KINGのROCK論VOL.1
定番コーナーのROCK論です。 新旧問わずの記事なので、 今の考えが必ずしも記事に 反映されているとは限りません。 |
私は今まで、ロックにかなりの時間とお金を注ぎ込んできた。私の熱中できる趣味と言えばロックぐらいである。そのロックに対して私は、自分なりの解釈を常に抱いてきた。この一週間はロックについて語ってみることにしよう。
ロックの持つメッセージとは、アーチストの思考の表れである。たった一行の中に込められた言葉の中には無限大に広がる可能性が秘められている。これはロックに限らず、どんな詩の世界においても共通なものであるが、あえてロックにこだわる私としては、ロックの持つメッセージがどんな詩の世界より強いものがあると認識している。例えば、ビリーコーガンのかの有名なワンフレーズ、「今夜、不可能が可能になる」(和訳)の中に込められたメッセージは、受取側によっては、どんなビジネスHOW
TO読本よりも、力ある言葉だと思うし、その言葉に自分なりの解釈を自由に付け加えることもできる。詩とはそれを伝える側と受取る側の間に、その言葉のニュアンスが多少違っても問題ないと思う。私にとって重要なことは、言葉に付け加える価値感(付加価値)である。伝える側の狙いはそこに焦点を定め、メッセージを投げかけることが大切だと思う。某日本フォーク歌手がしみったれた詩を歌い、受取側がその言葉にそのまま同調してしまう。ああ恐ろしきかな。
偉大なるロックアーチストと呼ばれる人達がいる。ロックの産みの親であるビートルズをはじめ、伝説となったジミヘン、マークボランなど、書ききれないほどたくさんいる。私にとっての偉大と感じるロックアーチストの定義は、第1に常に現役であること、第2にどの時代にも自分達のポリシーのもとで活動していること、第3に常にリスナーのニーズに応えていくこと、この3つが偉大なるロックアーチストの定義である。この条件に当てはまるロックアーチストと言えば、やはりレイデイビス率いるTHE
KINKSである。キンクスは63年から活動をはじめ、今も尚、現役で活躍しているイギリスの超大物バンドである。日本の洋楽ロックファンは意外とキンクスを知らない人が多い。勿体ない話である。キンクスのことをここで語ると長くなるので割愛するが、30年以上、ひとつのバンドが活動を続けることの意味や素晴らしさに私はロックの本質を垣間見ることができるし、これからもロックについて考えていきたいと思ってしまう。長くつづければいいってもんじゃないと思う人もいるかもしれないが、普通はまねできない。キンクスのほかにもローリングストーンズやエリッククラプトン、デビッドボウイーなど、上記の3つの定義にあてはまる偉大なるロックアーチストが私の中に存在している。
「ロックとは日常の中に存在する」これは、かの有名でないKINGの言葉である。なぜそう感じるのか。まず私にとってロックとは、それを好きな人であれば、その人はロッカーなのである。たとえ音楽をやっていようと、やってなかろうとそんなことは関係ないのである。私は常にロックというものを考えながら生きている。これをロッカーと言えないなんて誰が言えようか。スタイルだけのロッカーもたくさんいる。それはそれでロッカーであると認めよう。しかしロックの本質はスタイルではない。問題は中身だ!私は私なりにひとつの作品を常に作ろうとしている。それが音楽であろうとなかろうと問題ではない。とどのつまり、私が言いたいことはただひとつ、私にとってロックが生きる要素のひとつになってしまったということだけ。それがすべて。歌を歌おうが、ギターを弾こうが、音楽を聴こうが、詩を創作しようが、すべては日常に存在するものだ。華やかなステージだけがロックの世界じゃない。
「ロックを聴くにはレコードが一番いい」これも、かの有名でないKINGの言葉である。なぜそう感じるのか。第1にCDだとA面、B面がないからだ。私にとってレコード(作品)とはA面、B面があってこそ作品であると昔から思ってきた人間であるからだ。それが当たり前だった。しかし高校時代にLPがCDに変わった。昔の作品もAとBが合体してしまい、味気ないものになってしまった。作り手もAとBの繋がりを必ず意識して作っていたのに・・・これじゃあねぇといった感じである。第2にジャケットがLPだと大きいからである。私にとってジャケットも作品の一部だと思っている。昔はよくジャケットを手にとりながらレコードを聴いたものだ。CDだと小さくて面白みがない。第3にLPの片面20分ぐらいが音楽に集中できるいい時間なのだ。休憩をいれてまた片面を聴く・・これぞLPの醍醐味である。第4にLPだと音が素晴らしくいい。皆さんCDの方が音がいいと勘違いしていらっしゃる。もう一度、LPの音を聴いてみたほうがいい。あの懐かしい響きが蘇ってきます。この他にもレコードが一番いい理由はたくさんあります。私は今でもアナログ主義です。CDは間に合わせで聴いているぐらいの感覚です。ぜひアナログを聴きたい人は私の家に遊びにきてください。
正直言って私は一辺倒のロック主義である。ほかのジャンルはあまり聴かないし、なかなか興味を示すことができない。さらに悪いことに、ロックの中においても、UKロックをほとんどメインに聴いている筋金入りの一辺倒ロック主義である。非常に視野の狭いロック主義なのだ。世の中ではこれをオタクと呼んでいるが、その言葉に近いのもがある。しかしUKロックひとつをとってみても非常に奥が深いものがあるし、UKロックを極めることは難しい。そんな中で、素晴らしいロックバンドとの出会いは人との出会いぐらい私にとって価値があるものだ。今まで色んなロックバンドを好きになった。好きになると夢中でそのバンドを追いかける。これを所謂、「はまる」という。最後に私が今まで、UK(US)ロックでかなりはまったアーチストを紹介して今日はおしまいとする。(UK)THE
BEATLES. THE KINKS. THE WHO. WINGS. QUEEN.
