ミンナウリのカード

2008/01/04 by てるてる

ミンナウリのカード〜(七十)〜

〜(七十一)〜

〜(七十二)〜

〜(七十三)〜


〜〜〜〜(七十)〜〜〜〜

 チャングムの最高尚宮の期間は、きのうで終わった。きょうは、内医院でも、オギョモ右議政の後任のイグゥアンヒが正式に就任し、新しい人事が発表される日である。イグゥアンヒの決めた人事は、シンイクビルが王の担当、チョンウンベクが皇后と皇太后殿の担当と、ミンジョンホが発表した暫定的な人事とほぼ同じだったが、階級が正式に上がった。イクビルは医局長に、ウンベクは医局長補佐になった。イグゥアンヒは、先日より、王の病気を治しはしたが、掟に反するやりかただったために内医院の威信に傷がついた、と言った。チョンホは自分が張本人であると思い、皆に迷惑をかけたと謝った。しかし、イクビルは、今回のことはいい教訓になったので、今後はもっと精進する、と言って、むしろ、チョンホに感謝を示した。

 医女の配属先は医女長が発表するのだが、ちょうどそのときに、チャングムが、医女になって戻ってきた。彼女はけさ、王に、数日間最高尚宮にしていただいたことをお礼に伺っていたのだ。チョンホは、彼女の声が聞こえたので、おお、戻ってきたか、と思った。しかしそれも束の間、チャングムが、活人署へ行くことになりました、と言ったので、皆、驚いた。チョンホは、まさか王にお礼に行ったときに、宮廷から出て行けと言われたわけではあるまいな、と思った。それにしてはチャングムは明るい顔をしている。自信に溢れてうれしそうである。チャングムは、自分から王様にお願いしたのです、と言った。けさ、王様にお願いした、というのか。きのうは何も、活人署に行きたいなどと言っていなかった。活人署に行きたいと思っていたのなら、きのうでも、いつでも、ひとこと、言っておいてくれたらよかったのに。

 もっとも、チョンホはオギョモに代わったイグゥアンヒのことを考えると、チャングムが自分から内医院を出る選択をしたのは賢いことだと思った。左議政イグゥアンヒは、元はオギョモが頼ろうとしたほどの人物で、つまりは彼らは同じ立場の政治家である。オギョモが、チャングムの関わる硫黄家鴨事件の再審をきっかけとして、チョンホとその上司の左賛成によって追われたことを、快くは思っていない。左賛成は今は右議政となっており、左議政のイグゥアンヒとはこれからも何かと対立することが予想された。チョンホはその渦中で右議政に付いて働くことになるが、チャングムまでがそれに巻き込まれる必要はない。

 チャングム自身は何もそのような政治的な思惑で活人署へ行きたいと言ったわけではなかった。チャングムは、今まではハン最高尚宮の無実を晴らすために宮廷の医女になりたいと思い、冤罪の原因となった病気を突き止め、治すこともできたが、結局、医術のなかで、ただ一つの病気を極めた、というに過ぎなかった。しかし、医術というものはそれだけではない。これからは、医女として一から出直して、多くの患者に接し、多くの病について学びたい、と思っていた。チャングムの医女としての志を聞いたシンイクビルとチョンウンベクとは、彼女の考えに賛成し、励ました。シンビは、チャングムが前もって活人署に行くつもりがあることを言ってくれなかったことを寂しがったが、それでも、チャングムの考えを聞くと、やはり賛成した。そしてお互いに修練を積んで国一番の医女を目指そうと言った。チャングムはシンビとともにイヨンセン淑媛の部屋に行った。チャングムが予想した通り、ヨンセンは、チャングムがいなくなることをたいへん心細がり、活人署に行くことに反対した。しかし、シンビがチャングムの代わりにヨンセンの担当になり、シンビはできるだけヨンセンのことをチャングムに話すので、チャングムがヨンセンを診るのと同じことだと言って、慰めた。

