| ☆ 幕末外刀弾痕の探訪 目次 ☆ |
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| ☆ 弾痕が残る最上義光の兜 |
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| 山県市 霞城(公園) 二の丸東大手門 | 最上義光使用 弾痕の兜 | 弾痕部分を接写(弾傷は下の方) |
| 山形県大手町1−53、最上歴史資料館に、最上義光が長谷堂合戦の時に用いて、敵の銃弾を被弾し、その痕跡が残る兜が展示されています。 「長谷堂の戦」とは、世に云います「関ヶ原の戦」が有った時、奥羽でも「西軍となった上杉軍」と、「東軍となった最上軍」とが、出羽の国の長谷堂で戦った戦を云います。 展示品は、その戦で最上義光が冠っていたもので、名前を「三八間総覆輪筋兜」と云うそうですが、簡単に説明致しますと、兜の縦縞が「38筋」あるという意味のもので、この造りの兜鉢は、室町時代には上級武士が好んで用いた形だそうですが、当該兜には、織田信長から拝領した由緒あるものとの事でありました。 さて、痕跡の状況はと云いますと、兜の前面の、中央の利剣飾りと、クワガタ飾りの右の部分に、直系1cm位の弾丸によると思える窪み傷となって、武士が勇気の誉とする「向い傷」となって、写真右に写しますとおり「2個付」いていました。 聞きますと、この傷は「直江兼続」軍との交戦によって誕生したそうですが、その傷跡を見て、何故同じ場所に2個連続して付いているのか、兜の材質は何か等については不明でしたが、だからと云って、舘にお尋ねすることもせず、ただ戦場の場面を夢想して楽しませていただきました。 |
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| ☆ 大久保利通暗殺 受難の馬車に残る刀痕と血痕 |
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| 大久保利通被害時の馬車 | 馬車右客席を鋭利な刃物で刺した様な穴 | 馬車左側の刃物跡の様な擦り傷 |
| 岡山県倉敷市林、修験道総本山御庵室「五流尊瀧院」に、大久保利通が暗殺被害を受けた当時の馬車が保管されている事を知り、見学させていただきました。 馬車は、写真のとおり、室内に展示されていましたが、屋根付客席2人、御者2人乗車用のものであり、聞くところによりますと、その馬車に受難時の「刀傷」「血痕」等、惨劇の痕跡が見られるとの事でありました。 見ますと、刀傷の方は、写真下段中、右、に写しますとおり、それらしきもの二か所を認めましたが、血痕は、同車が木枠内展示で、撮影は許されましたが、接近拝見は禁止されていましたので、外見上はそれらしきものを見たに終わりました。 一説には、大久保は馬車から降りた車外で刺殺されたと聞きますので、痕跡は馬車の外回りにあって酸化してしまったのかも分かりませんが、馬車そのものが、それほどの年代を経てきたもので時代物でありました。 尚、同人は、東京都港区青山、青山霊園に眠っておられます。 |
| 紀尾井坂の変 1878年(明治11年)参議兼内務卿大久保利通が東京麹町の紀尾井坂で暗殺された事件。 西南戦争で維新の三傑木戸孝充、西郷隆盛を失った大久保は、岩倉具視と結び、内務省を中心に独裁政治を敷いた。 これに対し不平士族や士族民権家達は不満を募らせていた。その結果、78年5月14日大久保は馬車で自宅から赤坂仮皇居へ向かう途中、紀尾井坂で、待伏せしていた石川県士族島田一郎等6名に惨殺された。 その「斬姦状」には、民権の抑圧、国財の乱費等政府の失政五カ条が指摘されていた。(百科事典より) |
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| ☆ 愛知 大樹寺に祭祀される徳川家康と刀痕の貫木 |
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| 大樹寺の碑石 | 大樹寺の山門 | 大樹寺門扉内側の閂 |
| 徳川家貫木神を祀られる大樹寺は、愛知県岡崎市鴨田町字広元5−1に所在します。 徳川家康と大樹寺並びに同寺院が神と奉る「門扉の貫木」の関係を同寺のしおりにみますと、要旨、 |
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| 桶狭間合戦に、19歳で今川義元側に組して参加した家康は、義元が信長に討たれてしまいましたので、自決を決意して大樹寺に逃れて来ました。 その時13代住職が、同人を諭して自決を思いとどまらせ、家康を追跡してきたの武士の一隊と戦いましたが、特に寺僧の一人「祖洞和尚」が、門のカンヌキを引き抜いて70人力で戦い敵を退散せしめた。 後に、家康は当該カンヌキを、立志開運「貫木神」と命名し、今も大樹寺に安置されている。 |
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| と説明されています。 神となった貫木は、長さ159cm、10,3cm角のものですが、神様でありますから常時非公開となっており、その収納祠やカンヌキ収納箱は撮影禁止となっております。 風評では貫木に、当該戦の時の刀痕も付いているとの事から、特別に祠だけでも撮影を願いましたが許されませんでしたので、神様の方ではなく、神様と同じ現在の貫木を撮影して来ました。(写真右端) |
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| ☆ 愛知 緒川城遺構「乾坤院総門に残る刀痕」 |
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| 緒川城遺構 乾坤院の 総門 | 総門の刀傷 | 総門の刀傷 |