PINK FLOYD. JETHRO TULL. KATE BUSH. DAVID
BOWIE. ROLLING STONES. SMALL FACES. ZOMBIES.
GENESIS. YES. ROXY MUSIC. KING CRIMSON. STATUS
QUO. KULA SHAKER. COMUS. RENAISSANCE. CURVED
AIR. PENTANGLE. LED ZEPPELIN. EL&P. FLEETWOOD
MAC. THE CURE. CAMEL. ENO. DIARE STRAITS.
BLER. BLACK SABBATH. XTC. ASIA. JAPAN. SUPER
TRAMP. (US)THE SMASHING PUMPKINS. BOSTON.
STYX. JOUNEY. KANSAS. CARS. CHEEP TRICK.
and more....
1週間に渡り(実は2時間)、私のロック感について書いてきましたが、皆さん如何だったでしょうか。まだ伝えきれないことがたくさんあります。今後、このコーナーでそれらを少しずつ語って行きたいと思います。最後になりましたが、ロックならずとも、音楽というものは新しいものを先駆していかなければいけないという一種の使命感みたいなものがこの音楽世界の常識になっているところがありますが、私はその逆を行くことも大事なんじゃないかなって思うところもあります。どことなく懐かしさを感じさせるメロディや、聴き憶えがありそうな演奏がたまらなく素敵だと感じるロックも大事なんじゃないかと思います。世の中がハイテクになればなるほど、音楽もまたその姿形を変え、新しく生まれ変わってきます。そんな中で、あの60年代ロック創生時代の音の響き、それこそが原点回帰の重要なひとつであると私は思います。古き良き時代は未来を想像する原点なり、と言ったところで笑点御開、また来週。
2000/08/14 (月)〜2000/08/19 (土)
■ ニッポンのROCK
今日は私がこの日記でまだ一度も触れていなかったことを書くことにしよう。
偏見というか何と言うか、私みたいに洋物ROCKばかり聴いてきた人間はいつのまか、日本のROCKが受け入れられない体質になっていったような気がする。しかし全部が全部といういうわけでなく、日本のROCKでも好きなバンドはたくさんいるのだが、いまいちのめり込めなかった原因は日本語とROCKとの相性が悪いのではないかという偏見である。この辺は少なくとも洋楽を聴く人間にとって多少思うところかもしれない。それは英語のカッコ良さこそがROCKなのだという見解とずって抱いてきたからである。例えば、ハイウェイスターをイアンギランが英語で唄えば、かっこ良く聴こえるのだが、王様がその翻訳を日本語で歌うとどこか間抜けに聴こえるという現象からみて、言葉がわからないからこそカッコ良いと思う所は確かにある。このROCKで日本語というある意味ROCKにおけるペナルティを克服し、日本語による独自なROCKスタイルを築いたサザンの桑田や最近ではラブサイケデリコの日英ごっちゃ混ぜの詩や歌い方など、日本独特のROCKの形を築いているものもあるが、大半は日本語でROCKを奏でている。私はそれを決して否定しているわけではない。もちろん日本人にとっては日本語でストレートに表現した方がROCKとして成立するのは当然である。これはあくまでも洋楽好きの観点からの話である。しかし英語が世界の共通語として扱われている古今、日本のバンドでも英語で歌ってもいいんじゃないのと思う所も私の中にある。よくジャパニーズROCKという言い方をするのだが、それは決して日本語で歌うから、日本人が歌うからジャパニーズというのではなく、真の意味で日本らしいROCKを追求してこそが、ジャパニーズROCKと言えるものなのではないか。その辺を今後も考えていきたいと思うし、世界にも通用するジャパニーズROCKバンドというものが今後多く誕生すれば良いなと思っている。
2003/10/08 (水)
■ROCK21
ブリティッシュロックの起因するものは大英帝国崩壊時代から生まれ培ったものである。イギリス人に流れている血こそがROCKなるものをイギリス特有のROCKに浄化させている。かなり大袈裟ではあるが、民族の持つ固有の精神とは過去の歴史から逃れることはできないものである。まさに因果の世界である。そしてビートルズを発端とした既成の音楽概念の打破こそが現代における革命の形である。それはブルースの起因したものと同じ精神である。ROCKの精神には社会背景が常に関わりを持つ。60年代から70年代前半におけるROCKとは1つの音楽的革命であった。そして社会の流れも大きく変わっていった時代である。しかし、70年代のオイルショックを境目にして、ROCKも社会も1つの転換期を迎えた。豊かな社会へ進むにつれて、その代償なる精神が70年代後半におけるパンクムーブメントという形でROCKスタイルの中に根付いていった。以前にも言ったことがあるが、ROCKとは日常の中に存在するものであるという私の観念が事実としてそれを決定づけるものとは、ROCKが若さの代償という名目の上に成り立つ部分に依存しているからである。ROCKというエリアに於ける音楽アーチストとは、日常主義と半日常主義の狭間で生まれ得るものである。音楽的知識やその感性を持ち合わせなくとも、個の理念の中でROCKは生まれ、ROCKアーチストとして位置付けできるものである。21世紀に於けるROCKがどのような時代背景のもと、どう成り立っていくのか、それは21世紀の個に有する概念から生まれる産物なのかも知れない。
2000/11/30 (木)
■ SIMPLE THE BEST
