2008/02/06 by てるてる
ミンナウリのカード〜(八十五)〜
一年たった。チャングムが所長を務める研究所では、彼女自身が研究をするとともに、医女達のなかでより専門的な勉強をしたいと望む者、研究をしたいと望む者が集まり、さまざまな実験や討論や報告を行うようになった。さながら大学のようであった。チャングムは研究生達の食事や寝る場所にも気を配った。ひとりひとりの好みに合わせて御飯を炊き分けたとき、ハン最高尚宮のことを思い出した。研究にいそしむ医女の中には、チャングムを母親のように慕う者も出てきた。非常に聡いが、また非常に不幸な家庭で育った娘だった。その娘は初め、ヨリと同じような眼をしていた。その眼がほんの少し暖かい色を見せたとき、チャングムには、ヨリの気持ちがわかるような気がしてきた。かつては自分を疫病の村に取り残して殺そうとしたヨリも、その心の中にはどんな大きな悲しみや苦しみがあったかと、思い遣るようになったのである。ヨリは生きるために人の欲望を利用することを覚えた。だがチャングムがその才能を認めている娘は、当然のように差し出される優しさを当然のように受け取ることを覚え始めたようであった。
こどもたちの療養施設では実質的にシンビが監督と指導をし、チャングムは決裁をするだけとなった。チャングムはシンビにも官位を与えてもらって正式に施設長を交代したいと思ったが、シンビはそうしないほうがいいと言った。漢陽の人々はデジャングムがこどもたちを保護している施設として相変わらずチャングムを慕っていたからである。チャングムはそれでも、シンビに、実質的な施設長としてふさわしい俸禄を与え、自分の俸禄は減らしてくれるようにと、皇后に願い出た。皇后はチャングムの願いに、自分はチャングムもシンビにも施設長として俸禄を与えるのがいいと思うという意見を添えて、王に伝えた。王は、チャングムを名誉職のようなかたちでこどもたちの施設に残してこれまでどおりの俸禄を与え、シンビにも施設長としてふさわしい俸禄を与えた。王はさらにチャングムの官位を、従八品から従七品に上げた。
王は、時々、チャングムがいる研究所に散歩に来るようになった。チャングムは恐れ入って迎えた。散歩が王のからだによいと言って、一緒に歩き、気のおけない会話の相手となったが、その内容は誰にも漏らさなかった。医者として患者のこころとからだを守るためであった。
ある日、王はチャングムに言った。
「むかし、そちが、私家にいる余に酒を届けに来たとき、使いを頼んだ者にどう伝えるかときいたら、喜んで受け取ったが深く苦悩しているようすだといったな」
チャングムは懐かしいこどものときの話を聞かされて、うれしそうなようすで、
「そう申し上げましたか?」
と答えた。
「余は、悩みはせず、ありがたく、貰った酒を飲んだ。そしてその酒を持ってきた幼い娘のことを考えた。余に付いている尚宮に叱られながら、自分を女官にしてくださいと何度も頼んでいた少女は、宮中がどんなところか知っているのだろうかと。余は宮中に行きたくなくて苦悩していたというのに。酒を飲んで一眠りし、目が覚めたら、余は王になっていた。そちが酒さえ持ってこなければ余は王になっていなかった。だからそちは責任を持て」
チャングムは少し驚いて、
「責任でございますか」
ときいた。
「そうだ。責任だ。そちは余を先に宮中に送り込み、それから自分を入れろとだだをこねた。それゆえ、余をおいて宮中を出ることがあってはならぬ」
チャングムは困った顔をした。
「既に私、二回、宮中を出ておりますが。済州島と、忠清道と」
王はきいた。
「忠清道ではミンジョンホとともにいたのだな。済州島では誰とともにいたのだ」
「ミンジョンホとともにおりました」
「なんと、そのころから夫婦だったのか」
「そのころは私は奴婢でしたから、妻になろうとはしませんでした。島の医女チャンドクに学び、医女になる修業をしておりました」
「だがミンジョンホとともにいたのだな」