| 愛知県知多郡東浦町緒川に、宇宙山乾坤院と申すお寺様があり、その「総門(写真左)には刀傷が残っている」との情報頂き、探訪して写真左の総門や写真中、右の形状の痕跡を見学してまいりました。 このお寺様の門は、現地教育委員会高札によりますと、山号を「宇宙山」とされている曹洞宗別格寺院で、総門は1630年位の建造物であり、平成17年東浦町の有形文化財となっているとありました。 しかし、境内の木陰で冷を求められていた、地元農夫の方にお聞きしますと、お寺様の説明板に追加して |
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| この門は、数年前までは、今の緒川城跡地の方にあったのを、現在地に移築されてきたと思っている。 門の傷については、そこに傷がある事は聴き知っているが、それが何の傷かまでは知らない。 |
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| との事でありました。 聞きました「この門は元々緒川城の跡地方面にあった」との事が気がかりで、即お寺様寺務所に向かいましたが、さすが宇宙山、呼べ度叫べど人の気配はすれど影はなく、何方も出てきて下さらず、その事を聞く事は出来ませんでした。 しかし、申されるように緒川城にあったのであれば、同城は、徳川家康の生母於大の方が、城主水野忠政の娘として誕生したお城でもあるとの事であり、織田信長を始め、三河武士が群雄割拠した勢力争いの痕跡ではと大きな興味が湧き、図書館や資料館にも寄りたかったのですが叶わず引き揚げた残念の探訪でありましたが、確かにそこに刀傷があった事だけは確認したことを記録して置くこととしました。 |
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| ☆ 長浜大通寺に残る長浜城大手門(矢の根門)の痕跡 |
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| 大通寺の台所門(矢の根門) | 門扉釘隠し下の矢尻痕様痕跡 | 門扉弾痕様痕跡 | |||
| 矢の根門は、滋賀県長浜市元浜町 大通寺に所在しております。 同寺には、文化5年(1808)起工され、33年を掛けて完成され、今は閉門されていますが、市の指定文化財となっている、総欅造りの大きな山門が本堂前に聳えております。 此処に言います「矢の根門」は、その大きな門に向って左側にあり、通常観光客等はこの門を潜って境内にお参りしますが、「矢の根門」とは通称で、お寺様ではこの門を「台所門」と名付けておられます。 その謂われは、この門は、元々旧長浜城の追手門であり、織田信長が京都の本能寺で討たれた後、明智の軍勢が、長浜城に押し寄せる戦があり、その時の矢弾の跡がこの門に誕生しました。 お寺様にお聞きますと、「戦の後の長浜城取り壊しの際に、その追手門が痕跡と共に、ここ大通寺に移築されてきたものであります」とのことでありました。 参考、(当該門は、「長浜城大手門」とか追手門」とか申されることがありますが、当サイトでは、寺様高札に記載のとおり「長浜城追手門」として記載しております。) |
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| ☆ 滋賀 織田信長「比叡山焼討ちを告げた破れ鐘」 |
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| 破れ鐘全景 | 破れ鐘正面から撮影 | 破れ鐘後方から撮影 |
| 織田信長の比叡山進攻を告げた「破れ鐘」は現在番地名は未調査ですが、大津市坂本3丁目のJR湖西線比叡山坂本駅の駅前、「坂本石積の郷公園内」に所在します。 高札によりますと、元亀2年(1571)9月12日の明け方、突如として、織田信長の軍勢が押し寄せるのを発見した土地の古老は、村人に急を告げるため、生源寺の釣鐘を力の限り乱打して異変を伝えたが、何分にも不意打ちの為全山灰燼に帰した。( 世にいう「比叡山焼き討ちである。) その際、あまりにも強く打ち鳴らしたため鐘にひび割れが入って不思議な音色になり、それ以後、この鐘は「破れ鐘」と呼ばれてきた云々。 この鐘は元々比叡山延暦寺の直轄寺院であった、大津市坂本6丁目の「生源寺」にあったものを、大津市誕生の記念として現地に移されたとのことであります。 釣鐘の大きさは、高さ1,2m直径0,6mあるとのことでしたが、 探訪時、その割れ目を探して見ましたが発見できず、地元の長老様にその事を尋ねますと、「傷は分からんが、撞いてみるとその音で、明らかに割れている事が分かる」との事でありました。 では、その鐘はいつ撞かれるのかお聞きしましたが、4〜5年前からその音は聞いていないとの事でありましたので、何か行事の時にしか鳴らさないものと理解しました。 おそらく鐘の製造過程において、何らかの事変があって、元々割れていたか、後に割れたかしたのだと思いますが、その理由が比叡山攻略に纏わる伝説で、戦いの緊迫状況下で必死になれば「鐘でも割れる」との人力伝説を信じることにして、この伝説話、妖怪編ではなく本ページにアップいたしました。 (要旨 現地高札) |
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| ☆ 大津事件 歯こぼれしたサーベルと止血のハンカチ |
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| 写真左 大津市歴史博物館 企画展「大津事件」の図録(津田巡査等が写っています。 写真中 津田巡査が使用のサーベル(図録から模写) 写真右 大津事件勃発地 ロシア皇太子ニコライが受難場所(大津市京町二丁目の碑石) |