私も歳を重ねるに連れて単純な物への傾倒が強くなってきた。ROCKの観点からしてみれば、昔は複雑極まるプログレッシブロック一辺倒の私ではあったが、今ではよりシンプルなROCKを好むようになっている。これは心境の変化だけとは言い切れない私なりのプロセスがあってこその変化である。「難解」と呼ばれる作品が多々あるが、難解ゆえに一般的な理解を顧みないことを意図とするものがこの世には多く存在している。一種の芸術的至高を求めるゆえの作為であるとも考えることができる。しかし、感性のレベルにおいてその価値基準は多種多様であり、わかり得る者だけが分かち合える感性は、市民権を得たとされているROCKという立場からすれば、かなりのズレがあるし、宝石はただの偶像であり、そこら辺の石ころと同じ存在として扱われるかもしれない。自分が追い求めていたものはすべて虚飾で、意味のない物だと気づいた時ほど落胆することはない。これは音楽だけではなく、様々な事柄に言えることではないだろうか。先ほど市民権を得たROCKという言い方をしたが、ROCKに限らず音楽の世界は大衆文化と呼べるほど、我々に身近なものである。キザな言い方かも知れないが、音楽とはストレートなほど感動するものである。ストレートに感情へ響くものが如何に素晴らしいか。それにようやく私は気づいたのである。今まで私が求めていたのは音楽に対する誇大的かつ崇拝的なものであったが、実はそんな立派なものではなかったのだ。極々身近な日常の要素に過ぎない。私が得た単純な物への傾倒とは、非常にわかりやすくシンプルでかつ効果的な物こそが、本当は素晴らしい物であるということである。これはROCKに限らず、すべてに物事に通ずるのではないか。
2002/08/20 (火)
■ クイーンブームについて
クイーンの「ボーントゥーラブユー」(もともとフレディーマーキュリーのソロ曲。昔、化粧品のCMにも使われていたと思う。今回のバージョンは彼の死後クイーンバージョンとしてリメイクされ発表したもの。)が日本でリバイバルヒットしている。なんとオリコンチャート2週連続1位だそうだ。もちろんテレビ主題歌の影響である。クイーンのほぼ全曲知り尽くしている昔からのクイーンファンの私にとっては非常に喜ばしいことであり、クイーンの新たなるファンが拡大することはROCKの遺産を再び呼び起こすものと言える。これはこれで良いことだが、ひとつ納得のいかないことを偶然にもラジオで聞いてしまい、私の怒りに触れてしまった。なんとラジオのDJはクイーン再人気をキムタクのおかげと言っていた。これには当然頭にくるわけである。まさにいい加減にしろ!である。キムタクのおかげでクイーンが恩恵を受けているわけではない!あくまでも楽曲が素晴らしいからである。この勘違いDJには死んでもらいたい心境になってしまった。ろくすっぽクイーンを知らない人間が公の電波でこのような発言をするのは危険である。キムタクだから売れたなんて思ってしまったらクイーンの音楽は廃る。クイーンはあくまでもクイーンであり、楽曲の良さで人々はCDを買うのだ。この常識を分け前ないと音楽はただの流行歌と見なされてしまうのが私は嫌なのである。
2004/02/16 (月)
■ ピンクフロイド論
UKROCK史上でビートルズの次に偉大なバンド、ピンクフロイドについて今日は論じることにする。ピンクフロイドと言えば、プログレッシブロックの代表バンドとして今も現役で活躍しているバンドである。キャリアは33年。1973年作品の「狂気」は、世界一のロングセラーとしてギネスブックにも載っているほどである。日本でもオリコンチャート1位を獲得した。とにかく世界でビートルズやローリングストーンズに匹敵するほどの超大物バンドなのである。ピンクフロイドの音楽性の特徴は大きく2つに分けることができる。1つは音に対する追求心である。楽器だけでは表現できない音を彼等は作り上げてきたのである。彼等の音楽は体で感じるというより、直接、脳に働きかけるような感覚の音なのである。今流行りのα波ミュージックのような、音としては聞こえてこない音、つまり人間の潜在意識に働きかけるような音楽をピンクフロイドは追求してきたバンドなのである。その効果は受け手によって異なるものかも知れない。私がピンクフロイドを聴く度に感じるその効果というものは、音の中に映像を写し出すことができる効果だと考える。音楽とは空想の中から生まれるもので、我々の想像力という目に見えない部分から生じるものであると私は考える。ピンクフロイドの音世界とは一度、解き放された想像力を音楽を媒体にして我々受け手の想像力の中へ送り込む一連の作業を遂行しているのだ。非常にレベルの高い音楽性なのである。彼等の音楽性のもう1つの特徴は外側に向けられた社会批判的な詩の世界である。社会レベルの思考とは、個の内向的思考の中から突発的に生まれるものである。ピンクフロイドのあまりにも痛烈な社会批判を持った詩の世界が起因するものは、個が所有する内向的思考から生まれている。それは「もしも」(1970年)という内向的な曲が発端となり、後の「狂気」「アニマルズ」「ザ・ウォール」といったアルバムの中で社会批判となって開化してゆくのである。とにもかくにもピンクフロイドというバンドがROCKなるものを進化させた業績は非常に大きい。だからこそ、ビートルズの次に偉大なロックバンドと私は言いたいのである。ロック雑誌に核兵器問題の記事が掲載される世の中である。ROCKとは一筋縄で縛ることのできない様々な要素を含んでいる。だから面白いのである。
2000/11/28 (火)
■さらば青春の光
不毛な10代を描いた青春映画「さらば青春の光」は今も尚、私の心の中に焼き付いている映画のひとつである。この作品はもともとTHE WHOの「四重人格」というアルバムを映画化したものである。この映画に登場してくるモッズとロッカーズは当時の暴走族のスタイルを表している。私の目から見れば、どちらも大した差のないスタイルだとは思うが、当時にしてみればセンスの問題から生じる偏見または生き方の相違みたいなものから対立していたものと推測される。しかし、当事者にしてみればこれが大問題であったわけである。青春時代とはちょっとしたことで熱くなったり、冷めてしまったりする傾向がある。これは仲間意識から生じる価値観の上にしか成り立っていない虚像である。簡単に言えば、どっちも不良ではあるが不良としての方法の違いである。モッズはGSスクーターを乗り回し、クスリで決め込み、ROCKを嗜むような、ある程度ラフなスタイルの不良であるのに対し、ロッカーズは俗にいう典型的な不良といったスタイルである。この物語はモッズを中心にストーリーが展開していくわけではあるが、決してこの2つの対立を描いた物語ではない。この物語の根本にあるひとつのテーマは10代に於ける葛藤である。精神が成熟されるこのない10代において主人公はひとつの光を見つけようとするが、周りにあるものはすべて俗っぽいものばかりである。彼は現実を直視することができない。頭はすでにクスリでいかれてきている。自分の求めているものが分からない。彼は本当の自分を捜そうとする。しかし、捜せば捜すほどすべてのもが無味乾燥に感じる。彼を支配する物、それは愛なのか。しばしの僕、ベルボーイ!!完璧なる四重人格!!この物語が投げかけるメッセージは複雑な人間の心理にメスを突き刺す。つづく。