「ミンジョンホから離れたことは一度もございません」
「ミンジョンホは幸福な男だ」
「わたくしも幸福でございます」
「そちはいつからミンジョンホとともにいたのか」
「わたくしの父と母とが出会う前から」
「なに?」
「父ソジョンスは内禁衛に勤める武官でございました。燕山君御幼少のみぎり、廃妃ユン様の処刑にて、薬を賜る役を仰せつかり、ユン様お亡くなりのときのお恨みのこもった眼が恐ろしく、その夜は酒を飲み、森の中にさまよいだしたのでございます。そして崖から落ち、腕に怪我を負って気を失いました。わたくしの父ソジョンスを見つけ、手当てをしたのは、ミンジョンホの父でございました。父チョンスは、夢を見たと申しました。夢の中で、老師に会い、おまえの運命は三人の女によって定められている、と教えられた、ひとりめの女は、父チョンスによって死ぬが、死なぬ。ふたりめの女は、父チョンスによって助けられるが、また父によって、死ぬ。三人めの女は、父チョンスを死なせるが、多くの命を救う、と。そして、老師は、三人の女を表わす文字を紙に書いて、消えたそうでございます。ひとりめの女の字は、女と今。ふたりめの女の字は、女と順。三人めの女は、女と子、でした。ミンジョンホの父はそれを聞いたとおりに紙に書いて、ソジョンスと、意味を考えました。女と今というのは、廃妃ユン様のことであろうということだけはわかりましたが、ふたりめ、三人めのことはわかりませんでした。それから十五年後、父ソジョンスは既に宮中を出ておりましたが、ミンジョンホの父に手紙を寄越しました。その手紙には、ふたりめの女は、川に頭を着けている女だった、自分はその女を助け、妻にした、と書いてありました。さらに、娘が生まれ、チャングムと名づけたとも、書いてあったとのことでございます」
「なんと……」
「ミンジョンホの父は、わたくしの名をチョンホから聞いたとき、すぐにソジョンスのことを思い出したそうでございます。そして、済州島から戻ったチョンホから、ソジョンスのことを尋ねられたミンの父は、やはり、そうであったかと観念したとのこと。それゆえ、わたくしは身分違いでありますのに、チョンホが身分のことは問わぬと言った時に、しかたあるまいと答えたそうでございます」
「ううむ……そのような縁があったとは」
「わたくしは長い間、父を死に追い遣ったのは自分であると思って苦しんで参りました。けれども、ミンの父からこの話を聞いたとき、すべてはわたくしとわたくしの父とに定められた運命であったのだと知りました。それゆえに、わたくしは、運命に従い、ひとりでも多くの方の命を救わねばならないと思いました」
「そうか。それゆえに、医女として、そちは志を貫こうというのだな」
「はい。それがわたくしの定めでございます」
王は、深く納得した。
それから数日後、王が、大臣達に命令を出した。
王がそう言ったとき、二年前に王がチャングムに従九品の官位を与えると言ったとき以上に、大臣達は激しい反対の声を挙げた。
ミンジョンホは、右議政、もとミンジョンホの上司の左賛成から、チャングムは左議政で内医院の最高責任者であるイグゥアンヒから、それぞれ呼び出されてこの話を聞かされた。そしてチョンホはチャングムに辞退させよと、チャングムは辞退せよと、迫られた。
チョンホもチャングムも王の命令に驚いた。チャングムは、王が彼女を主治医にしようとしたり、大長今という称号や堂上官の位を授けようとしたりするのは、以前に、チャングムの父と三人の女の話をしたからであろうと察した。自分はおおぜいの人の命を救う運命であると、そのようなことを自ら王に言ってしまったのは返す返すも愚かであった。チャングムは、王のこころとからだを守る医者としての務めにそむことにならないかと考えたが、結局、自分が王に話したことをチョンホにも話した。チョンホは、それでよかったのだ、と言った。チョンホはむしろ、自分とチャングムとは、チャングムの父と母とが出会う前からの縁だと、王に言ったことを喜んだ。そんなことを言ってくれるとは、男冥利に尽きるというものであった。自分もまた、チャングムの定めを正しく遂げさせるために、チャングムのそばにいるのだ、と言った。
