ミンナウリのカード

2007/10/10 by てるてる

ミンナウリのカード〜(三十七)〜

〜(三十八)〜

〜(三十九)〜

〜(四十)〜

〜(四十一)〜

〜(四十二)〜


〜〜〜〜(三十七)〜〜〜〜

 一体、何が起こったのであろうか? ミンジョンホは、目の前にいるおおぜいの人々の中に、チャングムの姿がないことを知り、恐ろしい想いに囚われていた。この人々は、疫病の村が封鎖されたので、引き揚げてきた医務官・医女・兵士・役人達である。封鎖の命令は、チョンホ自身が、王宮から携えて来た。医局長はそれを医務官と医女全員に知らせたはずであった。しかし、チャングムだけが見当たらないのだ。全体の指揮をとるパクプギョムも、医局長チョンユンスも、医女長も、チャングムが無断離脱をしたとみなして、心配する様子も探す素振りもない。オギョモの息のかかったパクプギョムや、チェ一族に取り込まれているチョンユンスはともかく、それ以外の内医院の者達のチャングムに対する冷たい態度は、チョンホをぞっとさせた。何があったのか。

 チョンホは、昨日、チャングムに会ったときに、あわただしいようすで彼女が話した言葉を思い返した。
「薬剤が無くてたいへんなのです。買ってこなくては。巳の刻までに戻らないと……巳の刻までに戻らないと……」
チョンホはそれが、巳の刻までに村の外の集合場所に戻らなければならないと言っているのだと、そのときは思った。だが、それにしてはあのときのようすはおかしかった。チャングムは、巳の刻までに薬剤を買って村の中に戻らなければならぬ、という意味で、言っていたのだ。

 村の入口では兵士達が、封鎖を突破する者が出ないように見張っていた。だが彼等は、馬に乗った男が全速力で駆けて来て、自分達の頭の上をひらりと飛び越えていくのを、見送ることしかできなかった。あまりにあっけなく通り過ぎたので、風が通り抜けたかのようであった。

 チョンホは村に入ると馬の速度を落とし、チャングムの名を呼びながら探し回った。
「チャングムさん! チャングムさん!」
 村人達もチャングムも姿が見えない。皆、もっと村の奥の方に隠れているのであろう。さらに進もうとしたとき、屋根のある井戸のところで、柱にもたれるようにして医女が腰掛にすわりこんでいるのが見えた。チョンホは馬から降りて駆け寄った。
「チャングムさん! 行きましょう」
急いでその腕をとった。しかしチャングムは立ち上がろうとせず、力なくゆるゆるとチョンホの顔を見上げた。その顔に涙の筋があった。
チョンホはぞっとした。内医院の者達の冷たい態度を思い出した。チャングムは言った。
「わたしは、見捨てられてしまったのです。医女仲間に。わたしは、この村の人達と同じです。見捨てられたのです」
村の人達と同じ、という言葉がチョンホの耳を打った。封鎖命令を持って来たのはチョンホ自身なのだ。それが今、チャングムを、絶望の淵に突き落としている。

 チョンホは、チャングムのそばにすわり、どうして村に取り残されたのか、順序だって話を聞き始めた。今はそうするしかないと思われた。チャングムは、ヨリという先輩の医女に、薬剤を買いに行くようにと命じられ、巳の刻までに村に戻るようにと言われたと、話した。しかしそれは罠であった。チャングムは先日来、皇后に気に入られていた。皇后に呼ばれて、ハン最高尚宮が硫黄家鴨事件で陥れられたことを訴えた。皇后は時間がかかるがハン最高尚宮の名誉を回復するために力を貸せるときも来るだろう、と言い、それからはますます、チャングムに目をかけるようになった。ところがそのうちに、チャングムの周りで不可解なことが続くようになった。チャングムが担当している女官の見習いの少女が急病で苦しんでいるからすぐに来てくれと連絡したのに来なかったとか、チャングムが内医院の執務室の掃除をしていて重要な連絡事項を書いた書類をなくしたとか、身に覚えのない不祥事が続き、結局、チャングムは皇后に贔屓にされて傲慢になり、先輩の医女達を見下しているとして、すっかり内医院での信頼を失ってしまったのである。チャングムはそれらの不祥事にすべてヨリが関わっていることを知っており、ヨリを問い質したがが、それさえもシンイクビル医務官に見咎められ、内医院での身の置き所がなくなったのであった。そのようなときに、疫病が発生し、村に派遣されたチャングムは、仲間たちから何も連絡されず、ただヨリだけが言葉を掛けてきたが、それが、封鎖の命令をわざと伝えずに、薬を買いに行かせる、というものだった。

