| ☆ 変化妖怪刀弾痕跡の探訪 ☆ |
| ☆ 上賀茂神社 「子授かり矢の神話」 |
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| 巫女が遊んだと伝わる上賀茂神社門前の川 | 上賀茂神社 神矢(売店でも売られている) | 上賀茂神社の葵祭 (京都三大祭の一つ) |
| 京都の三大祭りである「葵祭り」も行わている上賀茂神社(京都市北区上賀茂本山339)には、子授かり矢の神話と申しますか伝説や伝承と申しますか、何れに分類が適当か分かりませんが、内容を、 | ||
神社の祭神は賀茂別雷命であるが、玉依姫と云う神社の姫様が神社近くの川で遊んでいると、上流から丹塗矢が流れて来たので拾ってきて、枕元に置いて寝たら妊娠して子が生まれたのがその人である。 |
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という目出度くも有難いお話であります。 |
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| 川遊びは姫の「神社外遊興」であり、「矢」と申すのは男性、矢を枕元に置いたという事は「同衾」、そして結果の懐妊等で、この表現は、流石文豪紫式部も参詣されていた所縁の、品格高貴が漂う神社様ですので、お話も品よく伝わっているのではないか?等と思ってしまいました。 又、このお話は神社様から直接お聞きしたのではなく、境内に居られ、神社にお仕えされているのではと思える装束をした方からお聞きした立ち話ですので、少々の聞き違えもあるかも分かりません。 同社は斯様な一面も合わせ持たれる有難い神社として、氏子様を始め、現在人の結婚や子授かり等の、あやかってのお参りが絶えない程の信仰を得ておられるお宮様であります。 |
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| ☆ 京都方広寺 「国家安康 君臣豊楽」の鐘に宿る淀君の亡霊 |
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| 方広寺 鐘楼 | 国家安康の鐘(白ペンキでまーかーの部分 | 国家安康の鐘内側 |
| 京都市東山区大和大路通七条上る茶屋町527−2方広寺様には、慶長19年作、彼の有名な「国家安康君臣豊楽」の大釣鐘が御座います。 この鐘の銘文は、清韓長老作で、救世の悲願を込められたものでありましたが、崇伝等によって、文中の「国家安康君臣豊楽」等を曲解して読み取られ、徳川家への呪いを込めた文章であるとして、豊臣氏討滅への口実に利用されてしまいました。 ところが、豊臣家滅亡の後、この鐘の内側に、白いくもりの文様が2個浮かび出て、特に東側のものは人が立っているように見え、「これは淀君の怨霊が幽霊になって出てきたもの」と云われるようになりました。 ちなみに、この鐘はとてつもなく大きく、写真左に写す人物と比較していただければ、その大きさも分かっていただけると思いますが、高さ4,2m、外径2,8m、厚さ0,27m、重さ82,7tある大きなものであり、淀君の怨霊民話は、京都市民の間に広く伝わっています。 お寺様に依頼して、鐘の内側を拝見させて戴きました所、薄白い文様で「淀君様」は現れでおいででしたが、写真に収めようと写真右のとおり努力致しましたが、そこは妖怪、恥ずかしがって姿を消されてしまいました。 |
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| ☆ 京都 貴船神社「丑の時参りの五寸釘痕」 |
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| 貴船神社参道 | 貴船神社 | 奥の院参道と杉の大木 | 貴船神社奥の院 |
| 京都の奥座敷といわれる、京都市左京区鞍馬貴船町に「貴船神社」が所在しその神域の古杉の木に、「丑の刻参り」で五寸釘で打ちつけられた藁人形があるとのことです。 怪談研究家?にお参り方法を聞きますと「丑の刻に参る」「白い着物を着る」「頭に3本のローソクを立てる」「下駄をはく」等、色々とルールがるそうですが、私は未だやってみたことは御座いません。 このお話は、もともと私が住む宇治(京都府宇治市)の里の「橋姫伝説」が元話で、そこから段々と変化して遂に「貴船の刻参り伝説」となったそうです。 そういえば、宇治の橋姫様も地元の方には「縁切り神」として大層恐れられていますが、果たして、その効能はいかがなものでしょうか? このような行為は、刑法上「不能犯」といいまして、犯罪の構成要件を欠くため罪となりませんが、所有者のある杉の木に五寸釘を打ち込むことは、「器物損壊罪」になりますので実行には注意いたしましょう。 刻参りに、神社様が関係しておられる訳ではなく、神域の神秘さと、古くから伝わる伝説民話の類を紹介した記述ですので、他意は御座いませんのでよろしく御理解下さい。 貴船神社の横手には、牛若丸で有名な「鞍馬寺」があり、そこでは「火祭り」や、真剣を用いた「竹伐会」等が勇壮に行われますので、散策してみてはいかがでしょうか。 霊気に触れてはと思い、痕跡の捜索や探索をして確認はしておりませんが、知る人は「確かにその形跡はある」と申されますので、妖怪の痕跡ではなく、人為的痕跡としてこちらのページにアップ致しました次第であります。 写真右二枚が不鮮明なのは、雰囲気を味わうため、夜明け前にお参りして撮影したため、撮影露出を間違えて、鮮明さを欠いたもので、身ぶるいや霊験による不鮮明ではありません。 |
