新選組 京都から移築の亀山本徳寺廊下の刀痕

痕跡の種類 新選組 京都から移築の亀山本徳寺廊下の刀痕
痕跡拝観場所 兵庫県姫路市亀山324番地、亀山本徳寺の本堂の柱
痕跡の誕生地 京都市下京区堀川通花屋町下る浄土真宗本願寺派 本願寺内北集会所
痕跡の誕生日 1865年(慶応元年)3月〜1867年(慶応3年)頃 新選組が京都西本願寺を屯所にした頃
痕跡の作為者 新選組隊士
北集会所廊下 集会所移築説明版 廊下柱の刀痕
本堂の廊下左端各柱に刀痕 新選組屯所の案内板 柱の刀痕
京都から移築の亀山本徳寺廊下の刀痕
廊下に残る刀痕
刀痕は、本堂の廊下と座敷(外陣)を仕切る一辺25cm位角の敷居を支える障子柱の数本に見られ、形状も、切口が5cm位あるものもあり、鮮明で相当の迫力がありました。 
痕跡のある柱は、全て2cm位の面取り(柱の角を落として使用する用い方で断面図は8角形に見える)使用されていました。
その面取りの角に、夫々が試し切の如く打ち込んでいるので、その幅だけ傷跡も大きく見え、更に、柱の下の方の刀痕は、床上30cm位の高さから、上は190cm位の位置にまで、上下幅が広く段々に残されていました。
又、夫々の刀痕には、刃筋に揺れもなく、素直な食い込み跡であり、これは据物切の跡とは言うものの、やはり新選組は、兵ぞろいであったと言わざるを得ないと思えました。
刀痕柱の履歴
刀痕の柱は、元々新選組第二の屯所となった京都の「西本願寺北集会所」の柱であり、刀痕もその当時新選組隊士によって腕試しでつけられたものと伝わっています。
京都で、新選組屯所として用いられた西本願寺の建物は、一時立替の為解体されましたが、時を同じくして、同寺と同宗派の姫路市内にある「亀山本徳寺」が火災を起こしました。
それで、京都西本願寺を解体した時保管しておいた材木を亀山本徳寺再建用に送りました。
当然、本徳寺はその材料を使用しましたが、出来るだけ材木を加工等する事無く、殆ど京都にあった本願寺北集会所と同様の建物に再建しました。
だから刀傷等もそのまま今に残ったものであるとのことです。(本徳寺資料)
新選組屯所が壬生から西本願寺へ移転の要旨
新選組屯所移転の原因 その1
京都壬生に誕生した新選組は、「池田屋襲撃」「禁門の変」の活躍で名を馳せ、隊士も百数十名と増加したので、必要に迫られ、より広い大広間等がある京都西本願寺「北集会所」に目をつけました。
新選組屯所移転の原因 その2
西本願寺は、長州藩内に末寺や信者数が多かった関係で、勤皇僧がおり、蛤御門の変の長州藩落ち武者も、ここから長州に落ち延びたとされ、同寺内にも勤皇方勢力が増大しつつあった
新選組は、同勢力牽制と、市中取締りの活動拠点の二股をかけてここに「屯所」を移した。
新撰組が、西本願寺を屯所としたのは元治2年(1865)3月頃で、使用した施設は、北集会所の堂宇、太鼓楼等であり、滞在期間は不動堂屯所へ移転までの間、即ち慶応3年(1867)6月までとされています。
(趣旨同寺発行パンフレット、新撰組読本等から)
本願寺見取り図 本願寺太鼓楼
現存する太鼓楼(京都)
亀山本徳寺
新撰組駐屯時の京都本願寺見取り図 移転先亀山本徳寺
西本願寺北集会所に刀痕跡誕生
当該刀痕と面会するため、姫路市内亀山本徳寺にお参りしました。
探訪させて頂きましたお寺様は、刀痕のある本堂について、「建材は、京都本願寺北集会所に使用されていたものを、そのままこちらに移して利用しましたので、建物の形は、元の京都のものとほぼ同じ形となっています」と説明下さいました。 (寺院説明)
当該屯所に在所中の新選組には、京都三条大橋制札場における活躍、禁門の政変、池田屋事件、禁門の変等の活躍があって、組長などは幕臣に昇格する等、名実共に絶頂期という背景もあり、隊内には制御不可不能の士気があったと思料できます。
一方、屯所での新選組は、勤王僧がいた西本願寺に対する嫌がらせ気分も手伝って、真刀を抜き放ち、無礼を働いたと説明される書物もありますが、一面に広がりを見せる刀痕跡から、その様な説が生れた根拠もよく頷けました。
京都に残る屯所後の太鼓楼には、直径150cm以上もある時刻を告げる太鼓が二個ありますが、太鼓の音は妙に戦士の闘志を鼓舞するもので、隊士はこれを乱用乱打するなどして、自己催眠し、闘志を駆り立てていたのではないでしょうか。
隊士が屯所で豚を食ったのは、寺への嫌がらせばかりではなく、「医師松本良順の健康配慮と勧めもあった」との、新事実もここで聞知した刀痕探訪の旅でもありました。
屯所は、此処の後「不動堂」に移っていますが、その場所は、北集会所から数百メートルの、現リーガルロイヤルホテルの付近であります。
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