ポーランド旅行記
アウシュビッツ強制収容所(オシフィエンチム)
第二次世界大戦中、ナチスドイツは、占領下の土地からユダヤ人、ロマと呼ばれるジプシー、共産主義者、反ナチス活動家を強制収容所へ送り殺害しました。
クラクフの西54kmの所オシフィエンチムという街に、アウシュヴィッツ強制収容所跡、その東約3kmの所ブジェジンカと言う村にビルケナウ強制収容所跡があります。
これら二つの強制収容所は、1979年に世界遺産に登録されたとのことです。
また、ポーランド国内には8500余の強制収容所が設置されていたと言われ、多くの人が殺害されました。
アウシュビッツ強制収容所
アウシュヴィッツ強制収容所は、敷地面積は6ヘクタールとのことですが、ここで殺害された人の数は、400万人とも言われています。
正門
収容所跡は今では博物館として残されていますが、正門前には広いバス停留所が設けられ、入り口の左手には売店があります。
私達は、バスから降りると先ず売店に立ち寄り、亡くなった人に捧げるための花を買い求めました。
入り口から少し進むと収容所の門があります。
門の上には、「働けば自由になれる」と言う意味と言われる看板が取り付けてあり、その両側にはバラ線と電気を掛けた電線を取り付けた柵が2重に設けられていました。

音楽隊の写真
正門を入って直ぐ右側には、当時厨房として使用されていたと言う建物がありますが、その板壁には音楽隊の写真が貼ってありました。
音楽隊は、収容者が作業に出かけるときに演奏していたとのことです。
4号棟
この収容所には、28棟の建物が残っており、建物には番号が付けられています。
(ここにはもともとポーランド軍の兵舎が20棟あり、8棟を増築して収容所として使用したとのことです。)
最初に見学した4号棟には、収容所の所在地の地図、焼却の写真、壺の墓、連行の写真、コベル神父の死亡証明書、ユダヤ人用列車の乗車券、選別風景、ガス室の模型、チクロンBの缶、殺害された人の毛髪、毛髪で織られた布などが展示してありました。
壺の墓
これは殺害(焼却)された人の灰をガラスの壺に入れて墓としたものです。
連行の写真
ワルシャワでは「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人を強制的の集めて居住させた区画がありましたが、ゲットーの人達もこの写真のようにして連行されました。
右2枚の写真には、近隣の広い範囲の国からアウシュビッツ強制収容所に集められたことが示されています。

選別風景
ここに収容された人は、貨物列車で運ばれて来ましたが、貨車から降りると収容先別に選別されました。
ガス室模型と死体の焼却
ガス室の模型は、白い石膏で作られていましたが、真っ白い素っ裸の人が詰め込まれた姿は、白骨を連想させました。
ガス室で殺害した死体は、屋外に出して焼却したようです。死体は素っ裸です。

チクロンBの空き缶と女性の毛髪
ガス室では「チクロンB」と言う毒ガスが使用されましたが、その空き缶が積まれていました。(下の左の写真)
また、別の室には、女性の頭髪を刈り取られたものが山と積まれていました。(下の中の写真)刈り取られた頭髪は袋(下の右の写真)に詰め込まれ、ドイツの本国に送り羊毛と混ぜて紡ぎ、布に織られたとのことです。
ドイツに送られた毛髪の重量は、7トンとも言われます。
布に織られたものはどのように使われたのでしょうか。よくもこのようなことが出来たものです。恐ろしいことです。

メガネと義足・義手とトランク
メガネだけを集めた部屋(下の左の写真)、義手・義足のみを集めた部屋(下の中の写真)、トランクだけを集めた部屋(下の右の写真)もありました。
トランクは何れ返して貰えるものと思い、住所と氏名を大きな文字で書いてありましたが、2度と本人が利用するすることはありませんでした。
もとの居住地からここに移住する時は、「新しいところで幸せに暮らしたい」との希望を持ち、それに役立つと思われる指輪、ネックレスなどの宝石類をトランクに入れていましたが、ドイツ人の看守達はこれらをすべて取り上げ、本国の親戚などに配ったとのことです。

靴の山、化粧品の山
子供の靴だけを集め山のように積み上げた部屋(下の左の写真)、女性の靴だけを集めて山のように積み上げた部屋(下の中の写真)、男性の靴だけを集めた部屋、
櫛を集めた部屋、歯ブラシを集めた部屋、クリームなど化粧品だけを集めた部屋(下の右の写真)などがあり、いずれもその量の多さに驚きます。
この収容所で殺害され子供の数は、32万人とのことです。

死の壁
10号棟と11号棟の間に厚い石の壁がありますが、これが「死の壁」と呼ばれるもので、ここでは1万1千人が銃殺されたとのことです。
私達はここで花束を捧げ冥福を祈りました。
10号棟は、人体実験病院とのことですが、死の壁の側の窓には板が打ち付けられ目隠しがしてありました。

「死のブロック」餓死室・窒息室・立ち牢
11号棟は死のブロックと呼ばれ、中に入ると右手に「偽裁判所」と説明されましたが、裁判官のテーブルと椅子がありました。(下の左の写真)
また、この棟には、SS当番室、餓死室(大きなローソクはヨハネ・パウロ2世から贈られたもの)、窒息室(下の中の写真)、立ち牢(下の右の写真)などがありました。
「立ち牢」は、1辺が1m弱のレンガで囲まれた四角の区画の中に4人を詰め込んで長時間立たせるという牢でした。

17号棟
16号棟から27号棟には、ユダヤ人が収容されたとのことですが、17号棟には「コルベ神父」のプレートありますが、コペル神父は点呼の時、子供の身代わりになることを申し出たとのことです。
集団絞首台・ヘス所長の住居・ヘス所長の絞首台
下の左の写真は、絞首刑を行うためのもので、レールで作った鉄棒のような形をしています。
3人の脱走者が捕まったとき、他の10人も絞首刑を受けたとのことです。傍の建物の壁にはそのとき撮影された写真が貼ってありました。
当時の収容所の所長の名は「ヘス」と言いましたが、構内には彼が住んでいた住居跡があります。終戦後彼もとらわれ、1947年4月16日、下の右の写真の絞首台に吊されたそうです。

ガス室・焼却炉
下の左の写真は、ガス室の写真ですが、ガス(チクロンB)は天井部分から注入されたそうです。
下の右の写真は、死体の焼却炉だそうです。

ポーランドの人口の推移
現地ガイドは、戦前・戦後のポーランド人口の推移について次のように説明しました。
戦前;3500万人
ポーランド人2200万人、小数民族1300万人
戦時中:1200万人殺害
戦後: 2300万人
98%がポーランド人、少数民族2%
戦時中に殺害された1200万人の中には、戦闘で戦死したものも含まれているとは思われますが、大半は小数民族で、強制収容所(国内の5,800の強制収容所を含む)で殺害されたようです。
★「概要」のページへ
★次の「ビルケナウ強制収容所(ブジェジンカ)」へ