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| ☆ 羅生門 渡辺綱対妖怪の決闘伝説 |
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| 羅生門跡 この地は、平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路と、九条通の交差点に当たり、平安京の正面として羅生門が建てられていた。門は二層からなり、瓦葺屋根の上には鳩尾が金色に輝いていた。 正面約32メートル、奥行約8メートル、内側外側とも5段の石段があり、その外側に石橋があった。 1970年正月、山陰地方に源義親を討伐した平正盛は、京中男女の盛大な歓迎の中、この門から帰還しており、ここは平安京の正面玄関であると共に、凱旋門でもあったわけである。 しかし、平安時代の中後期右京の衰え、社会の乱れとともに、門も荒廃し、盗賊の棲家となり、数々の奇談を生んだ。 芥川龍之介の小説を映画化した「羅生門」は、この名を世界的に有名にしたが、今は礎石もなく、明治28年建立の表石を残すのみである。(要旨京都市現地表札) |
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| 羅生門に関する伝説は多く、中でも有名なものは「源頼光の四天王渡辺綱と妖怪の決闘」がありますが、ここでは私たちが肝試しの夜、村の先輩青年団の方から聞かされた記憶話をまじえて書きとめます。 怪談噺とは、羅城門に妖怪が棲むと聞いた渡辺綱が、妖怪退治に出向き、戻り橋の所で妖怪に遭遇し、摘みあげられた空中戦の末、妖怪の右腕を切断、綱は手が離れたので、北野天満宮に落下したが腕だけは持ち帰ったというものでした。 羅城門と戻り橋の位置や、北野天満宮の位置に相当の距離があり、空中戦にも問題がありそうですが、そんなことを言い出しますと先輩に叱られ、その方が恐ろしいので黙って聞きました。 話は更に、その話を聞いた祈祷師が、「妖怪は、7日の内に、必ず腕を取り返しに来るので、家を開けずに守るように」とアドバイスを致し、綱も、家の戸締りして居籠り、腕の保管と守りに入ります。 予想通り、妖怪は、腕の奪還にやってきましたが、綱は頑として戸締りを解きませんでしたので、妖怪もさるもの、綱の弱点である「情」に訴え、綱の親に変化してやってきますが、後はいかがなるか読者様の判断にまかせます。 文中、先輩達の話のように、夏の夜静かに柳が揺れるとか、生暖かい風、妖怪の形相等形容詞を省略しましたので迫力に欠ける点もあり、映画や芥川小説と異なる点も御座いますが、怖いもの見たさで結構聴き入っておりました。 さて、当室と致しましては、綱が空中戦で妖怪の腕を切り落とした「刀痕」を見たい願望を持ちますが、結果的に「腕」は妖怪に奪い取られましたので見ることが出来ず残念な結果となっています。 |
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| ☆ 京都 「東寺夜叉神立像の槍傷」 |
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| 槍傷を受けた「夜叉神様」は、京都市京都市南区九条町「教王護国寺(通称東寺)」境内の、一辺180cm角の二つの祠に居られます。 神様は、男女一対であるのに、何故か二つの堂に別居されておりまして、その大きさは、各、腰上の高さ1,5m位で、木製であられます。 夜叉神様が同寺に来られたいきさつや、聞いて下さる願い事につきましては、写真説明板のとおりでありますが、平素は戸締りされ、像を拝見出来なくなっています。 ただし、毎年1月、堂内のお掃除をされますので、その時扉が開放されますので拝見出来ますが、待てない人は、堂の前が薄い曇りガラスとなっていますので顔をつけてみますとお像を拝見出来ます。 さて、槍傷の話ですが、都の入口に居られた夜叉神様は、拝んで通らない旅人に悪戯等していましたが、その夜も平素の通り、拝まずに素通りた旅人に「妖怪に変身」して驚かそうとしました。 ところが、旅人は大層な臆病者で、持っていた槍で、支離滅裂、忘我、無我夢中の状況で加減知らずに、妖怪を滅多突きしました。 |
| 後日、妖怪を確認すると、それは妖怪ではなく夜叉神様で、その身体に滅多突きされた槍傷があったというお話であります。 私も実際に夜叉神様を拝見し、又、その時購入しました書籍「国宝東寺」にもその写真が掲載されていますが、それはすごい傷でいたいたしく、又憤怒の形相顕著でありました。 夜叉神様の写真撮影が出来ませんので、男神の方をスケッチしていますのでそれをアップします。 どうしても現物写真を見たい方、怖いもの見たさで自制できない方は管理者にメールを下さい。 |
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| ☆ 京都 「秘仏歓喜天に残る刀傷伝説」 |