 チャングムには、そこまでされる訳がわからなかった。自分はそんなことをされる覚えはない。一体、内医院の仲間に対して、自分が何をしたというのか。訳も分からずに、次々と小さな罪が被せられ、気がつくと、誰も自分の言うことを信じなくなっていて、そのうえさらに、恐ろしい死に突き落とされようとしていたのである。

 チョンホは、チャングムを励ますことにした。
「チャングムさんには、乗り越えなければいけない壁ができたのです。人の壁です。手柄を立てれば立てるほど、医術に優れれば優れるほど、壁は高くなるでしょう。だが、その壁を乗り越えなければ」
そう言いながら、チョンホもまた、ヨリという医女に強い不審の念を抱いていた。ヨリというのは、皇后の双子の妊娠を見抜けず、皇太后のためにチャングムが作った丸薬を、皇太后の嫌いな食べ物を偽って食べさせているのだと告げ口した医女である。しかしただの嫉妬だけでチャングムを疫病の村に故意に取り残すとは思えない。といってチェ一族やオギョモ一派とのつながりも見えない。それとも、こちらが知らないだけで、実は彼らと通じているのだろうか。
チョンホは今はそんなことよりもチャングムを元気づけるほうが先だと思い直し、チャングムを促した。
「今までの成功も水の泡になってしまいます。弱音を吐くのはあなたらしくない。さあ、立ちましょう」

 そのとき、チョンホは、人の影を感じた。振り向くと、村人達が集まってきていた。その顔はどれも、怒りと恐れに満ちていた。疫病の患者達とその家族達が村に閉じ込められ、外部との接触を断たれ、もはや病人は治療も受けられず、まだ病気にかかっていない者もいずれ感染して死ぬまで放置されるのだ。いや、村が封鎖されれば、次には、焼き払われるのは時間の問題である。チョンホはそのことをよく知っていた。彼はチャングムを自分の影に庇うようにして立ち上がった。

 村人達の怒りがチョンホに向けられているのは明らかであった。役人こそが自分達を殺そうとする張本人である。普通は役人達は皆さっさと逃げ出すものだが、ここにいる男は何かの都合でひとり逃げ遅れたのであろう。この男こそ自分達を地獄に突き落とした張本人である。こちらが死ぬ前に、八つ裂きにして、この苦しみを思い知らせねばならない。

 チョンホはよくわかっていた。彼は静かに待ち受けていた。彼の周りで人の輪が狭まり、人の山が大きくなるのに対して、まったく動こうとしなかった。彼は自分の後ろにチャングムがいることを意識しながら、磐石の壁のように立っていた。自分一人だけに向けられた憎しみである。この憎しみを受ける日がいつか来るとは思っていた。彼は三浦の乱で多くの敵を殺した。それは誉れであった。しかし彼は自分が殺した敵のうちの多くは、ここにいる村人達と変わりのない人々、幸福を求め、命ながらえたいと願うがゆえに、それが朝鮮の国の政策と相容れないがために、立ち上がった人々であることをよく知っていた。倭人であろうが朝鮮の人であろうが変わりはない。民は民である。自分はこの憎しみを受けねばならない。彼は、チャングム一人だけを村から出て行かせるための言葉を用意し始めていた。

