ミンナウリのカード

2007/10/27 by てるてる

ミンナウリのカード〜(十九)〜

〜(二十)〜

〜(二十一)〜

〜(二十二)〜

〜(二十三)〜

〜(二十四)〜

〜(二十五)〜


〜〜〜〜(十九)〜〜〜〜

 ミンジョンホは宿を引き払い、済州島水軍指揮官の官舎に移り住んだ。島の長ハンドンイクに挨拶した後で、チョンホは、少し気になることができた。漢陽(ハニャン)にいる副官に手紙を送り、ハンドンイクを済州島の長に推薦したのは誰か、調べるように頼んだ。

 チャングムは毎日、役所に食事の配給を受け取りに来た。チョンホは勤めの合間を縫って毎日一度はチャングムの顔を確認するようにした。顔色は日々よくなっていくようであった。しかしチャングムの眉は曇ったままだった。一度、言葉を交わしていたとき、たまたま通りかかった役人が、奴婢が水軍の武官の顔を見るのはけしからん、と激しく叱責した。チョンホといえどもその役人の言ったことを咎めだてするわけには行かなかった。身分の低い者が身分の高い者の顔を見てはならぬというのは世の定めであった。チャングムは顔を伏せて詫びた。それ以来、チャングムはチョンホの前で顔を上げなくなった。チョンホは、自分と二人だけのときにはよいのだ、と言ったのだが、チャングムは顔を伏せたままだった。ある日、チョンホは言った。

「困りましたね。顔を上げてくださらないと、これからお見せするものが、あなたに必要なものか、不要なものかが、わたしにはわからない」 そう言いながらチャングムの視線の先に手を差し出した。その手には硫黄があった。チャングムは顔を上げた。その眼は輝いていた。久しぶりに見た。むかし、カンドックと三人で過ごした寺で、寺男に海草や山菜の干し方をきいていたときと同じ輝きであった。
「あなたならこれを調べたいでしょう。あなたは諦めないでしょう?」
チャングムは硫黄をチョンホの手から取った。

 数日後、チャングムがチョンホの執務室に訪ねて来た。珍しいことである。チョンホは、チャングムが遠慮しないですむように、部屋の戸は開けたままにして、兵士を遠ざけた。チャングムは、何の遠慮も憂慮もない顔で、
「チョンホさま。お金を貸していただきたいのです」
と切り出した。チョンホは二つ返事だった。
「いいですとも」
そう言って、金を渡した。チャングムはその重さを量って、
「これは、わたしのお給料の三箇月分です」
と言った。チョンホは、
「では、三箇月たったら返してください」
と言った。チャングムはうれしそうに胸を張って、
「はい」
と言った。チョンホは笑って、
「冗談ですよ」
と言った。チャングムはまじめな顔で、
「いいえ、返します」
と断固とした口調で言った。チョンホはあわてて、
「ほんとうに冗談です」
と言った。チャングムは少し表情を柔らげたがやはりまじめな顔で、
「いいえ、返します」
と言ってから、
「チョンホさま。お気持ちはうれしいです。ありがとうございます」
と優しい声で言った。チョンホは、その声の余韻を楽しみ、もう少し引き止めようと思った。

「チャンドクさんの診療所のようすはどうですか。いつも患者さんが多くていそがしいでしょう」
そう水を向けると、チャングムは、何かを思い出したように、
「そうだ、チョンホさま。パクさんや他の兵士の方達は、水軍の仕事が終わってから、チャンドクさんの家を建てに行ってはいませんか」
ときいてきた。チョンホは意外なことを聞くものだと思った。
「チャンドクさんがパク君と親しいのは知っていますが、兵士達を率いて家を建てに行くほどとは聞いていません」
チャングムは言った。
「このまえ、チャンドクさんがパクさんにお金を渡していて、兵士の方達を連れて仕事に来るように、と言っていました。注意していてください」
チョンホは事情がよくわからないうちに即断するつもりはなかったが、チャングムに向かって、
「わかりました。気をつけて見ておきましょう」
と請合った。チャングムは、
「それでは、仕事に戻ります。ありがとうございました、チョンホさま」
と言って、部屋を出て行った。

 その日、水軍の勤めが終わってから、チョンホはパククマンのようすに注意していた。クマンは確かに何人かの兵士を率いてどこかへ行くようである。跡を付けていった。クマン達はハルラ山に登って行った。水源地に向かっているようだ、と思いながらようすをみていると、そこへ、チャングムが水瓶を背負ってやって来た。お互い、顔を見て、どうしてここに、と聞いた。チャングムは、薬を煎じる水を汲みに来たのだった。済州島はいい真水が少なく、水は金よりも貴重とされている。貧しい人々は塩分を含んだ水を普段の暮らしに使っていた。チャングムは、チャンドクが、貧しい家の患者には鍼を打つだけで薬を出さないのを見て、チョンホから借りたお金で薬を買ったのはいいが、いざ煎じようとすると、真水がなかった。それでこうして、水を汲みに来たのである。

