| 幕末一揆と騒動の痕跡探訪記 |
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| ☆ 福島 (会津ヤーヤー一揆) 親方様方に残る打壊しの痕跡 | ||
一揆発生の日 |
明治元年(186810月3日〜12月まで |
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| 痕跡誕生の場所 | 福島県喜多方市下三宮村 肝前屋敷 手代木家の建物 | |
| 痕跡の現在地 | 福島県喜多方市押切 北方蔵の里(移設された旧手代木家の建物) | |
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| 下三宮村肝煎旧手代家建物(北方蔵の里) | 建物南廊下の被破壊場所 | 被破壊場所を接写 |
| 明治元年(1868)の戊辰戦争を最後に、幕藩体制の崩壊で封建制度の下に苦しんでいた多くの農民は、年貢や負債の減免、村役の更迭、自由の要求を掲げて圧政からの解放を求めて立ち上がりました。 「会津世直し一揆」もその一つで、打壊すとき「ヤーヤー」と叫びましたので、別に「ヤーヤー一揆」とも言われています。 対して明治政府は、結局は高圧策に出ることとなり、更に中央集権力の強化の一環として地租の改正などを行いました。 その為、住民の生活は益々苦しくなりましたが、この様な社会情勢が、自由民権運動の基礎を生みました。 (北方蔵の里展示高札) 探訪致しました旧手代家も、この一揆の被害にあい、廊下の柱には斧またはマサカリで激しく破壊した跡が鮮明に残っていました。 写真右に写します、柱の上部に継ぎ目の模様がありますが、これは、移築時、真正な刀痕部分を残そうとして、傷の部分を継ぎ足した名残であります。 |
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| ☆ 福島 (会津ヤーヤー一揆) 西会津旧家に残る打壊しの痕跡 |
| 一揆発生の日 | 明治元年(1868)10月3日〜12月まで | |
| 痕跡誕生の場所 | 福島県耶麻郡西会津町 I,T 様方 | |
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| 写真左 打壊しに会った元肝煎り方(奥の建物、玄関は駕籠で乗り入れることが出来る(乗込)広さがありました。 写真中 水帳箱(肝煎方書類入れ)、検地帳等重要書類が入っている極秘文書入れ。水=見ずに通じる箱です。 写真右 肝煎方台所、鋸で引かれた鴨居、その他の部屋内には手斧の削り跡等多数の痕跡がありました。 |
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| 家屋の打壊し痕跡が残る高橋方建物は、現在も現役中で、家主様の結婚式、最近では音楽コンサートも開かれた大きな旧家であります。 ヤーヤー一揆とは、会津戦争終了後、新政府に肝煎りの選挙権、土地年貢に関する検地帳、年貢帳、名主元帳の取り上げ、農産物自由販売、を新政府に要求した会津全域に発生した農民運動であります。 騒動は、大沼郡付近から始まり会津全土に広がりましたが、当時肝煎りであった高橋様方も巻き込まれ、激しい打壊しに会いました。 打壊しを受けた原因は、一揆が求める検地帳、分限帳、年貢帳、等を要求通り提供又は差出さなかった為に打ち壊されたとの家伝があるとの事でありました。 見学時、家主様が「水帳箱」を提示下さり、「水とは(見ず)の事であり、一揆勢が要求した検地帳等一切が入っていましたが、これを出さなかったため打壊しに合ってしまいました」と説明下さりました。 その他、同家では、畳3畳位の江戸時代の付近地図等も保管されており、拝見しましたがカラー仕上げで立派なものであり、当時の地理等についても説明下さいました家主様に感謝致します。 尚、東蒲原郡八木山にも、当時宿場本陣として使用された大きな建物があり、ここにも当該一揆の打壊しの刀痕があるとの事ですが機会を見つけて探訪させて頂こうと思っております。 |
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| ☆ 福島 伊達郡 (信達一揆) 羽州街道旧家に残る破壊痕跡 |
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| 伊達郡桑折町 遺跡羽州街道 | 打壊し痕跡の残る早田方門 | 痕跡を埋め木での補修跡 | ||