 チョンホが今しも口を開こうとしたとき、彼の後ろ、頭の上から、力強い女の声がした。
「わたしは医女です! 皆さんを助けます! どうか、わたしの話を聞いてください!」
チョンホは驚いて振り返った。チャングムが、今まで腰掛けていたはずの椅子の上に、立ち上がっている。
「皆さんを助けます! でも、薬も、食糧も、足りません! どうすればいいか、皆さんは、おわかりでしょう!」
チョンホはチャングムの顔を見つめた。その顔は今、燃えるようであった。
「ここにいる役人の方に、薬を買いに行っていただかなければなりません! 村から出ることができるのは、馬を走らせて薬を買いに行けるのは、この方だけです! どうかわたしの言うことを聞いてください!」
 チョンホはその刹那、村人達の存在を忘れた。心の中で、彼は感嘆の声を挙げていた。
「これが、この人である」


〜〜〜〜(三十八)〜〜〜〜

(「ミンジョンホの日記」……ミンナウリのモデルと言われている男の日記。一部写本で伝わる)

某月某日。半月振りに我が家に帰って来た。この半月間は、半年にも思えるほど、実に多くのことがあった。何より私自身が変わった。半月前まで、私は、自分の務めは王にお仕えすることであり、民を守るのは王のためだと思っていた。しかし、それは間違いであった。王のために民がいるのではない。民のために王がいるのだ。私の務めは、民を守ることであり、王にお仕えするのは、民が王を必要とするからなのだ。もしも、王が、民のことを忘れ、ないがしろにし、苦しめるようであれば、それは王としての務めを忘れたことになる。私は王に、民のことを思い出し、民のために政を行われるようにお諌めせねばならぬ。

このような考えは謀反人の考えであろうか? いいやそんなことはない。燕山君を見よ。燕山君は、民のことを忘れ、民を苦しめられた。それゆえに倒され、中宗殿下が即位されたのだ。

あの村の人々は、王に捨てられたと思っていた。それゆえ、私に怒りをぶつけてきたのだ。当然である。私は、民を守ろうとしなかった。民を忘れた者は、王にも忠誠を果たすことができない。私はもう少しで殴り殺されるところだった。もしチャングムさんがあのように勇気のある人でなかったら、確実に殺されていたはずなのだ。

チャングムさんは、偽って、既に村人達が皆逃げ去った村の薬屋に、私を行かせた。愚かにも私は、村を出る前にチャングムさんに呼び止められたとき、あの人の思いに気づかなかった。期限は一日であったのに、一日を過ぎるまで帰ることができなかった。帰って来た時には、村は火の海であった。火を放った兵士達を責めることはできない。もしチャングムさんがあの村に取り残されていなかったら、私は封鎖された村に足を踏み入れることなく、彼等を指揮していたに違いないのだ。

あの炎の中でどうやってチャングムさんを見つけ出したのか、あそこからどうやって脱出したのか、思い出せぬ。

気を失ったチャングムさんを横たえてから、目を覚ますまでが、どんなに長く感じられたことか。チャングムさんの声を聞いた時の気持ちは、筆舌に尽くせぬ。

チャンドクさんには幾ら感謝しても、し足りぬ。チャングムさんのあのほっとした表情を見れば、どんなに心強く感じたことか、逆にそれまでどんなに心細かったか、わかろうというものだ。チャンドクさんが来てからのチャングムさんは、薬が届いたこともあるが、実に落ち着いて診療にあたっていた。あの二人のお蔭で、疫病ではなく、食中毒だとわかったのだ。