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| 大津事件 明治24年(1891)5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライは、大津遊覧の帰途、前記写真説明の場所で、警備中の津田三蔵巡査に切りつけられました。 津田巡査が用いた刀は、明治22年に関物をサーベルに改良したもので、皇太子には二太刀切りつけましたが、致命傷を与えぬまま人力車車夫に取り押さえられ、サーベルを落としてしまいました。 そればかりか、今度は落としたサーベルを拾った車夫に切りつけられて自分も負傷してしまう、明治版「刃傷松の廊下」の様な結果が生まれましたが、切り付けた動機や思想は不可解な点が多く、未だ不明のようでした。 サーベルの刃こぼれは、入手の図録にも説明(写真ではサーベルしたの部分)されていますが、中央より剣先の部分(刀の物打部分)に多く見られ、それを見る限り、ニコライの怪我は相当なものであったのではと思いました。 結局、ニコライは軽傷でありましたが、大国ロシアの脅威に怯えた日本政府閣僚達は、当時の刑法の「皇室に対する罪」を適用して、津田三蔵巡査を死刑にしようと画策しました。 しかし、時の大審院長児島惟謙は、それが外国の皇太子には適用されないとして、通常の謀殺未遂罪で裁く事を主張しました。 結局、5月27日大津地裁で開かれた大審院法廷で、裁判官達は児島の主張とおり、謀殺未遂罪を適用し無期徒刑の判決を下しました。 写真は、同事件の遺留品等でありますが、刀痕を追う当サイトにとって、刀の方に「皇太子襲撃の刃こぼれ」と云う形で痕跡が誕生しましたので当サイトにアップ致しました。(要旨大津市歴史博物館展示資料から) |
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| ☆ 壮絶 武将今井兼平粟津の地に自刃 |
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| 今井兼平の墓(大津市の墓) | 木曽義仲の墓(大津市の墓) | 粟津地域在 粟津神社 |
| 今井兼平は、平安末期の武将で正式名中原兼平と云い、木曽義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光、姉妹に巴御前がいます。 1180年(治承4)義仲の、平家追討挙兵以来各地に転戦し運命を共にしました。 しかし、義仲入京以来後白河法皇や貴族と対立し、鎌倉の源頼朝から追討軍を出され、1184年(寿永3)滋賀県下、粟津の合戦で敗れ、義仲が戦死すると壮絶な後追い自刃を致しました。 では、何が壮絶であったかと云いますと、同人は義仲の最期を見届けると、「これを見たまえ東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」と叫び、刀を口にくわえて馬から飛び降り、刀を頭に突き通して自決たとの伝説が残っています。(要旨現地高札等から) 今井等は「粟津の地」で戦ったとの事で、同地を散策中、偶然見つけましたのが、土地の氏神と祀られていた「粟津神社で、本戦に直接関係したか否かは分かりませんが、土地名と同名神社がありましたので勝手に写してきました。 |
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| ☆ 京都 伏見桃山城遺構「血天井の七ヵ寺」 |
| 源光庵 京都市北区鷹峰北鷹峰町 |
正伝寺 京都市 北区西賀茂北鎮守庵町 |
宝泉院 京都市 左京区大原勝林院町 |
神応寺 八幡市八幡西高坊 |
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| 上 本堂瞑想の間 下 廊下の足跡形血天井 |
上 比叡山借景の庭 下 廊下の手形血痕跡 |
上 本堂内 下 廊下の血だまり血痕跡 |
上 痕跡廊下のある本堂 下 廊下の血だまり血痕跡 |
| 天球院 京都市右京区花園妙心寺町 |
養源院本堂 東山区七条通 東大路西三十三間堂廻り町 |
興聖寺 宇治市宇治山田 |
桃山城が所在した丘陵 現在の観光城が小さく見える。 |
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| 非公開 (特別に天井のみ拝観) | 有料公開 撮禁 (血天井確認) | 白墨の所が血痕。見学事務所へ | 城郭地に建つ観光用桃山城 |
| 慶長5年7月、伏見桃山城におきまして「関ヶ原の戦い」の前哨戦とも言われる、寄せ手の石田三成軍と、籠城約1000人の鳥居元忠軍の戦いが行われました。 結果、鳥居軍は武運なく落城しまして、籠城武士や郎党380名余りが、場内に数棟ありました建造物の廊下等で切腹しましたが、死体は約2か月放置された為、自決場所の廊下に血が染みついてしまいました。 戦の後、この自決者の霊を慰めるため、自決場所廊下の木材を、京洛や近郊の七ヵ寺が持ち帰り、自己の寺院の廊下の天井に用いて供養しているのが、今に残る七ヵ寺の血天井(下の写真の7ヵ寺)であります。 私は、幸いにも七ヵ寺の血痕や血形を拝見させていただけましたが、中には、非公開、見学予約制等の寺院様がありますので、これから見学の方は注意ください。 当時の桃山城は焼け、現在城郭の一角に観光用の城が建設されましたが、諸事情により現在は閉鎖されています |
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| ☆ 京都 「千本釈迦堂に残る応仁の変の刀槍痕」 |
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| 京都西陣に所在の千本釈迦堂です。 | 釈迦堂内 内陳を写す。 | 内陳四本柱刀痕接写です。 | |
| 千本釈迦堂大報恩寺は、京都市上京区五辻通七本松東入る溝前町1305、と申します長い町名場所に所在していますが、京都人は略して「千本釈迦堂」と呼び、付近町名を通称「西陣」と呼んで親しんでいます。 西陣とは、応仁の乱の時、「西軍総大将山名宗全」が陣を敷いた場所からその呼び名が生まれたとのことですが、応仁の乱とは、 |
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| 応仁元年〜文明9年まで、細川勝元と山名宗全の対立に将軍継嗣問題や、畠山、斯波両家の家督争いが絡んで争われた内乱で、戦いは京都で始まり、後、諸国の大名小名が、勝元、宗全のいずれかに加わり、全国的規模に発展し、京都は戦乱のため、荒れ果てて将軍の権威は失墜した。(辞書) | |