| 福島県伊達郡桑折町に、旧羽州街道の遺跡が通っていますが、同道に側して、銀山経営や新道開削等、地域発展のために尽力された、早田方に町文化財指定の屋敷門が所在します。 羽州街道とは、久保田(秋田)藩が参勤交代の為に整備した羽州(出羽国)を縦貫する主要道路との事であります。 信達一揆とは、江戸時代陸奥の国信夫、伊達両郡の68ヶ所の村が参加して起こった大百姓一揆で、七日八晩にわたり49ヵ村164戸を打ち壊した騒動であります。(要旨、辞典から) 早田家の門もその巻き添えとなったもので、現在はその打壊し痕跡の跡を「埋め木」等して補修されていました、その個所をじっくり観察いたしますと、特に門両脇の柱に多くの傷跡を見ましたが、破壊程度は、門を破壊するという大げさなものではなく、一過性の八つ当たりの様な、又、一揆通過を示すだけの跡の様な痕跡でございました。 |
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| ☆ 栃木 (芳賀郡) 豪農の門に残る世直し一揆の痕跡 |
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| 一揆の発生 = 慶応4年(1868)4月頃 芳賀郡高根沢の農家の門 | |
| 痕跡所在地 = 栃木県芳賀郡芳賀町大字下延生1641 城興寺山門として移築 | |
| 一揆の広大 = 3月29日石橋宿や真岡宿に発生→4月1日宇都宮→真岡に打壊し発生 芳賀郡一帯に拡大 (下野の戊辰戦争年表から) |
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| 痕跡が残る城興寺山門 | 痕跡が残る山門柱 | 鋸痕跡が残る山門の柱 |
| 痕跡が残る門は、元芳賀郡下高根沢の農家の門であり、そこで打壊しに逢ったものですが、その後城興寺に移築されてきたものであります。 戊辰戦争、宇都宮の戦いの頃、同時発生しました、農民の生活処遇改善を目的とした「打壊し運動」は前記場所に発生すると、数日間で宇都宮から芳賀郡に広がって、参加人数も宇都宮領八幡山に集結した農民は3万人に達したと伝わっているそうであります。 戦争に余分な一揆が起こってしまい、新政府軍が鎮圧に出動した(4月9日)とか、黒羽藩が鎮圧の為出動(4月8日)等、当時のこの地域は戦争と一揆の二重の世情不安定で住民不安状態であったようです。 打壊し用具は、傷跡に残りますように、手斧、鋸等農夫が使用する道具でありますが、一揆暴動の特徴として、打壊しを行っても放火」をしなかったことだと感じました。 |
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| ☆ 埼玉 (飯能市) 穀類商宅に残る武州一揆の痕跡 |
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| 一揆発生の日 | 慶応2年(1866)6月13日〜18日位の間 | |
| 痕跡誕生の場所 | 埼玉県飯能市 穀類商様方倉庫 | |
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| 打壊しに会った米穀店倉庫 | 倉庫内階段の被害状況 | 倉庫内柱の被害状況 |
| 武州世直し一揆と痕跡の探訪 慶応2年(1866)6月、武蔵の国秩父郡上名栗の農民「紋次郎」「豊五郎」等が中心となり、同郡や多摩郡、高麗郡の窮民に呼びかけ、同時多発的に蜂起した一揆であります。 一揆の要求は、高利貸的地主、村役人等にたいして、「施金、施米」「質物、質地の返還」等を求めたもので、対象者がこれを拒否すれば、家屋等に対する徹底的な「打壊し」が行われました。 この一揆勢は、横浜貿易に参加した在郷商人方は徹底的に打ち壊す目標を持っていた他、約束した家は壊さない、窃盗、傷害、放火、女犯、他人殺傷の武器を持たない規律を持っていたとの事であります。 地元資料館等の資料によりますと、一揆には、進行に合わせて「参加しない者の家もぶっ壊す」等との風評があり、たちまちの間に数千人が集結参加した状況や、蜂起勢の規律等詳しく説明されていました。 探訪しました穀類商様は、写真の通り、打壊し中断でしたので、早期に要求を飲んだと思えますが、個々の傷口を見ますと、資料館で見た資料のとおり、打壊しに刀等は使用された形跡はなく、もっと大きな工具が使用された様相でありました。 大規模な騒動でしたので、鎮圧は幕府の兵や藩が動き、一揆側の要求もある程度聞き入れられた様で、数日間で治まりました。 (要旨資料館資料等) |
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| ☆ 埼玉 (志木市) 旧西川家潜り門に見る武州一揆の痕跡 |
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| 一揆発生の日 | 慶応2年(1866)6月13日〜18日位の間 | |
| 痕跡誕生の場所 | 志木市本町2丁目 旧西川家 | |
