2007/10/28 by てるてる
ミンナウリのカード〜(三十)〜
(「ミンジョンホの日記」……ミンナウリのモデルと言われている男の日記。一部写本で伝わる)
某月某日。司憲府(サホンブ)の監察官になって既に一箇月経つ。その間、キムチソン殿に言われたとおり、昔の同志を訪ね歩いたが、皆、いい返事をしない。チョンウンベク殿さえ、宮廷には興味がない、という。まことに残念である。
ウンベク殿は今は内医院の医務官になっているが、医女修練生になっているチャングムさんのことが心配なようである。済州島以来、チャングムさんが医術を復讐の道具にするのではないかと、案じ続けている。ことに宮廷は誘惑が多い。よほどしっかりした信念を持っていないと、いつしか権力に媚び、陰謀に手を染めることをなんとも思わなくなってしまう。それは水刺間の女官達を見ていても、明らかだ。ウンベク殿によると、修練生を教える教授のなかに、シンイクビルという教授がおり、たいへん厳しいが、医務官のなかでも医術の腕前、人柄ともに一番信頼できる人だという。
敵を討ち、無実の罪に落とされた人々の汚名を雪ぐこともたいせつだが、たとえそれがどんなに遅れても、チャングムさんが、かつてハン尚宮殿から料理人の信念を学んだように、ウンベク殿やシンイクビル殿から、医術に携わる者としての心得を学びとることを、私も切に願う。死者を軽んじるのではない。しかし、生きることが何よりもたいせつである。
某月某日。カンドックの家でチャングムさんの部屋のオンドルを直すのを手伝う。トックの親爺さんと同じ良民の格好をするのは、隠密で探索をしていたとき以来だ。藁と土をこね、漆喰を作って、チャングムさんの部屋の壁を塗りなおす。そうしていると、まるでほんとうに、妻の部屋を直している良民の男になったような気持ちであった。常に不正や陰謀の横行する宮廷を離れ、金のためにあくせく働きながらも、ささやかな幸せを願って生きるカンドック夫婦のような暮らしを、チャングムさんとできるなら、そのほうがどんなにいいだろう。医女になる妻を支えて、お互い、幸せにすること、されることだけを願って生きられたら、それにまさる幸福はない。
ミンジョンホは左賛成のもとで従事官として勤めるようになっていた。左賛成は右議政のオギョモと対立している。左賛成とチョンホは、志を同じくする人材を登用し、オギョモ一派に牛耳られている宮廷と国政を変えていこうとしていた。
医女の養成も重要な国の仕事であった。ところが、ことしの修練生が全員、卒業試験に不合格になったという。いったいどうしたことかと、左賛成が修練生の学校に出向いていった。チョンホも同行した。左賛成が試験を遣り直してみると、優秀な者が多く、特に、チャングムは抜きん出ていた。
左賛成はシンイクビル教授とイヒョヌク教授に、修練生に不可の成績を着けた理由をきいた。シン教授は、チャングムには、傲慢さがあったので不可一つ、薬と毒の区分に無頓着だったことでもう一つ不可を付けたが、その欠点を本人は後に克服した、チャングムとシンビ以外の修練生達は、実習を欠席したので不可を付けた、と述べた。イヒョヌク教授は、チャングムとシンビは素養が足りず生意気であると述べた。しかし本当は、修練生達に、酒宴に侍るように命じたところ、チャングムとシンビだけが応じずに、シン教授の実習に出席したので、二人に不可を付けたのだった。
医女を妓生の代わりに酒席に侍らせるのは悪しき慣行であるとして、当代の王中宗が厳しく禁じたにもかかわらず、なかなか改まらないのであった。左賛成はことの顛末を王に報告した。チョンホは大殿の外でようすを伺っていた。王は怒った。右議政のオギョモは反対したが、王はイヒョヌクを罷免した。彼は皇太后の主治医でもあったのだが、それもやめさせた。
オギョモは怒りを堪えて王の御前から下がってきた。チョンホと眼が合った。オギョモはチョンホを睨みつけた。チョンホは氷のように冷たい顔で遣り過ごした。形だけは身分の違いを弁えた態度をとっていた。オギョモは、チョンホが、権力も武力も遣わずに人を畏れさせることができることを許しがたく、心の底から憎んでいた。ありとあらゆる機会をとらえて、チョンホがたいせつにしているものはすべて奪い尽くし、さらに耐えがたい苦しみという苦しみを味合わせ尽くし、のたうちまわらせて殺さずにはおかないと思っていた。チョンホは、オギョモが強大な権力を持ち、その力で人を不幸にし、生命を奪うのを、許しがたく、心の底から憎んでいた。チョンホはオギョモのすべての力を奪うまで追い詰めずにはおかないと固く念じていた。チョンホはこれまでも敵を容赦しなかったが、三浦の乱で闘ったときでも、倭寇の密偵を追っていたときでも、どんなてごわい敵であろうがまたつまらぬ者であろうが、それぞれに人生があり、幸福になりたいと願っているということを、忘れたことはなかった。自分が相手から生命と幸福を奪うのだと意識し、その通りに実行していても、人としての気持ちや誇りを踏み躙らぬようにした。だがチョンホにとってオギョモは、自分と全く異なる力の使い方をした。チョンホにはオギョモの持つ力を奪って自分のものにしようなどという考えはなかった。その力を根絶やしにすることこそがねらいであった。
(「ミンジョンホの日記」……ミンナウリのモデルと言われている男の日記。一部写本で伝わる)
某月某日。数日前から、チャンドクさんが済州島から漢陽(ハニャン)に出て来て、トックの親爺さんの家に逗留している。医女修練生の卒業試験が近づいてきたので、ようすを見に来たのだ。チャンドクさんはチャングムさんと同じように済州島の役所に所有される奴婢だったのだが、身分が回復したという。だからこれからはどこでも自由に医女として開業できる。チャングムさんもそうなるといいのだが。