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天下分け目の戦で名高い天王山の麓、京都府乙訓郡大山崎町に「山崎聖天観音寺」が所在します。 寺院は、案内板に、要旨「平安時代(推定)と言われ、江戸時代前期に中興開山、後、禁門の変で一山灰燼となったが、明治期から徐々に復興した」と説明されている、広大伽藍の寺院様です。 守り本尊は「大聖歓喜双身天王(歓喜天)」で、商売繁盛、夫婦和合の仏として信じられています。 さて、刀痕ですが、それは男神女神が一つ台座の歓喜天様の台座部分に二筋(二太刀)の跡が残っているとのことであります。 しかし、歓喜天様は秘仏との事で、拝見出来ませんでしたので、伝聞となりますが、そこで聞知した話を書き記します。 |
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| 当痕跡は、表題のとおり伝説で御座いますが、主体が秘仏ですので、謎が謎を呼び「何故刀痕が誕生したか」が関心事となります.。 刀痕が生まれましたのは、当時「歓喜天様は金で出来ている」との風評が立ち、それを信じて盗もうとした泥棒が、「仏様を台座から外そうとして刀を使った時の傷である(寺の日誌伝)」というものだそうであります。 泥棒も、堂から出た所で、金の重さで身動きがとれず、かつ、背中から仏様が離れなかったので、難なく御用となってしまったと申します後の作り話もありました。 更に、もう一説「廃仏毀釈の時、役人が、秘仏とはけしからんと、仏様を壊そうとした時の傷(地元長老様談)」等話は尽きない旅でございました。 境内に、休息していて、住職様や、お参りの長老様等から、種々お話を聞かせていただけた楽しい旅でした。 |
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| ☆ 金閣寺道 竜安寺道 分枝点の首なし地蔵様伝説 |
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表題の場所、すなわち京都市北区北野紅梅町に、首のあたりを刀で切られたお地蔵さまがおられますので、そのお話をいたします。 まず、お地蔵様伝説を、地蔵堂前高札に読みますと、 |
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| 「年月は不詳であるが、古老の語り伝えによると、江戸末期この地域 が、衣笠村と呼ばれていたころのことです。 金閣寺と竜安寺道の分かれ道に当たるこの一帯は竹藪で、人通りも少なく、夜ごと現れる辻切に村人は脅え思案にくれていた。 そこで村人が、「辻切に命を落した人の菩提をともらい、合わせて村人の安全を願っては如何」と提案した者がありました。 村人達は賛同して地蔵様を祀り「辻切除け祈願」をしたところ辻切は止み、不思議を感じて見に行くと、旅人に代わって、お地蔵様の首が身代わりとなって切られていた。 現在は2体しか残っていませんが、以来村人から「身代わり地蔵」として親しまれ、特に、首から上の病に霊験があるといわれ親しまれている。」とあります。 |
| 以上がお、地蔵様伝説ですが、そのお地蔵様は写真の通り、間口1間半のお堂の中におられ、そこは板戸が張られ平素格子戸は閉められています。 それでも、お供えのお花がありますが、実は、格子戸の升目の一個所の板が張られておらず、そこからお地蔵様を拝めるようになっており、写真も写せます。 しかし、堂内には、今も妖気が感じられ、又、他所の地蔵様の多くは平素露天野ざらしで立っておられますが、ここの地蔵様は、堂に隠してあることを尊重して、その写真のアップは遠慮させていただくこととします。 |
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| ☆ 源頼政鵺(ぬえ)退治伝説と鵺の正体 |
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| 京都市二条公園内 鵺(ぬえ)池伝説の碑 | 怪獣 鵺(ぬえ)の想像図 | 源頼政自害地(宇治市平等院内扇の芝) | |||
| 鵺(ぬえ)池伝説の池跡の碑は、京都市上京区知恵光院丸太町下る二条児童公園、鵺神社南側に所在します。 伝説の概要は |
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| 「平家物語」第四によると、院政期とも呼ばれる平安時代の後期、深夜、天皇の住まいでもある内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。 そこで、弓の名手である源頼政がそれを射ち落したが、その怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺であり、その時の血の付いた矢尻を洗ったのが二条公園のこの池だと言われています。(要旨園内高札) |