 チャングムは、家に帰ると、カンドックとおかみさん、それに、家のすぐそばで診療所を開いているチャンドクにも、活人署に行くことを話した。トックとおかみさんは、わざわざ苦労をしなくてもいいのに、と言ったが、チャングムがうれしそうな顔をしているので、まあ、いいかと、認めた。チャンドクはおおいに賛成した。内医院では医女は医務官の支持に従わなければならないが、活人署では、医女がすべて自分で判断し、こなすのである。医術の修業の場としては内医院よりもむしろ厳しく、優れた場であると言えた。

 チョンホは、その晩、平服に着替えて、チャングムを訪ねてきた。チャングムはチョンホと近くの東屋に行って話した。チョンホは少し不機嫌であった。

「王様に、最高尚宮にしていただいた御礼に行ったはずのあなたが、帰ってくるといきなり活人署に行くと言ったものだから、てっきり、また宮廷から追い出されるようなお叱りを受けたのかと思いましたよ」
「チョンホさま。御心配ばかりかけてごめんなさい」
「ほんとにいつも心配ばかりかける人だ。今度という今度は、許せませんね」
「ごめんなさい」
「許しません」
「ごめんなさい」
「いくら謝ってもだめです」
「もう御心配はかけませんから」
「信じられませんね」
「チョンホさま」
「そんな甘えた声を出してもだめです」
「チョンホさま」
「そんな悲しそうな声を出してもだめです」
「チョンホさま」
「随分声が小さくなりましたね。聞こえにくいですよ。もっとそばに寄ったらどうですか」
「…………」
「おや、わたしにくっつきましたね。でも何か言いたいことがあるのなら、わたしの耳元に囁かないと聞こえませんよ」

 チャングムはチョンホの肩に頭を寄せて目を瞑った。そして、小さな声で、
「ずっとこうしていたいです」
と言った。チョンホは、チャングムが頭を寄せている左肩から腕を抜いてチャングムのからだに回し、抱き寄せた。そして小さな声で囁くようにきいた。
「きょうは、シン先生やウンベクさんや、シンビさんや、イ淑媛さまから、どうして活人署へ行くのかときかれて、話してあげたのでしょう。わたしにも話してください」
「チョンホさま。わたしは母の無念を晴らすために宮廷の女官になりました。ハン尚宮様の無実を晴らすために宮廷の医女になりました。でも、母の無念を晴らし、ハン尚宮様の無実を晴らしても、生き返って来てはくださいません。そのことは、数日間、水刺間の最高尚宮にしていただいた間に、しみじみとわかりました」

 チョンホはチャングムの背中を優しく撫でてやった。チャングムは心地良さそうに黙っていた。チョンホはしばらくしてからきいた。
「活人署へ行こうと思ったのはなぜですか?」
「前に、カンドックのおばさんが、わたしとチョンホさまとは、身分が違うから一緒になることはできないし、同じ内医院にいるから、あまり親しいことがわかると、ふたりとも宮廷から追い出されてしまうと言いました」

 チョンホは、ああ、と思い出した。あの雪の日に、チャングムが部屋の前で眠り込んでいた晩のことであろう。カンドック夫婦からチョンホも同じようなことを言われたのだった。あのときは、チェ一族やオギョモに弱みを握られると罠にはめられるから気をつけなさいとトックのおかみさんから忠告されたのだった。チャングムは続けた。
「わたしは奴婢の身分から中人の身分にしていただきました。だから、内医院から離れれば、チョンホさまとこうしていても、もう誰にも……」

 チョンホはチャングムにくちづけした。優しい、優しいくちづけであった。チャングムは目を瞑ったままで受けた。チョンホが唇を離すと、チャングムはほんとうに小さな声で囁いた。
「お許しいただけたのですか?」
「何も」
 そう言ってチャングムの髪を撫でた。
「あなたに許してあげないことなど何もありません」

