鈴虫の箱

開けると鈴虫が鳴き始める箱がある。
鈴虫と言っても真鍮でできた模型で、どうやら箱の底にあるスピーカーが光に反応して泣き声を流すらしい。
他愛のないおもちゃだ。

鈴虫なんてのは夏の終わりに現れて、ちょっとだけ鳴いて死んでしまう泡沫みたいな虫なんだが
一生の最後にその小躯の渾身をもって、夜の闇に澄んだ音を響かせてゆく。
鳴いたりしなきゃもうちょっと長く生きられるはずなんだが、
彼らの内にある何かがそれを許さないのだろう。
「本能だから」では片付けられない、自然の取り決めのような何か。
そもそも、「全力で生を全うしようとしない」なんて芸当ができるのは人間だけなんだが。

この箱はもう10年ほども前の冬に、仲の良かった友達から貰ったものだ。
当時の僕はシュールなグッズを集めるのが大好きで、そんな僕への中国みやげに買ってきたものだった。
開けると音が出る、というただそれだけの代物なんだが、僕はこれを妙に気に入って、しょっちゅう季節はずれの鈴虫を鳴かせていた。
来年の秋になったら本当の鈴虫と鳴き比べさせてみようか、なんて子供じみたことも言ってたんだ。


次の年の鈴虫が鳴き始める前に、その友達は鈴虫みたいにあっけなく死んでしまった。
鈴虫の箱はそれから一度も開かれることなく物入れの一番奥にしまいこまれ、
子供じみたことなんて言わなくなった僕は、そのまま何年か後に進学で家を出た。

家を出て何年か経ったある年の瀬、僕は実家の柿の木の下に立っていた。
その数日前に16年生きたうちの飼い犬が天寿を全うし、その木の下に埋められていたのだ。
なんだかわからないが僕は酒のびんを持っていて、ほら飲めとばかりに木の根元に酒をかけていた。
そこに越冬中の鈴虫がひょっこり現れ、とかだと非常にドラマチックなんだけど、残念ながらそうではない。
ただなんとなく、もうあの箱を開いてもいいんじゃないかという気分になっただけだ。
ひとつの「不在」と向き合ったことで、もうひとつの「不在」に決着をつける気になったのかもしれない。

恐る恐る箱を開けると、かすかに、しかし確かにチリチリと鈴虫は鳴いていた。
冬の陽のように、はかなく暖かく。
涙なんて出なかった。
どこかに抑えこんで見ないふりをしていた悲しみがほどけ、優しさのようなものに変わってゆくのをただ感じていただけだ。

鈴虫の箱は、またしてもそれ以来開いていない。
以前のように開けないのではなく、もう開かなくてもいいだろうという気もしている。

人は望むほどに何かを失ってゆくばかりだ。
夜のように優しく、何ひとつ飾ることなく生きていけたらと思う。

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