某月某日。医女修練生たちの卒業成績発表の日である。医女達は成績順に配属先が決まるのである。まさかと思ったが、チャングムさんが暗い顔をしてうちに訪ねて来た、という。その話を執事から聞いて、私は合格発表の場に駆けつけた。チャングムさんは俯いて出て来た。なんといって慰めればいいかと考えていたら、チャングムさんは顔を上げて、宮廷への通行証を見せた。みごとに首席をとり、宮廷への配属が決まったのだ。
あまりうれしいので、うちでは男の子が本を一冊読むと餅を作って祝う、チャングムさんにも餅を作って祝ってあげたい、と言った。チャングムさんは、それならお餅を作ってください、と言った。だが私には餅を作ることができない。そう言うと、チャングムさんは、それではお気持ちだけをいただきます、と言って笑った。ほんとうに、餅でも酒でもなんでも作ってあげたいと思った。
ただ、チャングムさんが宮廷の医女になると、以前は女官だったのだから、その違いを思い知らされることになるやもしれぬ。つらいこともあると思う。そう言ったら、チャングムさんは何があっても耐えてみせます、と言った。これまでもそうだったのだから、その言葉に嘘はあるまい。なぜこんなに苦しい道ばかり選ぶのか、と思うが、それがチャングムさんなのだ。しかたあるまい。
一緒にカンドック夫婦の家に行った。まるで妻とともに舅の家を訪ねる男のような気がした。ほんとうにそうであったなら。
某月某日。チャンドクさんがトックの親爺さんの家の隣で開業した。さっそく、はやっている。チャングムさんは宮廷の勤めが休みの日に手伝うことになった。まだチャンドクさんが教え残したことがあるのだという。二人とも熱心なことだ。内医院の医女になったとはいっても、自分で処方箋を書くことはできず、医務官の指導を受ける。若い女官達は医女見習いに、からだの疲れをほぐしたり、美しさを保つ術を施したりすることを頼むそうだ。チャングムさんはそんな彼女達の気持ちがよくわかるという。かつての自分の世話をしているようなつもりになるらしい。
左賛成が王に、成均館の学者たちの意見書を提出した。その草案は左賛成とミンジョンホとが作ったのであった。それは国防に詳しい優秀な人材の登用案であったが、同時に、かつて「キミョサファの政変」で処刑されたチョガンジョと関係のあった者ばかりを登用する案でもあった。数年前の硫黄家鴨事件のときには、内禁衛の武官キムヨンテクは、チョガンジョの弟子だったというだけで謀反人の疑いをかけられた。実に、隔世の観を呈している。無論、オギョモ右議政は反対した。しかし、王は左賛成の提案を採用した。
オギョモと対抗する力を蓄えつつある左賛成であったが、それでも右議政のほうが官位も権限も上であり、今はまだ、全面対決は避けたいところであった。そこでなんとか妥協を図り、不穏な動きを牽制しようと、一計を案じた。
チョンホはチャングムとカンドックに、手伝ってほしいと声をかけた。あの硫黄家鴨の料理を頼んだのであった。左賛成とチョンホとは宴席を設けて、オギョモとパクプギョムとチェパンスルを招待した。宴席に出されたのは、硫黄家鴨の料理であった。宴席が盛り上がり、談笑が続いた。腹の中でどんなに憎みあっていても、ミンジョンホとオギョモはそれを面に出さなかった。左賛成は、国防のために協力することがオギョモにとっても得策だと切り出した。オギョモはそうは思わないと切り返した。チョンホが、それなら、と話し始めた。諸兄がきょう食したのは、例の硫黄家鴨である。諸兄らはこれがほんとうは何の毒性もないことを御存知のはずである。また、キミョサファの政変のとき、モンミョク山で死体で見つかった衛兵のことは、どうお考えであろうか。チョンホはあくまでもにこやかさと穏やかさを失わずに、まるで十年来の友に話しかけるかのようにしゃべっていたが、その声の響きには、以前、オギョモが義禁府で聞いたのと同じものが含まれていた。オギョモは身震いするほど嫌悪感を催した。表向きは、今は争う時期ではないと認め、皆、談笑のうちに宴席を終えた。だがパクプギョムもチェパンスルも、畏れを抱いていた。具体的には何もなくても、心の底に澱のように残る、嫌な感じであった。
左賛成の屋敷の庭で、チョンホは、チェパンスルに声をかけた。パンスルはチョンホに振り返った。いかにも豪商らしい鷹揚さを装いながらも、その眼にはいらだちと恐れとがあった。パンスルは妹のチェソングム女官長から、チャングムが医女になって宮廷に戻ったことを聞いているはずであった。先日、皇后が流産を起こし、内医院では医務官・医女以下、医女見習いまで動員されて徹夜でことにあたっていたときに、チャングムは水刺間の最高尚宮のチェグミョンと女官長のチェソングムとに会ったのである。チョンホはそのことをカンドックの家でチャングム本人から聞いていた。チョンホは、ほんとうにただの忘れ物か何かを届けるような、親切そうな声で、話しかけた。
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「チェパンスルさん。チャングムさんのことは、手出しをなさらないように。何かなされば、宣戦布告とみなします」
パンスルはチョンホの眼を見た。そしてすぐにそらした。チョンホは言った。
「お気をつけてお帰りなさい」
パンスルは何も返事をせずに、急いで立ち去っていった。