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| と説明されています。 写真の様に、池の柳が雰囲気を盛り上げるように演出された場所にその碑があり、丁度北側には、鵺大明神の祠も祭られています。 右端の写真は、宇治市宇治、世界遺産、平等院に所在します源頼政自害の地「扇の芝」であります。 同人の武勇伝は、語ると切がありませんが、その最後は平等院であり、自害するに当たり、寺域を血で汚してはいけないとの思いから、扇子を敷き、その上で自害したと言いますから、最後まで理性を持った豪傑であったのではないでしょうか。 このお話に、刀痕弾痕は残されていませんが、読者の皆様、鵺の正体をご存じないのではと思って当サイトにアップしました。 鵺の絵は、歌川国芳と申す画家がカラーで書き上げ、ネット上にもアップされていますが、著作権の問題もあり、ここにアップ出来ませんので、公園内高札の絵(写真中央)で我慢してください。 尚当該伝説は兵庫県伊丹市芦屋町にもあり、そこにも「鵺」の看板があります。 |
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| ☆ 羅城門脇に残る「矢取地蔵伝説」 |
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| 矢取り地蔵様鎮座の祠 | 矢取り地蔵様 | 矢取り地蔵様近辺の風景(東寺) | |||
| 地蔵様は、京都市南区唐橋羅城門町、京都市バス「羅城門」停留所の前の、小さな祠に安座されています。 地蔵様の由来は、地元矢取地蔵保存会様によりますと、 |
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淳和天皇の御代、天長元年に国土早操して農耕の用水も無くなったので朝廷から、守敏と空海の2人に雨乞いの勅命があり、御所の神泉苑の庭で雨乞いの祈祷を行った。 空海の術が守敏に勝ち、三日三夜雨が降り、国土を潤したので、守敏は空海を恨み、ある夜空海に矢を射た時が、地蔵様がその間に出現して空海に代わりその矢を受けた。 石造地蔵の背にその傷あり、その後、人々は「身代わり地蔵」「矢負の地蔵」と呼び長く敬ってきましたが、いつの頃からか「矢取地蔵」と呼ぶようになった。 今のお堂は、約百数十年前唐橋村(地元)の寄進により建立されたものである。 |
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と説明されています。 文中出てきます「空海」とは「弘法大師」の事であり、地蔵様から東方徒歩5〜10分の位置に、同大師をお祭した「東寺」があります。 |
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| ☆ 京都 「淀千両松古戦場に出没の新選組亡霊」 |
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| 淀 千両松戊申戦役の跡地 | 鳥羽の戦 東軍陣所城南宮(伏見区中島町) | 伏見の戦 薩軍陣所御香宮(御香宮門前町) |
| 昭和の時代に、東軍の幽霊が出没しました「戊辰戦争伏見の戦いの千両松古戦場」は、京都市伏見区納所下野、京都競馬場駐車場から競馬場に至る通路に、京阪電車陸橋を跨ぐ陸橋がありますが、その下に所在します。 出没の状況は、京都競馬場が昭和45年頃、戊辰戦争跡地、千両松古戦場を含む場所に駐車場を建設しましたが、着工以来、「イタイイタイ、クヤシイワイ」と、夜な夜な新選組隊士の亡霊が出始め、タクシーの運転手も同所では乗車拒否する事案が起こりました。 工事関係者は、「これは戦地を汚された新選組隊士が怒っている」と判断して、同地の一角を「千両松古戦場として整地」し、東軍兵士を供養されている、市内の「妙教寺」にお願いして、鎮魂の供養をして頂くと、亡霊が出なくなったと言う事です。 刀傷や弾痕は、被害者の身体に発生しましたが、その方の寿命と共に消えてしまい、現在拝見することはできませんが、当時当該話は確実に淀の街に広がった話であり、お寺様が供養された事も事実話でありますので、この話、傷は有りませんが本サイトにアップしました。 |
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| ☆ 山城民話 臆病小僧戊辰東西軍を走らす。 |
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| 事件付近の笠置大橋 右奥の山は柳生村 | 東西両軍が陣を敷いた木津川河川敷 | 笠置元弘の変を示す木津川市の壁画 |
| 京都の南外れで、戊辰戦争には全く無関係と思える「木津川市」に、殆ど山林に囲まれた中を、木津川が流れる「笠置」と申す集落がありますが、そこで、表題の様な戦争民話を耳にいたしましたので、旅の思い出としてここに書き留めますが、その民話と申しますのは、要旨 | |
明治元年正月早々、京都の鳥羽と伏見で戦いが始まり、その噂が笠置に伝わってきたころに、敗走して来た会津の兵隊村にやってきて、夜営を始めたので、ここでも戦争がはじまると村民は大層怯えていた。 その夜村内の少年が小用を覚え、蝋燭で明かりをとり、家の離れの便所へ行ったが、蝋燭の灯が便所の紙に移って家事となり、さらに便所横の竹やぶにまで広がった。 竹は、パンパンと勢いのよい音をたてて燃えだしたが、音を聞いた夜営の兵は、その音を「敵襲」と勘違いして東に逃走してしまった。 闇夜の鉄砲程怖いものはないが、このように臆病な少年が村を救った話がある。 |