主人公であるジミーの心理状態は常に不安定であった。何かにしがみついていないと不安が襲ってくる。彼は常にクスリに頼り、クスリを飲まないと平常でいられなかった。人は何かに依存してしまうと、そこから離れることが出来なくなる。まして10代における青春時代など、情緒不安定で自立心など川に浮かぶ泥船のようなものである。完全なる自己が確立されていないために、虚像を真実だと勘違いしてしまう。しかし、モッズのリーダー的存在であったエースがベルボーイとして働いている姿をジミーが見た時、自分の価値観すべてが虚像であったことに気づく。過去の輝きは決して現在を輝かせるものではない。人は常に成長していく。ひとつの場所に永遠に立ち止まっていることはできない。しかし、違う場所へ行くには勇気と心構えが必要である。ジミーにははっきりとした明日を見つめることができなかった。10代における青春時代とは、常に感情的で曖昧で自分を客観的に見ることができない。迷い続けることだけが子供から大人への架け橋になる。この映画において作者であるピートが表現したかったこととは、10代の迷いこそ、その後の自分に決定的な爪痕を残すということを表現したかったのではないか。私自身に置き換えてみても、10代の頃の自分が今も私の大部分を支配していると感じる。なぜならば人は迷いながらも一生、踊り続けなければならないからだ。愛は生涯に渡って自分を支配するものである。それこそがROCKへの道である。
2000/11/21 (火)
■ ZEP論
レッドツェッペリンというバンドが過去にあった。このバンドはROCKの世界においてハードロックやヘビーメタルのジャンルに属されている。しかし、それは大きな間違いである。確かにハードロックやメタルの先駆者的存在であるのは間違いないが、根本的に違う何かがある。ハード系やメタルを一切聴かない私が言うのだから間違いない。当時はROCK界の中で神格化されていた部分も多かったが、それは渋谷陽一あたりが騒いでいただけであって、そもそもZEPが持つハードロック的な部分は彼等にとって、ひとつ要素にすぎなかったからである。このバンドの根底にあるものはブルースであり、さらに突き進むと、自分たちが生まれ育った土地に響いていた俗歌なのである。これを所謂、トラッドフォークという。彼等が生まれた土地に古くから伝わる文化や歌がZEPの原点なのである。それを如実に感じることができるアルバムは「V」というアルバムである。当時、セカンドアルバムでそのハードロック性が開化し、世界にZEP旋風を起こったが、次のサードアルバムでファンは落胆したはずであろう。なんせこのアルバムは、あのハードな要素がほとんどないからである。しかし、人気とは裏腹に、ZEPが真のロックバンドであることを証明したのはこのサードアルバムからである。彼等はまさにブリティッシュそのものであった。ROCKとは進化するものであって、様式美を売り物にする後のハード、メタル系とは一線を画している。それは名曲「天国への階段」の中で彼等のROCKに対する決意や思想を明確に打ち出していることからも推測されることである。ハードロックという枠で判断するにはちょいと次元が違うバンドであるのがZEPである。まさに彼等こそプログレッシブロックという言葉が似合うバンドである。今でもロバートプラントとジミーペイジはふたりでバンドを組んでいる。最新作が3年前ぐらいに発売されているが、私はあのアルバムがめちゃくちゃ好きである。なぜならばZEPというバンドの根底をはっきりと感じることができるアルバムだからである。
2000/12/22 (金)
■洋楽を聴かない人へ
言葉のわからない洋楽にこれほどのめり込んでしまった原因とは何であろうか。私自身、言葉と音楽との関係について今まで色々と考えてきた。私の音楽論の根本には言葉と音楽は別物でいいという考え方がある。もちろん、詩とメロディが重なった所に、歌としての素晴らしい要素があることは重々理解している、しかしながら、洋楽に関しては、それをも超越してしまうメロディと演奏がそこに存在するのだ。メロディとは詩の内容以上に我々の心に響かせるものがあるし、楽器の演奏だってそうである。それは音楽というものをオールジャンルで捉えたときこそ理解できるものだ。クラッシック音楽には詩だけではない何かを我々に投げかけてくれる。その原因とは、音楽は抽象物質であってイメージの世界で作られているからだ。想像力の中から生まれゆく形こそ音楽である。だからこそ詩を理解できなくても、メロディや演奏、声の響きだけで伝わってくるものが多々あるのだ。言葉だけではない響くものとは音楽だけでなく色々な所に存在する。暗黙の中から伝わる言葉だってある。詩の世界もすばらしい。しかし、音楽を詩の世界だけで見てしまうのは勿体ない。だからこそ私は洋楽が好きだ。洋楽に偏見のある人は今日を境にその考えを捨てたほうがいい。
2000/12/14 (木)
■書を捨て町へ出よ
物事を難しく考えてしまうと、余計難しくなってしまう。なぜ人は物事を難しく考えようとするのであろうか。なぜ物事を簡単に考えることができないのであろうか。例えば哲学を学ぼうと思っている人が、分厚い哲学書を読もうとする。しかし、書かれている内容が難しいことばかりでチンプンカンプンである。そうなると哲学は難しいことと考えてしまう。そしてあきらめる。しかし、我々が生きている身近には哲学に通ずるものが沢山あるはずだ。例えばROCK。たかがROCKされどROCK。ROCKには人間の哲学的な考えが十分含まれているものなのだ。わざわざ哲学書を開かなくても、ROCKを聴けばわかることがある。世の中にはわざわざ本を開かなくても身近なもので学べるものはたくさんある。それに気づくか気づかないの差である。ひとりの人間から学ぶ。ひとつの組織から学ぶ。ひとつの趣味から学ぶ。人間の進歩とは日々学ぶことであると私は思う。私の場合、ROCKから何かを得ようとしている。だから文章を書く。ただそれだけのことである。