ふたりは一緒にクマンを付けることにした。クマン達は川の上流近くに着くと、工事を始めた。数日前から続けていたようである。チャンドクが指揮をとっていた。チョンホは、チャングムと一緒に出て行って、チャンドクに声をかけた。
「チャンドクさん。それは、何を造っているのですか」
チャンドクはチョンホとチャングムを見ると、別に驚きもせずに答えた。
「雨水の濾過装置です。貧しい人たちは、真水を買うお金がありません。いつも塩分を含んだ水を飲んだり、料理に使っています。塩水を飲んでいると病気にかかりやすくなります。そのうえこの島の人達は、名産の魚と塩辛いものばかり食べているので病気になるのです。病気は、薬よりもまず、食べ物で治すのが先です。雨水を濾過すれば、少しでも多く、真水を飲むことができるようになります。貧しい人たちにとっていいことは、高い薬を買って病気を治してあげることよりも、病気にかからないようにしてあげることです。ミンジョンホ様。外的から島を守るのも大切ですが、民を守るのも大切です」

チョンホは、チャンドクの言うことが優れていると思った。チャングムも同じことを思ったらしい。
「雨水を濾過するのなら、炭を入れるといいです」
そう言った。チャンドクはすぐに
「そうなの。じゃあそうするわ」
と屈託なく受け入れた。チャングムは、また、言った。
「それに、雪解け水を使うといいです」
チャンドクもまた、言った。
「なるほど。そうしましょう」

チョンホはチャングムとチャンドクのやりとりを聞いていて、愉快になった。チャンドクは金持ちの患者から高い治療代を取るが、それはこういうことに使っていたのだ。それに、外的から島を守るのも大切だが民を守るのも大切だという言葉は、島の安全を預かる身として、傾聴すべきものである。チョンホは、これからも水軍の兵士達に協力させることを約束した。


〜〜〜〜(二十)〜〜〜〜

 ミンジョンホは、野外の詰め所に用意した机と椅子に腰を落ち着け、兵士達を監督しながら、漢陽(ハヤン)から届いた手紙を読んでいた。島の長のハンドンイクは、もとはパクブギョムの配下におり、その推薦によって、オギョモから済州島の長に任命された。済州島は、蜜柑が特産であり、また馬は重要な名産品である。そのほか、島は、倭国のものが入って来やすい場所であった。オギョモは、それらを扱う権利をチェ一族に独占させ、利益を吸い上げようとしている。そのために自分の息のかかった者を島の長に任命したのだった。

 チョンホは、三浦の乱で手柄を立てたが、三浦の乱とは、三浦の倭館と対馬の倭人とが朝鮮に対して起こした反乱であった。済州島も、もとは朝鮮とは別の国であった。これらの島や、倭の人々がおおぜい住み着く海岸地域は、もともと、朝鮮と倭と両方の人々が頻繁に行き来し、交易も盛んであるが、また争いも起こりやすい地域であった。チョンホは、朝鮮国王に仕える忠実な臣下として、倭寇に対して甘い気持ちは毛頭なかったし、倭人や倭国に対しても、まず朝鮮の民と国の利益を守らねばならないと深く念じていたが、一方で、海を挟んだ両国の距離は短く、間にある島々や、お互いの海岸地域に住む人々にとっては、交易が盛んに、公正に行われ、争いがないことが、一番の幸せであると考えるようになっていた。倭寇の襲来は、貿易が盛んでなくなったときに激しくなり、貿易が盛んになれば、勢力が縮小する。まずは公正な取り引きが行われなければならない。一部の者が利益を独占し、闇取引が横行するようになると、倭寇も勢力を増す。チョンホは、この済州島にもオギョモの手が伸びていることを憂慮した。倭寇の襲来を防ぐ水軍を預かる者としても、見過ごせない事実だと思った。

そこへ、チャングムが駆けて来た。チョンホに呼びかける声が聞こえた。チョンホは立ち上がった。夢中で駆けてくるようであった。追われているのでも逃げているのでも、凶事を知らせるために駆けて来たのでもなかった。その顔はこの島へ来てから一番輝いていた。チャングムはチョンホのすぐそばまで来て立ち止まって言った。
「チョンホさま。とうとう、とうとう、宮中に戻る希望が見えてきました。医女になります! 医女になります!」
息を弾ませ、きらきらと光る瞳で、チャングムはチョンホの顔をまっすぐに見上げていた。チョンホには、チャングムが、他ならぬ自分にこれだけのことを言うためだけに駆けて来た、ということが、信じられないほどの幸せに思えた。チャングムの美しい顔を飽かず眺めた。 誰も、奴婢が水軍の指揮官の顔を見ていることを咎めなかった。