内医院ではシンイクビルもチョンウンベクも困惑した。チャングムが彼らふたりよりも高い官位を与えられるというのである。ふたりともチャングムの力量と志を認めてはいたが、それでも、医女が王の主治医になるなど前代未聞である。また、内医院の医局長は王の主治医が務めるのが慣わしである。チャングムが王の主治医になるということは医局長もチャングムが務めることになる。医務官は初めから医局長になることも視野に入れて、官吏になる者として修養を積み試験を受け採用されている。しかし、医女は大部分が奴婢である。官吏になるための修学も試験もないのである。もっとも、チャングム自身は元は女官として高い教養を身につけ、経書を諳んじることもでき、医務官とはりあえるだけの実力はある。しかし、制度として、また慣例として、医女が医務官のように王の主治医になったり医局長になったりするということは、ありえないのであった。
皇太后もまた、王がチャングムを主治医とすることに反対した。皇太后は以前オギョモ一派に支えられていたが、彼らがいなくなった後も、オギョモと立場を同じくする左議政イグゥアンヒらから支持されていた。皇太后は強い不快感を示し、不道徳であると非難した。
宮中ではチャングムの悪い噂が立つようになった。王と散歩をしながら、自分から主治医や堂上官になることを願い出たのに違いない、女らしからぬ野望を女の武器で遂げようとする悪女だと、陰口が厭らしく陰険に意地悪く言い触らされた。チャングムを悪く言わないのはイヨンセン淑媛とお付きの女官と、シンビと、療養所のこどもたちと手伝いに来る医女達や若い人々、研究所の医女達だった。そして、漢陽の街の人々は、相変わらず、チャングムを慕い、敬っていた。
ウンベクは、チャングムに関して無責任な噂が流れることに怒りを抱いた。イクビルも同じく怒りを感じた。チャングムは王の健康のために散歩と気のおけない会話の相手をし、その内容を人に漏らさない。それは医者としての務めである。チャングムに関して囁かれる陰口は、医者の業務を理解しない者による医療行為への侮辱であると思われた。
宮廷に仕える官吏や学者達、それに在野の学者や地方の官吏達までが反対の意見書を連日のように多数提出するようになった。宮廷に来て王に命令の取り下げを願う学者達もおおぜい居た。
ある日、大殿の前の庭に、おおぜいの学識のある両班達がひれ伏して、医女を主治医にすると言う命令を取り下げるようにと、繰り返し唱和した。チャングムはそれを見て恐れを感じた。チョンホは怒りを感じた。チャングムは二年前に、男の医務官達が治せなかった王の病気を治しているのだ。しかもそれがきっかけで、硫黄家鴨事件の再審が行われ、オギョモ一派とチェ一族との結びつきが暴かれ、彼らによって官職を奪われていた人々が皆、宮廷に戻ってきた。その人々までがいっせいに、チャングムを非難している。
チョンホは堂上官達が居並ぶ前で、王に、お伺いしたいことがあると願い出た。王は許した。彼は重臣たちの刺すような視線を浴びながら、いっこうに動じる様子もなく話した。
ちょうどそのとき、内医院の医局長シンイクビルが王に進言をするために参上した。彼は、右議政、左議政、右賛成、左賛成、右参賛、左参賛など、居並ぶ堂上官達の前で王に意見書を提出した。王はそれを読むと、イクビルに返し、皆の前で読み上げるようにと命じた。イクビルは読んだ。
「内医院の医務官医女は全員、王様の御命令に従います。チャングムの指揮を受けようと思うのは、医術者としてのチャングムの姿勢にあります。チャングムの医術は母の愛です。母は我が子のためなら自らを喜んで投げ出します。我が子が病に倒れぬよう、手を尽くして予防を心がけ、我が子を治すため、人の心の中に希望を呼び起こし、皆を一つにまとめます。活人署でも、大君が天然痘に罹られたときの治療でも同じでした。それゆえに内医院の者はチャングムの指揮のもと、誰一人不満を抱かず、病を必ず治すという信念で、治療に当たりました。よって喜んで御命令に従います」