2002/04/23 (火)
■ HATE TO SAY I TOLD YOU SO
30代の世代である私にとってビートルズ、キンクス、ローリングストーンズなどが全盛期であった60年代ロック創世時代をリアルタイムで見ることはできなかった。60年代は我々の世代にとっては過去の産物として振り返ることしかできないものであった。その中でも、その時代の息吹を作品、映像の中から感じ得ることは可能であった。しかしながら、リアルタイムでその時代を生きた人達にくらべれば、その現実感の違いは非常に大きいものと言える。私がROCKに目覚めたのは70年代後半からの時代である。とは言っても、まだ幼少の私にとってはその時代をリアルタイムとして体験したとは言い難いものがあった。本当にROCKを身近に感じ得ることができたのは80年代からと言えよう。80年代ROCKはまさに世界がオイルショックから立ち直り、産業の発展、拡大と共に、ROCKまでもが産業化してしまった時代であった。ROCK産業の巨大化が、ROCKを多様化させ、その真の方向性を見失ってしまった時代でもあった。イギリスのROCKは衰退し、アメリカンドリームから生じるアメリカンロックの急成長、MTVの絶大なる効果、そのすべてが混ざり合って、80年代というひとつの時代を築いたと言えよう。80年代はまさにROCKというよりポピュラー音楽として、ROCKの位置付けが成されていた。まさにROCKは混沌という名のもとにその精神が失われていた時代であった。
前回、80年代ROCKの悪口?を書いてしまったが、私が言っているのは80年代における総論であって、決してその時代のROCKがすべてダメだと言っているわけではない。あくまでも私が抱くROCK全般の観点からその時代背景を示唆しながら述べただけである。よって80年代ROCKが一番素晴らしいという見方も当然あっておかしくないのである。80年代ROCKがこれほどまでに全世界に浸透したひとつの原因は前回でも述べたMTVの存在である。すなわちシングルレコードをプロモートするためのプロモーションビデオの存在が、そのコマーシャル性を高め、大人もとより子供にも多く愛されるべき音楽となっていったのである。日本ではプロモ専門番組として土曜の23:00より小林克也による「ベストヒットUSA」という番組があった。この番組は日本における洋楽維新とも言える番組で、洋楽というジャンルを邦楽と同等に大衆文化と言える立場まで押し上げた番組であった。そして何と言っても小林克也の斬新な言葉の言い回し方であった。私も囓るように毎週見ていたものだ。この時代、我々の世代が必ず聴いていた洋楽の主流といえば、まずフットルースのサントラ盤、そしてマイケルジャクソンのスリラー、デュランデュランのセブンラグドタイガー、この3枚は洋楽を聴きはじめた人にとって必須のアルバムだったと言えよう。
90年代を語る前に、どうしても言っておかなければならないことがある。それはCDの登場である。80年代後半よりLPからCDの転換が行われた。この転換は音楽業界にとっての大変革であり、音楽の需要と供給の形態が全く変わってしまったのだ。過去の作品はあらゆるジャンルにおいてCD化され、新しい作品もすべてCDとして発売された。消費者はすばやくそれに対応をした。CDという技術進歩は消費者により音楽を身近なものにしたのである。その使いやすさはLP時代とくらべ格段の差である。音楽業界が90年代においてさらに発展した原因のひとつはCDであったと言えよう。昔でいえば10万枚売れば大ヒットであったが、今では100万枚が当たり前になりつつある。いかにCDの存在が音楽業界の需要を伸ばし、供給源となるアーチスト側が多様性になっていったか理解できるであろう。
90年代ROCKは上記のような変革もあり、その音楽性も80年代にくらべるとさらに多種多様になった。60、70年代への原点回帰したもの、またROCKというジャンルにとらわれない新しい音楽への創造等、あらゆる物が混在したのが90年代であった。そんな中、UKROCKもブラー、オアシスをはじめとする所謂ブリットポップが世界的に人気を集め、それに付随するバンドも多く出現した。しかし、そのようなROCKにも限界があり、解散するもの、方向転換するものも多くいた。そして時代は21世紀。我々が望むべきROCKとは一体どんなものになって行くのであろうか。次回このシリーズ最終回にて私の見解を述べさせて頂く。
21世紀のROCKに新しいものを望む気持ちは私にはない。あらゆるものが出し尽くされたROCKはもはや新しいものへの創造は必要とされていない。しかし、ROCKにおける精神的なものだけは常に創造して行かなければならない。それは音楽だけとしてのROCKではなく、言葉としてのROCKが重要であることを意味する。ROCKが人々に与える影響力はすさまじいものがある。それは言葉のエネルギーをROCKで燃焼することができるからである。
行き場のないフラストレーション、複雑な人間関係、多種多様する人間の価値観、常にROCKは我々の身近な問題と共に存在していた。戦争が少ない時代にだからこそ、我々は平和を望む。しかし、心からの平和を果たして望んでいるのだろうか。昔あった戦争は違う形で今も尚、我々の心の中に潜んでいるのでないか。ボタンひとつ押せば終焉を向かえられる時代である。まるでかつてのアメリカとソ連の冷戦状態である。人間同士の緊張感が抜けない限り、いつ悲劇は訪れるのかわからない。そんな世界だからこそ、ROCKは必要なのである。世界はひとつにならない。しかし、ROCKは世界共通なものである。ROCKが世界をひとつにできるかもしれない。その望みがある限りROCKはこれからも生き続けるであろう。
HATE TO SAY I TOLD YOU SO
我々が欲した言葉を後になって後悔しないために・・・
2002/09/17 (火)〜2002/09/20 (金)
■ROCKルネッサンス
