日本史の偉人たち

名 称
徳川 家康
フリガナ
トクガワ イエヤス
幼名・官名等
竹千代、二郎三郎、松平 元信、松平 元康、内大臣、征夷大将軍
概  略
天文11年(1542)〜元和2年(1616)
 家康は、三河の岡崎城主、松平 広忠の長男として誕生しました。
 そして、母との生別・父との死別と相次いで、両親を失います。しかも、父が凶刃に倒
れたあと、今川家に人質に行く途中で、親類の手により織田家に売られ、信長の兄・信
広との人質交換で今川家に渡ります。以後、今川義元の戦死まで、今川家の武将とし
て、ひたすらにこき使われます。主君を奪われた三河武士団の苦悩は大変なものであ
ったでしょう。

 等と、悲痛な調子でかかれることの多い駿府の人質時代ですが、私は大いに疑問を
持ちます。
 まず、三河武士団をつなぎ止めるためには、どうしても必要な存在であったこと。これ
は、信秀の長子・信広と同等の人質として扱われた事からも、決して軽んじられてはいま
せん。
 そして、義元の軍師、太源雪斎から諸事の手解きを受けたこと。これは当時の一流の
教育に他なりません。
 なにより、一族の娘、築山殿を正室に迎えたことです。大名が自分の一族を嫁に出す
場合を考えて下さい、将来有望な人物こそ、一族に加えたいものでしょう。
 これらの条件を見るに、家康は着実に今川家の幹部候補生として、義元の英才教育
を受けていたと私は思います。
 偉そうに並べましたが、実は司馬遼太郎氏の言葉です^^ ですが、知れば知るほどに
納得のいく話ですよね。

 その後、よく物語で語られるように、義元の死後、今川家と手を切り名を改め、信長と
同盟を結んで、ゆっくりと実にゆっくりと階段を昇っていきます。三河の一向一揆や、武
田信玄公との駆け引き、信長の手伝い等と色々とこなしていきます。
 そのなかで、徐々に実力を養っていくのです。しかも、信長を裏切らない、逆らわないと
いった実直な姿は、律儀者としての世評をかい、後年、非常に有利な名声となります。

 この間に、築山殿と信康の悲運の死があるわけですが、これについては解釈が別れ
るので、あえて私の主観を述べるなら、不幸な事故としか言えないでしょう。詳細は、「松
平 信康」の項に譲りたいと思います。
 ただ、ここで正室の持つ実家の力というモノに対し、家康には強力な嫌悪感ができてし
まったのは間違いが無いでしょう。
 この後は、秀吉に押しつけられた「朝日姫」以外、正室は置いていません。

 その後も、信長に従い数々の合戦を越えていきます。
 本能寺の変の際は、秀吉に大きく出遅れながらも、それならと信濃・甲斐に手を伸ば
すあたり、非常にしたたかです。秀吉に臣従するにしても、限界まで自分を高く売り込ん
でいます。寝業師的な謀略を得意としたようですが、この辺は知恵袋、本多正信の影響
でしょう。
 秀吉の死後、突如、目前に開けた天下への道に、いっそう邁進します。
 いえ、突如では無いかも知れません。秀吉の生存中から世評に気をつかい、健康管
理を行い、その爪と牙を隠していたことは想像がつきます。しかも、その爪と牙の実力
は、「小牧長久手の役」で存分に諸大名に見せているのです。
 更に、好敵手であった前田利家が死んだことにより、もう形振り構わない謀略(?)の
数々をもって石田三成を暴発させ、豊臣を滅ぼし、徳川の敵対勢力をおおむね除却し
たあとで、死を迎えています。
 

 家康は、健康管理を行っていたと前述しましたが、これはこの時代にあって珍しい意
識です。
 自分の体力の維持のために鷹狩りを行い、自分で薬を調合し、常に自分の体調を整
えていました。当然、暴飲・暴食は慎んでいました。薬材を納めた薬箱は常に持ち歩い
ていたと聞いています。適度な運動が体に必要であることを知っていた武将でした。

 また、良く「石橋を叩いて渡る性格」などと言う表現を適用されますが、その節に、私は
真っ向反対です。
 信長・秀吉こそ派手に見えて細心の注意をおこなった人物で、家康と云えば、生涯に
博打的な行動が多いと感じます。
 まず、三方原の合戦です。これはもう、最初から相手にならない状況でした。信長や秀
吉ならば、信玄が突っかかってこない以上、決して城から出て野戦を挑んだりしません。
世評が落ちようが、自分が死んでしまっては何もできないからです。しかし、家康は無謀
(果敢というには無理があるように感じます)にも出撃し、野戦を挑み、這々の体で帰還
します。それも九死に一生を得た状態でした。これにより、家康の武名は上がる訳です
が、危険が大きすぎます。
 それから、関ヶ原です。これは万全の策など打っていませんでした。中山道の秀忠軍
は間に合いませんし、傘下の諸将だって、向背がわかりません。まして、敵方から内応
者がでる保証はありません。それがために、家康自身の出馬も先鋒軍が岐阜城を落と
してから(向背を確認してから)となりますし、主戦場ではやきもきして小早川陣に鉄砲を
撃ち込みます。とても、鮮やかと言えるような外交術ではないでしょう。しかし、このとき
は石田三成らの不味すぎる作戦指揮により、辛くも勝利を収めたのです。その辛勝振り
を十分に知っていた家康は、敵対行動を取った者に対し、その不安(「反逆予備軍の存
在」とでも云いましょうか^^)から過酷に扱わざるを得なかったのです。そして家康の中
で、その不安は「大阪の陣」が終了するまで終わらなかった事でしょう。

 家康が開幕以来、徳川家は自家一家の繁栄をもくろみ、その大名統制を強化してい
きます。
 信長や秀吉のように明るい印象をもたないのは、家康その人の性格が変化を好ま無
かったからかも知れません。
 その政策・行動も独創性は無く、周囲の大名や英雄(特に頼朝を信奉していたと聞き
ます。吾妻鏡が愛読書だったとか^^)に学習し、取捨選択をして採用をしているように、
私は感じます。
 よく、江戸の大名家の性格は藩祖に拠るといわれます。だとすれば、家康の性格は間
違いなく保守でしょう。

 ※ただし、政治の安定は庶民文化の熟成を生みます。江戸期には庶民が大変に元気
な時代となりました。
参考書物
(小説等)
覇王の家(司馬 遼太郎)、影武者徳川家康(隆 慶一郎)、乾坤の夢(津本 陽)、徳川
家康(山岡 荘八)ほか多数。


トップへ
戻る
前へ
次へ