〜〜〜〜〜〜〜〜

 チョンホは、チャングムが活人署で最初の仕事をするという日に、彼女よりも早くから、活人署に来た。  活人署は、都とその周辺の一般庶民のための医療所である。王族を診るときのように、一回の脈診に命を懸けねばならないようなことはないが、貧しい人々があふれ、そのいそがしさとたいへんさときたなさとは、以前、疫病が広まったとされた、集団食中毒の村での診療活動と大差がないだろう。チャングムが住んでいるカンドックの家からは、王宮へ行くよりも、朝早く出なければならない。チョンホは、それよりさらに早く家を出た。自分の勤めに行く前に、活人署に寄っておきたかったのである。

 チョンホが活人署に入っていくと、病気で親元から離れて長い間入院しているこどもたちがいた。貧しい、汚い身なりの男の子達である。顔色が悪く、もちろん、騒いだり走り回ったりはようしない。元気であれば、親の仕事を手伝い、一家の稼ぎを助けるのだろう。だがこどもは少しでも時間と場所があれば、遊びをし、いたずらをするものだ。病気だとはいっても寝たきりというわけでもないこどもたちにとっては、退屈するのが一番つらいようだ。チョンホは、比較的元気そうなこどもが、何か手に持ってすわっているのを見た。凧である。といっても、作りかけの凧だ。どれ、うまい具合に竹に紙を貼れたかい、とちょっとのぞきこむと、なかなかきれいに貼ってあった。凧はもう一枚、床に作りかけのが、置いてあった。こっちも紙を貼るんだね、と言うと、男の子は黙ってうなずく。おじさんが貼ってあげよう、と言って、きれいに紙を貼っていった。他のこどもも寄って来た。さっきの男の子も凧を仕上げた。凧は二枚できた。だが二枚とも、白い紙のままで、何も描かれていない。チョンホはまわりを見回して、筆と墨を持ってきた。男の子に、何を描くつもりかい、ときいた。首を横に振る。何も描かないのかい、ときくと、また首を横にふる。絵は描きたいが、自分では描けないということらしい。おじさんが描いてあげよう、というと、うなずいた。チョンホは、男の子に、家のある場所をきいた。家の近くに、どんな木や、川や、橋があるか、どんな山が見えるか、井戸や、畑でできる野菜や、道端に咲く花のことをきいた。ききながら、だんだんと、絵を描いていった。できあがると、男の子は笑った。家のあるあたりとそっくりである。簡潔な墨の線で、太い線や細い線や濃い線や淡い線だけで、まるでほんとうにそこに、自分が親と一緒に住んでいる家があるように描かれていた。他のこどもたちも感心して見ている。うらやましそうである。チョンホは男の子になまえをきいた。男の子が答えたなまえを漢字で書き込んでやった。男の子がまた笑った。

 そのとき、チャングムの笑い声が聞こえた。チョンホが顔を上げると、部屋の入り口から、そっと顔をのぞかせているチャングムが見えた。ああ、男の子とそっくりの笑顔をしている。自分が凧を描いてもらったみたいにうれしそうにして。そういう笑顔を見せられるとこちらもうれしくて仕方がないのだが、チョンホはこどもたちの方を向き直り、さあ、そろそろ、おじさんは帰る時間だ、と言った。こどもたちが、あしたも来て、凧を描いて、と言った。来るとも、と答えて、部屋を出た。チャングムの前を通って、活人署の門の外まで歩いていった。チャングムが笑顔で追いかけてきた。そして、門の外で、チョンホを呼び止めた。チョンホが立ち止まって振り返ると、チャングムは、
「チョンホさまは、とてもりっぱなお医者さまです。こどもたちに、病に打ち勝つ勇気をお与えになりました」
と言った。チャングムがとても喜んでいるのがわかった。チョンホは、さっきから、自分は何もこのひとからこういう言葉を聞いたり笑顔を向けてもらいたいという、したごころがあって来ているわけではないと、こどもたちの前で示しておかねば、と思っているのである。だから、笑み一つ見せず、そうですか、わたしは活人署がどんなところか見ておきたくて、こんなに朝早くから来ただけですよ、と、木で鼻をくくるように言っておいて、宮城のある方へ向かって歩き出した。なにもチャングムの顔が見たくてこんなに朝早くから来たわけではない。彼女がきょう一日、どんな人々に接するのか確かめたくて来たわけではない。彼女が存分にその持てる力を振るえるように、建物や設備がしっかりしているか、薬はあるのか、気になって見に来たわけではない。チャングムが行くと言わなければ活人署に自分が出向くことなどなかっただろうが……。