それにしても内医院の者達には、どうしてそのことがわからなかったのか。また、チャングムさんをわざと置き去りにして村を去るなど、言語道断である。

逆にチャンドクさんは、病に罹ったと嘘をついてまで村に入って来た。人としても、医術の腕も、比べものにならないほどりっぱである。

真に民を思い、王に忠誠な人々は、宮中にはおらぬということか。至誠の人々は、民の中に埋もれているのだ。


〜〜〜〜(三十九)〜〜〜〜

 オギョモ右議政、左賛成、内侍府の尚膳、内禁衛の長官、パクプギョム、チェソングム女官長、チェグミョン最高尚宮、チョンユンス医局長、チョンウンベク医務官、シンイクビル医務官、以下内医院の医務官・医女達が一堂に会していた。彼等は、ミンジョンホとソジャングムの報告を聞いていた。この二人は既に罷免、免職になっていた。チョンホは、処罰は甘んじて受けるが疫病について重大な報告があるとして、時々チャングムに医学的な用語について説明を委ねながら、熱心に説いていた。疫病と思われたのは食中毒である。ことしは穀物が不作で、貧しい村人達は野菜を食べていたが、野菜もまた病気になっていた。それが食中毒の原因である。多くの村人が野菜を食べたので、一斉に病人が出て、疫病と間違われたが、家族全員が病気になったという家が一件もなく、また発病した母親が赤ん坊に乳をやったにも関わらず赤ん坊は発病しないなど、普通の疫病では見られない特徴がある。そして、食中毒の処方をしたところ、村人達の多くが快方に向かっている。これは疫病ではない、と。

 チョンホとチャングムの主張を、チョンウンベク医務官、シンイクビル医務官が支持した。彼等は、先日、チャングム達が派遣されたのとは別の地方の村でも疫病が発生したので調査に出かけ、チョンホが報告したのと同じ特徴を見出して、疫病ではないのでは、という疑いを抱いて帰ってきていたのである。

 しかし、オギョモ、パクプギョム、チェ女官長、チョンユンス医局長は、チョンホの主張を退けようとした。野菜で食中毒になるなどということは聞いたことがない、というのである。チェ女官長は、チョンホは、無断離脱したチャングムを追って行き、そのまま二人でほとぼりが冷めるまで姿を晦ましていたのだろう、と述べた。これにはチェグミョン最高尚宮が少しつらそうな顔をしたのを、チョンホは眼の端でとらえたが、何も表情を変えなかった。

 チョンホはチェ女官長に対して、物柔らかに、
「そこまでおっしゃるのなら、御自分で試されてはいかがでしょうか」
と勧めた。チェ女官長は、ほう、いい度胸だ、とでも言わんばかりの顔をして、
「いいでしょう。わたくしが傷んだ野菜を食べて見せましょう」
と胸を張って答えた。

 翌日、前と同じ顔ぶれが揃って再び会議を開いたとき、チェ女官長だけが席に着いていなかった。チェグミョン最高尚宮が、チェ女官長が発病したことを告げた。内侍府の尚膳は、これで疫病ではなく食中毒の対策をとることができる、とにこにこと笑いながら言って立ち上がり、王に御報告に上がると言って席を離れた。チョンホはチャングムと眼を見交わして、控え目ながら微笑んだ。

 オギョモは王に、チョンホが疫病は食中毒であると突き止めたことを報告せず、自分が最高責任者を務める内医院の医務官達が突き止めたように報告し、チョンホについては半月以上も無断で職を離れていたことだけを告げ、罷免する許可を求めた。王は許可した。
チョンホは、オギョモから正式に罷免を通告された。チョンホは何も抗弁をせずに従った。オギョモは言った。
「きょうはおとなしいではないか。やましいところがあるので黙っているのか」
チョンホは答えた。
「お聞かせするほどのこともありませんでしたので」
そう言って済ました顔で退出した。


〜〜〜〜(四十)〜〜〜〜

 チョンホは両班の平服を着て、疫病と間違われて封鎖されていた村に、再び赴いた。ウンベクも平服を着て同行した。村は封鎖が解け、食中毒も治まっていた。しかし村人達はチョンホの顔を見ると口々に困窮のさまを訴えた。傷んだ野菜が原因だというので、野菜は皆、役人が持って行ってしまった。残った村人達は今度こそほんとうに何も食べるものがなくなり、飢えに苦しんでいる、とのこと。

