
日本史の偉人たち
名 称
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フリガナ
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幼名・官名等
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万吉、官兵衛、祐隆、孝隆、政成、ドン=シメオン、竜光院、如水、円清、従五位下・勘
解由次官 |
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概 略
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天文15年(1546)〜慶長9年(1604)
播州姫路城主、黒田職隆(高)の長男。同母弟に利高、異母弟に利則・直之がいます。
若くして家督を継承し、播州御着城主、小寺政職の家老となります。
織田信長に呼応して、主家共々織田家に帰属をしますが、荒木村重の叛意に際し、主
家小寺氏も造反、説得に行った荒木氏の居城、摂津有岡城で幽閉されてしまいます。
有岡城の開城後、秀吉に属して彼の中国遠征を助けます。その後の四国征伐・九州征
伐・小田原攻め・文禄の役・慶長の役といった主要な合戦にも全て、秀吉に従って参戦
しています。
関ヶ原では、独自の動きをし九州を席巻しますが、関ヶ原が早々に決着したため東軍に
帰属。子息、長政が自身の功と合わせて大封を得ました。
良否、いろいろと言われる人物ですが、興味深い人です。
その生涯を通じて、謀反と言ったものと縁の遠い人物のようです。権力欲と言ったモノに
付随する野望よりも、むしろ自身の知恵を誇示したいという子供っぽさがあった人では
ないでしょうか。織田氏に接近したときも小寺氏の重臣として謁見をしていますし、その
後、秀吉に従うのも主家に裏切られたからでしょう。決して、主家を凌ぐという野望から
ではないでしょう。ただし、こういった知恵を誇りたがる人物は、周囲にいると鼻につきま
すね。特に、事ある毎に逆らう生意気な奴と、上司や年長者には見えることでしょう。不
幸にも、その辺の嫉妬に似た感情を、有岡城の幽閉で身をもって知ることになってしま
います。それ以後、周囲に対する自身の身の処し方が変わっています。この時からが、
変幻自在の調略へと変わっていくのです。
ところが、いざ実例を挙げようとすると、なかなか例が見あたりません。秀吉の懐刀と言
われてる割に、中国遠征時の表だった功が浮かんでこないのです。どうしてなのでしょう
か?
日本に置いては、軍師なる帷幄にて作戦指導をする人物は、表面に出にくいのかも知
れません^^;
見せ場としては、朝鮮の陣での落ち着きぶり(小早川隆景と、悠々と碁を打っている話で
すね。)と、関ヶ原の乱での九州での蠢動が有名ではないでしょうか。
関ヶ原の合戦当時、如水の手元には兵がありません。息子・長政が出陣してしまってい
るからです。
しかし、ここからが「十万石もあれば、天下を取る男」と秀吉が豪語した如水の真骨頂で
す。
手元の資金から、人数を集め軍を起こし、周囲を伐りなびかせて行くのです。集めた人
数も、体力が充実した壮年の男たちは上方に行っているので、老人・子供が多かったと
いいます。そんな軍では作戦の妙が無い限り、周囲を伐てる筈がありません。
そこを如水は、破竹の勢いで刈り取ってゆきます。上方には思いも寄らないところで一
大勢力が勃興し、攻め上がってくるところだったのです。
しかし、息子・長政の働きもあって、関ヶ原の合戦は、わずか一日で集結してしまいま
す。
天下を二分しての合戦でありながら、余りにもあっさりと終わってしまいます(-_-;)
その顛末を聞いたとき、如水は何をおもったのでしょうか?
如水の夢は、ここに覚めてしまうのです。
その後は何事もなかったように、好々爺として生涯を終えました^^ |
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参考書物
(小説等)
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