
日本史の偉人たち
名 称
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フリガナ
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幼名・官名等
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猿(?)、ヒヨシ(?)、木下 藤吉郎、筑前守、関白太政大臣 |
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概 略
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天文5年(1536)〜慶長3年(1598)※誕生年には異説があります。
前半生は謎が多く、詳細な事柄が伝わっていません。
確実なのは、尾張の百姓に生まれ、家を出て諸国を針売り等をして流離い、松下之綱
に奉公したこと、蜂須賀小六と何らかの繋がりがあったことです。秀吉は開けっぴろげ
に自分を語る人だったようですが、若いときのことは誰にも伝えた様子がありませんの
で、それほどに暗く・辛い経験の数々だったのかも知れません。この長い辛苦の時代
が、秀吉の人物眼を育てたとも言えるのではないでしょうか。(人物眼には、当然、天性
の素質も必要です)
放浪の果てに、秀吉は織田家に奉公をするようになります。ここで「木下 藤吉郎」とい
う、名を貰うのです。
ここからは、もう身を粉にして働きます。与えられた使命以上の成果を信長に提供し、そ
れを信長も充分に評価しました。
墨俣城などは、並み居る重臣が失敗をしたあとで請け、見事に成功させています、これ
は信長の覚えも目出度い筈でしょう。
ただ、この時期の秀吉の心底には無用な合戦を避けたいところがありました。
それが、人間への愛にあるのか、経済的な理由によるのか定かではありませんが、合
戦となってしまっては、一人抜きんでることが難しいですし、配下も少ないことから犠牲も
出したくはなかったでしょう。
そこで、調略という、己一個の命と口を武器にする方法を選択することが多くなります。
美濃攻略にあたって、秀吉は大沢氏を調略します。これは、自分の命の代価として、美
濃の一部を切り取った訳です。
誰がなんと言おうと、これは秀吉の功績になります。他の部将が口を挟む余地が残され
ていません。合戦で奪うものを、一人で取ってきたのです。このとき信長には、大沢氏に
所領を安堵する気がありませんでしたが、秀吉の必死の懇願により、大沢氏は命だけ
は助かりました。この一事で、秀吉の内外の信用度は上がったのです。
この後、信長の所領が増えるにつれ、その家臣たる秀吉達の所領も増えました。
浅井氏攻略後は、織田家中で明智光秀に続き、二人目の城持ちの大名になります。こ
のときに、後世の家臣団を形成していくわけです。そして秀吉はこのあとも、文字通り粉
骨砕身、働きます。
この間、事件がありました。
「柴田 勝家」の助勢として、北陸に出陣しましたが主将「勝家」と仲違いをし、勝手に所
領長浜に引き上げてしまいます。
当然、命令違反として信長はカンカンに怒りますが、どうにか怒りを和らげ、秀吉を謹慎
処分にしますが、ここからが、秀吉の真骨頂。なんと、謹慎を良いことに家臣共々、連日
の大宴会などで馬鹿騒ぎを繰り返すのです。これには信長が根負けをし、すぐに秀吉を
西征軍の大将として出陣を命じるのです。
思うに、勝家の下で働くことは秀吉にとって危険が多かった。主将と馬が合わないし、合
戦となれば配下の犠牲もでます。まして、存分の働きをしても自分(自家)の勲功となる
ことは期待が薄かったでしょう。それならば、危険を覚悟で所領に引き上げてしまった方
が、割が良い。信長の性格からすると、まだまだ利用価値のある秀吉を殺すことはない
と踏んでいたのかもしれません。しかも、謹慎中の大宴会で信長の関心を買い、強烈に
印象づけます。信長としては、その大度に大笑いをしたかもしれません。信長は奇矯な
る歌舞伎者が大好きです。
その後秀吉は、織田家の勢力を西へ伸張して、毛利家の勢力を削っていき、備中高松
城攻めをきっかけに、毛利家との正面決戦にかかるところまで行きます。
この間も、秀吉の戦争は大きな合戦を避けて、城攻め・調略が主体となります。戦国の
姦雄「宇喜多 直家」を味方につけたり、「黒田 孝高」を配下に迎えたりと人誑し振りを
発揮して、順調とまでは言えなくとも、着実に成果を上げていきました。
しかし、その決戦直前に、主君「信長」が横死してしまうのです。
ここからは、山崎の合戦・賤ヶ岳の合戦と野戦を制して、信長の後継者に座り、小牧長
久手の合戦の外交戦で「徳川 家康」をおさえ、四国征伐・九州征伐・小田原攻めと、そ
の能力と家臣団を目一杯活用して、順調に日本を統一していきます。
どの合戦を見ても、秀吉の調略はすさまじく、後世の関ヶ原の家康の調略など足下にも
及びません。
確実に敵対勢力の戦力(部将)を味方に取り込み、その後方の大名とも結び全戦力の
集結などはさせません。
そして電光石火の行軍は、敵の度肝を抜きました。いざ合戦に及べば、既に勝利は決し
ており、合戦においては信長の正当なる継承者であったでしょう。
小牧長久手の合戦においても、局地戦では家康に名をなさしめてしまいましたが、秀吉
の描いた合戦模様では既に外交戦での決着がついていたのでしょう。あのまま合戦を
継続すれば物量の面で徳川家は壊滅し、秀吉の勝利は確実でした。しかし疲弊した秀
吉も、その後の統一戦は出来なかったでしょう。それを考えれば、家康に名を与えた時
点で合戦を終局させれば、家康の顔も立ち、両家の疲弊も避けることができるので、最
善の時点だったでしょう。
小田原攻めでは、もう合戦ですらありません。
とにかくも、世間知らずな大名に自分の力を誇示する場所でした。
難攻不落を誇る小田原城を余裕しゃくしゃくとゆるゆると落とす。そして、配下の武将た
ち(特に直参)に戦功を与えるために諸城を攻略させる。大兵力を動員した、秀吉流の
閲兵式の様なものでしょう。これにより、全国の武将は戦乱の時代の終わりを知り、敵し
得ぬ秀吉の力を知り、統一が完成するのです。
そして、この間に豊臣姓を下賜され、関白となります。
後世だから言えることですが、これは光り輝く「英雄 秀吉」の終焉のような気がします。
羽柴秀吉と豊臣秀吉はその行いに随分と開きがあります。
私は、ひたすら明るい「羽柴〜」は大好きですが、陰惨な「豊臣〜」は嫌いです。
「豊臣〜」については別項を立てて語りたいと思います。 |
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参考書物
(小説等)
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親書太閤記(吉川 英治)、豊臣家の人々・新史太閤記(司馬 遼太郎) |
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