線路で、本を読みながら歩く吾郎
駅で電車を待つ吾郎


朗読 「一握の砂」石川啄木
    (電車の中での朗読)

石川啄木(1886―19129)
明治19年、岩手県に生まれる。
明治34年、「翠江」(すいこう)のペンネームで「岩手日報」に
初めて短歌を掲載。
明治36年、 初めて「啄木」の名で「明星」に詩「愁調」を発表。
明治43年、処女詩集「一握の砂」を東雲堂書店より刊行。
明治45年、肺結核にて世を去る。若干27歳。
死後、第二歌集「悲しき玩具」が東雲堂書店より刊行。

吾郎「生涯、自らの過酷な生を三行書きという独自の手法で詠い続けた
   歌人・石川啄木の代表作です。
   雪深き村に住む人々の苦しみや喜びが、この1節に凝縮されていると
   思います。」

吾郎「忘文
   それを読むと日頃の憂いを忘れさせてくれるという文。
   中国の故事、忘草に由来しています。」



すすきの前で依頼者を待っています

吾郎「ようこそ、忘文ですか?」
美果子「はい、よろしくお願いします」
吾郎「舘岡美果子さんから、耕悦さん、フミ子さんへの忘文」
美果子「はい、よろしくお願いします」

手紙 「舘岡耕悦さん・フミ子さんへの忘文  娘 美果子より」
ご家族の紹介 耕悦さん57歳、フミ子さん55歳、美果子さん30歳
家族で農業をしています。

自転車で配達先を探す吾郎

吾郎「えー、耕悦さん、フミ子さんですね」
耕悦「はい」
吾郎「えー、美果子さんからの忘文が届いておりますので、お掛けになってください」

手紙の朗読

吾郎「…といったお手紙ですが。
   日頃こういったお話とかってね、面と向かってなかなか…」
耕悦「そうですね」
吾郎「思ってても、恥ずかしくてなかなかできなかったりとか、ですもんね」
耕悦「ええ」
吾郎「そうですか。このファーム・イン。なんか他のやはり、そういう農家とか果樹園と
   違って、なんか新しいいろんなアイデアを導入して、やられてるんですか?」
耕悦「ええ、あの、そうですね、普通あの、農家つったら、農作業が主体に
   なるんですけれども(はい)、あの、都会の人にも(ええ)、あの、農業やってる
   現場を知ってもらい(はい)、そしてまた、ゆっくりした気分で(はい)、
   あの農産物、例えばりんごとか梨を(ええ)、収穫してもらたり(ほー)
   くつろいでもらう場所なんです」
吾郎「楽しそうですね」
耕悦「ええ」
吾郎「なんか、結構癒されそうですね」
耕悦「ええ。ゆっくりした気分になるらしいんですよ」
吾郎「そうですか。ずばり、この美果子さんの働きぶりはいかがですか、大先輩として?」
フミ子「最初はやっぱり、とまどいましたけど(はい)、やっぱりこう、だんだん、こう
    農作業にも、私方の見てるところに(はい)、見て、あの、手伝わなければって
    いう感じで(ええ)、あの、今手伝ってます」
吾郎「でもなんか、お母様に、ちょっと、やっぱり似てきてらっしゃいますよね」
2人「ああ、そうですか」
吾郎「先ほど、お会いしましたけど。
   では、えー、お届け料として、何か一言いただけますか?」
耕悦「そうですね、何と言えばいいんでしょう」
フミ子「やっぱりこう、今も3人ですけど(はい)、3人で頑張ろうっていう(はい)
    そういう伝えをお願いします」
耕悦「それから(はい)、1人家族が増えますように」
吾郎「あ、そうです…」
耕悦「ってことで、よろしくお願いしたいとか」
吾郎「そうですね。働き手が増えたほうが」
耕悦「そうですね」
吾郎「より一層、ね」
耕悦「ええ」
吾郎「わかりました、ありがとうございます」
耕悦「よろしくお願いします」
フミ子「どうも」
吾郎「では、こちら、はい」
フミ子「どうも、ご苦労様でした」
吾郎「ありがとうございました」