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とのことであり、この話は地方誌「山城の民話集」にも収録されているとのことでありました。 鳥羽伏見の戦いにおける戦力は、新政府軍5000、幕府方15000と云うのが定説の様ですが、その幕府方の旗色が悪く、主力は「淀小橋」を落として大方は現八幡市、枚方市を経て大阪に向かった様ですが、私は常々橋を落とされ、伏見に残った敗残兵は、「如何なる径路で京都を脱出」したのかの疑問を持っていました時耳にしましたので、興味深々の民話を心して聞けましたのでここに書き留めておきます。 |
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| ☆ 宇治市の白川村に在する肩斬り地蔵伝説 |
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| 白川村 金色院跡地の碑 | 寺侍に斬られ地蔵様 (高さ50cm位) | 斬られているのが分かるでしょうか。 |
| 地蔵様は、宇治市白川堂ノ山と折居台3丁目の境界道路脇に居られ、左肩から袈裟がけに斬られた「斬られ地蔵様」がおられます。 斬られなさった理由は、2008年1月16日付、地元京都新聞「ふるさと昔話」から要旨を引用させて頂きますと、 |
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| 宇治白川村の寺娘を婚約者に持つ寺侍が、連夜隣の宇治村へ碁敵を求めて通い出しましたので、心痛めた婚約者は、両村を結ぶ勧請坂と申します峠に居られたお地蔵様に、真面目に修行してくれるようお願いていました。 某夜、寺侍が遊び終え、地蔵様の前に至ると、そこに婚約者がいたので、「これはものの怪が誑かそうとしている」と想って斬りつけた。 他方、その夜、娘の夢枕に地蔵様が立たれたので、娘からその話を聞いた住職が、同坂へ様子を見に行くと、谷底に肩を斬られた地蔵様が転がっておられたので、驚いて引揚手厚く祀ったが、寺侍も、地蔵様の夜遊びに対する戒めと思って改心した。 |
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| というものでありました。 時の白川村は、藤原頼道の娘寛子が建立の「金色堂」の外、白山神社、地蔵院等神社仏閣が多々実在した文化村落であり、峠を隔てた宇治村も、平等院を始め、お茶生産の産業と繁華の村で、当時の交流は密でありました。 勧請道は、両村を結ぶ2km位の山道で、この民話をご存知の方や、お参りの方は少数の村人のみとなっており、消滅寸前でありますが、「路傍の一木一石にもドラマあり」とここに記載し、そして私の地元民話を、後に残しておきたい気持ちで地蔵様を紹介いたしました。(お地蔵さまは本日も一人さびしく鎮座されています。) |
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| ☆ 本能寺の変を知らす三本足の鳴き蛙 |
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| 本能寺大宝殿の入場券、 | 本能寺で使用されていた文字を書出しました。 | |
| 織田信長は、天正10年(1582)中国で毛利攻めの羽柴秀吉救援の途中、京都市中京区元本能寺に宿泊し、一方明智光秀も出陣の命を受け先発していましたが、途中信長に反逆し丹波亀岡から引き返し、本能寺に信長を襲い自害させた変事がありました。 当該事案は、発生場所から「本能寺の変」等と云われておりますが、現在は区画整理もあって、本能寺は「京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522」に移築されています。 本能寺様は、変事発生の場所ですから、変に関する数々の遺品等を所有され、希望者には大寶殿で展示下され見学も可能でありますが、その中に珍品として、青銅製三本足で「鳴いて返事を知らせた」と伝わる「蛙の置物」があります。 (後にHONNNOUJIの字解説明の為、蛙が写る入場券をアップさせていただきました) この蛙は20cm位の大きさの物で、同寺宝物殿に展示されており、お参りの方に聞きますと「自分達は当該蛙が鳴くのを聞いた事がない」が、この蛙が鳴くような変事があってはならないとの事でした。 このお寺様では、入場券にもありますとおり、寺名「HONNNOUJI」の「NOU]の字が「能」ではなく、写真右下段Bに記載しますとおりの字が使用されています。 更に、参詣の地元の方に聞きますと、同お寺様は昔(永享5年迄)「本応寺」と申され、それ以後は「本能寺」と申されているが、度々火災を受けられた事から、「能」の字の右の「ヒヒ」の部分が「火が重なるに通じる」として嫌い、火が去ると云う縁起を担ぎ、通称は入場券半券にも有りますように右側に「去」を使って居られるとが多いですとの事でありました。 |
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| ☆ 荒法師 弁慶の引き摺り鐘 |
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| 引き摺り鐘 | 弁慶が引き摺って出来た痕跡 | 鐘が所在する大津市の三井寺園城寺 |
