Diary


NO.31〜NO.39




NO.31  BOSTON / THIRD STAGE

1986年 US

俗称“産業ロック”の何が悪いとでも言うのだろうか。私は少なくとも80年代のアメリカ産業主義ロックと呼ばれたアーチストやバンドを聴いて育ってきた人間である。しかし産業ロックを聴いているという意識は私の中にはなかった。産業ロックという言いまわしは自称本物嗜好を気取っている頭の固い連中が作った言葉なのであろう。ボストンのロゴマークも産業ロックの象徴のひとつになっており、一発当たって莫大な富を得ることができた産業主義のアメリカンバンドのひとつと見なされていた。というか実際80年代に入ってMTVの影響などによりレコード産業の需要が大きくなっただけの話ではあるが、とにかくボストンはよく売れたバンドであった。ボストンの頭脳トムショルツが6年の歳月をかけてつくり上げたこのアルバムはシンセサイザーを駆使したものとは違い、まさに手作業でつくり上げた感のある作品である。何千回にも及ぶダビングの結果、洗練されたロックサウンドが楽しめる。私もこのアルバムはリアルタイムで聴いていたわけだが、その完成度の高さに唖然とした記憶がある。メロディもさることながら、ボーカルのブラッドデルプの声もサウンドにマッチしていて、非常にクオリティの高い音楽だと言える。また音楽とジャケットのイメージもマッチしており宇宙的な広大さを感じる音楽とも言える。職人が手間を費やしつくり上げたアルバムをたかが産業ロックと呼ばれるのはなんとも悲しいものである。

NO.32  RENAISSANCE / SONG FOR ALL SEASONS

1978年  UK

学生時代、ホームセンターで購入したプログレジャンクカセットテープ。その中に収録されていたルネッサンスの「キャン・ユー・アンダスタンド」を聴いて以来、私のルネッサンスマニアがはじまった。当時、ルネッサンスのアルバムを購入するのは非常に困難であったが、CD再発より、私の中で徐々にルネッサンスの全貌が明らかになってきた。ルネッサンスの音楽要素すべてが私の好物だらけだった。ピアノフューチャー、女性ボーカル、フォーク、クラッシク、トラッド、英国的叙情、まさに理想的なロックであった。ここに紹介したアルバム邦題「四季」は彼らの7thアルバムであり、前作までのクラシカルなものからポップなものへ転換したアルバムである。ポップでありながらも曲の構成は非常に緻密であり、複雑なところもあるが、非常に聴き易いアルバムである。このバンドはなんていってもボーカルのアニーハズラムの美声である。まさに歌姫的存在であり、カーブドエアーのソーニャクリスチーナと共に私にとって2大英国ロック歌姫のひとりである。ところでルネッサンスというバンドは60年代後半にも存在していた。ヤードバーズの不遇者キースレルフとジムマッカーティが中心となって結成したバンドがルネッサンスであり、ここに紹介したルネッサンスとは全く別物であるが、実は見えない糸で繋がっている。こちらのルネッサンス(俗にオリジナルルネッサンスと呼ばれている)も非常に素晴らしい作品を残していることを最後に付け加えておこう。

NO.33 SCANCH / OPERA

1993年 日本

このバンドほど洋楽ロックを意識していたバンドはかつていただろうか。それも露骨にである。バンドの中心人物ローリー寺西の趣味嗜好がそのままバンドのカラーとなり、飾り気のないヴィジュアル系のバンド?という側面だけでなく、十分な実力を持ち合わせていたバンドだった。ロックンロールスターという役を演じるローリーの姿に私はショービジネスとは何かを垣間見ることができた。それはショービジネスに生きる者にとって、日常との差異の中で自分の役割を演じなければならない宿命を誰もが背負わなければならないということである。まあこれは大げさかもしれないが、少なくとも私はローリーがロックンロールスターに憧れて、自らその役をかって演じているような感じがしてならなかった。ここに紹介したすかんちの4作目はクイーンの「オペラ座の夜」にインスパイアされて作られたらしい。楽曲もとことん洋楽ロック好きのローリーならではである。レッドゼッペリンあり、ザ・フーあり、クイーンあり、ビートルスあり、Tレックスあり、それも露骨にわかるパクリ寸前である。かと言ってそれらの洋楽を模倣しているだけではないローリー独自の持ち味も十分出ているところが、このバンドの凄いところであり、私が感銘を受けた原因なのである。ただのパクリなら誰も見向きはしなかっただろう。好きなものを追求してここまでやってしまえる人はそういないはずである。まさに才能である。ちなみにローリーが宇宙一好きなアルバムは前に紹介した四人囃子の「ゴールデンピクニックス」だそうである。