この意見書は、堂上官達を驚かせた。チョンホは、ありがたいと思った。チョンホもまた口を添えた。
内侍府の尚膳がミンジョンホをお茶に招いた。チョンホがでかけていくと、尚膳は、いつになく口が重かった。しばらくして、チョンホは自分から言い出した。
チョンホはチャングムが王に話したことを尚膳にも聞かせた。尚膳もまた、チョンホとチャングムとにそんな縁があったと初めて知り、王と同じように驚き、感じ入った。
チョンホは漢陽の街の人々がチャングムをデジャングムと呼ぶことを、ほほえましく、また誇らしく思っていた。チャングムの優しさと賢さが人々に頼られ、褒められるのがうれしかった。何も宮廷から官位や称号などを貰わなくてもいいのだ。それでもチャングムは、官位や称号を授けられれば、必ずそれにふさわしい働きをするだろう。自分に託された地位と責任と権力とを、民のために使うだろう。そしてそれは、旧弊な身分道徳を守ろうとする人々と必ず衝突するだろう。チョンホにはチャングムを守る自身はあった。しかしそれも、宮廷にいてこその話だ。王はチャングムに堂上官の官位を与えたがっていた。もしそれを受け入れたら、チャングムではなく、チョンホが宮廷を追われるだろう。なぜなら、皇后の次に王の近くにいる身分の高い女……王の主治医となった医女を使って高官が宮廷政治を牛耳ることを避けねばならないからだ。
ミンジョンホは、王と皇后がチャングムを保護することをあてにできるだろうか、と考えた。チョンホは皇后の私室での謁見を願い出た。皇后は許した。チョンホは、皇后に、チャングムが王の主治医になることを許してもらえるかどうか尋ねた。皇后は、一度は自分が下した命令を恐れて宮廷から出奔したチャングムが、帰ってきて慶源大君の治療をしたばかりか、皇后の名を冠して、慶源大君の天然痘快癒と同じ病気で亡くなったこどもたちを記念して療養所を建てたことを、感謝し、評価していた。
皇后はチョンホに言った。
チョンホは皇后に感謝した。皇后はさらに言った。
チョンホは、王の私室での謁見を願い出た。そして人払いをしてもらったあとで、王に尋ねた。自分は今まで、チャングムに医術を全うさせるためにそばにいた。しかしチャングムが王の主治医になれば、自分は宮廷を去らねばならないだろう。それはよいが、チャングムが心配である。王は、チャングムがその仕事を引き受ければ命を投げ出しても職務を全うすることを、御存知のはずである。王の主治医になるということは、王と生死をともにすることでもある。しかし、チャングムの命は守っていただきたい。そのかわりに自分の命を王に預ける。チャングムを主治医にすることに反対する廷臣達の不満は全部自分が引き受ける。王は、慣例を破って医女を主治医にすることになるが、さらに慣例を破り、その医女に主治医の務めを、罪を負うことによって終わらせないとお約束くださるか、と。
王は、逆にチョンホに尋ねた。二年前、王宮からチャングムの手を引いて衆人環視のなかを逃走したというのに、漢陽に戻り、疫病患者達の世話をしたのはなぜか。ほんとうにチャングムと幸せに暮らすことだけを考えていたのなら、たとえ漢陽に死人が溢れようとも、帰ってこなければよかったはずだと。チョンホは答えた。
「むかし、漢陽の近くの村で、疫病が発生したことがありました。チャングムは内医院の医務官医女達とともに派遣されましたが、村が封鎖されたときに、チャングムひとりだけが、封鎖の連絡を受け取れずに取り残されたのです。わたくしはそれを知って村へ捜しに行きました。封鎖の命令を届けたのはわたくしでした。わたくしはその後で村を焼き払う指揮を執るはずでした。しかしわたくしはチャングムを見つけるまでは帰らないつもりでした。わたくしがチャングムを見つけたとき、チャングムは、自分はこの村の人々と同じように、見捨てられたのだ、と申しました。