ミンナウリのカード

2007/11/26 by てるてる

ミンナウリのカード〜(六十九)〜


〜〜〜〜(六十九)〜〜〜〜

 ミンジョンホは、チャングムの横顔を眺めていた。チャングムは今、王の御前で、硫黄家鴨事件でチェ一族とオギョモの悪事を暴き、彼らの勢力を宮廷から一掃するのに多大な功績があったとして、王と皇后とから褒められ、褒美をとらすと言われているのだ。立って伺候する医女のチャングムを、堂上官のチョンホは、脇に座って見上げていた。王は正面に座ってチャングムを見ている。チャングムは顔を伏せているが、ときどき、顔を上げて、王に返事をする。皇后は、向かい側の、王に近い席に座って、チャングムを見ている。皇后の英断によって、チャングムは王の病気を治療することができ、きょうのように力強い王の姿を皆が見ることができるのだ。王も皇后も、チャングムを見る眼は優しい。チョンホはチャングムの顔に溢れる誇らしさと美しさと時に浮かぶ恥じらいを、こころゆくまで愛でていた。

 チャングムは王から「米十五石 豆十五石 高麗人参二斤」を戴いた。他に願いはないかときかれて、三つの願い事を申し出た。

 一つは、ハン最高尚宮の名誉を回復すること。
 二つは、チャングムの母、パクミョンイの名誉を回復すること。
 三つは、母の遺言を果たすため、数日間、水刺間の最高尚宮になり、代々の最高尚宮に受け継がれる料理書に、母の無念を書き誌すこと。

 母の遺言に従い、代々水刺間の最高尚宮に受け継がれる料理書に書き誌したいこととは、なんだろう。最高尚宮はチェ一族が五代に亘って受け継いだ。その五代目のチェ最高尚宮の時代に、パクミョンイ、ハンペギョン、そして、チェソングムという、同期の女官達がいて、三人とも、最高尚宮になるだけの実力を持っていた。しかし、パクミョンイは、チェソングムによって、王を裏切ってはならぬという女官の掟を破ったと讒言され、女官同士の裁きによって毒を飲まされた。パクミョンイはハンペギョンが解毒剤を飲ませたので助かり、ソチョンスという元武官であった男と知り合い、チャングムを生んだ。チャングムがまだ幼いときに、パクミョンイは再び、チェソングムによって命を奪われた。チャングムは宮中に上がり、母の命を助けた人と知らずにハンペギョンの見習いとなった。それから五代目のチェ最高尚宮が病気で宮廷を去り、六代目の最高尚宮には、チェ一族からではなく、チョン最高尚宮が就任した。さらに、チョン最高尚宮の志を受け継いでハンペギョンが七代目の最高尚宮に就任した。そのハン最高尚宮は、パクミョンイと同じように、チェソングムによって無実の罪に落とされて命を奪われた。チャングムは二度までも母親をチェソングムによって奪われたのである。しかし、チャングムは、チェソングムがパクミョンイの名誉と命を奪おうとしなければ、生まれてこなかった。だから、チャングムの母は、三人いるのだ。一人の女の中に、三人の女と同じ心、志、欲はすべてある。だが、チャングムは、チェソングムの富と権力を求める欲を葬り、パクミョンイとハンペギョンの心と志を受け継いでいくのである。チャングムが最高尚宮の料理書に書き誌すのは、料理を富と権力を求める道具にせず、食べる人のために真心を込めて作るという志と、母が子を想う心であろう。

 チョンホは、副審議官として、内医院の新しい人事を発表した。といってもオギョモ右議政の後任がまだ決まっていないので、暫定的なものであった。シンイクビルが王の担当、チョンウンベクが皇后と皇太后殿の担当である。チャングムは数日間水刺間の最高尚宮になっていると発表すると、医務官・医女達は驚き、ざわめいた。もっとも、ウンベクは、チャングムが以前は水刺間の女官だったことを知っているし、済州島にいたときに、ハン最高尚宮の敵をとるために医女になって宮中に戻りたいと言っていたことも知っているから、他の人々ほど、驚かなかった。あのときウンベクは、医術を復讐の道具にしてはならない、と怒っていた。今は、済州島の医女だったチャンドクとともに、医術を復讐の道具にせず、両方ともやり遂げた、よくやったと、チャングムをほめている。

 チョンホは、チャングムが最高尚宮になってから最初の御膳を王に出し、ほめられていたと、内侍府の尚膳から聞いた。ハン尚宮とチェ尚宮とが最高尚宮になるための競い合いをした頃のチャングムの料理の味を覚えている王は、済州島に流され、医女になり、その間、料理から離れていたのに、腕は落ちていない、と言ったそうである。チョンホも、競い合いのときのチャングムを思い出した。母の最期のときに食べさせた野いちごの話をして、王に、水刺間一の女官であるとほめられたのだった。あのときのチャングムはまだほんとうに若く、美しかった。幼い時に母を目の前で殺されて、既に耐え難い悲しみと恐ろしさとを経験しているはずなのに、なにひとつ歪むことも損なわれることもなく、まっすぐに、聡明に、育ったのだ。王もまた、そのことを、最高尚宮になったチャングムを見ながら、感心してほめていた、という。王は、チョンホが長い間ずっとそばにいてたいせつに守ってきたたからものの美しさと輝きに、眼を細めているようである。王に、これを守るために味わう苦しみもまた、何ものにも替え難い仕合せなのであると、ひとこと、言ってみたい気もした。誰にも譲りたくない、自分だけの仕合せであった。