NO.34 THE SMASHING PUMPKINS / ADORE


1998年 US

惜しくも2000年に解散してしまったスマッシング・パンプキンズのオリジナル4作目。前作のメロンコリー・・・が全世界で空前のヒットとなり、ニルヴァーナなきあとのUSを代表するバンドにまで成長した。しかし3年の月日を経て発表された「アドア」は以前のようなヘビーかつメロウなサウンドが影を潜めてしまい、それがこのアルバムの酷評となり、メディアの中心に存在していたスマパンにとって、作品の善し悪しに関係なくメディアの価値観の中に埋もれてしまっているバンド、そして自分の存在、もはや解散しかないという結果につながっていったのだ。つまりそのバンドの一面しか見れないリスナーの意識がビリーコーガン率いるスマッシングパンプキンズの可能性を遮断してしまったのだ。どのアーチストでもよくあることだが、傑作を産み出した後の作品の評価は非常に悪い。例えばレッドゼッペリンの「U」の後に発表された「V」に対するメディアの評価はことごとく悪かった。つまりヘビーな路線からトラッド、フォーク的なものを取り入れることによって評価が下がるという何とも理解し難い結果になってしまうのだ。ゼッペリンのトラッド的なものは彼らのルーツであり、その必要性こそがゼッペリンの核になっていたのにも関わらず、ハード一辺倒のやつらには不満が募る。しかしアーチストとしては自分達の音楽を常に追求し進化させていくものなのだ。話をスマパンに戻せば、少なくとも作り手ビリーコーガンの「アドア」に対する出来に関して言えば、メロンコリー以上なものがあったのだ。それがメディアでは酷評だらけたった。そうなると自分達が何のためにやっているのかわからなくなる。つまり芸術と呼ばれるものの評価はあってないようなものだと言えることになる。メディアは全体論でしか動かない。つまり大多数が興味を引くものに目を傾けるものなのだ。よってメディアは芸術的な評価はできない。そこらへんのおやじがつくった曲がプロが作った以上に素晴らしい曲ということもある。しかしメディアに取り上げられなければそのまま埋もれていくものなのだ。・・・・話が違う方向に行ってしまったが、結論を言うと、私にとって「アドア」はスマパンの作品の中では一番良いと思っているということである。人それぞれの価値観の中でしか作品は評価できないということである。

NO.35 RAINBOW / RAINBOW RISING

1976年 UK

確か私が小学校1年生の時、このアルバムが発売され聴いたことを記憶している。それもこれも8歳年上の兄が熱狂的なレインボーやレッドゼッペリンファンだったので、この時代の洋楽ロックは家にいれば自然と耳に入ってきていたのである。この時代の私は幼心にもレッドゼッペリンの「天国への階段」はすごい良い曲だと思ったし、ディープパープルの「ハイウェイスター」もすごいと思った。そしてこのアルバムの特にB面はすごいと思って聴いていた。レインボーの大作「スターゲイザー」「ア・ライト・イン・ザ・ブラック」の2曲。何をもってしてすごい!と思ったのは定かではないが、リッチーのギターが云々ではなく(この時にギターの善し悪しなんかわかるわけがない)、幼少の私でも理解できるほどのメロディの良さであろうと今振り返ればそんな気がする。私のROCKへの想いはこの時代から培われていることは間違いない!であろう。そしてそれから約30年の月日が流れ、今でもたまにこのアルバムを聴くことがある。レインボーのロックが古臭いなんて私は思わない。その感覚は昔のままである。というか昔のまま止まっている。この後様々なハードロックバンドが登場してきたわけが、私にとってレインボーを越えるほどのハードロックバンドには巡り合わなかった。なんでもそうかもしれないが、昔聴いていたものっていうのはどこか特別なものであって、比較対照になるもんじゃないと私は思う。たとえば私にとってチューリップというバンドはどのバンドにも変えることのできない青春時代そのものであるように、レインボーをヴァンヘイレンと同じ土俵にあげるわけにはいかないのである(どちらかと言えば私の世代はヴァンヘイレンであるが・・・)。今レインボーを聴いて特に感動があるわけではないが、このアルバムは私にとってある意味ロックの原点という意味で忘れられない1枚なのであーーる。

NO.36 FLEETWOOD MAC / SAY YOU WILL


2003年 UK+US

私にとってのフリートウッドマックはリンジーバッキンガムとスティービーニックスが加入し、イギリスのバンドからアメリカのバンドへ移行してからである。77年に発表された「ルーモア」がはじめて聴いたアルバムだった。ルーモアと言えば全世界で1500万枚以上売り上げた怪物アルバムでイギリスの大御所ブルースバンドであったフリートフッドマックが一躍全世界にその名を知らしめたアルバムである。ロック全般を聴くこともなく、どちらかと言えばプログレと呼ばれるものにはまっていた私にとってフリートウッドマックの音楽はポップ過ぎる感がありそうだったが、全くそんなことはなく、すんなり聴ける素晴らしいバンドのひとつであった。彼らの快進撃は80年代後半の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」まで続いたが、その後はリンジー、さらにスティービーの脱退により衰退したかと思ったが、どんな時代でも自在変化できるこのバンドはずっと生き残り、ついに2003年、再び黄金期メンバーにより復活を果たしたのが、ここに紹介したアルバム「セイ・ユー・ウィル」である。黄金期メンバーで唯一外れたのが、70年代よりマックを支えてきたクリスチンマクビーで、やはり彼女がいないとどこか物足りない感じがあるのはきっと誰もが感じていることであろう。それにしてもこのバンドの魅力的な所はコーラスワークである。そのコーラスワークが蘇っただけで私にとってこのアルバムは価値あるものとなった。まあ私が一番好きなアルバムはマスコミに酷評だった79年の2枚組の「タスク」だけどね!