ロックンロールルネッサンス時代。こんな言葉が最近よく聞かれる。どことなく60年代のROCK創生期に似た雰囲気がしないわけでもないと私も感じている。これは時代がよりシンプルなものへ傾倒してきている証拠だと私は分析する。多種多様になってしまったROCKをもう一度見直すべき時が今という時代なのかもしれない。シンプルな物への傾倒は、所謂ガレージロックと呼ばれる分野から起き始めている。ガレージロックというジャンルは正直、私もなぜそのような言い方でジャンル分けするのかわからないが、ガレージすなわち庭先で演奏するような粗野なロックとでも解釈したらいいのか、そんなROCKをリスナーは求めている時代であることは確かである。私自身も以前述べたが、シンプルな物へ傾倒しつつある。その理由は、単純なものこそ人に伝わりやすいからである。変な小細工をして芸術至高を高めればそれで良いってものではないし、ROCKなど所詮、街の不良達からはじまった音楽である。そんな肩の力を入れず気楽に考えた方が逆に良いのかもしれない。ポールマッカートニーも最初は3つのコードを憶えた所からはじまっているし、その時のポリシーが今も尚生き続けていると思われる。バンドを組みたければコードを3つ憶えればROCKになるのだ。その単純な発想から私もROCKに関わって行ければ良いなと最近思うようになった。
話しをもとに戻すが、ガレージロックはUKROCKの既成概念とかけ離れたところから人気を集め、そして不思議なことにUKから再びはじまっている。この現象はすなわち、UKROCKに対するリスナーの価値感の変化である。既存のUKROCKの様式美的な物に対する飽きがきたのである(と私は勝手に解釈している)。そしてリスナーはよりシンプルで奇抜なものを求めた。その結果がガレージロックでありロックンロールルネッサンスと呼ばれる一連のムーブメントが起こったのである。スウェーデン出身のTHE
HIVESもUKから火がつき大人気となった。彼等を見てると、昔のTHE
WHOやTHE ROLLING STONESを思い出すし、60年代という時代を今再び感じることができる素晴らしいバンドと私は思う。アメリカでもQOTSAをはじめBRMC、STOROKES、WHITE
STRIPESなど新たなるムーブメントが世界的に台頭しはじめている。非常に期待大である
2002/10/11 (金)
■ 死とROCK
先週末、THE WHOのジョン・エントウィッスル(ベーシスト)が急死した。二十数年前、キースムーン(ドラマー)が既にこの世を去っているので、これで二人目となり、THE
WHOのメンバーが残り二人だけになってしまった。BEATLESといい、WHOといい、あの60年代の黄金時代を築き上げた大御所ROCKバンドのメンバー2分の1がこの世に存在しないという事実は、なんか寂しい気もするし、時代も変わってしまったということを痛切に感じてしまう。まるでROCKのために魂を引き替えにしてしまったような感じがしないわけでもない。
もっと早い時期にこの世を去ったROCKアーチストは非常に多い。ジミーヘンドレックス、ジャニスジョプリン、マークボラン、キースレルフ、ジョンボーナム、シドヴィシャス・・・あげたら切りがない。この偉大なる功績を残したROCKアーチストに共通するものは何か。死んでしまった原因はそれぞれ違う。しかしながらその原因を度外視して考えてみれば何かひとつの共通するものが見えてくる。それはROCKに対するアンチテーゼの存在である。その存在とはROCKが持つ悲壮美ではなかろうか。(私にとって悲壮美とはROCKにとって対極にあるものとして捉えていることを前提とする。)悲壮美は時として伝説を作りあげる。それは人間が求める究極の姿(存在)であり、神に近い存在まで人間を崇拝する対象物として奉てることである。アンチテーゼは死をもって実証される(ROCKと死の同胞的思考)という事実の中で、上記したROCKアーチストはその任務を結果的に遂行しただけである。しかしそれは真の理想像(本人が求めたかった結果)ではなく、すべて「死」という結果の中から築きあげられた虚飾であり、誇大妄想の象徴にしか過ぎないのではないか。
永遠の伝説となるべき人物(火星へ帰ってしまうはずの人物)のはずだったデビッドボウイーが今も尚、世界のROCKスターとして健在(?)なのがすべての証拠である。
2002/07/02 (火)
■静寂と私
戦国武将はことのほかお茶を愛したらしい。殺伐とした”動”の世界を生きた武将にとって、それに対極する茶道の”静”という部分と兼ね備えていた姿は、古来からの日本人の精神を象徴するかのようなものだ。この精神は現在においても日本人の生活そのものに培っていると私は思う、物事にはすべて両面があるように、人間もまた生活の中で、ある一面だけでは生きて行けない。例えば今ある仕事を”動”とするのであれば、それに対極する”静”の部分を持ち合わせていなければ、人間としてのバランスがとれない。人はそれぞれの”静”という部分を知らずのうちに求め、そして築いているのある。家庭がその人にとっての”静”にあたる部分という人もいるし、私みたいにROCKが”静”だと言う人もいる。しかし、”静”が成り立つための必須条件はあくまでも”動”を兼ね備えていなければならないということである。この関係は両方がお互いに作用しあう所に意味がある。すなわち”静”とは”思考”(行動の根源)を意味し、”動”とは”行動”(思考の実践)を意味する。人間は行動するためにまず考える。なぜ行動するのかという根本的理由がない限り、人間は行動しない。これは人間の持つ哲学そしてポリシー(政策)があってこそである。戦国武将が”静”の世界で求めていたものは”動”に対する構えである。”静”という世界で己の精神を確立するのである。その中で、ものに動じない心(平常心)を養い、戦術を見出し、戦い(動)に備えるのある。
私はROCKの中に静寂を求めている。だから文章を書く。静寂と私の関係はまだまだ続くのである。
2002/10/01 (火)
■ 音楽対談
以下に記載する会話は、先週とり行われた私とドラマー候補DAISUKE君との音楽対談の模様である。尚、会話は一部、脚色されていることをあらかじめ断っておく。
KING(以下K):どんな音楽が好きなの?
