ミンナウリのカード

2007/11/02 by てるてる

ミンナウリのカード〜(四十三)〜

〜(四十四)〜

〜(四十五)〜

〜(四十六)〜


〜〜〜〜(四十三)〜〜〜〜

 ミンジョンホはチョンウンベク医務官から、イヨンセン淑媛に関する不穏な事件の報告を聞いた。これは本来はチョンユンス医局長が報告すべきであるのに、ユンスは一切を不問に付していた。チョンホはこのことでユンスの責任を問うことができないだろうかと考えた。

 チョンホはイヨンセン淑媛のことは、祝賀の儀のときにチャングムから聞いていた。もともとは水刺間の女官で、チャングムの親友であった。チャングムが奴婢の身分に落とされて済州島に行っている間に、王に情けをかけられて特別尚宮になった。ところがその後二年の間、王に忘れられていた。チャングムが医女となって宮中に帰って来たときに、二人は再会を喜んだが、イ特別尚宮には仕えてくれる女官もいないようだった。その後、イ特別尚宮は王の寵愛を受けて身籠り、皇后から淑媛の位を授けられた。チョンホもその祝賀の宴でちらとイ淑媛の姿を見たが、なるほど、チャングムが最も大切な友で姉妹も同然であるというだけのことはあって、顔も心も麗しいひとであるように見えた。淑媛の位を受けるということは、王の側室のなかでも、王族の一員として認められたということであった。このことは、チェ女官長やチェ最高尚宮にとって、痛手であった。そもそもイヨンセンが特別尚宮になって以来二年間も王に忘れられていたのは、チェ女官長が手を回していたからであった。ヨンセンは女官時代、ハン最高尚宮やその前のチョン最高尚宮への尊敬とチャングムへの友情を隠そうともせず、チャングムが済州島に流されてからずっと、反抗的だったのである。ヨンセンは淑媛になると、水刺間時代から仲の良かった女官をお付にしてもらった。その女官達も冷遇されてきたのだった。しかし今では、冷遇された者同士が手を結び、反対に強く出られる立場を得たのであった。

 チャングムはイ淑媛の担当になりたいと思っていた。しかし、医女長はチャングムを皇后の担当とし、ヨリにイ淑媛の担当を命じた。チャングムが来るまではヨリが皇后の担当だったのだが、チャングムの功績を認め、また皇后がチャングムを気に入っていることを重視して、担当を替えたのである。

 チョンホは、その当時、チャングムが気懸かりなようすをして内医院の執務室に入って来たのを覚えている。何かあるのかと思って声をかけようとしたが、チャングムは医局長や医女長から何か不満があるのかと叱るように言われ、何もありません、と謝りながら退出した。チョンホの前で、チャングムがヨリと担当を替えてほしいと言えばすぐに聞き入れられるのがわかっていたからこそ、退出したのであろう。

 ヨリはイ淑媛の世話に熱心に取り組んだ。内医院の人々は、皇后の担当からはずされたヨリが、淑媛の世話で実績を挙げて、元の実力人望とも内医院一の医女という評価を取り戻そうとしているのだと思った。チャングムでさえそう思うようになった。しかし、チャングムは、イ淑媛と直接会って話を聞き、お付きの女官達の話も聞いて、不安になった。シンイクビル医務官に相談し、内医院の医女達全員によるイ淑媛の脈診をおこなってもらった。その結果は恐ろしいものだった。イ淑媛は高血圧で、なおかつもともと妊娠出産には危険が伴う体質だったが、そこにヨリが貧血の処方をし、食事療法の指示を与えたので、かえってますます重症になり、母子ともに命を失う可能性が非常に高くなっていたのである。

 シン医務官は内医院の会議で、医女・医務官全員の前で厳しくヨリを問い詰めた。彼は無駄なことは一切言わない男だが、ヨリを責める舌鋒は鋭く、激しかった。彼は本質を突いた。 「何らかの意図がなければあのような食事を出したりはしないだろう。何を企んでいる!」 しかし、ヨリは、自分の腕が未熟だった、わからなかった、と繰り返すだけであった。シン医務官はヨリに、恵民曹へ行け、と言った。  だが、チョンユンス医局長は、担当をヨリからチャングムに替え、ヨリには反省を促すだけに止めた。

 ウンベクは、ヨリがほんとうに未熟で診断を誤ったとは露ほども信じていなかった。またこれほどの恐ろしい犯罪をひとりで企むはずがないとも思っていた。チョンホも同感であった。ヨリにイ淑媛とそのおなかのこどもの殺害を命じたのは、チェ女官長とチェ最高尚宮ではないのか。そう考えるのが自然であった。チョンホはウンベクの前ではチェ一族の名を一切出さずに、よく報告してくださったと礼を述べた。ウンベクは口にこそ出さなかったものの、チョンユンスのヨリに対する措置に不信感を持っているのは明らかであった。チョンホは医局長については自分から釘をさしておく、と言った。