| とあります。 又、西陣は、地場産業西陣織の産地で、この通称名が全国レベルで通用する地名となっています。 探訪しました刀痕痕跡は、本堂内陳の、大人一抱えもある四本柱の内の一本にありましたが、乱の時、山名氏の計らいで同寺は焼け残り(寺伝)、痕跡も残ったとの事です。(×印が刀痕で、小〇は槍尻痕と思います。) |
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| ☆ 京都 「東寺不開門(あかずのもん)に残るの矢尻痕」 |
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| 東寺東塀と不開門 | 不開門の一部 | 柱に残る矢じり痕 |
| 京都「教王護国寺」は、京都市南区九条町に所在し、通称「東寺の弘法さん」と呼ばれ、毎月21日には1000を超す日常雑貨や植木等の露店市場が開かれて親しまれております。 建物は、1198年に建立されたとありますが、本日までの長い歴史の間には種々戦に関係し、その中でも「元弘の変」の舞台となったことが有名で、その状況は、門前の高札に、 |
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| 創建時代は不詳、現在の建物は1198年、文覚上人の大勧進によって再建。 建武3年(1336)6月30日、新田義貞が決死の覚悟で、東寺の足利尊氏を攻め、危機に陥った尊氏は門を閉めて危うく難を逃れることができた故事により、「不開門(あかずのもん)」と呼ばれている。 のち、豊臣秀頼が大修理を加えたものと伝えられる。 |
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| とあります。 このとき「新田軍」が、尊氏を門外に誘い出すため、尊氏の悪口をはやしたて、一騎打ちをしようと呼びかけながら、門に向って矢を放ちましたが(山岡荘「八太平記」)その傷跡がこの門に残ったと言われています。(写真下段右) 今もお寺様は、「開かなければ戦いは起こらない」とのことで、名の通り「不開門」とされています。 |
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| ☆ 京都 玉鳳院に残る「応仁の乱の刀痕と矢傷」 |
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| 玉鳳院が所在の妙心寺境内 | 刀痕がある玉鳳院向唐門 | 向唐門西柱の刀痕部分を接写 |
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| 矢傷が残る玉鳳院平唐門 | 平唐門柱の矢傷 | 平唐門門扉の矢傷 |
| 玉鳳院は、京都市右京区花園妙心寺町、妙心寺境内にある47塔頭の一つで、丁度境内本堂の東方に位置する南向き建物であります。 院は、花園院の居所であった場所で、建物に向って西側に「向唐門」、東側に「平唐門」と申す出入り口があり、夫々の写真の通り、先の門の柱には刀傷、後の門の柱や門扉には矢傷が残っております。 刀痕は、お参りの方に、気付きにくい場所にあったためか、一刀を受けた跡が当時の原形と思料出来る形で残っていましたが、矢傷の方は、原形を残しているものや、手などで触れられ、やや変形しているものがありました。 応仁の乱の概要は、本サイト「千本釈迦堂に残る応仁の乱の槍傷」に簡記していますが、本院と千本釈迦堂との距離は東方約1kmしか離れておらず、東西の軍はここを攻守して戦ったのでしょう。 この様に、互いに接近した寺院等は、共に戦争に利用されながらも、戦火を逃れた事は、余程の強運を持った貴重な運命の建物と言えるのではないでしょうか。 |
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| ☆ 東福寺 「六波羅門の矢傷と臥雲橋の刀痕」 |
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| 東福寺 六波羅門 | 六波羅門の矢傷 | 東福寺 臥雲橋 | 臥雲橋の刀傷 |
| 痕跡が残ります、「六波羅門」は、京都市東山区本町15丁目、「東福寺の伽藍」の南の入口に所在し、国の重要文化財に指定されている門のことであります。 痕跡について、寺院様によりますと、 |
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| 「もと、北条氏の六波羅政庁にあったのを移したと伝えられており、その名があります。 1333年(元弘3年元弘の変)の戦いの矢傷が残っているといわれています。 |
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| と説明されています。 同寺には、矢傷の外に、同時に誕生した「臥雲橋と刀傷伝説」がありましたので、写真右2枚のように撮影しました。 刀痕伝説聞知の経過は、矢傷の門の件をお寺様に聞きに上がったところ、寺院様は、 |
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| 矢傷を訪ねる人は多いが、同じ頃に受傷したと伝わる臥雲橋の刀傷を訪ねてくる人は少ない。 | |||||
| と説明下さいましたので、慌ててその傷を探訪してここにアップしました。 申し遅れましたが、この橋の下は紅葉の名所で、時期には拝観の行列が出来る場所です。 |
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| ☆ 建仁寺 「矢ノ根門(勅使門)に残る乱の矢傷」 |
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| 建仁寺勅使門(別名矢の根門) | 矢傷がある勅使門西側の柱 | 東側柱にある刀傷様痕跡 | |||