 チョンホとウンベクは連名で、村人達の困窮を救うために備蓄米の供出を求める書簡を王に提出した。ちょうどその書簡と一緒に、王は、隠退した元高官のパクスボクからも書簡を受け取った。それは、ミンジョンホの罷免を要求したオギョモを弾劾し、ほんとうはチョンホが医女達を指揮して疫病の治療に当たり、その結果、食中毒であると突き止め、村人達を救ったのである、というものだった。パクスボクの書簡はチャンドクと連名であった。

チャンドクは以前、チョンホが連れて来たパクスボクの妻を診察したことがあり、以来、主治医となって、スボクの家に往診に訪れるようになっていた。スボクはチョンホの父と友人であった。疫病で封鎖された村でのチョンホの活躍を伝え聞き、賞賛する手紙を父親に当てて送ったところ、実はそれで罷免されてしまったとの返事を受け、憤慨していた。そこへちょうどチャンドクが往診に来たので、チョンホのことを話し、連名で王に書簡を出すことにしたのであった。

チャンドクはまだ済州島にいた頃、王がじきじきに内医院の医女長に迎えたいという書簡を送ったほど、名医の誉れの高い医女であり、それがチョンホの指揮で内医院の医女チャングムとともに疫病の治療にあたったと書いてあるのだから、王は驚いた。

 一方のチャングムはチェ女官長の治療を任され、しばらくは職に留まっていたが、女官長が快復すると、内医院で、免職にするかどうかの会議が開かれた。そこでは、ヨリが封鎖の連絡をチャングムに伝えたか伝えなかったかが議論の焦点となった。その議論の最中に、ウンベクがチョンホとともに入って来たのである。チョンホはすぐに、一番下座の隅にチャングムが立っているのを認めた。

 ウンベクは医局長のチョンユンスに、会議に遅れたことを詫び、このたび、ミンジョンホが内医院の副審議官となったことを告げた。オギョモに次ぐ地位である。王はオギョモを叱責し、チョンホを復職させただけでなく、官位を上げ、内医院の副審議官を兼任させたのであった。

 ユンスは驚いてチョンホに上座を譲った。チョンホはこれまでの議論の内容説明を求めた。一通り聞き終えると、チョンホ自らヨリに質問した。 「あなたは、内医院の医女ひとりひとりに、封鎖を伝えて回った、ということですね」
ヨリはその大きな目をしばたたいて、澱みなくはっきりした声で答えた。
「はい」

 チョンホは続けた。
「封鎖の命令が村人達に洩れないように注意を払いましたか」
 ヨリは答えた。
「はい。『鎖』と書いた赤い布を見せました」
 チョンホは続けた。
「チャングムさんにも『鎖』と書いた赤い布を見せましたか」
「チャングムには、その布を見せる機会がありませんでしたので、口頭で伝えました」
「なんと言ったのですか」
「巳の刻までに戻るように、と」
「戻るように、とは、どこからですか」
「封鎖される村から、という意味です。口に出しては言いません」
「あなたはチャングムさんに、封鎖される村から戻るように、という意味で、巳の刻までに戻るように、と言ったのですね」
「はい」
「巳の刻までに戻るように、と言っただけでは、封鎖で引き揚げる人達の集合場所がわかりませんね」
「集合場所は最初に村に入るときに点呼をとった場所と決まっているので、言わなくてもわかると思いました」
「あなたはそのとき『鎖』と書いた布を持っていなかったのですか」
「チャングムに見せなかったことを忘れていて、その布はもう返してしまっていました」
「チャングムさんにもう既に『鎖』と書いた布を見せたつもりになっていた、ということですか」
「はい。ですが、チャングムの顔を見て、まだ『鎖』の布を見せていなかったことを思い出し、口頭で伝えました」

 チョンホはチョンユンスの方を見て言った。
「封鎖の命令が正しく全員に伝えられたかどうかは、医局長が確認することになっているのではありませんか」
 ユンスは答えた。
「村に派遣された全員の名簿があり、ひとりひとり印を付けて確認します。ヨリはチャングムにも知らせたと報告しました」
 チョンホはきいた。
「ではあなたは、ヨリさんから、チャングムさんに『鎖』と書いた布を見せた、と聞いたのですね」
 ユンスは答えた。
「わざわざ『鎖』と書いた布を見せたかどうかはききません。今まで、それで問題が起こったことはありません」

