕は未だ探訪していないのですか?一度見て下さいよ。
(刀痕の部、弾痕の部 東京編)
 坂本龍馬
 土佐藩士、剣術に長じ、のち勝女房の門に入り海兵の術を学び、維新大業の基礎に参画した。
 卓越した識見を持っていたが、幕府の疑うところとなって、慶応3年京都で暗殺された。
 (33歳)
 京都の「寺田屋」で突如役人に囲まれましたが、入浴中のお龍の知らせで、無事薩摩屋敷に逃げ込みました。
 その時、相当暴れ、部屋に傷をつけてしまいましたが、その後寺田屋は燃え、新しく建てられた事実が分かったとの事です。
 私の前には、薩摩の有馬君も相当暴れたようですよ。


 高杉晋作
 長州藩士、吉田松陰門下で、その彩名をうたわれた。
 諸名士と交わり、内外の知見を広め、機略に富み、国事に奔走したが慶応3年、29歳で病死した。



 私は、長州の「功山寺」で決起し、一時了円寺も借り受けましたが、血気の若者がいて、ついお寺様の建物に、刀を叩きつけ傷つけました。
 その後、見て頂いたように、四境戦争の時、幕軍が大島口まで来て、浄西寺へ大砲を撃ちましたが、私達が追っ払いましたので、石垣の弾痕被害くらいで済んでよかったですよ。
 (刀痕の部 弾痕の部 山口編)
 真木和泉
 筑前久留米の祠官で、つとに尊皇攘夷を唱え、京畿の間に往来して、実美らの公家を説きこれを動かした。
 蛤御門の変では、久坂玄瑞と事を共にしたが、戦いに敗れ、天王山に籠って同志と共に自刃した。53歳



 京都市民の皆様には迷惑をかけました。 
 久留米人でありながら、長州人と共に、御所に向かい、攻撃前に泊った、嵯峨の弘源寺様の柱に仲間が切りつけて傷を付けました。
 その後、蛤御門で戦いましたが、守備の会津も強く、つい御門にも発砲する者が居りました。
 戦いは、長州藩の負けで、天王山まで逃げた後集団自決しました。 (弘源寺刀痕、蛤御門弾痕 京都編)
 久坂玄瑞
 長州藩士、高杉と共に松下村塾の双璧とうたわれ、尊王攘夷派の積極論者で、七卿事件にも参加した。
 後、藩主の雪辱を図って上洛し、蛤御門で戦うも敗れて自刃。25歳


 松下村塾に残っている刀痕も私の仕業と疑われております。
 8.18事件、池田屋事件と、皆で長州いじめをするので、言い分もあるぞと上京したら、御所警備の、会津や新撰組、薩摩の妨害にあい「蛤御門の戦い」になってしまいました。
 ご門の弾痕で分るように、御所に弓引いたことになり、長州戦争にまでなってしまいました。
 8.18事件 七卿落ち
 公家三条実美等は、かねて攘夷を唱え、幕府の無策を見て、積極派の志士たちと結び、直接行動に出ようとした。
 しかし穏健派は中川宮を動かし、文久3年8月18日俄かに朝議を覆した。
 参朝を停められた七卿は雨の夜中、長州へ落ちていった。
 私ら七人は勤王公家でしたが、8月18日、突然、長州藩と共に御所に出入禁止を言い渡され、いそいで長州に身を引きました。
 浪士組の土方歳三も、頭に「鉢がね」を巻いて、私達を追い出しに来ていて、鉢がねに刀痕が出来たと話しているそうですが、私達は逃げるのに精一杯でした。
 刀痕がある鉢がねは土方資料館にあるそうですよ。
 
 吉村寅太郎
 土佐藩士、京都に出て国事に奔走、平野国臣等と共に尊皇攘夷を唱え志士を鼓舞した。 
 同士と共に大和に挙兵したが、志を遂げずに失敗し自刃した。26歳


 私は、京都方広寺で、同志と共に攘夷目的の「天誅組」を結成しました。
 続いて十津川郷士と奈良の五条代官所を襲い「五条御政府樹立」を宣言しましたが、いつの間にか賊軍になってしまい同地で鉄砲に撃たれて戦死しました。
 だから、その時の弾痕があるので、探し出してください。