| 「矢ノ根門」とは俗称で、正式には勅使門といい、京都市東山区大和大路四条下る小松町、建仁寺境内の南にある門の事で、同寺院案内によりますと、 | |||||
| 銅板葺切妻造の四脚門で、鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。 柱や扉に戦乱の矢の痕がある事から、「矢ノ根門」又は「矢立門」と呼ばれています。 元来、平の清盛の六波羅邸の門、或いは、平教盛の館門を移建したものと言われています。 |
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| とあります。 矢傷がある門を移築したのか、現在地で矢を受けた傷かは分かりませんし、さて、戦いとは如何なる場所で、誰が戦ったのか、寺院受付などで聞きましたが分かりませんでした。 それでも、この門は「重要文化財」に指定されており、門を精査して見ますと、柱には刀傷様の痕跡もありました。 矢傷を受けた戦争について、巷では、「承久の変(1221年)」とか、「六波羅の二月騒動(1272年)」とか、「元弘の変(1331年)」等と言われていますが、私も、目下困惑しておるところで御座います。 六波羅と一口に申しますが、南方と北方等があったそうで、其処は現在の何れの辺りか等、多くの疑問を与えてくれますが、痕跡は今も、重要文化財指定の名誉と共に無言で門と共存しています。 |
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| ☆ 鞍馬寺 「真剣竹伐り会式の刀痕」 |
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| 会式会場鞍馬寺の山門 | 竹伐り会式本番 | 竹に残る刀痕 二太刀で斬られていた。 |
| 鞍馬寺は、京都市左京区鞍馬本町に所在する「天台宗」に属した寺でありますが、京都盆地の北に位置し、豊な自然環境を残す鞍馬山南斜面にあります。 同寺は、牛若丸(源義経)が修行した地としても著名であり、小説「鞍馬天狗」にも登場するお寺様であります。 このお寺様で「火祭り」に並んで、その昔、古老師が大蛇を退治した事にちなみ、竹を大蛇に見立てて、真剣を用いて切り合う「竹伐り会式」が夏の風物詩となっております。 競技は、弁慶衣装に身を包んだ僧侶が、鞍馬山を挟んで所在する地域名「近江(滋賀県)」「丹波(京都府)」の二組に分かれ、大蛇に見立てた竹を切る早さを競うものであり、真剣を用いるため余程の訓練がなければ、自分の足を切ってしまう危険な競技であります。 そして、その競技があまりにも勇壮であるあまり、竹に残る痕跡を見落とす方もあろうかと当サイト的にその切り口をアップしておきます。 勝敗は、丹波座が勝てば当年は丹波米が豊作、負けた近江は、量こそ少ないが品質に優れた良質のお米が収穫できるという、どちらが勝ってもいいことずくめの有り難い行事です。 |
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| ☆ 京都 等持院に残る桃山時代の甲冑 |
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| 等持院山門 | 桃山時代の兜と鎧 | 寺院内足利尊氏の墓 |
| 桃山時代の甲冑は、京都市北区等持院北町 等持院様所蔵で同寺院に保管展示されています。 この院は、見学の栞によりますと、要旨、「暦応4年(1341)足利尊氏将軍が、天竜寺の夢窓国師に願いして、衣笠山の南麓に創建されたのがこの等持院であり、応仁の乱等の戦乱に見舞われたが、豊太閤が秀頼に建て直させたほど、当寺を重んじられた。」と説明されています。 さて、展示の具足に添え書き等ありませんでしたが、お寺様にお聞きしますと、「桃山時代の作」で、兜は、「鉄黒塗三三間筋兜」、兜名「明鎮珎信家」、「具足は、鉄黒塗五枚胴具足、同名、雪下??」と申す品物との事でありました。 具足が、応仁の乱以後の桃山の作であるそうですが、所々に物打ち傷があり、実戦に使われたは明白でしたが、これが所有者や、使われた戦いの事象までは分かりませんでした。 それでも実践の妖気が溢れる痕跡を残す甲冑でありましたので、本探訪記にアップしました。 |
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| ☆ 大徳寺高桐院に所在する利休所縁の欠灯篭 |
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| 苔むした高桐院参道 | 欠灯篭正面全景 | 欠灯篭裏側の欠けた部分 |
| 京都市北区紫野大徳寺町73−1、大徳寺塔頭「高桐院」、細川忠興公(三斉公)の遺歯埋葬墓地に、墓石として使用されている立派な燈篭があります。 しかし、裏を見ますと、何故かその一角が欠けている個所がありますが、そのことについて戦国の武将や文人にまつわる逸話がございましたので現地高札を借りて説明致します。 その高札には、 この灯篭は、始め、千利休居士が天下一と名付けて愛用のところ、豊太閤、細川忠興の両雄が所望す。 利休居士、その一角を欠き(キズものとして)所望を断り、切腹の折遺品として三斉公に送る。 三斉公80歳の時熊本より当院に持参し墓標とせられ云々 とありました。 このお話は、大阪は堺の「大安禅寺の茶室」に残る「松永久秀が付けた刀傷話」に類似していると思って本サイトにアップ致しました。 なお大安禅寺は、私が訪問時は見学不可、一般公開予定無しとの事でございました。(2009,8参詣時の情報) (情報取得と観賞) 大安禅寺は毎年春秋の「堺市文化財公開」に合せて公開されていました。見学記は別項目に記載いたします。(2011,5,24現在) |
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| ☆ 名刹清水寺本堂に残る信仰の痕跡 |
