日本史の偉人たち

名 称
松平 信康
フリガナ
マツダイラ ノブヤス
幼名・官名等
竹千代、岡崎三郎
概  略
永禄2年(1559)〜天正7年(1579)
 徳川家康の長子、母は築山殿(関口氏)です。
 私は、理由はともかく悲劇の長子・信康が好きです。
 家康は、信康を心頼もしい後嗣としていたようです。そのために岡崎城の一切を預け
たのではないでしょうか。武田勝頼が信康との対陣のおりに、「頼もしき武者振り」と漏ら
したと伝わっています。後年、関ヶ原のおりに家康自身が「倅(信康)が(生きて)いれ
ば、この歳でこんな苦労をしなくてもいいものを・・・。」みたいなボヤキを入れています
し、事件の陳弁に織田氏との交渉に当たった酒井忠次が、息子の所領が少ないとボヤ
ケば、「そちも倅が可愛いか(-_-メ)」等と皮肉も言っています。

 信康を語る上で、築山殿を語らない訳にはいかないでしょう。
 築山事件(と申して良いのでしょうか?)のとき、信長からの詰問が来たときも転々と信
康を移し、逃がしたかったような節がありありですね。
 築山殿については、間違いなく「やり手」の女房でしょう。問題は、今川一族であったこ
とにあると思います。彼女は何処まで行っても、親今川派なのです。家康が今川家に属
していた時代、彼女には頭が上がらない。なんと言っても年上で主筋の女房です。それ
でも、その行動に従っていれば有利に働くことが多かった。多少、きつくても良い正妻で
あったでしょう。しかし、義元の死によって、家康を取り巻く環境は激変します。今川を敵
として、その領土を切り取ることになりました。これは、家を守るべき当主として、考えた
あげくの選択でしょう。織田・今川の両家にいたことのある家康にとって、この先、信長
の方が氏真よりも有望にみえました。しかも、今川では家康を評価していた二人の人
物、雪斎は早くに世を去り、義元が討たれてしまいました。今川家の家臣団の実力は良
く承知しています。後の歴史から見ても正しい判断を選択できていました。
 だが、築山殿は違います。あくまでも織田氏は今川氏の敵。そして、他でもない家康は
今川氏の家臣で親族なのです!
 この基本条件に従えば、とても家康の決定を飲み込めません。そこで「やり手」として
手腕を発揮して、彼女なりに反織田氏の動きをしていくのです。表だった動きはなくて
も、当然、嫁「徳姫」を敵視したことでしょう。これが、不味かった(T_T) 徳姫は織田氏の
外交官でもあるのです。彼女の持った悪印象はそのまま、父・信長に伝わります。
 信長は、いきなり処断をしません。申し開きに来いと、家康に使者を要求します。この
使者が、前述した酒井忠次です。新進気鋭の若社長と先代からの重役。よくある対立の
図式があったのでしょう。心にわだかまるモノのあった忠次は、赤心から陳弁ができま
せんでした。もしかしたら、「これを機会に少し釘を刺してもらおう」程度の気持ちだった
のかも知れません。ところが最悪の結果を招いてしまった訳です。これは、築山殿のベ
クトルの向きが間違っていたために、またその力が強かったために、招いてしまった事
故だったと私は考えています。
 ここで、信康の暴君振りが色々とかき立てられますが、眉唾物です。
 なかにある記述は、暴君の代名詞、中国古代の「殷紂・夏桀」の記述とそっくり同じな
のです。つまり、暴君であることを意義づけるため引用されたのではないかと思われる
のです。
 げすの勘ぐりかもしれませんが、これを消さなかったことは将軍家にとっても都合が良
いのです。信康が名君であったとするならば、その家督継承権は優先される。つまり、
遺子がある以上、秀忠にとって不穏因子を含んでしまうのです。徳川家は、皮肉にも長
子継承を理由付けたがために、長子を否定することとなってしまった訳です。

 最後に今一度、信康は名将の器を持った人物だったでしょう♪
参考書物
(小説等)


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