 夜になって、チョンホの家に、チャングムが訪ねてきた。わざわざ寄ってくれたのだ。仕事の帰りに。きょう一日、活人署でどんなことがあったか、話しに来てくれたのか。チョンホが門の外に出て行くと、チャングムは、何かを期待するような顔で待っていた。チョンホは、けさと同じく、木で鼻をくくったように、
「何か御用で?」
と聞いた。我ながら無愛想である。チャングムは、
「あの、あしたも、こどもたちに、凧を作ってあげてほしいんです。字も教えてあげてください」
と言った。おお、さっそく活人署の医女らしく、患者のために力を貸してくれ、おまえにもできることをしろ、と言いに来たな。まるで済州島のチャンドクのようだ。これからますますチャンドクのようになるだろう。チョンホは、
「分かりました。失礼します」
と言った。チャングムは疲れきったような顔はしていなかった。それは少しは疲れたようだったが、きょう一日、患者のためにいそがしく働いたのだろう。その仕事がすきなのだろう。あしたも続けたい、と思っているのだ。内医院にいたときよりもいい顔をしていた。その顔を見て安心したチョンホが門に入ろうとすると、チャングムが言った。

「あの、チョンホさま。毎日、活人署に寄っていただけませんか」
チョンホは振り返ってきいた。
「どうしてですか」
「その、せっかく字を習っているのに、途中で間があくと、覚えたことを忘れてしまうかもしれませんし、こどもたちは凧を作ってもらうのを楽しみにしていますし、」
「仕事に余裕があるときは寄りましょう」
そう言って行きかけると、またチャングムが、
「毎日会いたいのですが」
と言った。
「こどもたちのために?」
そう振り向きもせずにきくと、
「わたしが、チョンホさまに、毎日、お会いしたいんです」
と言った。泣きそうな声であった。チョンホは怒ったように振り返って、
「最初からそう言えばいいじゃないですか!」
と言った。

そう言ったが、急におかしくなって、あははは、と笑った。こどもたちの前で示しをつけるなどと格好をつけていた自分も同じだ。最初からチャングムに会いたかったと素直に認めればよいものを。

 チャングムは、泣きかけた顔で、笑ったり、恨めしそうにしたり、また笑ったり、泣いたりしていた。まったく、言われなくても毎日行くに決まっているのに。チャングムがいなければ初めから活人署に寄ることなどなかったのはわかっているではないか。何も泣かなくてもよかろうよ。でも泣かさないようにしないとな……。医女なんだし……。仕事に差し支えないようにしてやらなければ。

 チョンホは毎日、活人署に行った。チャングムは毎日、おおぜいのひとを診療し、こどもたちの世話をし、薬を飲ませ、汚れ物の洗濯をして、忙しく働いていた。チョンホはこどもたちに文字を教えた。歌うように節をつけてわかりやすくした。こどもたちは歌をうたうのがすきだった。チョンホが授業をしていると、途中でチャングムがこどもたちのためにおやつを作って持ってくる。歌もおやつも、こどもたちは大好きだ。だが宿題は嫌いなようだ。ある日、チョンホが、宿題をやってこなかった男の子をたたこうとすると、逃げ出した。走って逃げられるぐらいに元気になってきたのだ。それでもぜんそくだから、いつも元気でいられるわけではない。また発作が起こると苦しむのだ。かわいそうに。だからといって甘やかしてはいけない。チョンホはこどもを追いかけて、教室の外に出た。ちょうどチャングムがおやつを持ってくるところだった。こどもはチャングムの後ろに隠れた。チャングムはチョンホとこどもと両方の間に挟まれて話を聞き、病気のこどもをたたいてはいけない、という。チョンホは、宿題をやってこなければたたくと言ってあったのだからたたかねばならない、という。チョンホがつかまえようとすると、こどもは右へ左へくるくると、チャングムのからだの周りを動いて避ける。それをつかまえようとするチョンホも、チャングムのすぐ前に立ってチャングムのからだの右へ左へと手を伸ばすのだ。チャングムも両手でおやつをのせた台を持ったまま、こどもの方を見たりチョンホの方を見たりして自分のからだを回してしまう。チョンホはまるで遊んでいるようだとおかしくなって笑った。 「はっはっは、チャングムさん、わたしたちはまるで夫婦のようですよ」
チャングムは怒っておやつを持ったまま帰ってしまった。こどもが、
「おやつは置いていってください」
と言った。チョンホは、
「こら、なまいきいうな」
と頭をこづいてやった。