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| 清水寺本堂と清水の舞台 | 本堂の信仰 堂を廻った跡 | 堂を取り巻く信仰の痕跡 |
| 京都市東山区清水1−294には、「清水の舞台」で知られ、本堂は国宝、仁王門や鐘楼は重要文化財、お寺様は世界遺産となっている清水寺が御座います。 そのお寺様の、本堂の廊下柱と云いますか、柱の名前は分かりませんが、写真中に写す様な柱が、お堂を一周する様に横渡しされた柱が取付られています。 その柱には、幅2cm位、深さも2cm位の筋傷があり、長さを追ってみますと、本堂を一周している事に気づきます。 この傷は、観光客の方には、清水寺の七不思議の内の一つ「弁慶の爪跡」として知られている様ですが、実のところは、「清水信仰の方や、修業僧が御堂巡りの回業修業と祈願の跡」で、清水信仰の信者様にはとても有難い痕跡であります。(寺社様のお話) 云わば、堂廻りマラソンコースのガイドラインの様な役割を果たしたている痕跡であります。 夜間の明かり等、不十分の時と場所での修業は危険をもともないますが、信者様は、柱に杖を当てがって廻ることで、堂内の御本尊様に導かれ、御本尊様と共に修業している気持ちになられるのでしょう。 現在、毎日数千の観光客がお参りされますが、左様な諸作で願掛けや修業される方は1人も居られませんし、又その様な修業を出来ないように通行止めのマークだされておりますが、弁慶さんも「爪跡」等と云われてあの世でくしゃみされているかも分かりませんね? |
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| ☆ 浅野長政甲冑 試撃ちの痕跡 |
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| 浅野長政の兜(試撃の痕跡) | 浅野長政の胴(試撃の痕跡) | 大阪城 |
| 安土桃山時代から江戸時代の人、豊臣政権の五奉行とも云われ、武将であり大名でもあった「浅野長政所有の兜」が大阪城資料館に展示されました。(展示品写生図) 兜の角は、上記図のように3分の2位が、水牛かそれに類する角様のもので造られている様に見え、さぞ重たかろうとその重量感が感じられ、戦場に不向きと拝見しましたが、材質は「桐」でとても軽いものとの事でありました。 この甲冑には、「鉄砲の、試撃ちの痕跡」があるとの説明添書きがありましたので、よく観察いたしますと、その試撃ち銃弾痕の大きさは、直径2cm前後のもので、何れも貫通痕跡はないものが、兜に二個、胴衣に四個あるのが目に付きました。 ある程度の距離から、試しに撃ってみたのでしょうが、製作者は弾が貫通すれば笑いものになる、「ひやひやもののテスト」であったであろうと、その心情を察する痕跡でありました。 展示甲冑は撮影禁止で、当欄では、その写生図をアップいたしましたが、添書きに甲冑の製作者、試しうちの時等の添書きもあれば、もっと楽しく拝見出来たと思いました。 尚、この人物を語る時、当「浅野長政」と、同時代の滋賀県は北近江の戦国(室町末期)大名「浅井長政」と混同されがちですが、私が見学したのは、豊臣政権5奉行筆頭浅野長政の甲冑で大阪城天守閣が所有されるものでありますので宜しくお願い致します。 |
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| ☆ 大安禅寺に残る松永久秀戒めの刀痕 |
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| 大安禅寺 本堂の目測部屋割りの写生図 | 刀痕柱のイメージ写真 | 大安禅寺山門 |
| 堺市堺区南旅籠町東4丁目1−4に、本堂や障壁画が重要文化財となっている臨済宗東福寺派「大安禅寺」が御座います。 この本堂は元々、貿易商人として巨万の富を築き、晩年は豊臣秀吉にうとまれて没落したとされる、堺商人「納屋助左衛門」の居宅を移したものと伝えられています。 建物の特徴は、始めから寺院として建てられたのではなく、書院造りの住宅建築であったものを大きく間取りを変更して、寺の方丈(現本堂)に改造している事が分かったそうであります。 見学時の本堂は撮影禁止であった為、写真左のとおり、部屋見取図を写生しましたが、目的の刀傷は、廻り廊下から「室中」と記す部屋の入口の右の柱に、「松永久秀の刀傷」と説明された場所にありました。 それも、撮影禁止でありましたので、レプリカ柱を使用し撮影して説明致しますと、写真中の説明通りの傷がありました。 この刀傷は、松永が建物の立派と完全無欠なのを見て、「満つれば欠ける」と申して故意に付けた「戒めの刀痕」とされていますが、現実のそれは、極小さな刀傷で、家主に不満があったり、なにかの当りをしたものではなく、真に戒めの傷であるように見学出来た傷でありました。 |
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| ☆ 天晴 豪胆荒木村重 刀串の饅頭を食らう |
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写真左 織田信長、荒木村重初対面の折、信長が荒木に、餅を刀に刺して勧めたのを 食らうの場面図。(写真は「陰徳太平記の挿絵ではなくレプリカ写真を更に転写) 写真中 伊丹市史跡有岡城跡地 (伊丹城)跡の碑石(JR伊丹駅前 写真右 大きな御菓子は伊丹市内某社製パンで、、昆布で刀傷が表現されています。 小形の餅は某和菓子店製で、村重がお餅を口に頬張っている焼印があります。 |