 チョンホはその後でチャングムに会った。チャングムがシン医務官に相談し、イ淑媛の脈診を内医院の医女全員にさせるように持っていったのは実に賢明であったとほめた。親友のために見せるそういう慎重さと狡猾さを彼女自身のためにも見せてくれたらいいのに、と思ったが、言っても仕方がないので黙っていた。チャングムは、チェ女官長とチェ最高尚宮とがヨリと話をするのを盗み聴いた、と言った。ヨリがイ淑媛の体質と自分の処方を説明し、「そのうち呼吸が困難になってきて発作が起こり、麻痺を起こすでしょう。胎児はまず助かりません」と述べたのである。しかし盗み聴きした会話は、犯罪の証拠としては使えなかった。

 チョンホはチャングムに、ヨリが嫉妬心からチェ一族と手を結んだ、と考えてほぼ間違いはないと思うが、何か褒美の約束があるはずであり、その証拠が見つかれば彼女達を捕えることもできる、と言った。

 チャングムは、ヨンセンが危険にさらされたことに大きな衝撃を受けていた。もはや慎重に事を構えて待ち受けている段階ではなく、こちらから果敢に打って出るときだと言った。

 チョンホは、それは危険だと反対した。まだオギョモの勢力は強く、チェ一族も簡単に尻尾を出さない。下手に動けば、チャングムなど簡単に殺されてしまうのだ、と言わざるを得なかった。だが、チャングムの顔を見ながらチョンホは、何を言っても思い止まりそうにないな、と感じていた。

 チョンホは、内禁衛の副官とその部下達に、チェ一族とオギョモ一派の内偵を続けさせていたが、ここに到ってカンドック夫婦にも、彼らの内偵を頼むことにした。内禁衛での内偵は不正の証拠をつかむためだったが、カンドック夫婦に頼んだのは、チャングムの身の安全を守るためだった。ふたりには、仕事の合間でよいからと言いつつ、養女のためなら命も惜しまないであろうことを見越して、前以て手当てをはずんだ。カンドックには、ユンマッケの料亭の芸者を買収するための資金を充分過ぎるほど渡した。

 どれだけ配慮しても配慮し過ぎることはなかった。チャングムは、何かをやると決めたら必ずやりとげる。問題はその後だ。チャングムは、今はもう果断に打って出るべきときだ、と言ったが、今まで一度だって「慎重に」事を構えて「待ち受けて」いたことなどなかったではないか。チョンホは、余程本人にそう言ってやろうかと考えたが、それでは自分は何のためにチャングムのそばにいるのだ、と思い直して、やめた。


〜〜〜〜(四十四)〜〜〜〜

 ミンジョンホは、チョンユンス医局長に、イ淑媛の事件でヨリを罰しなかったことについて問い質そうと思っていた。しかしその前に、右議政のオギョモから呼び出しを受けた。わざわざ執務室に呼び出されて、そのうえ人払いまでして一対一で話しかけられてきたので、チョンホは何事かと構えた。オギョモは、医局長は優秀な医女を愛人にしてときどきその診断に頼ることがあるのだ、と話した。チョンホは、なぜそんなことを自分に話すのかと、いぶかしく思った。そのうちにはっと気がついた。これは自分とチャングムとの関係をあてこすっているのである。チョンホはオギョモに答えた。
「なるほど。それで先日の淑媛様の一件も、合点が行きました」
 オギョモは、淑媛様の一件とは何か、ときいてきた。しかしチョンホは、
「医局長が不問に付したことです。私の口からは何も申し上げられません」
と答えて、オギョモの返事も待たずに、一礼をして退出した。

 チョンホはそれでもチョンユンス医局長にイ淑媛事件の処置について問い質すつもりだったが、今度は内侍府の尚膳からお茶に呼ばれ、チャングムのことで話があると切り出された。尚膳は以前、チャングムが皇后の双子の流産を無事に処置したときに声をかけ、何かあったら相談に乗るぞ、と言っておいた。チャングムはすぐに、イヨンセン特別尚宮のことを王に思い出していただきたい、と訴えた。なるほどそうだったのか、とチョンホは思った。さらに尚膳が続けて言うには、チャングムはそのとき、王の病状日誌を見たい、とも訴えた。硫黄家鴨事件で、王の侍医達が誤診をし、その責任を水刺間の最高尚宮の料理に転嫁したのではないか、と疑っているのであった。しかし、王の病状日誌は国家の最高機密であって、ごく限られた者が許可を得て、短い時間に閲覧できるのみである。書き写すことも持ち出すことも許されていない。内医院では王の担当の医局長と、医局長が必要と認めた医務官のみが、閲覧を許されている。一介の医女であるチャングムの場合は、まず医務官の許可を得なければならず、それもめったなことでは認められないのが普通であった。尚膳は、それはだめだ、と答えておいた。それでチャングムがおとなしく引き下がるとは思っていなかったが、それでもそう簡単にことを起こせるはずがないと考えていた。チョンホもそうであってほしいと思った。ところが最近になってまた、チャングムが、王の病状日誌を見たい、と言ってきたのである。尚膳は、今度も、それはだめだ、と、前よりさらにきつく言っておいた。チョンホにはもうこの先の展開が目に見えるようであった。尚膳と目を見合わせた。二人とも同じことを考えていた。