吾郎「日々、ハードな仕事をなんなくこなす父と母
   農園での仕事を始め、あらためて彼らの偉大さに気づく娘
   彼女の忘文には、そんな2人への尊敬と気遣いが綴られていました
   これからも3人で、アイデアを出し合い、ステキな果樹園を
   作ってほしいと思います」
りんごをかじる吾郎
吾郎「うまい」


朗読 「千曲川のスケッチ」島崎藤村
    (滝のほとりに腰掛けて)

島崎藤村(1872―1943)
明治5年、長野県に生まれる。
明治30年、詩集「若菜集」を刊行。
明治44年、随想集「千曲川スケッチ」を「中学世界」に連載。
昭和4年、長編「夜明け前」を発表。日本ペンクラブ会長に就任。
昭和18年、「東方の門」執筆中に脳溢血で倒れ永眠。

吾郎「詩人主義文学の雄、島崎藤村が、信州滞在中に綴った随筆です。
   列車越しに見える雪国の風景、それが山々から駅員の息づかいに至るまで
   丁寧に描写されており、まさにスケッチと呼ぶにふさわしい世界が
   形作られていると思います。」

棒に糸を付けただけのような釣竿でツリをしますが…
吾郎「あー、ダメだ」


公園のようなところでおもちゃの魚つりゲームをする吾郎
依頼人の子供が吾郎の肩をたたく
赤ちゃんを抱いた学生服の男の子と3人の女の子
吾郎「あ、失礼しました。忘文ですか?」
子供たち「お願いします」
吾郎「お父さんの照彦さんへの忘文ですね、承りました」

手紙 「横井照彦さんへの忘文
       息子 渓一・逸人・鴻紀
       娘  愛由・結衣   より」

ご家族の紹介
照彦さん(43歳)、優子さん(39歳)と7人の子供

吾郎「照彦さんですね」
照彦「はい」
吾郎「えー、お子さん達からの忘文が届いております」
照彦「どうも」

手紙の朗読
照彦さんと並んで地面に座っての朗読
吾郎「以上です」

傘をさしながらです
吾郎「えー、こちら、娘さんからの、お父さんの絵ですね」
照彦「はい」
吾郎「1番下の娘さんは、まだ生まれたば…」
照彦「そうです、3ヶ月です」
吾郎「あ、そうなんですか」
照彦「ええ」
吾郎「でもね、しっかりと、あの、手紙を書かれて…。いかがでしたか、手紙?」
照彦「忙しいので、なかなか、あの、ゆっくり(ええ)、お話できないことも
   多いんですけども(はい)、えー、親をよく見ているなと(そうですか)
   あと、あのエピソードなんかみると(はい)、やっぱりあれですね、
   こう、親が忘れているようなこと(ええ)、何気なく自分で過ごしている
   ことも(ええ)、よくあの、覚えてて書いてくれてて(そうですね)
   とってもうれしいと思いました」
吾郎「うさぎ小屋を一緒に作ったとか」
照彦「そうそう、真夏の暑い日に作ったんですけど」
吾郎「うん、きっとお父さんが作っている、そういう姿を
   きっと印象的なんでしょうね」
照彦「私も自分が子どもの時に(ええ)、父親が、あの、鳩の(ええ)
   小屋を作ってもらって(はい)、なんかそれでこう、その時の父親の気持ちが
  (ええ)えー、よくわかって、えー、自分でも作ってみたいなと思ってました」
吾郎「あ、やっぱりじゃあ、そういうのが通じてるし、親子だからね、
   そっくりなのかもしれませんね。
   ま、今後、どのような、ね、お子さんに育ってほしいですか?」
照彦「ま、とりあえず元気で(はい)、で、私はまあ、医者をしてますけど、
   あの、親の手にかからないような、元気な」
吾郎「元気な」
照彦「ええ、まず、子どもであってほしいということと(はい)、あとはやっぱり、
   あの、えー、他人を思いやる(ええ)、優しい子供になってほしいなと」
吾郎「そうですね。なんか将来お医者さんになりたいという、お言葉を
   もらいましたけど、やっぱり、うれしいですよね、なんか」
照彦「えー、今の時点でなんか、そういうふうに、目標にしてもらえてるってことは
   自分としても、励みになるなとは思いますけど」
吾郎「そうですか」
照彦「はい」
吾郎「わかりました。じゃあ今回、この忘文のお届け料として、そうだな、まあ
   トータル的に何か、まあ、あの、お子さん達に一言ありますか」
照彦「今、家族の輪を大事にして(はい)、えー、このあとも、あの仲良く(はい)
   やっていきたいなと思います。(わかり…)
   で、あの、手紙を、こう書いてもらったことによって(はい)、また、あの
   なんていうか、こう、お互いの(はい)、気持ちが少し分かったという感じも
   ありましたので(そうですね)、とってもよかったと思います、
   ありがとうございました」
吾郎「いえ、こちらこそありがとうございました」