| 痕跡の現在地 | 志木市本町1−1597−6 交差点に面する場所 | |
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| 移築された旧西川家潜り門 | 紋にある打壊し跡の痕跡接写 | 紋の内側を写す。 |
| 志木市教育委員会の同潜り門の高札に、 ○ 当該の門は、本町2丁目西川家の潜り門でありましたが、寄贈を受け現在地に移築したものである。 ○ 門の建築年は、武州一揆の刀の傷跡が扉や柱に見られる事から慶応2年頃と推定します。 ○ 棟高は3,03メートルあり、移築前までは門の両袖に一間の長さの黒漆喰塀が付いていたが、現在残っているのは片方だけである。 ○ 西川家は、当時、酒造業、水車業、肥料業を営む傍ら、引又町の組頭役を務めていた。 とありましたので、被痕跡受傷者方は、財力ありとみなされ、打壊しの対象になりかけたのではないでしょうか。 ここの一揆の特徴は,烏合群衆の暴動では無く、「リーダー(首謀者)がいて、規律があった」とされていますので、裕福又は権力者側との、ある程度の交渉の窓口があったようであります。 痕跡は、母屋ではなく、門を鋸でじわじわと壊していますが、この行為は、裕福層や権力者と交渉する、代表者に外野席から送る応援行動の痕跡の様に見えますので、この痕跡は、当該一揆に規律と話合いもあったとされる説を裏つけているような感じを受けました。 尚、高札にあった刀傷とは、傷に対する表現がその様にされているだけで、形にこだわる私には「鋸の跡」しか見当たりませんでした。 |
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| ☆ 埼玉 (和光市) 市内の長屋門に残る武州一揆の痕跡 |
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写真は、和光市白子3丁目に所在します「武州一揆の刀傷が残る長屋門」でありますが、和光文化振興基本方針策定委員会様は参考資料として | |||
| 「和光市に現存している長屋門は2棟あり、その一つが代々下新倉村の名主を務めた柳下家のものです。 身分制度が厳しかった江戸時代に、武士以外に門を構える事が出来たのは、名主等限られた階層だけでした。 左側の門柱には一揆の時の刀傷が残っています。 |
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| と説明してホームページにアップしておられます。 この門について委員会様資料は、文化財を整理される目的のものですから、隣町志木市が管理されている「潜り門」のように、その門の所在地も「3丁目にあり」としか説明はされていませんでしたが、見学希望者に3丁目等は広い場所では御座いませんので、町内を徘徊して、すぐにその長屋門を見つけることが出来ました。 |
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| 私が当該門に興味を持ちましたのは、同一揆には確かに「人を殺傷する様な刃物(刀)の所持禁止」の規律が有った様に思うのですが、ここに説明されているのは「刀傷がある」とのことでありました。 それで、見学してみますと、その形状はやはり「刀を用いてのもの」の様に感じました。 一揆の流れはここにきて、所帯が大きくなり、川越辺りで一揆勢の分裂行動も始まってきた様子ですが、反して体制側の鎮圧活動も機能しだして活発化してきた様です。 結局、この一揆も、暴力に対しては暴力で、短期間に、300を超る建物が破壊され、双方相当の死者が出てしまったようです。 それで、ここに至った一揆勢は何れのグループかと思い、後に一揆移動図等調べてみましたが、眼のさめるような結果には至りませんでした。 探訪の感想としては、「一揆もここにきて刀を持った」変遷の状況を読み取れるような気がする痕跡でありました。 |
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| ☆ 長野 (安曇野市) 安曇野の等々力家に残る百姓一揆の刀痕 |
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| 一揆名 | 不詳 | |
| 痕跡誕生日 | 不詳 | |
| 痕跡所在地 | 長野県安曇野市穂高等々力 本陣 等々力家の長屋門 | |
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| 等々力家長屋門 | 長屋門入口風景 | 門の柱の刀痕様痕跡 |