 チョンホはもう一度きいた。
「封鎖の命令は、村人達に対して秘密厳守で伝えられます。口頭だと聞きとがめられる恐れがあるので、『鎖』と書いた布を、村人に盗み見られないように、必ず相手の側に行ってその人にしか見えない角度で、瞬きを二回するほどの間に一度見せるだけ、と決まっています。過去に封鎖の命令が洩れて、暴動になったことがあり、それ以来、厳しく作法と手順が決められたのです。その機会がなかったからといって口頭で伝えてもよいということにはなりません。あなたは連絡役のヨリさんにそのことをきちんと教えましたか」

 ユンスは答えた。
「既によく知っていることと思い、特に今回、念を押すようなことはしませんでした」
 チョンホは言った。
「しかし、実際にヨリさんは、口頭で伝えた、と言っていますね」
 ユンスは答えた。
「周りに村人達がいなければ、それでも問題はないと思います」

 チョンホはヨリの方に向き直った。
「チャングムさんは疫病の村の封鎖に立ち会うのは初めてです。あなたはそれでも、『巳の刻までに戻るように』というだけで、『鎖』と書いた赤い布も見せず、チャングムさんに封鎖の命令が伝わると思ったのですか」
 ヨリは答えた。
「内医院に配属された医女なら当然知っていると思いました」
 チョンホは続けた。
「チャングムさんのようすを見て、連絡が伝わったと確信しましたか」
 ヨリは答えた。
「はい。確信しました」
「しかし、結果として、伝わっていませんでした。わたしは集合場所で医局長と全体の指揮を執るパクプギョム氏とが、医女が一人帰還していないと話していたのを聞いています。あなたはチャングムさんが集合場所にいないことを知ったとき、医局長に、チャングムさんには『鎖』と書いた赤い布を見せなかったこと、『巳の刻までに戻るように』と言っただけで集合場所を知らせなかったことを、報告しなかったのですか」
「その必要を感じませんでした」
「ずいぶんのんきですね。疫病の村の封鎖は細心の注意を払って行われます。疫病の蔓延を防ぐため、一つの村を丸ごと焼き払うことになる。当然、村人の怨嗟の対象となるため、封鎖に立ち会う役人、医務官、医女は、厳格な手順と規律に従った行動を求められます。あなたは、連絡が行き届かなかった場合の結果を軽視していたようですね」
「疫病が村で蔓延している状態を見て、これは封鎖になるということは予測がついたはずです」
「それはあなたの、チャングムさんに対する推測ですね。どうしてそのような推測が成り立つのですか」
「チャングムはまだ内医院に配属されたばかりですが、とても新人とは思えないほどの優秀さを発揮しています。ですから、当然、疫病の村での行動の仕方も自覚していると思いました」
「チャングムさんは優秀なのですか」
「はい。皇后様の妊娠が双子であること、一人は流産したが、一人は胎内に残っていることを見抜きました。また、皇太后様の持病が悪化して薬を受け付けなくなられた時、皇太后様の嫌いな食べ物を工夫しておいしい丸薬として差し上げ、体力が回復し、薬が飲めるようにしました」

