記事タイトル:祝☆掲示板 


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お名前: 相模守   
西郷頼母とは、これは渋い^^
会津松平家で、ただ一人恭順をとき、城を出た家老ですね。
きっと、やむにやまれぬ理由を持って、あのような事に至ったのでしょう。
戦後も新政府に出仕するわけでもなく、隠棲をつづけたのですが、その謎を解くのは難しく、また面白くもありますね。

頼母の家族も城に殉じて亡くなっていますので、世の避難もあび、当に天涯孤独となったわけです。明治新政府の犠牲者といえるでしょう。

余談ですが、柔道の西郷四郎、彼は頼母の養子となり、会津松平家お留め流の武術の後継者でもありました。以外にも、西郷家は武術の家柄でもあったわけです。
その辺のことに、漫画ではありますが、講談社の「修羅の刻」で触れてます。
よく調べたなと、偉そうにも感心し、鳥肌が立ちました^^

なお、明治維新に活躍した松平容保公は美濃高須藩から養子に入ったわけですが、桑名藩主はもちろん、尾張藩主も実の兄弟なんですよね。
なんか、時代に深くかかわった兄弟として、とっても気になってます。

会津藩については「会津士魂」も一気に読破したほど、興味がありますので、折りをみて掲載していきたいと思っています。

気長にお待ち下さい。

これからも宜しくお願いします。m(__)m
[2003/11/17 19:54:13]

お名前: お市   
相模守殿、掲示板も工事完了ですね。メールのお返事有難うございました。
相模守殿のお気遣いは、痛い程、判っていました。

先日、NHK「その時歴史は動いた」で「白虎隊」が取り上げられましたが、
高校生の時、お正月時代劇第2弾として、ドラマで放送されてから、
会津魂には、何かしら、惹かれ続けるものが在りました。

実は、曾祖母の実家が、白虎隊士を送り出しています。
そう考えると、そんな、昔のことでは、無いんですね。明治維新って。

日新館で純粋培養の教育を受けた彼らをはじめ、
容保公の京都守護代を辞退するよう、進言して、反対意見に遭って切腹させられた
神保修理(日新館きっての秀才で、長崎遊学し藩家老の子息。弟は、長崎初代市長)
井上丘隅の娘、雪子が妻・
雪子も後に戊辰戦争時、娘子軍、中野竹子らと、城下戦で闘った後、
敵軍に捕らわれたのを拒絶、自決)

大学時代、東京白金台にある、萱野権兵衛と共に眠る墓に参詣しましたが、
どうか、白虎隊士20名(1名蘇生)と、この神保修理を中心に
西郷頼母の戦後の謎など、お教え下さいませ。
[2003/11/13 21:24:43]

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