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| 安土桃山時代、伊丹の里の伊丹城に、織田信長に従っていたが、後にその信長に背いたと伝わる「荒木村重」と申す武将がいましたが、ここに記しますお話は、その織田信長と荒木村重が初対面のときの出来事であります。 荒木村重が、江州大津にて始めて信長と対面した時、信長が荒木の忠誠を試すが如く、刀に饅頭を突き刺して差し出したところ、荒木は臆するどころか、手も使わずに口にくわえて平らげてしまいましたので、信長はその豪丹さに驚き同人を家来としました。 今や、写真に移しますとおり、彼のお城でありました「伊丹城は廃城となり、史跡のみしか残っていませんが、この故事に伝わる荒木村重は「明智光秀より4年早く信長に謀反した」との事から、同地では剛胆武人として人気を得ています。 そのバロメーターの一つとして、地元には写真のとおり、荒木が饅頭を頬張る図柄の饅頭、信長が饅頭を突き刺した饅頭の刀痕をデザインしたパン等が市中で販売さていますが、 このお話は、現在に誕生した刀痕として趣があると思いアップ致しました。 |
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| ☆ 奈良 南大門に残る応仁の乱の刀痕と弾痕 |
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| 奈良 東大寺 大仏殿(金堂) | 奈良 東大寺 南大門 | 痕跡が残る南大門の強大柱群 |
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| 南大門の仁王様 | 柱の弾痕 | 柱の刀痕 |
| 奈良の大仏様がおいでの、奈良市雑司町406−1番地、東大寺には、仁王様で有名な「南大門」があり、この門に、松永久秀と三好三人衆が戦いました時のものと伝わる、刀傷や弾痕があります。 その戦いと、同寺の関係を、同寺掲示の年表で見ますと、 |
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| 永禄10年(1567) 5月18日 三好、松永の合戦で戒壇院炎上する。 10月10日 大仏殿、浄土堂、中門堂、唐禅院の四聖坊三好松永の兵火で焼失する。 |
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| 等の記録が見られ、この時が戦場となった最中の様子でした。 同戦いで、多くの堂宇が焼かれる中、南大門は幸いにも焼け残り、その戦いで誕生した刀痕や弾痕が今に残ったようです。 お寺様に、痕跡の事をお尋ねしますと、 |
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| 低い所にある痕跡は、誰かが弾を掘り出そうとした細工によって変形しているものもあるが、高所の痕跡は原形のままであり、門に向って右の仁王様を補修するとき、左腕の中から弾丸が出てきた。 更に、当該仁王様の前の柱の高い場所に、刀傷も見られるが、「なぜそのような高い場所に付いたのかは謎である」 |
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| と申され、同門には、刀痕と弾痕が同居していることが分かりました。 私も、その高い所にある刀傷を見ましたが、すぐに「この刀傷は馬上の武士が切りつけた跡、だから位置が高いのである。」と感働きしましたが、それが当を得ているか否かの自信が持てなかったので、御寺様にその事は言いませんでした。 直径1mもあろうかと思える欅柱に、弾丸が、がっちりと食い込んでいる弾痕跡は、「さすが堺の近場、伝来後間なしによくもこれ程の威力銃を作り上げた」と感服しました。 |
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| ☆ 数馬茶屋 「荒木又衛門 敵討の刀痕」 |
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| 数馬茶屋 | 店内柱の傷(数馬茶屋内) | 敵の討首を洗った池 | |||
| 数馬茶屋は、寛永11年、渡辺数馬と、その義兄荒木又右衛門等が、仇河合又五郎を討取った、日本三大仇討の場所、三重県伊賀市小田町「鍵屋の辻公園」にあります。 決闘は、数馬側4名、又五郎側11名で、数馬方の勝利と伝説にもありますが、取りあず数馬側は仇を待つ間、この数馬茶屋で腹ごしらえの食事をしました。 献立は、祝い膳定食(現1250円 そば、かやくご飯、漬物、それにイワシ2匹を炭火で焼きながら食す)を食べたそうであり、今もその献立がメニューにあります。 イワシを食べるのは、関西弁で「相手をイワシてしまう」、即ち「やっつけてしまう」という意味があります。 刀傷は、店舗中央の柱にあり、何故数馬側がそこに刀傷を残したかは不明でありますが、映画ロケや観光客の人気があり、柱の破片を持つと勝負事に勝てるとの事で、少しずつ削られ、現在の様に大きな痕跡になってしまったとの事であり、店も大いに困惑されておいででありました。 痕跡の場所には、千社札まで貼られていましたが、傷の手当の気持ちでしょうか? 柳生村の柳生街道脇には、首が切れた大きなお地蔵さまがおいでですが、これが「荒木又衛門の試し斬りの仕業」と伝わっています。 彼は、一説に、柳生一門に剣を学んだとの説があるようですが、柳生剣の祖、柳生石舟斎もまた、とてつもない大きな石を真二つに断ち切ったと伝わる「一刀石」の伝説もあり、村の方達はその伝説を大切にされています。 |
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| ☆ 長岳寺 山門に残る肘切伝説と本堂の血天井伝説 |
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| 長岳寺山門(肘切門) | 血天井のある長岳寺本堂 | 血天井(足跡は血の跡です。) | |||
