日本史の偉人たち

名 称
織田 信長
フリガナ
オダ ノブナガ
幼名・官名等
吉法師、三郎、上総介、弾正忠、参議、権大納言、右大将、内大臣、正二位右大臣
概  略
天文3年(1534)〜天正10年(1582)
尾張猿渡城主 織田信秀の嫡子(三男)で、信秀の死後、家督を継承しました。
長い一族相克を制して尾張の国を統一し、桶狭間の合戦を皮切りに天下へと名乗りを
上げました。
実際に、有名な「天下布武」の印章を用いるのは岐阜(井之口・金華山)城を攻略後のこ
とです。
その後、破竹の勢いで勢力を伸ばしますが、天下統一を目前にして、家臣「明智光秀」
の手により横死してしまいます。
好んで舞った「敦盛」の歌詞の如く、49歳の生涯でした。

若年の頃より奇行が多くて、周囲の老臣を失望させましたが、裏を返せば慣習にとらわ
れぬ合理性が、常識人には奇行に映っただけのことでしょう。合理性というよりも、現況
への強い否定かもしれませんが?
何事も、常人には知れない思考の持ち主で、曖昧なモノ・迷信などは、自ら実践して確
認をし、嘘とわかれば容赦なく排除をしました(佐々領の大蛇・比叡山)。反対に、使える
と判断をすれば、まだ新規・未知のものであろうとも躊躇をせずに用いています(三間半
柄の槍・鉄砲・鉄甲船)。ただ、常に歩き続けるその姿勢は、部下にも怠惰を許しません
でした。
もちろん、戦国時代にあって怠惰が許される状況など、あり得ないことでしょうが、信長
の処分は厳しいものでした。
譜代の重臣である林通勝・佐久間信盛。井之口城攻めに功のあった、安藤伊賀守な
ど、容赦なく放逐しています。
反対に、明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉などの機敏に働く新参は、どんどん登用をして
いきます。
これほどに苛烈な人事評価は、日本史上に類を見ないでしょう。

ですが、あまり人の指摘しないことですが、信長は決して自分の言葉を裏切りません。
つまり、自ら下した判断による同盟や、家臣を裏切ったことはないのです。
だから、それらの相手が裏切るなどと言うことは、微塵も考えていないのです。
いつも背くのは、その苛烈なまでの要求に耐えきれなかった者たちで、その者たちが裏
切ると、一転して窮地に立たされてしまうこともありました。浅井・荒木・別所・松永などの
反乱が、信長の予期せぬ珍事であったことは疑いようがないでしょう。
そして、とうとう明智光秀による本能寺を迎えてしまうのです。

信長の他の戦国大名との違いは、まず自分の勢力図にあわせて居城を移動したことで
しょう。
那古屋に始まり、清洲、小牧、岐阜、安土と中央へと移動をしていきます。この先、あの
不慮の事故を迎えなければ、大阪にも移転していたかも知れませんね。
そして、この郷土に執着を持たない理由には、幼い頃から接してきた商業が、深い関係
を持っているのかも知れません。
信長の生まれた織田家は、尾張下4群の奉行の家、江戸時代的に言えば大名の家老
の家来です。しかし、祖父の信定が、津島を掌握し、その交易利益を手にしたところか
ら、台頭が始まります。まさに富をえて、力をつけた訳です。
そんな家ですから、商業に対して理解も深く、結果として現実的な合理精神を養ったの
かも知れません。
参考書物
(小説等)
信長公記、国盗り物語(司馬 遼太郎)、下天は夢か(津本 陽)、鬼と人と(堺屋 太
一)ほか多数。


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