聖なる森には、神の御使いがいる。
だから森に入ってはいけないのだ、と近くの村人達は皆、口を揃えて言った。
侵入者を神の御使いは一人たりとも見過ごさぬ。
御使いに出遭った後に森を出られれば幸運、だが邪な者、業深き者の瞳は二度と家族のもとに戻る事叶わぬ。
ある時聖なる森に入ったのは、言い伝えを全く知らぬ一人の娘。彼女は道中道に迷い、偶然ここに辿り着いた。
娘は森の美しさに驚いた。綺麗な色の羽の小鳥が木々の間を飛び交い、おとなしげな動物たちは堂々と彼女の前を横切り、人を恐れる様子は全く見せぬ。
まるで楽園みたいだわ、と娘は言った。正にそこは、何編もの詩に謳われている理想郷に思われた。
やがて歩き疲れた娘は湖の前に出た。木々を映し出す水面は、磨き込まれた鏡のよう。白い両手が水を掬うと、さざ波が静かに湖面に広がる。喉を潤し、彼女はしばしの休息を楽しんだ。 だが突然、水際の静寂を破る声。
娘、この森は神聖なる場所、人間がみだりに立ち入るのは許されぬ。
佇んでいたのは一頭の馬。毛並みは白くつややか、姿は娘の知るどの馬よりも優美で美しい。そして全身から黄金色の淡い光を放っていた。
明らかに、尋常の馬とは思われぬ。瞬時に悟った娘は、馬に向かって頭を垂れた。
申し訳ございません、旅の途中で正しき道を見失ったのです。後はただ神に導かれるまま進みました。
馬は鼻を鳴らし、娘を見つめた。嘘をついているようには見えぬ、悪しき者でもないようだ。命は助けてやろう。
感謝いたします、と娘は言った。貴方様は一体どのような御方でしょう、と問うた。
我が名はウェルギリウス、聖なる森の守護者である。
ではウェルギリウス様、お慈悲を賜ったお礼に、歌を捧げたく存じますが。
娘は流浪の吟遊詩人。詩人を見た事のないウェルギリウスは興味を持った。それならばやってみろ。
彼女は竪琴をかき鳴らし、己が知る限りの詩を歌った。その声は、森の鳥達にも負けぬ美しさ。ウェルギリウスは聞き惚れた。
なるほどこれは素晴らしい。「歌」とはかように面白きものなのか。娘、お前の名を聞かせよ。さすれば永遠に我が記憶に留めよう。
娘の名はシュラと言った。ウェルギリウスはシュラを祝福し、湖のほとりで彼女が去っていくのを見送った。
しばらく経って後、ウェルギリウスは歌が聴きたくなった。もし次に人間が入ってきたら、何か歌わせてみよう。
その希望は程なく叶う。今度の侵入者は男、朗らかで酒場の好きな若者だった。声にはすこし自信があったため、若者はウェルギリウスの命に一も二もなく従った。
違う、我が望んだのはこのような歌ではない。ウェルギリウスはいなないた。声も節回しも以前聴いたものとは比べものにならぬ。若者は神馬の前から這々の体で逃げ出した。
その後もウェルギリウスは幾人もの人間達に歌わせた。中には詩人もいたのだが、ウェルギリウスは満足せぬ。シュラの方が声が良い、彼女の方が語りが上手い。
実は彼女に恋したのだと、御使い自身さえ知りはせぬ。神馬は娘と同じ歌を求め続けた。
――それが永劫に叶わぬ幻とはつゆ知らず。
〜了〜
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