 チョンホは結局、チョンユンス医局長にイ淑媛事件の話をきく機会を失ってしまった。


〜〜〜〜(四十五)〜〜〜〜

 雪深い晩だった。ミンジョンホは自宅に居た。執事が、水刺間の最高尚宮が訪ねて来て外で待っている、と告げた。チョンホは外に出た。月が雲に隠れたり現れたりしていた。暗い道に女官が立っているのがわかった。クミョンの声がした。
「チョンホさま。御案内したいところがございます」

 チョンホは黙って付いていくことにした。斜め前を歩くクミョンの横顔が、月明かりとともに、見えたり、隠れたりした。やがて彼女は一件の家の前で立ち止まり、チョンホを振り返った。それからまた前を向いて、その家に入って行った。チョンホも後に続いた。奥に上がると、食事の用意ができていた。クミョンは上座を勧めた。チョンホは勧められるままにすわった。クミョンは茶を注いだ。そして、詩を詠み始めた。

「一度でいい。王様のためでなく、だいじな方のために、料理を作りたかった。
いくらあきらめようとしても、許されぬと思えば思うほど、想いが深くなっていくのです。
女官ゆえ、叶わぬ想いと知りつつも、身を焦がしました。
そんな哀れな女官がいたことを、知ってほしいのです」

 チョンホもまた、詩を詠んだ。
「むかし、わたしがまだ髷も結わない少年だった頃、
よく通った家に、かわいい少女がいました。
わたしはその家にある硯が珍しくて、通っていたのだけれど、
少女はいつも、そんなわたしを見て、はにかむようにほほえみました。
それから長いとしつきが流れました。
少女は、とてもたくさんの悲しみを知りました。
とてもたくさんの苦しみを知りました。
そして、とてもたくさんの人を傷つけました。
亡くなった人は還ってこないけれど、
失った時は戻ってこないけれど、
わたしのこころのなかには、いまも、
少女と、硯と、やさしい春の陽射しがたゆたっています」

 クミョンはまた、詩を詠んだ。
「いとしい方に届けたくて、海辺の村へ、こころづくしの料理を持って、出かけました。
紅葉の美しい池を見てたちどまり、いとしい方はどの樹のそばに立って、水面を眺められたのだろう、と思いました。
いとしい方は、市場にいらっしゃいました。細いかわいい筆を手にとって、やさしくほほえんでいました。
そしてその筆を、若い女官にあげました。
わたしは料理を届けることができなくなって、うちへ帰りました。
わたしのこころは、一緒に帰るのをいやがって、どこかへさまよいだしました。
それ以来、こころは、帰ってこないのです」

 チョンホはまた、詩を詠んだ。
「うつくしいひとが、思い出の悲しさに、涙を流している。
うつくしいひとが、罪の重さに、震えている。
わたしには、その涙をぬぐってあげることも、
重荷を一緒に背負ってあげることもできない」

 クミョンはまた、詩を詠んだ。
「いとしい方のこころには、べつのひとがすんでいました。
そのひとは、むかし、わたしの友でした。
いまはわたしに、友はいません」

 チョンホもまた、詩を詠んだ。
「わたしは一輪の花を摘みました。
その花が枯れないように水をやりながら、
どこまでも歩いていくのです。
どこまでも、いつまでも」

 クミョンは涙を流した。
 チョンホは、お茶を一杯、ゆっくりと、飲んだ。そして、何もこわさないようにと気遣うかのように、衣擦れの音もなく、立ち上がった。クミョンがチョンホの顔を見上げた。チョンホは頭を下げた後、静かに部屋を出た。

 家の外に出たとき、チョンホは振り返った。胸騒ぎがした。今出て来たばかりの部屋に戻ろうかと考えた。一瞬、激しい葛藤に襲われた。だが、チョンホは踵を返した。あのひとの誇りを信じよう。いや、信じなければならぬ。そう思いながら、雪の道を歩いていった。


