4.「と117」の主張◆「英語学習」編◆
2006/01/21 Sat.
今日実施された大学入試センター試験では、英語のリスニングテストが実施された。どうやら「英語を聞けて話せて当然」というような時代に完全になったようである。教育現場では、ほとんどの中学校や高校に外国人教員が配置されているし、小学生の頃から英語を学習させようという動きまである。巷にあふれる英会話スクールについては、言及するまでもない。
しかし、「と117」は疑問に思うのである。本当に、全ての(とは言わないまでの、圧倒的多数の)日本人にとって「英語を聞き、話すこと」が必要なのだろうかと。センター試験にリスニングテストが必要なのだろうかと。このようなことを主張すると、「何を時代遅れなことを言っているんだ」と思われるかもしれない。それでも「と117」、この主張を曲げるつもりはない。
詳細は、追って記していきたい。とりあえず今日はここまで(我ながら中途半端だな)。
2006/05/08 Mon.
今日は早めに帰宅したので、某国営放送の夕方のニュース番組を見ると、ちょうど「小学校英語教育」の特集を放送していた。内容は、東京都品川区の取り組みで、外国人教員と日本人教員が授業をするためのテキストを導入したとかいうものだった。
これは、小学校の教育課程における英語の必修化を見据えてのものだろう。ちなみに、2006年5月現在小学校での英語学習は必修ではないので、いわゆる「総合的な学習の時間」を利用して英語の(or「英語で」?)授業を実施しているに違いない。
さて、テレビで見る限りにおいては、楽しそうな授業風景であった――児童に英語で話しかける(時折若干の日本語を交えながら)日本人教員、その教員や児童からの質問に英語で答える外国人教員、朗らかに英語をリピートする児童たち――が、どうしても「と117」は懐疑的に見てしまっていた。
なぜ「懐疑的」に見てしまったのか、その理由を自分なりに考えてみると、「英語教育の低年齢化反対」というものがあるようだ。では、なぜ「と117」は英語教育の低年齢化に反対するのか…とりあえず理由を2つ挙げる。
1.小学生のうちは、国語・算数・生活(理科・社会)などの基礎力をしっかり身につけてもらいたい。
2.「英語嫌い」を幼い世代にまで広げてしまうのではないかという懸念がある。
2つ目の理由はさて置いて、要は「英語教育に割く時間を、国語などの基礎力を養う時間に充ててほしい」ということなのだ。
2006/05/09 Tue.
上記のような主張を持つ「と117」ではあるが、幼い頃から英語を身につけさせようとすること自体は否定しないのもまた事実である。その根拠は、以前に読んだ(かなり以前なのでいつだったか思い出せない。ひょっとすると10年以上前くらいまでさかのぼるかもしれない)本の中に次のような趣旨があったからである。
「脳(の言語をつかさどる部位)はおおよそ10歳くらいまでに完成する。それより幼い時期であれば脳は言語に対して柔軟に対応でき、複数の言語を容易に習得できうる。」
但し、これに「と117」は条件をつけておきたい。「複数の言語を習得するには、極めて幼い頃からそれらの言語を母語並みの量聞かせたり読ませたりする必要がある」と。日本人が英語を幼い頃から習得しようとすると仮定して話を進めると、幼い子に対して日本国内において日本語を読み聞きするのと同じくらい英語を読ませたり聞かせたりする必要があるということだ。これははっきり言って不可能に近いのではないか。日本国内にいる限り、「英語を話さないと生活が成り立たない」ということはまずあり得ないだろう。
以前(これまたかなり前なのだが)、電車の中で母親が幼い子どもに向かって英語で話しかけている様子を目にする(耳にする)機会が偶然にもあったのだが、子どもは何を言われているのかさっぱり分からないというような表情だったことをはっきりと覚えている。「と117」が思うに、家族が英語で子どもに話しかける程度では十分な量とは言えないのではないだろうか。それこそ、電車内で誰もが英語で話しているのを耳にするくらいの量でなければ効果は期待できないのではないだろうか。
ややもすると、日本語の文法も英語の文法も中途半端な子どもになってしまう恐れはないか。複数の言語の文法が中途半端にならないようにしながら習得させる方法も皆無ではないだろうが…
(未完)