日本史の偉人たち

名 称
上杉 謙信
フリガナ
ウエスギ ケンシン
幼名・官名等
(長尾)虎千代、平三、景虎、(上杉)政虎、輝虎、宗心、不識庵、弾正少弼、関東管領
概  略
1530(享禄3)〜1578(天正6)。
 長尾 為景の4男として誕生し、幼少から気性が激しすぎる事から、為景の没後、仏門
に入れられました。
 しかし、亡父の家督を継承した長兄 晴景が病弱な事もあり、当主としての信頼を家
臣団から得られなかったため、兄から家督を継承し、景虎と名乗りました。
 女性を遠ざけて、その武運を毘沙門天に祈願し、生涯、不犯であったと伝えられてい
ます。
 自身、毘沙門天の化身として意識するところが強く、戦場にても弓矢・鉄砲に当たるな
どは、露ほども思った事はないような逸話も多くあります。事実、最前線に吶喊した例は
あっても、流れ矢・弾にあたった話しがありません。

 上杉謙信の特徴は、なんと言っても戦国武将らしからぬ心情にあるかと思います。
 村上義清を始めとした信濃の武将が救いを求めれば、武田信玄を相手に川中島の合
戦を繰り広げ、関東管領 上杉憲政に救いを求められれば、北条氏康を相手に関東に
討って出ました。結果としては、寸土も得る事はなく、また相手を撃滅した訳ではありま
せんが、義を知る聖将として扱われています。そして、他でも無い上杉憲政より、鎌倉の
鶴岡八幡宮にて名跡を継承し、「関東管領 上杉 政虎」となるのです。また、将軍家に
対する忠誠も篤く、越後より上洛して、将軍 足利 義輝に謁見をしています。
 最後は、越中方面への陣触れをだしたまま、厠にて倒れたと言われてます。大の酒豪
であった事から、脳卒中であったのではないか等と書かれている書物も多いですが、そ
の真相はわかりません。また、最後の陣触れが、織田を打ち破っての上洛を目的とした
のか、それとも能登・越中の平定にあったのか、これも定かではありません。


 謙信は、合戦に対する意識が、他の大名と大きく違っていたように思えます。
 誤解を恐れずに、簡潔に言うのならば、現代のスポーツあるいは武道に近い感覚で合
戦を行っていたのではないでしょうか?
 合戦に勝利をして、領土を得たという話しをあまり目にしませんし、利益を得るための
謀略を用いた形跡もありません。むしろ、謀略・外交戦などでは、武田・織田・北条にい
いようにあしらわれている感があります。道を追求する者として合戦を行う謙信には、す
がすがしさが漂ってしまうのは当然かも知れません。
 しかし、彼に臣従する者達はそれで良かったのでしょうか。家臣団の結束には、大変
に不安定なものが、上杉(長尾)家にはあります。利益を求めて造反する者も多く、新発
田氏・大熊氏・北条氏など重臣クラスにも、その例が存在します。また、謙信もそんな家
臣団に嫌気がさし隠居騒動を起こしています。合戦に当たっては天才的な閃きを魅せる
男も、家中の統制には手を焼いていた(あるいは、足を投げ出していた)ようです。内政
に対する意識の低さは、彼が頭一つ抜きんでる事が出来なかった最大の理由だと、私
は思っています。上杉の家中を取り締まっていた人物(おそらくは直江 信綱か?)に、
心から同情をいたします。
参考書物
(小説等)


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