DAISUKE(以下D):僕の場合、ロックを好きになった原因は当時流行していたラウドネスを聴いてロックに超はまってしまいました。それから洋楽も聴くようになり、ラモーンズとかパンク系をめちゃめちゃ聴くようになりました。
K:ラウドネスって懐かしいね。日本のヘビメタバンドって当時かなり知名度が低くかったけど、ラウドネスはかなりメジャーな存在だったよね。僕はその手はあまり聴いてなかったなあ。でもラモーンズとか70年代後半のパンクは今聴いてもぜんぜん古臭くないし、面白いよね。
D:僕がドラムをはじめたきっかけはやっぱりパンクです。
K:僕の場合、ロックの王道を行くバンドは片っ端から聴いていたんだけど、レッドゼッペリンとかも聴いたことある?。
D:もちろん聴きました。ゼップのドラムは難解なんだけど、爽快感のするドラムですよね。僕の場合、ドラムは常にパワフルなものとして捉えていますのでゼップのドラムは僕が目指すドラムのひとつの形そのものです。
K:そうだよね。あれだけ叩ければすごいよね。ドラムはバンドの要だもんね。だけどテクニックだけがすべてじゃないよね。ドラムは一種、感情表現的なものがあるし、それを表現することがテクニックだけじゃない大切な要因のひとつと言えるものだよね。
D:そうですね。ある意味、感情表現ってテクニックより難しいものだと思います。僕の場合は音楽を楽しむという観点からドラムを叩いています。それが僕のドラムにおける感情表現につながっていると思います。音楽とは読んで字の如く、音を楽しむことが大基本だと思います。
K:そうだよね、全くその通りだよ。僕も音楽は好きだし、好きなものに理由なんてないからね。本能的に好きだと言えるものが何よりの大好きであって、理由をつけて好きなものって、どこかした嘘くさい感じかする。僕は何の抵抗感もなく音楽を聴いているし、楽しいと言えることがすべてだと思う。
D:そうですね。同感です。だから音楽をやるということは僕にとって楽しくてどうしょうもなんです。音楽は聴くだけでなく自分でやることが僕にとっての音楽の楽しみ方です。
K:音楽の楽しみ方の定義は色々あっても良いと思うよ。僕の場合、10年後にCDデビューするって心の中に決めちゃったから、ただ楽しむだけでなく、そこに付加価値をつけたいと思っているんだ。DAISUKE君は音楽に付加価値は必要だと思う?
D:そうですねえ、僕の場合、自分の信念だけは絶対に曲げたくないというポリシーがあるんですよ。音楽であっても自分が納得するものでなければぜんぜんだめなんですよ。例えばクラッシク音楽とか、全然わからないし、良いとも思わない。つまりクラッシク音楽は僕の中で納得できるもんじゃない。これじゃためなんですけど、自分の体に吸収できるものでなければ受け付けないんです。まさにmy Way主義なんです。だから付加価値という中から言葉を見つけることはできないんです。
K:なるほどね。確かに自分が良いと思うものを大切にすることも必要なことだと思う。しかし、僕の思う音楽観念は君とはちょっと違って何でも吸収してみようと心がけているつもりなんだ。例えば僕はヘビメタは聴かないけど、ヘビメタ的な要素は好きなんだよね。つまり音楽のいいとこ取りが好きなんですよ。それを付加価値でも言えばいいのかな。でもさっき僕が言った付加価値とは意味合いが違うんだけど・・・。
D:どういう付加価値なんですか?
K:そうだね、簡単に言えば音楽が主体なのでなく、音楽と通じてという意味合いかな。もちろん音楽は自分たちの伝えたいことをメッセージとして送ることができるよね。しかし、メッセージを受け取る方の問題だと思うんだ。音楽の影響力って若い人たちは敏感に反応するよね。そこに僕は付加価値をつけたいと思うんだ。ぼくは自分でもし音楽をやるのであれば、自分達のメッセージが受側(リスナー)にとってプラス的要素になってほしいと思うんだ。つまり希望だね。希望の音楽をやりたいんだ。これは音楽をやる人はぜひ楽しむだけの音楽ではなく、人々に希望を与えるミュージシャンとしてやってほしいんだ。親や先生、大人たちが若い人に何かを教えるだけでなく、音楽が教えてくれたっていいんじゃないの。別に説教するわけじゃないいだから。だからこその希望だね。それが僕が思う付加価値の正体かな。
D:なるほどいい勉強になりました。
K:とりあえずやってみようよ。お互いCDデビュー目指して。
D:OK!バンドに参加します。(握手)
2002/11/04 (月)
PS:結局、諸事情によりDAISUKEくんはバンドには参加できませんでした・・・。
■KINGインタビュー
KING’S ROOMもお陰様で約2年、トータル250回の連載を数えました。そこでこの部屋の主、KINGさんに「祝!連載250回突破」と題して、特別インタビューを敢行致しました。今日から数日間、そのインタビューの模様をお送りします。
Q.連載250回を突破し、今のお気持ちをお聞かせください。
KING(以下K):まあとにかくよく書いたもんだよ。三日坊主の俺がここまでやるとはさすがに思っても見なかったね。途中(昨年中頃)色々あって挫折したんだけど今は不死鳥のように蘇ったって感じかな。これを書くのがもはや日課となってしまったという感じだよ。特別、力を入れてるわけじゃないいんだけどね(笑)。
Q.毎日のネタはいつ考えてるのですか。
K:そうだね。この部屋をよく見てる人ならわかると思うんだけど、「ROCKは日常の中に存在する」という概念が俺の中にある。ということは毎日生きていれば、何かしら考えることがあるはずだよね。どんな些細なことでもいいんだ。自分が一日を生きて感じ取ったことをアレンジして書く、ただそれだけのことだよ。そんなに難しいことじゃないと思う。それと一番大事なことは、常に、ある事柄を問題として意識変換すること。これはちょっとした心がけでできるもんなんだ。誰にでも考えはある。自分の考えを言うことは決してはずかしいことじゃない。自分の考えをまともに聞こうとしない器の小さい奴とはつき合わない方がいいよ。それこそ無駄な時間だよ(苦笑)。