 チョンホは、夕方、水刺間の近くまで行ってみた。そろそろソ最高尚宮の仕事も終わる頃であろう。どんな顔をして出てくることか。むかし仲のよかった女官と談笑しているのか、最高尚宮の威厳を保って静々とかつ堂々と歩いてくるのか、それとも、まさか見習いのこどもたちと遊んでいたりはしないだろうな、とちょっと想像して、ほほえみが浮かんだ。ふと、そばをすれ違いで通り過ぎていった尚宮が気になった。振り返ると、最高尚宮である。チャングムではないか、それにいま、顔を伏せて走りすぎていったのは、まるで泣いているようにも見えた。チョンホはチャングムの後を追った。

 チャングムが、東屋の横を回っていくのが見えた。チョンホはゆっくりと歩いていった。チョンホが東屋の横を回ってきたとき、チャングムは、塀のそばで、ひざまずき、地面に手を付いて、泣いていた。身も世もあらんばかりに泣いていた。ハン最高尚宮は生き返ってこないのだ。たとえ母の遺言を果たしても、母は生き返ってこないのだ。死んだ人はかえってこない。たとえチェ一族に名誉と地位を奪われたままでも命さえながらえてあれば、幸福になることも、恨みを忘れることもできるのに。死んだ人は還らない。生き残った者同士で、逝った人を懐かしむことができるだけだ。チョンホは、しばらくの間、チャングムが地面にひれ伏して泣くのをそのままにして、チャングムの涙と悲しみを分かち合おうとした。それから、そばに行き、チャングムの横に膝を突いて、そっと肩に手をかけた。チャングムは、両手を何かの上に置いていた。少し地面を掘った跡のように見えた。そこに、チャングムの母とハン最高尚宮が若い頃に埋めたという、甘酢の壷があったのだろう。その話を以前聞いた覚えがある。チャングムは、チョンホの手が自分の肩に添えられているのを感じて、ゆっくりと顔を上げた。少しずつ涙も嗚咽も治まってきたようである。しばらく二人並んで地面に膝を突いていた。それから、チャングムは、チョンホの方を少しだけ見ると、すぐに顔を伏せたが、恥じらっているようである。チョンホは、小さな優しい声で、 「立てますか、チャングムさん」 ときいた。チャングムはうなずいて、ふたりそろってゆっくりと立ち上がった。チョンホはそのとき、夕闇がすっかり濃くなっていることに気づいた。

 チャングムとチョンホとは、王宮の茶畑を散歩した。すっかり夜になっていた。チャングムはチョンホの二、三歩前を歩きながら、しゃべっていた。こどものとき、父親が役人につかまり、行方がわからなくなったのは、自分のせいだと思って、ずっと苦しんできた。何もかも途中で投げ出したくなったこともあった。ふと、チャングムがチョンホを振り返って、ほほえみながら言った。

「わたしを、さらっていきたい、と言ってくださいましたね」

義禁府から釈放されたときのことであろう。チョンホもほほえんだ。

「さらってほしかったのは、わたしのほうです」

 今すぐそうしてもいいのだが、とチョンホは思った。尚宮と堂上の文官とが、夜、王宮の庭を並んで散歩する姿など、人に見られたらたちまち重罪人として咎められるだろう。だが、この夜は、星が明るいにもかかわらず、誰も二人の姿に気づく人などいないようである。人は皆、遠く離れたところにいて、チョンホとチャングムとがここでこうして話をしていることなど知らないのだ。

「思い出します。母と、父と、わたしが、一番幸せだった頃。世間から身を隠して暮らし、身分は低かったけれど、幸せでした。母が作ってくれた味噌鍋はほんとうにおいしかった。父が作ってくれたノリゲも、とてもきれいで、うれしかったものです。父と母が毎晩、わたしのすることを心配して、あれこれと話し、その声が耳にとても心地よくて、わたしは布団の中でそっとほほえんだものです」

 チャングムは今、その声が耳に聞こえているかのようにほほえんでいた。ほほえみながら、泣いていた。チョンホは、幼いチャングムがそこにいるような気がした。最高尚宮の姿をしているが、そこにいるのは、幼いチャングムであった。母の遺言を聞いたとき、まだ、七つになるかならずのこどもだったのだ。遺言を果たした今は、母を亡くす前の、もっと幼い、幸せな頃に戻っているのだ。眠っているこどもを起こすまいと気をつけるように、チョンホはそっと彼女の肩に手を伸ばした。そして抱き寄せてやった。チャングムは安心したようにチョンホの胸にもたれて眼を瞑った。チョンホはチャングムの肩を、ぽん、ぽん、と、子守唄の拍子をとるように、たたいていた。


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