| 滋賀県大津市園城寺町に所在の総本山園城寺には、奈良時代の作と伝わり、重量2250kg、高さ199cm、口径123,2cmの「弁慶の引き摺り鐘」があります。 この鐘は、その昔、俵藤太秀郷が三上山のムカデ退治の御礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。 その後、比叡山延暦寺との争いで、弁慶が奪って比叡山へ引き摺りあげ突いてみると「イノーイノー」と響いたので「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。 その時のものと思われます傷跡(写真中央)が残っていまして、それからというもの、同寺に返事がある時は「突いても鳴らない」と云う不思議な鐘であります。 |
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| ☆ 妙福寺境内に鎮座される「火伏稲荷様」 |
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| 妙福寺境内、正一位妙福稲荷大明神様 | 妙福寺本堂 | 妙福寺境内の「臥龍の藤」 |
| 千葉県銚子市妙見町1465、妙福寺境内の一角に、火伏の神様「正一位妙福稲荷大明神」がおられます。 「火伏」の謂れは、明治30年3月3日お寺様客殿から出火の際、隣の祖師堂の屋根高くに不思議にも、その御姿が現れ、消火された。 又昭和20年3月10日の、米軍による大空襲の時、祖師堂に5発の焼夷弾が命中したが、何れも不発に至り、寺院を始め、付近町内も火災が起きる事がなかった。 (要旨稲荷様横の高札) 説明書きによれば、神様は明治と昭和の代に2回も現れなさったので、御年配の方なら、もしかしたらそのお姿を現認されているのではと思いましたが、さて見た方を捜すのに苦労すると思われましたので、私はお参りして家族安全だけをお願いしてお参りを済ませました。 同お寺様境内には「臥龍の藤」とよばれる老木と、数株の藤が有り、5月頃に開花する「藤の玉すだれ」は見ごたありとの事であります。 |
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| ☆ 栃木 「日光お化け灯篭に残る夜警武士の刀痕」 |
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| 東照宮境内です。 | お化け灯篭です。 | 刀痕部分の接写です。 |
| 日光東照宮とは、徳川家康をお祭りしている神社で、栃木県日光市山内301番地に所在しますが、お化け灯篭伝説と申しますのは、 | |
| 時代はわかりませんが、夜中に警備の武士?が巡回中、うすぼんやりとした得体の知れない「妖怪」が襲ってきたので、武士は所持していた刀で切りつけると大人しくなった。 翌朝、切りつけた物体を確認してみると、そこに大きな金属製燈篭があり、切りつけた時の痕跡も残っていたので、昨夜はこの燈篭が「妖怪に変身」して武士を脅していたことが分かった。 (神社案内人様の高説) |
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| というものであります。 武士と言いますのは「寺侍」のことと思うのですが、考えてみますと、慶応4年4月25日、江戸幕府脱走の大鳥圭介軍が日光に入って、新政府軍の板垣退助軍と一戦を交えようとした時(戊申の役日光の戦い)がありました。 結局その戦争は、板垣、大鳥両将の分別で、東照宮を外してその近郊で行われましたが、日光に籠った大鳥軍は殺気立っており、人形を見ても敵兵に見えたりして、そこに、この様な伝説が生まれたのではないでしょうか? また、水戸の天狗党も日光にやってきたことがありますので、或いはその時の刀傷かも分からず、切られた灯篭だけが知っている痕跡という結果になりました。 |
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| ☆ 日光市 川室に祭られる身代わり地蔵伝説 |
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栃木県日光市川室R279号線脇に、日光の戦いの時会幕軍が陣地を構えたと伝わる「岩谷稲荷神社」と申す神社が御座います。 ある日、川室に住む農夫が、東軍のスパイとして西軍に捕われ、農夫は懸命に無実を訴え、助命嘆願したが聞き入れて貰えなかった。 仕方なく、お稲荷さんにお参りしてお願いしたところ、処刑の日に孤が現れ縄を食いちぎり、農夫を逃がして、自分が農夫に変身て処刑をされた。 一命を救われた農夫は、この岩屋に稲荷神社を祀ったとの伝説がありました。 このお話は、豊岡村誌の伝説話にも掲載されているとの事でありますが、川室の在の方は、皆さんがよくご存じでありました。 この伝説は、スパイではなくとも、戦争中、土着の方が東西何れかの部隊から、荷役、道案内などに駆り出されて働かされた裏打ちの伝記とも思えました。 写真上は当該稲荷様であり、下は「稲荷神社の世話役」をされているH家でありますが、長屋門があり、これが稲荷さんと相まって話題に登場してきましたので撮影してきました。 |