Q.この部屋で述べられている文章は誰に向かって語られているのですか。
K:特定の人に対して語っているという意識はないよ。また自分をわかってもらいたいからという気持ちもない。これまた前に書いたことあるんだけど、この文章は八紘一宇的なもんで、常に一方通行の世界で成り立っている。そこに意味があるんだ。詩を書く人ならわかると思うけど、いちいち人の意見に左右されながら詩なんて書かないよね。それと同じ。思うがままの世界が人間どっかにひとつぐらいあってもいいはず。まあ、ある意味、誰も聞くことのない俺の主張ぐらいだと捉えてもらえばいいよ。そんな難しいこと言ってるわけじゃないし、ある意味、いい加減なものだしね。メッセージなんて重く考えることはないよ(微笑)
Q:あなたはこの部屋で何回も詩を書いていますが、あなたの詩についてお聞かせください。
K:そうだね。ほんと下手な詩をインターネットで公開するなんて恥さらしもいいとこなんだけど・・・(一瞬黙)、ここに書いた詩のすべてはほとんど即興で書いたものばかりで、すべてオリジナルだよ。言っておくけど、盗作や模倣は一切ないよ。色々書いてきたからね。「即興2分詩」なんてこともやったことがある。あれが以外と受けた。詩というのは誰かに伝えたいから書くものかもしれないんだけど、俺の場合はひどく抽象的で、わざと伝え難くしている感じだよね。性格がひねくれているかどうかはわからないんだけど、俺にとって詩を書くという行為は、一種の言葉遊びをしているだけかもしれない。本当ははっきりと伝えたいこともあるんだけど、それは俺の性格上、詩にすることがなんか照れくさく感じているのかな。ラブソングであっても、はっきり書くということが照れくさいから、全く違った言葉で表現する。そこがどこか言葉遊びの感覚なのかもしれないね。まあそんな上等なもんじゃないから、そんな語る必要もないけどね(照笑)。
Q:あなたはこの部屋に「ROCK」という観点から文章をお書きになっていると思われますが、なぜROCKなのですか。
K:愚問ですね、いまさら。それはともかく、この部屋の文章が「ROCK」から成り立っていると感じた人は多分いないと思うよ。みんなが思うROCKは音楽であるはずだから・・・。この文章は音楽じゃない。しかし、ROCKにも詩の世界がある。詩の世界はミュージシャン自己の価値観、世界観から起因するものである。その観点から言えば、この部屋は私が主観であるROCKの形なのである。両者が起因するものにはさほど差はない。大きな違いがあるとすれば、そこに音があるかないかだけである。よって、この部屋のブレーンはROCKだと言うことができる。それは俺が思うだけいいこと。どうかな、わかってくれたかな。別にわかってもらえなくてもいいけど・・・(苦笑)
Q:一番好きなROCKアーチストは誰ですか。
K:急に質問の内容が変わってしまったね。これこそ非常に難しい質問だよ。ひとつに絞るのは難しい。いっぱい好きなアーチストがいるからね!強いて言えばレイ デイビスかな。彼こそ俺が求めるROCKの理想の形と言えるからね。
Q:音楽として「ROCK」をするという気持ちは今でもありますか。
K:そうだね。できたらいいね。昔はちょっとやってたけど、今じゃ全く無縁になってしまったからねえ。でもバンドは組みたいという気持ちはまだあるよ。あとはそういう仲間がいるかということと、自分の気持ち次第だと思うよ。なんせ音楽のセンスがないんで、やったとしても自分達が満足するような程度でいいと思う。今のところはこの部屋で蘊蓄言ってる程度で自分自身は満足して所があるからね。それにしても俺にとって胸を突かれたような質問だね(笑)。
Q:この部屋にあなたはKINGというコードネームを使っていますが、あなたは何のKING(王様)なんですか。
K:これまた、シビアな質問だね。それにしても人の痛い所を突っつくねえ。正直言って俺は何のKINGでもないよ。しかし、もし人が何かを目指すとしたら、一番上を目指さなければ意味がないのかも知れないじゃん。サラリーマンであっても最初から、将来、課長ぐらいまで出世すればいいなんて思ったら、夢も何にもないですよね。どうせだったら夢は大きな方がいいよね。夢みるのは自由だし、人が何と言おうと関係ないことだから・・・。そんなこと気にしてようじゃ人生おもしろくないよね。俺がKINGと名乗っているのは、夢は大きいほうが良いと思うからです。どっかの国の王様になれればいいというメルヘンチックな発想です。でも半分冗談だけどね・・(苦笑)・・意味など後で付け加えれば良いことなのです。
Q:最後の質問ですが、今後のKING’S ROOMの抱負をお聞かせください。
K:もう終わりかよ。もっと聞いてよ。まあそれはともかく、今後の抱負?そうだねえ・・・300回記念が来たらまたインタビューしてください。500回記念が来たらまたインタビューしてください。1000回記念が来たらまたインタビューしてください。とにかく自分のために今後も書いて行きますので、たまたまこの部屋を見られる方はそっと見てください。次にあった時、この部屋の悪口を言うのはやめてね。ここはあなたには関係のないフィクションの世界なのだから・・・。以上です。
KINGさんありがとうございました。また、300回記念の時お伺いします。
それでは さようなら。
2002/05/28 (火)〜2002/05/30 (木)
PS:この自作自演のインタビュー後KINGはバンド結成を実現しました。