| 等々力家は、江戸時代に入ってから郷士となり、この地方を治めるようになり、当地にあった松本藩の鮭、鴨の狩猟場に殿様が野行の際には本陣としての休憩場所となっていたと等々力家パンフに記載されています。 探訪しました刀傷様痕跡につきまして、見学時「百庄一揆の時のものとの伝」があるそうですが、ただ「一揆という概念的な騒動の傷」である様で、その一揆の「一揆名や騒動名」については明確に知ることが出来ませんでした。 同地方には、その昔、大層大掛りな騒動(加助騒動)が発生した歴史があるとの事で、あるいは当該痕跡との因果関係はと思いましたが、その事も不明のままの探訪結果に終わってしまいました。 「加助騒動」は、安曇野市の「貞亨義民記念館」で解説されている様ですので、いつかの見学を思っております。 |
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| ☆ 岐阜 (高山市) 高山陣屋表門扉に残る梅村騒動犠牲者の血痕 |
| 一揆発生の日 = 明治2年(1869)2月〜3月 |
| 血痕跡の場所 = 岐阜県高山市八軒町1−5 国史跡 高山陣屋表門 対して左門扉 |
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| 高山陣屋表門 | 事務室保管、血痕付着部分の門扉(赤丸部) | 現在の門扉 |
| 高山陣屋と梅村騒動 高山陣屋とは、300年を超えて高山市に所在し、全国に唯一現存する郡代、代官所で、梅村騒動とは、前記期間、高山県の知事であった、元水戸藩出身「梅村速水」の、「皇家愛民」を掲げた、勧農商、租税、教育、兵事にわたる、強引に打ち出した新政策が、豪農商の特権を侵害し、農民の負担を増大させました。 その不満の累積が爆発し、現高山市に数千人が集結し暴動化して、飛騨一円に波及し、高山陣屋をはじめ、約400軒が激しい打壊しや焼き打ち被害をうけた騒動であります。(要旨陣屋高札等) 表門の血痕 陣屋表門説明高札によりますと、当該騒動時に、陣屋の門番であった「島内辰蔵」と暴徒が争いとなり、ついに島内が殺害されてしまったが、その返り血が、黒い染みとなって門扉に付いていたと説明されていました。 これが事実を事務所にお尋ねいたしますと、昭和30年頃にはかすかに残っていて自分も確認しており、状況は写真撮影して保管してある」との事でしたので、無理を言って同写真を拝見させて頂きました。(写真中、左門扉の赤丸部分が血痕があった場所です) さらに、島内が同所で殺害された事実は「梅村騒動実記」「飛騨編年史要」にも記載されており、それが人血である事は、岐阜大学の教授2名が証明しているとの事で、なんとも恐ろしい話でありました。 |
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| ☆ 岐阜 (梅宮騒動) R41益田街道に残る打壊しの三態 |
| 梅村騒動発生の日=明治2年(1869)2月〜3月 梅村騒動の痕跡所在場所 @ 加藤素毛記念館に残る痕跡 = 岐阜県下呂市金山町69−5 A 陣屋様方に残る痕跡 = 岐阜県下呂市萩原1373 B 元、柏木家酒蔵に残る痕跡 = 岐阜県飛騨市河合町角川780 (現河合村民俗館であるが目下整備中のため非公開 2009年) |
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| JR金山駅案内看板 | 加藤素毛記念館 痕跡柱は屋内に保存 | 梅村が宿泊した萩原の陣屋付近 |
| 梅村騒動とは 明治維新の後、高山県の知事であった、水戸出身の梅村速水の、皇家愛民、勧農商、租税教育兵事の政策を、強引に打ち出した新政策が豪農商の特権を侵害し、農民の負担が増加し、その不満が爆発して発生した一揆であります。 その規模は、数千人を超え、地域は飛騨一円に広がり、富裕層、知識層方を破壊する打壊しなどの行為が行われました。 @ 下呂市「加藤素毛記念館」に残る痕跡 加藤素毛と申す方は、この地出身で、徳川幕府の日米修好通商条約批准書交換の為、77人の遣米史の一人として派遣され、時の大統領ブキャナンに条約書を奉呈し、その後約7ヵ月にも及ぶ世界一周を果たした国際傑人とのことであります。(要旨素毛記念館案内書から) 加藤家は、祐福層、知識層等に該当して被害を受けた様で、その建物は近日解体されましたが、痕跡の部分は、後に建築されました「加藤素毛記念館」に保管されていましたので、見学させて頂くと、痕跡のある柱は一辺40cm位もあろうかと思える大きなもので、何らかの得物で激しく叩かれた跡があり、騒動の激しさがうかがえました。 同柱撮影済みも、室内展示品写真であり、未だ当ページへの掲載許可を得て居ませんので、掲載は暫くお待ち下さい。 |