 頼三樹三郎
 京都の人、山陽の第三子で憂国の志深く、盛んに幕政の非を叫んだ為、安政5年に捕縛され、江戸で処刑された。35歳



 私は中途半端は嫌いで、徹底的に幕府をこきおろしましたので、役人に追われました。
 一時、友達と淡路島の「東山寺」に隠れましたが、刀を振り回しているうちに鴨居に当ててしまい刀傷を残してしまいました。
 え、もう既に見に行ってくださったのですか。
 有難う御座いました。(兵庫県東山寺刀痕)
 梅田雲浜
 小浜藩士、和漢の学に通じ、子弟の薫育にもあたった。
 攘夷をとなえ安政5年水戸藩に対する蜜勅降下に尽力したが、幕府に捕縛され獄中で病没。44歳


 幕府を通さず、攘夷の蜜勅が水戸藩に直接降りるよう画策し、その様になりました。
 幕府を通さなかったので、水戸藩では、いる、いらないで藩が二分し、いる派の天狗党が活気付き、大騒動が起きてしまいました。
「中夷屋さんの刀痕」は、この蜜勅の取り合い中に出来たものです。(刀痕の部 茨城編)
 橋本左内
 福井藩士、蘭学医学を修め、洋学にも通じ辞世に明らかであった。
一ツ橋慶喜を将軍にするため奔走した。
安政5年捕らえられ獄にくだり斬刑に処せられた。(26歳)
 大阪に出て、適塾で緒方洪庵や杉田成卿に師事し、水戸藩や薩摩とも仲良くやっていました。
 鎖国の最中、日本とロシアの提携等言いましたので安政の大獄で捕まり処刑されました。
 適塾の刀痕は、皆がやった事ですが私もいました。(刀痕の部 大阪編)
 吉田松陰
 長州藩士、兵学を修め、諸国を遊歴して知名の士と交わった。
 攘夷論者であったが、海外事情に通じようと長崎や下田に走り、密航を企てたがならず幽閉の身となった。
 松下村塾を開き子弟の薫育にあたった。
 安政5年同士に連座して獄に繋がれ処刑された。30歳
 貴方に「野小屋」等と表現されるほど小さい塾ですが、育った人物は大きく、立派に国を動かしましたぞ。
 塾に刀痕が残っていますが、この様に血の気の多い若者がやった事で、外見上は、叱っておりますが、内心では、良い気魄と認めておるのですよ。(松下村塾の刀痕)
 和宮
ご祭神孝明天皇の皇妹で、後に将軍家茂の御台所となられた。
このお姿は、御輿入れ前16歳ころの近世女房装束です。
 うちがお嫁に行ったら、皇室と徳川が親戚になり、戦争せーへんおもおて嫁入りを承知したんどすえ。
 うちの気も分ってくれず、戦を始めはって、画餅さんが探訪する痕跡より、もっと大きな、国に戦争と言う傷が残ってしまいましたんえ。
 ほんまに、いけずで、すかんおとこはんやわ。
 嫁に来てから、公家言葉を忘れて、堪忍しとくれやすな。

勤王公家等と徳川
近衛忠ひろ 姉小路公知 三条実萬
孝明天皇の皇太子時代の傅、
関白の束帯姿で隋心と舎人を従えている。 
三条実美と共に勤王派として奔走。
文久3年、25歳の時、御所で暗殺される。
三条実美の父。
武家伝奏として公武協和に尽力。
装束は直衣(のおし)姿と言うらしい。
中山忠能 平野国臣 徳川城使上列
明治天皇実母の父
装束は小直衣(このおし)と言うらしい。

福岡藩士、和歌雅楽漢書書画武芸に長じ勤王意志を抱き国事に奔走。
生野に挙兵するも敗れる。
徳川の朝廷表敬訪問列。
お断り。
この頁に限り、人物写真の掲載については、祭礼風景写真ととらえて、アップさせていただいております。
不都合が御座います分については、連絡下されば、即刻削除いたします。
プライバシーが御座いますので、写真撮影年度の質問にはお答えできません。
又、写真はこれ以上大きく引き伸ばす事もできません。
コメント欄以外の説明文は、祭礼パンフレットを活用させていただきました。
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