やがてわたくしとチャングムとは、村の人々に取り囲まれました。村の人々は怒り、恐れていました。わたくしは村の人々から殺されることを覚悟しました。わたくしが、村の人々を見捨てよ、という王様の御命令を持ってきた男でしたから。そのとき、チャングムが立ち上がって、村の人々に向かい、皆を助ける、と言ったのです。そんなことができるはずのない状態でした。薬も食料も足りませんでした。チャングムはわたくしに、薬を買いに行くようにと頼みました。わたくしはそのとき気づかなかったことを、後々まで後悔したのですが、チャングムはわたくしだけを村の外に逃がすつもりだったのです。自分が、村を見捨てた両班の役人であるわたくしの身代わりになって、村人に殺されるつもりだったのです。わたくしがそのことに気づいたのは、チャングムが言った別の村の薬坊にたどりついたら、既にそこはもぬけの殻となっており、村人達が疫病を恐れて逃げ出した後であることを知ったときです。わたくしは大急ぎで漢陽に戻り、医女チャンドクにとりあえずあるだけの薬を分けてもらいました。チャンドクもまた、さらに薬を揃えて、後から村に行くと言ってくれました。わたくしがようやくチャングムのいる村に帰ってきたときには、既に他の人が指揮を執り、村を焼き始めていました。村に入ると、チャングムの姿も村人の姿も見えませんでした。わたくしはチャングムを捜しました。どれだけの時間がかかったのかわかりません。やっとチャングムが蔵に閉じ込められているのに気づきました。蔵と言っても粗末な納屋のようなものです。戸を叩き破って入りました。チャングムは気を失っていました。チャングムを抱き上げて、その納屋のような蔵から出たときには、火の手が迫っておりました。その後、どうやって火の届かないところまで行き着いたのかは覚えておりません。チャングムを平たい石の上に横たえたとき、息をほんのかすかしかしておりませんでした。それからはチャングムが眼を覚ましてくれるようにと、手を尽くしました。時間がたつのが恐ろしかった。恐ろしく長い時間がかかりました。わたくしの命を差し出したかった。誰かがチャングムの眼を開けてくれるなら、どんなことでもしたでしょう。やっとチャングムが眼をあけ、声を出してくれたとき、そのときの気持ちは、とても言葉では表わせません。チャングムは、こわかったと申しました。わたくしはそれまで、疫病で封鎖される村の人の苦しみをわかっておりませんでした。その恐ろしさも絶望もわかっておりませんでした。自分がほんとうにチャングムを失いそうになるまで、火の中で気を失ったチャングムを見るまで、あの村で見捨てられた人々の気持ちがわかりませんでした。あの村の人々は皆、わたくしであり、チャングムでした。それゆえに、漢陽で再び疫病が発生したと聞いたとき、わたくしも、チャングムも、すぐに封鎖されるかもしれない村々のことを考え、自分達がすべきことを知り、帰ってきたのです」
王は、苦しげに言った。
チャングムは不安を感じていた。チョンホにきいた。
チャングムは不安でたまらなくなった。チョンホは、ほんとうに後僅かしか一緒にいられないと感じた。彼はチャングムと一緒に、丸一日、姿を消した。ふたりとも正式に休みをとっていたので、駆け落ちではなかった。丸一日の間、ふたりがどこに行っていたのか、誰にも分からなかった。ふたりとも、この一日の間のことは、その後、誰にも語らなかった。
チョンホは公の席で、チャングムを王の主治医として正三品堂上官に相当する位と大長今という称号を与えることを進言し、王がそれを許した。この位と称号は一代限りで、世襲されるものではなかった。
チョンホは、その職を辞して宮廷を去るだけでは、済まされなかった。右議政は、ミンジョンホを呼び、彼の処遇について、自分を含め、左議政、右賛成、左賛成、右参賛、左参賛など、堂上官達が揃って王に求めた決定と、王が許可したことを告げた。ミンジョンホは、サムスに流刑になり、今の王と次の王の代のあいだ、両班の身分を取り上げられることになった。