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| ☆ 瀬田ノ唐橋 俵藤太ムカデ退治の伝説 |
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| 大蛇が豪傑を寝待ちしていた瀬田の唐橋 | 瀬田の唐橋伝説モニュメント | 七巻半ムカデに巻きつかれた三上山 |
| 滋賀県は大津市に所在します「瀬田の唐橋」には下記伝説が伝承されています。 伝説 豪傑の誉れ高い秀郷は、誰もが恐れて近寄る事が出来なかった瀬田橋に横たわる大蛇の背をやすやすと踏み越えた。 すると大蛇は爺様に姿を変え秀郷の前に現れた。 何事かと話を聞けば、三上山に7巻半も巻付いたオオムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい人々が大変困っているが、あまりにも凶暴なムカデを恐れて誰も退治出来ずにいる。 そこで、爺様は大蛇に姿を変え、それでも恐れず近寄る勇気のある豪傑を待っていたという。 秀郷は快くムカデ退治を引き受けた。 秀郷の射た矢が見事オオムカデの眉間を射抜きオオムカデはきえた。 この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田唐橋の下にある竜宮であった。 漁民の暮しや豊かな実りある近江の国をこの竜宮から見守ってきたという。云々(現地高札説明から) |
| 以上がその伝説で、時代など全く不明の話でありますが、秀郷とは「俵藤太秀郷」の事でその時代の話と思えます。 |
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| ☆ 妙国寺に里帰りを果たした信長泣かせの蘇鉄 |
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| 妙国寺境内の大蘇鉄 | 蘇鉄がある妙国寺 | 一時移植した滋賀県の坂本城址の碑石 |
| 堺市堺区材木町4丁目1−4、堺事件でも知名度が高い「妙国寺」には、厄除け招福、子宝安産の信仰を集める、国の天然記念物「大蘇鉄」が植樹されています。 10株ある蘇鉄の内、大きなものは株根元周囲1m、最も高い物は高さ7mあり、明治10年の台風で倒されるまでは、この蘇鉄はもっと大きく成長したものがあったという事であります。 この蘇鉄には、大木として人を驚かせるほか、比叡山を焼打ちする等神仏を恐れなかった織田信長を恐れさせた伝説がありますのでここに紹介いたします。 それと云いますのは、信長は全盛期坂本城を築き、そこに蘇鉄を植えたいと当該蘇鉄を同城に移植してしまいました。 ところが、この蘇鉄、夜になると「妙国寺に帰ろう!」と泣き出しましたので、配下森欄丸に切らせたところ、傷口から鮮血が吹き出し、口から火を放ち暴れだしましたので、余りの恐ろしさから、蘇鉄は元の妙国寺に帰されたという事であります。 (妙国寺縁起から) 余談ですが、織田信長が滋賀県は琵琶湖のほとりに、明智光秀に命じて「坂本城」を築きますが、この時、聖域比叡山とその近辺に祀られていた「お地蔵様」をかき集めて城の石垣とした事でも知られています。 比叡山焼き討ち、地蔵様使用と神をおそれなかった織田信長に係わる伝説ですが、当該蘇鉄にはそれだけの貫録を感じました。 |
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| ☆ 天下唯一無比無類 柳生石舟斎の剣 |
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| 柳生石舟斎の一刀石 | 石舟斎、武蔵、重兵衛も歩いた木の根道 | 天岩戸から飛来の岩戸の扉石 |
| 彼の剣豪「宮本武蔵も柳生の村は避けて通った」等よく耳にしますが、その話を信じない方は、柳生村に旅したことがないからであります。 なんとなれば、奈良県奈良市柳生町の村はずれには、写真左に写す大きく二つに割れた大石が、村を訪れる者に睨みを利かせているからであります。 どのような睨みかと言いますと、「柳生流の始祖柳生石舟斎が剣の修業中、天狗と出会い、試合して切りつけたが、後で見ると相手は天狗ではなく大石で、見事に真っ二つに切断されていた」証拠の石が座っています。 この石は、生半可な修行者は恐れをなし、修練達者は切り口を見てその力量に恐れをなし、悪事を思うものには、それを許さないぞとの威嚇の睨みで、皆を引かせてしまう貫禄の石であります。 目測、ゆうに一辺7mはあると思料しますが、将軍も指南役に柳生を迎えたことが理解出来ます。 この直近には、式内天乃石立神社がございまして、そこには高天原の天岩戸から飛んできた、岩戸の大石の扉岩?もありますのでハイキングにお勧めします。 そうなりますと、アクセス情報を付けるのが親切ではありますが、悪い奴は密かに山道から来るため、一刀石は山中にて働いていますので、不慣れな者が案内して迷われてはと思いますので、地元柳生観光協会(家老屋敷0742−94−0002)でお聞きくださいますようお願いいたします。 |
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| ☆ 吉野山 義経が残した馬蹄跡と弁慶の力釘 |
