上野戦争「輪王殿の門(旧本坊表門黒門)に残る新政府軍の弾痕」
| 江戸時代の寛永寺 (現在の上野公園あたり/江戸絵図) 上野公園説明板から借用 | |
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| 現在の上野公園 | 両太師堂輪王殿の黒門 |
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| 上黒門の一部(足の部分)を撮影 | |
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| 上記江戸絵図の御本坊を現国立博物館と置き換えて参照してみてください。 | |
砲弾痕所在地 |
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| 東京都台東区上野公園 両大師堂 輪王殿 表門 | ||
砲弾痕の誕生地と誕生日 |
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| 誕生日 慶応4年(1868年)5月15日 上野戦争の時 移築前の輪王殿の門 | ||
| 弾痕の誕生地や門の履歴について、門の脇設置の高札を拝見いたしますと、 |
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現在の、公園内噴水池辺りに、本尊薬師如来を奉安する、門を備えた根本中堂があり、その後方(現国立博物館)に本坊があって、そこに東叡山の山主である「輪王寺宮法親王」が居住していた。 敷地は、3500坪と広大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のためことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。 この門はその焼け残った表門である。 明治11年、帝国博物館(現東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのに伴い、門は現在地に移築した。 門の構造は、切り妻造り、瓦葺云々、中略。 門には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦争の激しさがうかがえる。 (国指定重文、台東区教育委員会説明文) |
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| と説明されています。 |
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| 門の砲弾痕を近写 | 砲弾痕でえぐられた門扉の一部 | 砲弾痕を接写 |
| 上野戦争で、最も威力を発揮したのが、大砲アームストロング砲とのことでしたので、その痕跡を探していましたが、ついに、それらしきものと面会しました。 その痕跡の部位と数を見ますと、目に付いたものだけでも門に向かって |
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| 右の扉に 大砲砲弾痕 3個 小銃器弾痕 3個 | |
| 左の扉に 小銃器弾痕 2個 | |
| 左潜り戸に 大砲砲弾痕 1個 小銃器弾痕 4個 | |
| を数えましたが、見落としがあるかもわかりません。 4個の、大砲砲弾痕は、門扉の板を撃ち抜いていますが、その大きさは直径10センチ位のものです。 ですから、これはカノン砲や四斤砲の弾痕と見るのが正しい見方でありましょうが、私は常々アームストロング砲の弾痕を見たかったものですから、当該砲の弾丸が破裂弾であることも忘れ、門の痕跡の数と迫力、威力を見て、勝手に同砲の痕跡と思いこむ事に致しました。(勝手の思いこみ 汗) 上野山の戦いでは、山の西方の不忍池を隔てた本郷台地に、アームストロング砲を所持する佐賀藩等がいて、戦い半ばにお山めがけてぶっ放し、その事で勝敗の旗色が決定したと聞いています。 また、その場所から、当該輪王寺の門までは、いずれの砲を用いても軽がるの射程距離であります。 銃器の研究が足りませんが、私はここでも、心の中で、攻守の兵となり、指揮官となって、不忍池と国立博物館の間を、早足や歩伏前進を想定徘徊して楽しませていただきました。 実際、佐賀藩のアームストロング砲は、鉄丸弾ではなく「椎の実形破裂弾」を発射できるもので、弾丸飛行距離は4〜5000km位の性能を備えていたとの事であります。 上野戦争では、この大砲が佐賀藩によって、富山屋敷に一門、加賀屋敷に一門が備えられ、富山藩のものは不忍池を飛び越え上野山中の「吉祥閣」に、加賀屋敷のものは「中堂」に命中して建物もろともの粉砕を致しました。 同戦いの砲撃戦は、現松坂屋付近や三橋の辺りから、黒門突入兵の援護射撃も行われていますので、輪王殿山門の被弾は、その砲撃が門に届いての弾痕ではないかとの気持ちも致しました。 色々の夢想を楽しませていただきましたが、司馬遼太郎氏や森まゆみ氏が書かれる、新政府軍が「広小路の料亭(ガンナベ)から山王台に向かって発射され、山王台の砲との応射された」とかかれています。 結果的に、見学した痕跡は、その事によって誕生したのではないかと、私の夢想を少し曲げてしまいました見学結果でありました。 |
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