チョンホはチャングムがそのことを知る前に自分から議禁府に出向いた。囚人の白い服を着せられ、縄を打たれた。
チャングムは、チョンホが流刑にされ、両班の身分を取り上げられたことをイヨンセン淑媛の部屋で、水刺間時代に仲の良かった内人チャンイから知らされた。チャングムはチョンホを探して、内医院に行った。内禁衛の副官がいた。
「ミンジョンホ殿の後を追われるのでしょう。お連れします」
副官は馬に乗り、背にチャングムを乗せて、チョンホの後を追った。チョンホは縄を打たれて歩いてきた。チャングムは泣きながら駆け寄った。自分も一緒に行く、王の主治医になどならないと言った。このまますべてを捨てて一緒に行くと言った。チョンホは、チャングムはデジャングムの名にふさわしい働きをすることが務めであり、定めであると言った。チャングムは泣きながらそんな務めも定めもない、と答えた。
〜〜〜〜(八十六)〜〜〜〜
「医女ソジャングムはこの二年間、貧しい民のこどものための療養所と、医女達の研究所と、ふたつの所長として実績を上げた。漢陽の街では民が、疫病の流行を抑えた医女ソジャングムを讃え、デジャングムと呼んでおる。医女ソジャングムの現在の官位は従七品である。チャングムの功績は従七品よりも大きい。それゆえに余は、医女ソジャングムを余の主治医とし、大長今という称号とそれにふさわしい堂上の官位を与える」
「王様は、何故に、ソジャングムを主治医にと望まれるのでございますか。内医院には優れた医務官達がおります。王様は、医務官達の忠義の心を疑われたのでございますか」
「そのようなわけではない」
「王様は、医務官達の医師としての技量を疑われたのでございますか」
「そうではない」
「ではなにゆえに、医女ソジャングムを主治医に任じようとされるのでございますか」
「余の眼に光りを取り戻したのはソジャングムである」
「先の右議政オギョモはもう少し時間をかければシンイクビル医務官でも同じ治療ができたはずだと申して医女ソジャングムを元の皇后様の担当に戻し、王様の主治医をシン医務官と致しました。今の左議政イグゥアンヒも、シン医務官を王様の主治医と決めております。王様はオギョモやイグゥアンヒの決定をお認めにならないのでしょうか」
「シン医務官のこれまでの余の主治医としての働きを認めぬわけではない。だがソジャングムにはこれまでの医務官達ができなかった働きができる」
「どのような働きでございますか」
「ソジャングムは、立ち止まらず、ためらわず、崖っぷちに飛び込まねばならなくなったときに飛び込んで、生きて帰って来ることができるような医女である」
「それが、医女ソジャングムを王の主治医にと望まれる理由でございますか」
「そうだ。余は、燕山君が倒されるときに、立ち止まらず、ためらわず、崖っぷちに飛び込まねばならなかった。そのとき、余の即位を図る者共の声を知らせ、余が深く悩んでいるとその者共に伝えたのはチャングムである。まだ八歳であった。幼いときから今に至るまで、チャングムの性質は変わっておらぬ。いや、ますます、磨きがかかったというべきである。チャングムは、余の母上、皇后、余、そして慶源大君の命を救った。何人かの天然痘にかかったこどもの命も救った。そのうえ、病で子を亡くした父母たちの心も救った。それゆえに民からはデジャングムと呼ばれている。チャングムは人の命も心も救うことができる」
「王様。医女ソジャングムは、母の愛と智慧とで、他の者が迷い込んだ道を切り開く者でございます。王様がすべての民の父として、医女チャングムにデジャングムと呼ばれるにふさわしい仕事をさせてくださることを、衷心よりお願い申し上げます」
〜〜〜〜(八十七)〜〜〜〜
「チャングムは、自分の父と母とが出会う前からわたしとともにいたと、王様に言ったそうです」
尚膳は、それこそ椅子から転げ落ちそうなほど驚いた。
「いったい……」
「杞憂であったようだな。わたしは宮中の噂をそなたが耳にしてどんなに憤り、王様を恨んでいることかと、憂いておった」