〜〜〜〜(七十一)〜〜〜〜

 チャングムが皇后に呼び戻され、東宮殿に配属された。東宮はからだが弱く、たとえ王位を継ぐことができても、長くはもたないだろうと思われていた。しかし王の病を治したチャングムなら、東宮の病も治すことができると、皇后は思ったのかもしれない。たとえ治せなくても、皇后が一番信頼する医者に任せたいという気持ちなのだろう。そう、ミンジョンホは思った。

 東宮は、今の皇后の前の皇后が産んだ男子である。今の皇后も男子を産んでおり、つい最近、誕生日の祝いをした。まだ幼いが、こちらは健康に問題がない。この誕生日の祝いで、新しい最高尚宮を決めるための料理の競い合いがおこなわれた。チャングムはチェグミョン最高尚宮が宮廷を去った後、数日間だけ最高尚宮になったが、その後に選ばれた最高尚宮は既に高齢で、早くも次の最高尚宮を決めたいと思っていた。チェ一族出身の最高尚宮がふたりとも罪人とされたことで、チェ一族以外のふたりの最高尚宮、チョン氏とハン氏のやりかたにしたがって、料理の競い合いをすることにしたようである。その競い合いに勝って次の最高尚宮に選ばれたのは、チャングムやイヨンセン淑媛と仲のよいミン尚宮であった。ミン尚宮は驚いていた。彼女はチャングムやハン尚宮、チョン尚宮、チェグミョンのような天才的な料理人だとは思われていなかった。だが、ミン尚宮には、心の暖かさがあった。それに今となっては、ハン尚宮とチョン尚宮の志を継ぐものは、ミン尚宮しか、水刺間に残っていなかった。チャングムはミン最高尚宮の就任を喜んだ。ちょうどそれと同じときに、チャングムもまた、宮廷に戻ったのである。

 チョンホは、チャングムが宮廷に戻った後も、活人署へ通った。ここにいるときのチャングムが一番チャングムらしかった。ここにチャングムのこころがある。そう思ったので、相変わらず、こどもたちに字を教えに行った。

 チョンホが授業をしていると、チャングムが来た。やはり、ここがすきなのだ。授業を終えて、チャングムと散歩した。チョンホは、宮廷よりも、こどもたちに字を教えているほうが楽しい、と話した。チョンホは自分の想い描いていることをすべて言ってみたくなった。 「いいことがある。田舎の村で、わたしはこどもたちのために書堂を開き、あなたは小さな薬坊を開いて暮らしませんか。一つ屋根の下で」

 チョンホはチャングムが喜んでくれるかと思った。だが、チャングムは、つらそうな表情をして顔をそむけて、下を向いてしまった。チョンホはあわてた。
「いやなのですか?」
 チャングムは声を殺して泣き出していた。チョンホはますますあわてた。
「泣くほどいやなのですか?」
 言ってはいけなかったのかと、チョンホまで悲しくなってきた。この間は夫婦のように見えると言って怒らせてしまった。そんなに泣かないでくれ。
 突然チャングムが顔を上げて、泣きながら強い口調で言った。
「はい、いやです! 小さな薬坊はいやです! 大きくしてください! 患者さんをたくさん診ることができるように!」
 チョンホは、その勢いにたじたじとなった。
「あ、はい! わたしの書堂よりも大きくしましょう」

 チャングムは泣きながらチョンホに抱きついてきた。チョンホはとまどいながら抱きとめた。自分から抱きついてくるぐらいだから、一つ屋根の下で暮らすのがいやというわけではないようだが、小さな薬坊ではいやだからといって泣くこともないだろう、そんなにけちけちした男に見えたのか? この間泣かせてしまったから、もう戯れにも冷たいそぶりなど見せないようにしているのに、どうしてこんなに泣くようになったのか?