| A 下呂市「元陣屋」様方に残る痕跡 土地の代官梅村速水は、地元での騒動勃発を出張先京都で知り、鎮圧と騒動解決の為帰郷してきましたが、途中、「萩原で止宿」し高山の様子を窺う行動をとりました。 その事を知った一揆勢は、梅村に加担した家等を破壊しつつ萩原へ向かい、同村でも梅村を求めて激しい暴動を行いました。 痕跡が残る陣屋様もその一戸の様ですが、私が訪問した時、家主様は偶然か、京都出張中で留守の為、痕跡探訪は敵いませんでした。 よって、御近所様にお聞きしますと、痕跡は「離れの玄関を入ったところの柱にあるのを見た」と教えてくれましたので、痕跡の所在は事実であると分かりましたが、実物見学は後刻となってしまいました。 |
| B 飛騨市「元柏木家酒蔵」に残る一揆の痕跡 北飛騨の名家、柏木徳兵衛氏の酒蔵も打壊しの被害に遭い、柱に斧を振るったと思える痕跡が残っているとの事であります。 同蔵は、痕跡を含め、河合村民族資料館として公開されていましたが、現在は、史財整理の為休館中となっており、私も痕跡を直拝見していませんが、町に問い合わせの結果は「痕跡は確かに所在する」との事であり、再公開を待つ結果となりました。 |
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| ☆ 愛知 (碧南市) 三河大浜騒動殉死僧 「石川台嶺」 血染の襦袢 |
| 血染の襦袢の誕生 | 明治4年三河の国碧海郡に発生した宗教騒動「大浜騒動」の時 |
| 血染襦袢の現在地 | 愛知県安城市小川町 石川山 蓮泉寺 |
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| 石川山蓮泉寺 | 蓮泉寺所蔵 石川台嶺の襦袢 | 石川台嶺の襦袢痕跡部接写 |
| 三河大浜騒動とは、 1871年(明治4年)3月、神仏分離令に基すき、菊間藩大浜出張所は寺院の統廃合を実施しようとしました。 これに反対する真宗の僧や、信者の農民多数が鷲塚(碧南市)に集結し、撤回を求めて交渉しましたが纏まらず、役人1人を殺してしまう騒動に発展しましたが、藩の鎮圧で騒動は鎮静化し、騒動首隗者とされた蓮泉寺の僧石川台嶺を始め僧31人、農民9人が処罰されました。 血染の襦袢 蓮泉寺資料室には、同寺僧石川台嶺が、騒動首隗者として処刑されるとき着用した「白衣襦袢」が展示されています。 他に、使用されていませんが、斬首刑執行時に準備された「眼隠し帯」1本も同時展示されていますが、添え書きには、「伝えによりますと、獄史は三太刀目に始めて首を刎ねる事が出来たといい、衣等裂切し血の痕が生々しい。」と説明がされていました。 その血痕も時間の経過で、黒ずんで見えますが、だからこそその情景がリアルに見るものに伝わってきた探訪でありました。 |
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| ☆ 滋賀 近江天保一揆 対幕府に10万日(約274年)の契約を勝ち取る |
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| 天保義民の碑。(所在地 湖南市三雲) | 野洲川の灯篭(所在地 湖南市三雲) | 野洲川横田の渡しの立て札(湖南市三雲) |
| 天保13年(1842)10月、近江の国の野洲、栗田、甲賀の農民4万人が決起し、幕府の検地中止を求めて、三上山にあった検地役人の本陣を包囲した、所謂「近江天保一揆」が発生しました。 検地とは、年貢米の算出の基礎となる土地の広さを測定する事でありますが、その計測に用いた物指が実寸法より短く、それで図られると、土地の広さに不釣り合いの年貢を徴収される仕組みとなっていました為農民はそれに反発したのです。 一揆の最初は、10月14日、甲南町の矢川神社に1000人程度の農民が集結したのが始まりで、そこに野洲や栗田地区の農民が加わり、その数なんと4万人とふくれあがり、野洲川の横田の渡し辺りをわたり、三上の代官陣屋を包囲しました。 |
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| その結果、要求した「検地には正規の物差しを使う」事を了承させたほか、検地役人から 「検地を10万日延期する」 との証文を勝ち取り成功しましたが、一揆側も首謀者として14名が捕縛され江戸送りとなりました。 現地高札には「無事に江戸に到着したのは8名」とありましたので、護送中も過酷な取扱いを受けた様ですが、写真左は三雲と申します土地に所在する、その方達の供養塔で、高さは8mあります。(供養塔は滋賀県下の三上山にもあります。) この項の事件には、サイトが表題とする「刀痕や弾痕」は御座いませんが、当時幕府が一揆側に約束した「10万日の約束」とは、年数にして273年以上のものであり、世が世であれば、現在に生きておる約束と思いましたので、此処に記憶しておく事に致しました。(要旨現地高札等から) |
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| ☆ 大阪 大塩平八郎の乱「情報による砲弾で裂けた槐を求めて」 |