「チャングムと一緒に仕事や研究をしている療養所や研究所の人達は、何も言っていないようです。それがほんとうならいいのですが。わたしは漢陽の街の人々を相手に仕事をしていますので、こちらでは反対に良い噂しか聞きません。ありがたいことに」
「内医院の医務官達が、チャングムを王様の主治医にするという御命令に従うと意見書を出したときは、そなたと示し合わせていたのかな」
「いえ、まったく存じませんでした。あれもありがたいことです」
「とにかく、この国始まって以来のことであるから、悪く言う人々は絶えまい。わたしは事が成った後のそなたの身の上が心配だ。そなたに何かあれば、チャングムもまた、無傷ではおられまいぞ」
チョンホは深くうなずいた。
〜〜〜〜(八十八)〜〜〜〜
「以前、王様の御病気が悪くなり、お眼が見えなくなったとき、そちはわたしにこう言った。わたしはすでに地上を歩く力を失っている。チャングムに診させなければ、王様のおからだは病の虜になったままである。しかし、もしチャングムに王様のおからだを診させ、病が癒えれば、わたしは再び歩く力を取り戻すだけでなく、空を飛ぶ翼をも得ることができる、と。そちの言う通りになった。王様の御病気は治り、宮廷を牛耳っていたオギョモとチェ一族の一派を一掃した。その後、わたしは一度、母としての心に迷いを生じ、誤った命令を下したが、それをまたチャングムが救った。チャングムは我が子慶源の命だけでなく、わたしの心も救った。それゆえ、わたしは王様がチャングムを主治医にされることを喜んで受け容れる。チャングムならば王様のお命もお心も救うことができるであろう。宮中でよからぬ噂をする者がいるが、チャングムは医者の本分をはずれた行いはせぬ。また王がもしもチャングムに医者としての本分をはずれたことをお求めになれば、わたしがお諌めし、チャングムを守るつもりだ」
「そちは、このたびの王の御命令のせいで、弾劾を受けているのであろう。それでもチャングムを王様の主治医にすることを望むのか」
チョンホは答えた。
「わたくしはチャングムに医術を全うさせるためにそばにいるのです」
「そちは王様のお眼が悪いときに、チャングムが治療を施している間、牢に入っておった。今度も牢に入るつもりか」
「そうしなければならないのなら牢に入りましょう」
「そちは民に慕われておる。しかし宮廷の人々からは憎まれている。そちは牢には入れられないだろうが、宮廷からは追われるであろう」
「その覚悟はできております」
「そちは自分が宮廷から追われた後のことを考えて、わたしにチャングムの保護を頼みに来たのか」
「はい」
「わかった。確かにチャングムの保護は引き受けた。しかしそちも自らを守る努力をせよ」
チョンホはもう一度皇后に感謝して退出した。
〜〜〜〜(八十九)〜〜〜〜
「そちは、余が、かつてチャングムを殺そうとした、というのか」
「医女ソジャングムは疫病の村で命を失いかけましたが、その御蔭で、疫病から人々を救う力を得ました。わたくしもチャングムによって救われました。わたくしは魂を救われたのです」
「魂を救われた、と。そちはチャングムに命も魂も救われた、というのだな」
「はい」
「ミンジョンホ。余はそちとチャングムに返しきれない負債を負っている。ふたりとも命だけは最後まで守る。余はそちからチャングムを借りるが、時が来れば必ず返すと約束しよう」
〜〜〜〜(九十)〜〜〜〜
「わたしといつまでも一緒にいるとおっしゃいましたよね? ね? 一年後、三年後、十年後でも、いつも一緒にいると、おっしゃいましたよね?」
チョンホは、
「いつまでも一緒にいます」
と答えた。だが、チャングムはまだ不安だった。
「わたしと一緒にいるのが、チョンホさまの定めではないのですか」
「自分の定めというものは、後からそうだとわかるもので、先のことは誰にも分かりません。ですが、どんな定めであろうとも、わたしの心はあなたと一緒にあります」