〜〜〜〜(四十六)〜〜〜〜

 ミンジョンホは、カンドック夫婦から、もう少しで罠にはまるところだったという話を聞いた。トックがユンマッケに酒を届けに行くと、料亭に誘われ、酒と御馳走を勧められたあげく、チャングムに縁談があると持ちかけられた。トックがもう少しでチャングムにはミンの旦那が、と言いかけたところにおかみさんが駆け込んできて、トックを叱り飛ばしながらその場を誤魔化して帰って来た。おかみさんはトックが誘い込まれた部屋の隣に、オギョモとチェパンスルとパクプギョムが入るのを見たのだった。彼等はチョンホとチャングムの関係が、両班と奴婢の身分の違い、また同じ内医院に勤める者同士として、許される範囲を越えている証拠をつかもうとしていた。トックのおかみさんはチョンホに、お気をつけくださいと忠告した。チョンホは、わたしは大丈夫です、と答えたが、今更隠してもしようがないと内心では思っていた。しかしおかみさんはチャングムのことが心配なのだろうと察した。だいじな養女のことである。チョンホが余計な手出しをしなければチャングムは無事でいられるのにと、思っているに違いない。おかみさんはチャングムにも、身分違いだから諦めろと言うかもしれない。いや、きっと言うであろう。

 チョンホはその晩、カンドックの家を訪ねた。雪が降っていて、今夜も積もりそうだった。チャングムが、自分の部屋の前で座り込んでいるのが見えた。寒いのに、と思って近寄ると寝入りこんでいた。どうしてまた、と思いつつ、肩に手を置いて、
「チャングムさん、チャングムさん」
と呼びかけた。チャングムは目を覚ました。チョンホはその顔を覗きこんで、
「こんなところで居眠りをしてはかぜをひきますよ」
と言った。チャングムは、
「チョンホさま。夢を見ていました」
と言った。チョンホはその表情が気になって、
「ほう、どんな?」
と言いながら自分も隣に座った。チャングムは話した。

「チョンホさまの御自宅に訪ねていって、執事の方にお取次ぎを頼むのです。するとチョンホさまが出てこられて、わたしは、御案内したいところがございます、と言うのです。チョンホさまは黙ってわたしの後を付いてこられて、ふたりで一件の家の前まで行くのです。わたしは一度、家の前で立ち止まってチョンホさまのお顔を見てから、家の中に入るのです。チョンホさまもその後に続いて入ってこられました」
 チョンホはさっきから、どうしてチャングムがそんな夢を見るのだ、と思っていた。チャングムはチョンホの内心の驚きに気づかずに続けた。

「部屋の中に食事の用意がしてあって、わたしはチョンホさまに上座をお勧めするのです」
 チョンホは、まったく女の勘というものは恐ろしい、と思った。
「わたしは、立って、チョンホさまに礼をするのです。そしたら、チョンホさまが……」
 チャングムは口を噤んでしまった。チョンホは気になった。
「わたしが、どうしたのですか」
 チャングムは続けた。
「そばへ来るようにとおっしゃるのです。チョンホさまは、わたしが、妻から夫への礼をしたと思われたのです」
 チョンホは少しほっとした。チャングムは続けた。
「わたしは、いいえそれはできません、というのです。チョンホさまは両班で、わたしは奴婢だから、おそばへいけません。今までお世話になった感謝と、おわかれのための礼をしたのです。そう言うのですけれど……」
 またチャングムが口を噤んだので、チョンホはその先を促した。
「またわたしが、どうかしたのですか」
 チャングムは言った。
「チョンホさまは、わたしを正妻として礼を尽くすから、とおっしゃるのです。わたしは、これ以上親しくしていただいては御迷惑がかかります、というのですが」
 チョンホは促した。
「それで?」
 チャングムは続けた。
「今更そんなことを言ってももう遅い、とおっしゃるのです。わたしは、いっしょうけんめい、申し訳御座居ません、どうかわたしが心を込めて作った料理を召し上がって、その後はわたしのことをお忘れください、というのです」

 チョンホはきいた。
「それで?」
 チャングムはためらった。チョンホはもう一度、
「それで?」
ときいた。チャングムは、
「チョンホさまは、ごちそうもいただくし、あなたもいただきましょう、とおっしゃいました」
と言った。チョンホは、なお、
「それで?」
ときいた。チャングムは、
「そこで、チョンホさまのお声が聞こえて、目が覚めました」
と言った。

 チョンホは、チャングムの手に自分の手を重ねて、包んでやった。そうやって手を暖めるようにしながら、言った。
「トックのおばさんが、御飯を作ってくれています。行きましょう。今夜はわたしもお相伴にあずかりましょう」
 それは別段めずらしいことではなかった。チョンホはチャングムと一緒に立ち上がると、肩を抱くようにして歩き始めた。
 チョンホは、
「おばさんには心配をかけますね」
と言った。チャングムは、
「ええ」
と言った。それだけ言ったところで、母屋に着いた。ふたりはちょっと微笑みあってから、部屋に入った。


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