 チョンホは医女長にきいた。
「それはほんとうですか」
 医女長は答えた。
「はい。ほんとうです。ですが、チャングムは、その後、皇后様のお気に入りとなったことを笠に着て、先輩の医女達を差し置いた行動が目立つようになりました」
 チョンホは言った。
「そうなのですか。では、あなたはチャングムさんに対して、医女長として当然叱責されていたものと思いますが」
 医女長は答えた。
「はい。何度も叱責しました。チャングムは、それで内医院には嫌気が差していたのだと思います。疫病の村に派遣されることも最初は嫌がっていましたが、封鎖の命令が出たのをいい機会だと思って、無断で離脱したのだと思いました」
 チョンホは言った。
「なるほど。しかし、実際には私は封鎖された村の中でチャングムさんを発見しました。無断で離脱したのではありませんでしたね」
 医女長は答えた。
「はい。意外に思っています。ですから、ヨリが封鎖の連絡をしたつもりだったけれどもチャングム本人には伝わっていなかった、ということは、ありうると思います」
 チョンホは言った。
「その場合、チャングムさんの落ち度は明らかです。しかし、疫病が食中毒であったことを発見し、村人の治療をし、他にも食中毒が発生した村が疫病と間違われて封鎖されるのを未然に防ぎました。王様もその功績を認めています。確かに、連絡を正しく聞き取らなかった落ち度はありますが、差し引き勘定をすれば、今回は不問に付してもいいのではありませんか。無論、今後は、チャングムさんも身を引き締めて、驕った振る舞いを見せないようにしなければなりませんが」
 医女長は言った。
「チャングムに対してそのようにおっしゃるのでしたら、私も監督する立場にある者として、チャングムには今後一層厳しく当たります。内医院での仕事は同僚との協力がたいせつですから」

 チョンホはチョンユンスに言った。
「チャングムさんには今後、より内医院にふさわしい医女となるように肝に銘じてもらう、ということでよろしいですね」
 ユンスは返事に迷った。しかし、答えた。
「そうですね。免職にする必要はありません」
 チョンホは言った。
「では、この会議は終了ですね。他に何かありましょうか」

誰も何も言わず、終了でよい、というかのようにうなずくのみであった。チョンホは、
「以上です」
と言って立ち上がった。席に着いていた者達は皆立ち上がった。チョンホのそばに、ひとりの医務官が来て、恐る恐る、尋ねた。
「あの、副審議官殿は、どうして、封鎖された村に入られたのですか」
 チョンホはいぶかしそうにその医務官の顔を見た。ウンベクがあわてて割って入った。
「ああ、チボク殿、その話はわたしから説明しておきましょう」
 チョンホはウンベクの顔を見て、ちょっと目を細めて笑うと、部屋を出て行った。


〜〜〜〜(四十一)〜〜〜〜

 その夜、チョンホはカンドックの家を訪ねた。チャングムが出て来ると、二つの福袋を見せた。
「あの村の人達が、これに高麗人参を入れて、お礼だといって渡してくれたのです。無論、中味は返しましたが、あなたにもあの人達の気持ちを受け取って貰いたくて、持ってきました」

 チャングムは喜んだ。そして、一つを手に取った。チョンホはまた、言った。
「わたしも、チャングムさんの御蔭で、大切なことを学びました。ほんとうに民のために働くとは、どういうことかを」
 チャングムはチョンホを恥ずかしそうに見た。
「わたしは、とても、そんなつもりでは。チョンホさまがいらっしゃらなかったら、わたしは医女であることを忘れたままで、村人達のために何もしてあげられず、死んでいたと思います」

 チョンホはチャングムの顔を眺め、黙ってその手をとった。その手をとったまま、いつだったか、チャングムが両親の話をした東屋に連れて行った。チャングムをしっかりと引き寄せて座ると、小さな声で話し始めた。その声はいつものような自信に満ちた調子ではなく、何歳も若返ったかのようで、チョンホの口から出る言葉と不釣合いなほど未熟な響きがあった。

「チャングムさん。きょうわたしは、あなたが内医院を免職にならないようにと、少々、言葉を弄しました。けれどもほんとうは、あなたが宮中を出て、チャンドクさんのように街の人々のために働く医女になってほしいのです」
 チャングムは俯き、やはり小さな声で答えた。
「わたしは、母とハン尚宮さまの名誉を回復しなければなりません」