| 「血天井」や「肘切門伝説」のある長岳寺は、奈良県天理市柳本町に所在し、824年に空海が創建と言われています。 「肘切門伝説」とは、某日、刀鍛冶が僧から依頼の刀を鍛え上げて届けましたが、注文の僧から「この刀はなまくらである」と言われ、品物を返却されてしまいました。 その事に立腹した刀鍛冶は、帰り際「なまくらか否かお目に掛ける」といって、山門で刀を振るい見事に門の肘を一刀で断ち切ったとの伝説でありま。 写真上段左の門がそれで御座いますが、現地で実験してみましたところ、足継がなければ門の肘に手が届きませんでした。(私の身長は172cmです。) 「血天井伝説」とは、戦国時代、長岳寺東方の龍王山に大和の豪族十市氏が山城を築きましたが、某日松永弾正に迫られました。 |
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| 「長岳寺本堂でも戦いがあり、切られた十市氏側の武将が血まみれになり本堂に逃げ込み、息絶えましたが、その武将の血の足跡が付いていた縁側の板を、天井に張り替えたものです」と言うことでありました。 近くの資料館に立ち寄りましたところ、付近から刀を打った炉の跡が発見されているとの事で、刀鍛冶がいた事は確からしいですが、私は、何よりも「僧が武器を求めている事」に当時の世相が表れていると思ったりしました。 境内の桜門は重文となっていますが、腰が高く、刀鍛冶も手が届かなかったので挑戦しなかったのかも分かりません。 |
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| ☆ 根来寺に残る「豊臣秀吉根来攻」の弾痕 |
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| 根来寺内 国宝 大塔 | 大塔に残る弾痕 | 弾痕の一部を接写 |
| 弾痕が残る根来寺は、「和歌山県那賀郡岩出町根来2286」に所在します。 ガイド本によりますと、同寺は、室町時代末期には、領地72万石、鉄砲等で武装する根来衆数万に支えられ、寺院数2700を数える隆盛を極めた歴史をもっていたとあります。 天正13年(1585)、秀吉の根来攻めで、同寺の大半は焼失したが、国宝となった大塔や大師堂は焼け残り、今も其処には、当時の戦いの弾痕が残っているとの事でありました。 お寺様が弾痕として張り紙で案内されるのは一個所でありますが、よく観察いたしますと、弾痕は堂の周囲にもあり、更に隣の焼け残った大師堂扉の柱等にも見受けることが出来ます。 特に、張り紙されている痕跡は、多くの人に撫でられ、鮮明さに掛けていましたので、痕跡角度から想定して、廊下の下にも痕跡がないか捜して見ますと、そこに比較的原型を保っていると思料出来る痕跡がありました。 更に、弾痕は大塔ばかりでは無く、向って左の某堂にもあり、それは、宣伝広報されていませんので、そこでも当時そのままの被弾状況を見学出来ますので、お参りの時にはそれも捜してみられてはいかがでしょうか。 |
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| ☆ (伝)島左近着用 血染めの兜忍緒 (岡山県早島町戸川記念館見学記) |
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| 島左近使用血染めの忍緒 | 前忍緒の収容袋 | 久能山所有の島左近の兜の写真 |
| 岡山県早島町大字早島1292、早島町戸川家記念館に、石田三成の重臣島左近を、関ヶ原に討ちとった時、同人が身に着けていたと伝わる「血染めの忍緒」が有るとのことで早速見学してきました。 討ち取った方は、戸川家の祖「戸川達安」で、兜の方は、既に久能山東照宮博物館に寄贈されていますが、対となる「忍緒」は、何故か写真中に撮影のとおり、「兜は久能山へ奉献す、島左近兜、忍びの緒、血痕班々、残暑」の文字入り袋に収納され、戸川家に残ってしまっていたとのことでありました。 同館では、久能山が所持される「兜」の写真を所持されていましたので、その複写の許可を戴けましたので、それを写真右端に添付します。 関ヶ原の戦いは、当時の近代戦であったと思っていましたが、それでも戦場で名乗りを挙げたり、大将同士の一騎打ちが行われていたことがしのばれ、展示品には明らかに「血痕跡部分」が見られたものだけに、戦いの凄さ、残酷さが身に浸みる見学結果でありました。 兜も随分欠けていますが、その訳を知るには久能さんまで行かなくてはならならず、後日話となってしまいました。 |
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| ☆ (伝)宇喜多基家所用の兜の弾痕 (岡山県立博物館企画展 「岡山の戦国時代」 拝観記) |
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平成22年2月11日〜3月14日の間、岡山県立博物館開催、「岡山の戦国時代展」に、武将宇喜多基家着用の岡山県指定重要文化財、弾痕がある「紅糸素懸銀箔二枚胴具足」が展示されていましたので見学してきました。(写真左同展ポスター) 宇喜多基家は、天正9年「はちはま合戦」で流れ弾に当たり戦死された武将と聞きますが、弾痕はその時のものの様です。 (左兜の挿絵) 館添書きを見ますと、桃山時代の作で、宇喜多家菩提寺の瀬戸内市「大賀島寺」様所蔵の物だそうであります。 拝見しますと、弾痕は、素材は分かりませんが写真右写生絵の様に、兜に向かって右側から8mm位の大きさの穴で突入し、左側へ10mm位の穴で抜け出ていました。 |
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| この部分は頭部が入る部分ではなさそうですが、銃弾は頭部を狙ったのがそれたもので、戦いの激しさをうかがわせましたが、痕跡が「真円」でなかったことから、銃も弾丸が切り込むように飛ぶ、螺旋銃方式の物ではなかったように拝見しました。 (兜写生画のアップについて) 展示具足は撮影禁止でしたので、見学した記憶と、同博物館制作、拝観者に配布されていたパンフ(写真左)、及び街角の「企画展のポスター」を参考に写生させていただきました。 |
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