吾郎「7人の子供たちの思いを乗せた忘文
   さまざまな文面の底を流れていたのは
   自らの成長を見守ってくれる父への感謝の気持ちでした
   7人7様でも思いは一つ
   こんな家族を羨ましいと思いました」


朗読 「手袋を買いに」新美南吉
    (木の根元、切り株のようなイスに腰掛けて)

新美南吉(1913―1942)
大正2年、愛知県に生まれる。
昭和2年、中学2年の頃から文学に興味を持ち、童話や詩を投稿。
昭和7年、「赤い鳥」1月号に、著書「ごん狐」掲載。東京外国語大学英文科へ入学。
昭和13年、安城高等女学校教諭となる。生徒の詩や自分の作品をハルピン日々新聞に掲載。
昭和18年、結核により29歳の若さで世を去る。

吾郎「国民的童話作家として人気の高い新美南吉。
   彼は、人間と動物、都会と田舎など立場を異にする者の
   魂の交流をテーマに、数多くの名作を世に残しました。」

バードウォッチングをする吾郎


夜のポスト前
引き続きバードウォッチングする吾郎
依頼人に気づき
吾郎「あ、ようこそ」
「忘文をお願いします」
吾郎「辰守弘さん、時子さんから時芳さんへの忘文ですね」
「はい」
吾郎「では、お届けします」