 チョンホは今や、かすれんばかりの囁き声で、それでもなお人に聞かれるのを恐れるかのように早口で話した。話しているうちにそれは懇願になっていた。
「ええ。しかし、わたしも、オギョモとチェ一族を追及しています。時間はかかりますが、いずれあなたのお母上とハン尚宮殿を陥れた人々のことも明るみに出し、あなたの望みをかなえることもできると思います。それまで、待ってもらえませんか」
 チョンホの言葉は哀願するような余韻を残して消えた。彼の手は熱かった。チャングムはその手が自分の運命を握っているように感じた。彼女は、不快ではないが何かわからない恐れの感情が湧いて来ることにとまどいながら、切ない目をしてチョンホを見た。
「チョンホさま。わたしはチョンホさまを信じています。でも、これは、わたしがしなければいけないことなのです」
 チョンホはこれ以上の言葉はチャングムを苦しめると思った。


〜〜〜〜(四十二)〜〜〜〜

 チョンホはチャングムのからだを抱いて髪をなでてやりながら、静かな声で話した。それはいつもの落ち着きを取り戻していたが、無論、構えて敵に対するときの声ではなく、ただ優しく慈しむ声だった。

「チャングムさん。内医院には、ハン尚宮殿はいません。もしほんとうに、食中毒ではない疫病の村に行った時、どう振る舞うべきか、教えてくれる人はいないのです。チャンドクさんは呼べばきっと来てくれるでしょうが、呼びにいくことさえできないかもしれません。ほんとうに誰も助けてくれる人がいないときに、内医院の人々は、あなたに、村人を見捨てて、この村を封鎖せよ、そうしなければますます疫病が広がり、より多くの人の命が失われるのだ、と迫るでしょう」

 チャングムはチョンホの腕のなかでうなずいた。

「そのとき、あなたに、どうするべきかを教えてくれるのは、村人達です。苦しみ、嘆き、泣き、叫ぶ人々です。逃げ道を失い、地獄の苦しみを前にして恐怖に囚われている人々です」

 チョンホはよりしっかりとチャングムを抱き締めた。

「わたしはむかし、おおぜいの人々を殺しました。わたしの剣で、多くの人が傷つき、死にました。わたしが放った矢で、わったしが放った火で、多くの人々が家族と家を失いました。わたしはそれで、誉れを得たのです。国のためによく働いたと讃えられ、身分の高いりっぱな方々からも、身分の低い街の人々からも、賛辞と羨望を得ました」

 チャングムはチョンホにさらにきつく抱き締められるのを感じた。

「けれども、わたしをほんとうに導いてくれたのは、わたしによって苦しみ、わたしを恨み、憎んで死んでいった人々なのです。その人達の死を悲しみ、恐れと憎しみを抱きつつ、生き永らえた人々なのです」

 チョンホはチャングムのからだを何度もなでた。それから、チャングムの顔を自分に向け、しっかりとその目を見た。

「チャングムさん。わたしはあの村で、かつてわたしが殺した人々と同じ人々に出会いました。わたしはいつかそんな日が来ると思っていました。わたしはあのとき、あの村で殺されても、悔いはなかった。けれども、あなたが、もっと大切なことを教えてくれたのです。あなたは、わたしと初めて会ったときから、傷ついた人を助け、癒す手を持っていました。わたしはかつてあなたに命を救われました。そして今度は、魂も救われました。あなたは自ら絶望と恐怖のさなかにありながら、勇気を奮い起こして、村人達の命を救いました。あなたはわたしと違い、人の命を救う手を持っている。わたしは人の命を奪うことで誉れを得たけれども、それはほんとうの誉れではないのです。わたしのほんとうの誉れは、あなたがこれから先、ひとりでも多くの人の命を救うのを手助けすることです」

 チョンホはチャングムの顔をそっとなぞった。

「あなたはこれから先、ハン尚宮殿やお母上を苦しめた人々に、同じ苦しみを与えようとするでしょう。そうすることは間違いではない。わたしはどんなことでもあなたを手伝いましょう。けれども、苦しみを与えることがほんとうの目的ではない。ほんとうの目的は、あなたにお母上やハン尚宮殿が伝えようとした心と志を受け継ぎ、伝えていくことです」

 チャングムは涙を浮かべながらうなずいた。チョンホはもう一度チャングムのからだを抱き締めた。そしてそのまま時が過ぎるに任せた。


ミンナウリのカード〜目次〜