 チョンホは、チャングムを抱きながら、肩をたたいてやった。チャングムの泣き声はだんだん小さくなってきた。背中をなでてやった。泣き声はだんだんと間遠になり、いつしか、やんでいた。ふたりで抱き合ったままじっとしていた。そのうち、チャングムがチョンホの肩に顔を伏せたまま、小さな声で囁いた。

「チョンホさま。田舎の村で、チョンホさまと一緒に暮らしたいです。チョンホさまは書堂を開いて、わたしは薬坊を開いて」
「大きな薬坊を開いて」
「大きな薬坊でも、小さな薬坊でも、いいです」
「一つ屋根の下で」
「一つ屋根の下で」
「いつからがいいですか?」
「あしたからがいいです」
「あしたは、宮廷に行かなければなりません」
「宮廷に行くのはいやです」
「辞表を出しに行くだけです」
「それなら、行ってもいいです」
「チャングムさんはどうしますか」
「わたしも、」

 チャングムはそこで言葉に詰まった。チョンホがチャングムの顔を起こして見つめた。チャングムはチョンホの眼を見て、言った。
「宮廷に行くのはいやです」
「では、あなたは、家で待っていらっしゃい。わたしがあなたの辞表も出してきましょう。ふたりとも内医院に籍があるのだから」
「チョンホさま」
「はい」
「ごめんなさい」
「謝ってはいけません。我慢してはいけません。隠してもいけません」
「チョンホさま」
「何か、あったのでしょう」
「チョンホさま。やっぱり、あした、宮廷に行って、皇后様にお会いします。そして、お暇を戴いてきます」

 チャングムは、そう言うと、ノリゲを取り出して、チョンホの手に渡そうとした。
「これを、持っていてください」
 チョンホは、ノリゲを持ったチャングムの手を握り、彼女をじっと見つめた。
「どうしたのです。なぜわたしにノリゲを渡そうとするのです」
 チャングムは何も答えられずに、悲しそうにチョンホの眼を見ていた。
「あした、あなたは宮廷に行ってはなりません。家で待っていらっしゃい」
「行かなければいけません」
「いけません」

 チャングムはますます悲しそうな眼をしてチョンホを見た。チョンホはチャングムの唇にくちづけした。チャングムはただ眼を瞑ることができただけだった。

 チョンホが唇を離すと、チャングムは眼をあけた。涙が浮かんできた。チョンホはもう一度くちづけした。チャングムは、今度はとても恐ろしくなった。チョンホにくちづけされているのに、知らない男が自分の中に入ってくるような気がした。ほんとうに知らなかったのか? いや、何度か、気づいていた。だが、初めて、それがほんとうに自分の中に入ってくることを感じた。チャングムにはチョンホから離れることができなかった。やっとチョンホが離れてくれたとき、チャングムは力が抜けて、チョンホの胸にもたれた。チョンホはチャングムを強く抱きしめた。チャングムは、絶え絶えに、言った。
「チョンホさま。……ずるいです」
 チョンホは、チャングムが今までに聞いたことがないような、押し殺すような声で言った。
「ずるいですとも」
 チャングムはもう何も言えなかった。