NO.37 人間椅子/人間失格


1990年 日本

1989年のブームといえばイカ天である。今となっては死語に近い言葉であるが、私は毎週欠かさずに見ていた。その中のバンドで今も尚生き残って定期的にアルバムを発表しているのはきっと人間椅子だけであろう。私も当時人間椅子のライブに何度も足を運んでいたぐらい惚れ込んだバンドのひとつである。彼らの音楽の基本となるのはへヴィーメタルである。しかし様式美にとらわれないメタル、どちらかと言えばブラックサバス系のハードロックに近い形なのであろうか。その重厚なサウンドと文学的な詩の世界は独特のものがあったし、今も尚根強いファンが残っている理由はその確固たる音楽性を貫き通しているからであろう。このアルバムは彼らの記念すべきファーストアルバムであり、私はバンドスコアを買ったくらい聴きこんだアルバムである。バッジーのカバー曲があったり、津軽三味線ばりのギターアレンジを施し郷土の想いを歌った「りんごの泪」、さらにヘビメタパロデイの「へヴィーメタルの逆襲」、さらに第一興商のカラオケになぜか入っている「人間失格」など聴き所満載であると共に、当時の私の思い出がフェードバックしてくるアルバムなのである。いまさらお勧めするアルバムではないが、こんなバンドが日本に多くあれば、日本のロックも捨てたもんじゃないと私は思う。

NO.38 JETHRO TULL/PASSION PLAY


1973年 UK

祝来日決定!(2005年5月11日もちろん私は行きます)ということでジェスロタルを紹介しよう。このHPでも何回か紹介したことがあるが、ジェスロタルは私にとって全アルバム(しかも全部LP)を所有するくらい好きなバンドのひとつである。私が最初に聴いたタルのアルバムがここに紹介した「パッションプレイ」でありキリスト受難劇をコンセプトにした難解かつ1曲46分という一般リスナーには理解に苦しむ内容となっているが、私にとってこのアルバムははじめて「音」を聴きこむという観点において初体験アルバムなのである。曲構成はかなり複雑になっており、もともと10編ぐらいの小作品を一気に1曲にまとめたのがこのアルバムなのである。前作「シック・アズ・ブリック」も1曲構成のアルバムであったが、もともとこのパッションプレイは1曲にまとめる形ではなかったらしい。つまりボツネタとなってしまった曲を繋ぎ合わせてつくられたのがパッションプレイなのである。そこにイアンアンダーソンがコンセプトをつくりまとめたのである。色んな要素が吹き込まれたこのアルバムは私にとって音楽の未知なる世界を垣間見させてくれたのである。それはロックミュージックというエリアだけでなく演劇的な要素を兼ね備えた音楽、つまり劇場チックで映像を醸し出すような音楽といっていいのだろうか。まさに不思議なアルバムなのである。

NO.39 PINK FLOYD/THE DARK SIDE OF THE MOON

1973年 UK

このアルバムを今更私が語ってもしようがない。今までどれだけの人がこのアルバムにたいして記事を書いてきたことだろうか。すべて重複する事柄であろう。しかしながら私にとってこのアルバムは何とも不思議なアルバムであり、約20年聴いているがその正体はいまだにわからない所が多い。なぜこのアルバムが全米で1位のなったのか、なぜ当時日本で天地真理より売れたのか、なぜ724週も全米ビルボードにチャートインしたのか、なぜ人間はこのアルバムを聴こうとするのか。この謎だらけのアルバムが世に出てもう30年以上の月日が経っている。にも関わらず今でもこのアルバムはロック市場で欠かすことのできないアイテムのひとつになっており、最近ではハイブリット盤なども発売されておりいまだに人気の高いアルバムなのだ。私のまわりにピンクフロイド知ってる?なんて聞いてもほとんどの人が知らない。音楽やロックは好きだけど、ピンクフロイド知ってる奴なんて稀である。俺の回りでも七輪のマスターくらいだ。そんなビートルズより知名度の低いピンクフロイドだけど世界じゃあまりにも有名なバンド。それがピンクフロイドだし、私はそんなピンクフロイドがずっと好きだ。このアルバムは私的に敢えて理解すると、人間の持つ普遍的なものをあからさまに掲示し、それに音を加えただけのアルバムである。そこに空気があれば吸い込むことができるし、走り回れば息が切れるし、人間が浪費する時間の音を聴覚的に表現したり、金と金が重なり合えばチャリンというし、金をたくさん持てば人間は強欲になるし、そこに人と人がいれば愛することもできれば、憎しみあうことができるし争うこともできるし、太陽がなければ所詮人間は生きられないし、ただそれだけのことを表現しただけのアルバムなのだが、これを表現する所が実はミソなのだ。そんな人間の普遍的なものをアルバムにしたからこそ、このアルバムは大衆的な地位を不動のものとしているのだと私は思っている。全音楽ファン必聴アイテムであることは間違いない。







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