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| 大塩の乱大砲被弾の槐の跡の碑 | 前同側面の2代目がある刻字 | 北区末広町1−7成正寺 左大塩の墓 右同志の碑 | |
| 大塩平八郎の乱とは、 江戸時代の天保8年(1837)に大阪の大阪町奉行の元与力、大塩平八郎とその門人たちが起こした、江戸幕府に対する反乱の事ですが、その発生地の近辺(大阪市北区天満1−25 国道一号線歩道上)に、本サイトがテーマーとする「乱の砲撃で被弾して裂けた槐」があるとの情報をいただきましたので早速探訪してみました。 しかし、現場に至りますと、 |
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| ここに、天保8年2月、大塩平八郎の乱の砲弾で裂けた樹齢200年の槐があったが枯死した。 依って、新たに苗木を植え、歴史の証人の生命を伝える。(昭和59年3月30日建設省国道工事事務所の石碑) |
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| との石碑(写真左、左2)がありました。 だから、碑石説明のとおり、二代目の槐を捜して見ましたが、付近には街路樹があるだけで、二代目と分かる木や、先代の枯れ死した木の株等は見当たりませんでした。 (「見当たらなかった」との表現は「無かった」という意味ではありません。木は一目で見れる場所外にあったのかも分かりません) この乱は、元幕府の同心と、約300名位の門人が、完全武装で決起し、大砲をぶっ放したり、後に、大塩焼け等の言葉が残る程町を焼く等の、手荒いものであったと聞知していましたので、その「証となる砲弾被弾痕跡」を探訪しましたが残念な結果となりました。 それでも、近辺には、当時の陣屋、大塩平八郎とその同志の方のお墓等あり墓参もさせていただきましたが、木がないならば標石説明を変えるか、標石を其のままとするなら木を分かりやすく植えるかしてほしい思いが残る探訪でございました。(探訪の日2009,01) |
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| ☆ 兵庫 (三田市)能勢一揆 火災で消滅した興福寺の弾痕 |
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| 一揆発生の日 | 天保8年(1837)7月1日〜3日 | |
| 弾痕誕生の場所 | 兵庫県三田市木器(こうずき) 興福寺 当時の寺小屋として使用の部屋 | |
| 弾痕の現在 | 昭和49年春 本堂火災の類焼で焼失 (古い資料では弾痕があると有りましたが、それは消失し今はありません) | |
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| 興福寺付近風景(寺中央の小さい建物) | 興福寺の山号 | 興福寺境内と新本堂 |
| 「能勢一揆」、ば別名「山田屋大助の乱」などとも言われていますが、事案と興福寺の関係について、同寺は高札で | |||
| 本寺は能勢一揆の指導者である山田屋大助の最後の地である。 天保の大飢饉の中で起きた「大塩平八郎の乱」に共感し、天保8年春、餓死者続出の現状を見て同士と共に反体制運動によって難民を救助しようと、現在の三田市、池田市、箕面市、川西市、宝塚市、能勢町、猪名川町の農民2000人を率いて一揆を企てたが発覚しました。 追手を逃げて、7月5日正午頃木器につき、興福寺で追手と激しい交戦の末、山田屋大助や農民らは壮烈な最期をとげた。 |
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| と説明されています。 山田屋大助の壮烈な最後とは、市を紹介の書籍に、 |
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| 境内松平紀伊守、永井飛騨守により、当時寺小屋として使用の部屋に追い詰められて銃撃戦のうえ鉄砲で自害した。 寺小屋には当時の弾痕や雨戸には変な落書きがあった。 |
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| と説明されています。 確かにその通りであり、銃弾痕や落書きが残る建物もあったそうですが、残念な事にその教室も昭和49年春に火災で焼失したと記されていますので、今は見ることが出来ません。 (これから探訪される方へ) 寺様火災前の資料には「寺に弾痕あり」とあり、私もその痕跡を見ようと訪問したのですが、昭和に焼失し、現在は時たま住職様が来られる無人寺となっており、本堂も新しくなっていて、痕跡に巡り合うことはできませんでした。 (訪問の日09,1,7) 変な落書きとは、 |
