
日本史の偉人たち
名 称
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フリガナ
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幼名・官名等
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概 略
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1545(天文14年)〜1573(天正元年)
浅井氏は、長政の祖父・亮政のときに主家・京極氏の継承問題に介入して実権を握
り、政治力を尽くして、朝倉氏・本願寺勢と結び、六角氏との争いにはしばしば敗れる
も、勢力の維持に成功しました。1543年、久政が家督を継承すると、京極氏・六角氏
の勢力におされ苦境に立たされながらも、江北の国人層を被官化し、1560年、若干1
5歳で長政が家督を継承すると、同年、『野良田表の合戦』でおおいに六角義賢を破り
武名を上げ、南進を始めました。このとき、伊香・浅井・坂田の江北三郡に加え、犬上・
愛智・高島の三郡にも勢力を拡大し、大名として成長しました。
長政は武勇に優れた武将としての印象が強いですが、内政にも力を尽くし、支城在番
制、同名家臣への直恩給付、与力化などの新しい家臣団編成に努め、流通経済に対応
した商業政策をとるなど、様々な施策を打ち出しています。また外交面でも織田信長と
結び、永禄11年にはお市の方を妻に迎え、その絆を強化するなど意を尽くしますが、信
長が朝倉氏を攻めるにあたり、朝倉氏に荷担し、『姉川の合戦』を境に、結果として滅亡
してしまいました。
長政は初名を「賢政」と名乗っていますが、これは、合戦の弱かった父・久政によって、
六角氏より偏倚を受けた気がしてなりません。苦境に立たされた久政が、朝倉氏の力を
ちらつかせながら、偏倚をうけることで六角氏にも媚びを売り、当座を凌いだと思われま
す。亮政の代より、浅井氏の背後には朝倉氏があり、その関係は同盟というよりは、主
従に近いものが有ったのかもしれません。大名と呼ばれるほどの力を得るのも長政の
資質あってのものであり、新しい時代を見据えて信長と結んだあたりにも、長政個人の
能力は決して並の大名ではありませんでした。
しかし、存命していた父・久政と旧態依然の家臣団には、長政のみた未来が見えるは
ずもなく、朝倉氏の影におびえ、信長・長政を過小に評価してしまいました。そこに長政
の不運があったのでしょう。
もし、織田氏の盟友として存続をしていれば、北国の押さえとなり、上杉謙信と対峙す
る長政の姿を、史書に見られたかも知れません。まぁ、「もし・・・。」は無いのが歴史です
が・・・・・。
後(1632年)に、徳川秀忠室となった三女・達子(お江・お江与)の力添えにより、従
二位・権中納言に追贈されています。 |
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参考書物
(小説等)
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