手紙 「辰時芳さんへの忘文
           息子 守弘
           孫娘 時子より」

ご家族の紹介
時芳さん(79歳)、守弘さん(50歳)、時子さん(20歳)
神主さんのご一家

神社の本殿
吾郎「守弘さん、時子さんからの忘文が届いております」

手紙の朗読
時芳さんと向かい合って正座で朗読

吾郎「えー、2通の息子さんとお孫さんの手紙を読ませていただきました。
   えー、いかがでしたか?」
時芳「感激しております」
吾郎「はい」
時芳「子供や孫がこんなにまで(ええ)、思ってくださるとは
   夢のように思って、誠にありがたく、心から感謝を申し上げます」
吾郎「この、読ませていただいて、おじいさんの車に乗ると20キロぐらいの速度で
   こう、のんびりと車に抜かされていく。
   ただ、何よりも安心感を、こう、覚えてらっしゃるということなんですけれども
   なんかそういう、なんか情景が、あの、僕も思い浮かぶんですけれども
   よく時子さんと、お話をされるんですか?」
時芳「はい、そうです。
   ま、20キロとはちょっとオーバーですが、40キロぐらいで
   安全運転を心がけて(はい)、39年に(はい)、免許を取得して(ええ)
   40年になりますが(はい)、安全運転なんで、いまだ事故や、
   起こしたことはありません」
吾郎「あ、そうですか」
時芳「はい」
吾郎「どういったお話をされるんですか、車の中で」
時芳「まず、人間としてまっすぐな道を進んでくださいと(はい)、このことだけは
   子供や孫には、常々お話しております」
吾郎「そうですか」
時芳「はい」
吾郎「息子さんは、あの、お父様にとって、この子供の頃の、こう、エピソードなんかも
   書かれてましたけれども、どういった息子様なんでしょうか」
時芳「やー、親から見ると(はい)、ま、若干年を重ねてきましたが(ええ)
   まだまだ、そげな点も多々ありますが、ただ、我々の考えない(はい)
   今の世相にそった神社界を(ええ)、やってると、ありがたいなと思っておる…」
吾郎「そうですか」
時芳「ええ」
吾郎「あの、もう、もちろん息子さんもご立派な、ね、神職さんであると思うんですけれど
   何か、あの、父親から、これからのアドバイスみたいなものがあれば
   一言いただけますか」
時芳「ま、うちは、あの、世襲の(はい)、神職ですので(はい)、やはり人並みの
   神職になるには、やはり大学出なければいけないってことで(はい)、
   で、大学にも進めて(はい)、そしてまあ、孫も(はい)、その方法に向かって
   おりますが(はい)、どんなお仕事の方でも(はい)、1歩間違った行動を起こすと
   大変なことになる(はい)、特に我々の大変な職業というものは、神に仕える(はい)
   秋田の(はい)、杉のように、まっすぐな成長をして、そして神様の○○の跡取を
   やるには、人一倍の修行もしなければいけない(うーん)、と思っております」
吾郎「そうですね、それは孫の、お孫さんの時子さんにも」
時芳「つうずる…」
吾郎「つうずることですよね
   ただ、なんか、あの、うれしいですね、こういったお手紙」
時芳「ありがとうございます」
吾郎「なかなか、日頃、ここまでね、まあ、会話を」
時芳「思ってくださると」
吾郎「そうですね」
時芳「はい、思ってなかったです、はい」
吾郎「はい。じゃあ、これからも息子さんとお孫さんとともに、この村の
   この地域の、ね、平和を祈り続けてください、ありがとうございました」
時芳「どうも、ご苦労様でした」
吾郎「承りました」

吾郎「雪深き村から、人々の平和と安泰を願い続けてきた神官
   その憂いを忘れさせたのは、彼をもっとも近くから見つめてきた
   息子、そっして孫の言葉でした
   この家族に幸多からんことを祈ります」


朗読 「銀河鉄道の夜」宮沢賢治
    (神社の外、本殿への石段に座って)

宮沢賢治(1896―1933)
明治27年、岩手県に生まれる。
大正5年、同人誌「アザリア」を発刊。短編を書き始める。
大正11年、童話「雪渡り」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。
大正13年、イーハトーブ童話「注文の多い料理店」一千部を自費出版。
昭和8年、急性肺炎で死去。37歳の若さ。

吾郎「永遠の未完の傑作と呼ばれるこの作品。
   まずしく孤独な少年ジョバンニと、親友カムパネルラの
   銀河鉄道の旅が、悲しくも美しくも綴られています。」


吾郎「トンネルをぬけた場所には、さまざまな思いを抱え、暮らしている
   家族たちがいました。
   町での会社勤めから、果樹園で父母とともに、働くことを決めた娘。
   そして厳しい自然の中、すくすくと育っていく子供たち。
   日々の村の幸せを祈り続ける家族。
   仕事や暮らしは違っても、彼らの手紙には、家族をいとおしく思う気持ちが
   綴られていました。
   あなたも、今年書いてみませんか?
   大切な人への忘文」
   (鳥居の階段を下りた下で)


吾郎「おみくじを引きました。
   吉
   うーん
   願望 油断をせず身を正しくすれば叶えていただけます
   待ち人 遅く、来る。遅くても待ちなさい
   恋愛 誠実な美しい心の人を得て、幸せになりましょう
   旅行 日を改めたほうが良い
   うーん、どうしようかな、正月の予定」


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