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| 「人の人たる人は人を人とする。人の人たらざる人は人を人とせず。 他人より己が手蹟いかほど勝るとも自慢高慢の心もつべからざること。」 |
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| とあったそうですが、果たしてどのような意味を持つのかの問いかけをされた様な探訪結果でした。 | |||
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| ☆ 奈良 柳生村の徳政令の碑文 |
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| 疱瘡地蔵(別名 徳政地蔵) | 地蔵様右側面(碑文は四角枠内) | 碑文部分拡大写真 |
| 奈良市柳生村に、高さ3m、正面幅3,5m、側面幅2,5mの自然の巨石に彫られ、地元の方が「疱瘡地蔵」として御祭りされる「まがい窟」が御座います。 そのお地蔵様に向かって、右下の部分に長方形の枠どりがありますが、その枠取りの中に、 |
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| 正長元年ヨリ サキ者カンヘ四カン カウニヲ井メアル ヘカラズ | |
| と刻まれた碑文字があったそうであります。 この碑文は、大正14年に地元研究者により、正長元年(1428)の徳政令を記念する碑文で、 |
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| 正長元年より先は神戸(かんべ)四箇郷(春日社領の大柳生、柳生、阪原、邑地)に負目あるべからず。 | |
| と、その文意が現代解釈されているとの事であります。 石刻の時期については、諸説あるが、正長徳政一揆によって行われた負債の取り消し(徳政)について民衆が刻み残した資料としてその価値は高いと、前記碑文説明と共に現地に高札説明されています。 現在当該碑文は、写真の様に風化しており、文字など読む事は出来ませんが、地元のお話ですと、昭和の初期の頃は何とか読める文字もあり、学生さん等が墨を塗り付け、拓本をとりに来ておられたが、今はそれも禁止され字も読めなくなった等と惜しんでおられました。 |
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| ☆ 玉島長尾の義民と血染めの供養石 |
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| 釣鐘があった善昌寺 | 新四郎を祀る祠(突当りの小さい祠) | 祠内のご神体「晒しで巻かれた血染の石」 |
| 倉敷市玉島町 OH 様方に、長尾村で発生した百姓一揆犠牲者「新四郎」と申します方をおまつりしてある祠が御座います。 一揆と申しますのは、宝歴2年(1752年)長尾村の小作は、地主に対し要求する所があったが、度々の折衝にもらちが明かぬので、遂に百姓一揆をおこし要求を聞き届けて貰いました。 当時の通例では、要求受理の後、引換えに発起人や首謀者は逮捕され、打首等処分を受けますが、本件では、手引きした首謀者某は逃亡してしまいました。 だから、誰かがその役を買って出なければ、責任が村中や参加者全員に掛ってきますが、この時、新四郎(23歳)、利兵衛(19歳)と申します村の2青年が、自分から名乗り出て、発起人としての全責任を負いましたので、役人に引かれ、打首に処されました。 その後、明和5年に出来た同町「善昌寺」の釣鐘には、二人を義民として、その戒名を刻み供養しましたが、後の二次世界大戦の時、その鐘も供出となって現在は亡くなってしまった。 当時は、何人も処刑者の骨を拾う事等許されなかったので、家族は、処刑場の血の付いた石を拾ってきて庭に祠を作り、密かに供養しておられましたが、見学させていただきましたのは、その供養祠と、祭祀されている血痕付着の石であります。 見学に際し、ご家族様は、祠を解放して下さいましたが、お話では、供養石を包んでいる「晒し布」をいくら取り替えても血が滲んでくるとつたわっている」との伝説があるらしいです。(要旨町史、義民子孫 OH 様方伝説) 今や、この様な義民の話等と思われる方もおいででありましょうが、この方達の年齢を見ますと、将来性のある若者が名乗り出て打首となった義侠心に感涙してしまいましたし、日本人であれば、誰でもが忘れてはならない方と思いました。 安らかにお眠りください。 |
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