〜〜〜〜(七十二)〜〜〜〜

 チョンホには、チャングムが宮廷に戻ってから、活人署にいた頃に比べて元気がないように見えていた。なぜか、と思った。皇后は、自分と東宮とを担当してほしい、とチャングムに言ったという。皇后と皇后自身が産んだ王子とを、ではなく。そちらの方が自然だと思うが、皇后という立場は、一般の家庭の母親と違い、国母であるから、王の後を継いで国を治めることになる王子の病気を治すことを優先したのだろうと思った。チョンホには、考えまいとしていることがあった。東宮と皇太后を支えていたオギョモは倒れた。だが、東宮と皇太后、それに対する皇后とその王子、という二つの勢力の対立は、今も宮廷に残っている。表面上は何もなくても、水面下でそうした争いは絶えることなく続いている。そして、皇后が東宮の主治医をチャングムに任せたいと言ったこともまた、そうした水面下の争いの一つだったのに違いない。

 誰もが、東宮は長生きはしない、だがたとえ短期間でも王位を継げば、その間に、今の皇后と王子とはたちまち宮廷での立場が格段に弱くなる、と思っている。その皇后が、いつ死んでもおかしくないと言われている東宮のために、わざわざ自分のお気に入りの医女を付けてやった結果、その医女が思い悩んだ顔をしている。それでもなお、そんなことは考えたくもなかった。いったい、チャングムの母親やハン尚宮はなんのために信念をかけ、殺されたのか。チャングムはなんのために命がけでふたりの名誉を回復したのか。自分はなんのために、牢の中で、チャングムに何か恐ろしいことが起こるのではないかと考えて気が狂いそうなほど心配し、なんとしても止めるべきだった、さらってでも逃げるべきだったと、後悔のほぞをかみながら過ごしたのか。チャングムは王の病を治したではないか。皇后が、双子を妊娠し、一子だけ先に流産して、胎内に残る一子のために命を失いそうになったときに、チャングムが救ったではないか。王も皇后も、チャングムが最高尚宮に受け継がれる料理書に母の無念を綴りたい、と言ったのを許したではないか。それなのに、皇后自ら、チャングムに何をさせようとするのか。ときに、考えたくない一番悪いことが真実を表わしていることがある。今や、嫌でも気づかざるを得なかった。チャングムの態度がすべてを物語っていた。


〜〜〜〜(七十三)〜〜〜〜

 チョンホはチャングムに宮廷に行ってはいけないと言ったが、翌朝、ふたりとも、宮廷に出かけていった。チョンホはイグゥアンヒに、医女に王の治療を任せて宮廷をお騒がせした責任を取りたいと言った。先に本人から渡された辞表と一緒にお渡ししたい、と言って、自分の辞表に添えてチャングムの辞表を差し出した。イグゥアンヒは驚いた。本人は今、皇后様に最後の御挨拶に伺っていると付け加えて、チョンホは、イグゥアンヒのもとを辞した。

 チョンホが皇后の御殿の近くまで行って待っていると、王が来るのに出くわした。チョンホは脇に退いて礼をして、王が通り過ぎるのを待った。王が皇后の御殿の前まで行きながら、中へ入るのを躊躇しているようすが見えた。チョンホは気になった。チャングムのことが心配になった。皇后が素直にチャングムを行かせないのだろう。王は、御殿の前で何をためらっているのだ。中からどんな話が聞こえてくるのだ。王が、御殿の中に入っていった。チャングムは、どうしているのだ。

 やっと、チャングムが出てきた。チョンホは自分からチャングムの方に歩いていった。チャングムは俯いてとぼとぼと歩いてきた。すぐ目の前にチョンホが来て初めて気づいたように顔を上げた。その顔を見て、チョンホはすぐにチャングムの手を取り、宮城の外へ向かって急いで歩き出した。何も考えてはならない。すぐにここを出るのだ。人目も構わなかった。チョンホは何度もチャングムを振り返ってはすぐにまた先を急いだ。チャングムは何度も小走りになりかけた。誰かが声をかけてきたような気がした。目もくれなかった。宮城の門のところまで来ると、兵士達が、あっけにとられたような顔をした。チョンホはチャングムの手を強く握り締めて外に出た。

わたしは一輪の花を摘みました
その花が枯れないように水をやりながら
どこまでも歩いていくのです
どこまでも、いつまでも


ミンナウリのカード〜目次〜