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| 山内 吉水神社境内 義経の馬蹄跡 | 前同、弁慶の力釘(柵内) | 石に鎹糠に釘(銅鳥居後ろの灯篭) | |
| 源義経一行が、頼朝の追手を受けて、逃げ込んだ山の一つが、奈良県吉野郡吉野町吉野山」ですが、中でも山内の「吉水神社」で4〜5日滞在していた事は皆様ご存知の通りであります。 このお山は、桜の名所である他、静御前と義経の別れ、後醍醐天皇が潜行された山、太閤秀吉が花見をした場所でもあり、いつも、その時々の歴史と共にあった事でも世に知られている通りであります。 神社内では、弁慶思案の間や、義経の兜、静御前の着物等、宝物が多く見学出来ますが、屋外にも見所はあります。 それは、なんと言いましても、直角に起立する岩肌に義経が乗馬でつけたという「伝説の馬蹄の跡」があることと、弁慶が素手で岩に打ち込んだと伝説される「力釘」があることです。(写真左、中参照) 伝説の多いお山で御座いますが、他にこのお山には「銅製の鳥居」があり、その前の灯篭に面白いものを発見致しました。 世に、「糠に釘豆腐に鎹」との諺が御座いますが、その灯篭は、石と石を鎹で止められており、珍しく「石に鎹」となっていましたので、これは「豆腐に鎹、石にも鎹」等の諺が生まれ、新名所にならないかと撮影して見ました。(写真下段右) |
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| ☆ (伝) 柳生十兵衛杉に残る伝説の刀痕 |
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| 柳生街道 十兵衛杉案内標識 | 聳え立つ十兵衛杉 村の墓地に立つ。 | 刀痕部分の接写 |
| 奈良県の県道4号を走行、柳生下町に入り柳生保育園辺りで西側の山を見ますと、その山中に、立枯れしているものの、杉の大木が天に聳えているのが見えます。 この杉には、寛永3年(1626)剣豪柳生十兵衛が隠密として諸国回遊の旅に出るのを記念して手植えした杉で、樹齢350年?を経過しているとの民話があります。 ところが、昭和48年の落雷に遭い、現在のように立枯れの姿になったが、この木には「十兵衛が刀を振るった刀傷がある」との事で、早速見学してみますと、幹回り4m位で、民話とおりの貫録を持つ大杉で、幹回りに高く(地上2m位の地点)低く(根っこの部分)3か所に、深さや長さが異なる右写真の様な刀傷と思える痕跡がありました。 痕跡の刀傷は総て、二太刀で出来たV字形であり、他にためらい傷等ありませんでしたので、さすがに十兵衛の剣は、同じ箇所に狂いなく2度打ち込まれて寸分の狂いもなくV字刀痕が出来ている事が分かりました。 現在は2011年であり、十兵衛が旅に出たのが1626年と致しますと、その時「苗木」が植えられたとしても391年経過しており、ますのに、樹齢35年とは、落雷で木の成長が止まってしまった時を計算しての事でしょうか?、一体十兵衛は何歳で旅に出たのでしょうか? 伝説の見学には、先ず伝説を無条件に信用する事が心得の一つであり、矛盾の深策などもってのほかの事と感情はそこまでとしました。 柳生村は、現在も剣道が盛んで剣道場等も目に付く他、同村には「柳生石舟斎の一刀石」、同門と伝わる「荒木又衛門の首切り地蔵」そして当該「十兵衛杉」と、剣に纏わる伝説の宝庫の様な土地であり、柳生フアンにはたまらない聖地であろうとの気がしました旅でありました。 |
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| ☆ 天野八幡宮に残る神仏分離伝説 |
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| 写真左 天野八幡宮鳥居 写真中 鳥居の右の足を撮影 写真右 鳥居の右足の一部を拡大 |
| 岡山市北区青江3−2−1には、鹿田荘12ヵ村の総鎮守をされておられる「天野八幡宮様」が鎮座されています。 同神社へ参拝致しましたのは、同市内の刀痕弾痕の旅の途中、タクシー運転手さんが、「その様な場所なら面白いところがあるよ」と案内下さったのでお参り致しました。 社に至ってのガイドでは、「この鳥居に向って左足には、な南無妙法蓮華経の有難い刻字が有ったのですが、明治期の神仏分離政策で、その部分を削り取る事になりました。 そして、石工がその作業を始めたところ、「急な腹痛」に見舞われ寝込見ましたが、人々はその事を「神仏の祟り」として受け取り、以後、後に続く作業員が無く、現状のままとなっている霊験あらたかな鳥居ですとの事でした。 そこで、鳥居の文字を見ましたが、写真中や右のとおり、何か細工で削り取られた様な跡や、コンクリートで細工をした後は認めましたが文字の解読は出来ませんでした。(以前は読み取れたそうです) 参詣時には雨が降っていて、写真も運転手さんに傘をさしてもらって写す状況で、辺りはほの暗く、降る雨が、気温を下ろしつつ鳥居の足に伝う異様な雰囲気で、早々に現場を引き揚げました。 帰宅後、ネット検索で、当該伝説は確かにある事を知りましたが、興味のある方は一度見学されてはいかがかと案内致しました。 (お参り撮影の日2011年10月12日午後5時30分 雨時々曇り) |
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