〜〜〜〜(二十一)〜〜〜〜

(「ミンジョンホの日記」……ミンナウリのモデルと言われている男の日記。一部写本で伝わる)

某月某日。村を歩いていると、男が奴婢の娘を叱りつけていた。顔を見るとは無礼だというような声が聞こえてきた。確かに奴婢は両班の顔を直接見てはならぬ。その男は両班ではなく良民の格好をしていたが、それでも、奴婢の娘が相手を両班ではないからと軽く見て礼を欠く振る舞いに及んだと思い、怒っていたのだろう。情けないことだ。身分の違いはこの世の仮の決め事に過ぎぬ。ことにこの済州島には、刑罰によって奴婢の身分に落とされた者、もともとは両班であったり中人であったりした者が多いのだ。また政治犯として流されてきた官吏や文人、学者も多い。彼等は政治の風向きが変わると中央に呼び戻されることもある。その日を首を長くして待っている者もいる。確かに身分の掟は厳しいが、それさえも移ろいやすいもの、ほんとうにたいせつなのはその人の人柄や器量なのだ。

男は娘を怒鳴り続け、娘はひたすら謝っていた。背中しか見えなかったが、チャングムさんに似ている、と思ったら、声が聞こえてきた。やはりチャングムさんだった。男は散々怒鳴り散らした後、私とすれ違いに歩いていった。急いでチャングムさんに追いつくと、溜め息をついていた。どうも、気の毒である。訳を聞くと、チャンドクさんの教えで、五色診というものを覚えなければならないのだが、書物だけではわからないので、人の顔を見て回っているという。奴婢の女達が働いているところで顔を覗きまわって、仕事の邪魔だと叱られ、今度は路を歩く人の顔を覗きこんで、無礼だと叱られた、というわけだ。醫術の修業のためとはいえ、苦労するものだ。しかし、そんなことなら、私に言ってくれればわけなく手伝えたものを。チャングムさんを水軍の詰め所に連れて行った。いつも私がすわっている椅子に、チャングムさんをすわらせ、皆の者に、医女が病気の診断をしてくださるので顔を見ていただくようにと言い渡した。まだ医女の修業を始めたばかりだったが、相手は現に勤務についている兵士ばかりだからほんとうに病気の者もいまい、ちょうどよかろう、と思った。

チャングムさんはひとりひとり顔を見て、書物と照らし合わせ、何やら暗誦するようだった。ひとり、列を乱す者がいた。パククマンだった。クマンは待ちきれずにさっさと割り込んできたのだ。チャングムさんの顔をしげしげと見て、かわいいなあ、などと言っていた。これでは逆だ。苦笑する。

夕方、兵士たちの五色診が終わったチャングムさんは、疲れたようすだった。それでも、私に、礼を言ってくれた。しかし何か物足りない。疲れているのはわかっていたが、私の五色診もやって貰いたい、と頼んだ。チャングムさんは少し笑った。それから私の顔をまじめにじっと見つめていたが、あまり見つめられるのでさすがのこの私も照れた。案の定、顔が赤い、熱があるのでは、と言われた。確かに熱はある。そう言ってチャングムさんの手をとった。クマンではないが、ほんとうにかわいいひとだと思って顔に見入っていたら、チャングムさんは逃げ出してしまった。こどものときから女官として育てられたので、恥ずかしかったのだろう。あまりの純真さに、微笑んでしまった。


〜〜〜〜(二十二)〜〜〜〜

 ミンジョンホは、久し振りに、以前、宮廷の菜園の管理官だったチョンウンベクに会い、話を聴いていた。ウンベクは、元は内医院の医務官だったのだが、酒の上の失敗で菜園の管理官にされたのだと噂されていた。菜園では酒を飲んで寝てばかりいたが、チャングムが水刺間から菜園へ追放されてきたときに、何事も決して諦めない彼女に影響されて、ついにはキバナオウギの栽培を手伝ったばかりか、監督官の不正を暴くために思い切った芝居を打ち、キバナオウギ栽培成功の知らせを参議にまで伝えることができた。ウンベクは、水刺間に帰るチャングムに、書庫の本を貸し出すようにという手紙を持たせて寄越し、それがチョンホがチャングムに本を貸すきっかけとなったのだった。その後、ウンベクが、蜂の針の治療法の研究に取り組んでいるときに、内禁衛の兵士達がおおぜい蜂に刺されたのでチョンホが抗議に行き、そのときに初めて言葉を交わしたのであった。

そのウンベクが、済州島にいる。ウンベクは、実は腹に腫瘍があり、そのために自暴自棄になって酒を飲んでいたのだが、チャングムに会ってから、やる気を取り戻し、宮廷を出て、治療法を探して放浪していた。いい医者がいるといえばそこに行き、また自分でもいろいろな治療法を研究していた。済州島には、チャンドクという優れた医者がいると聞いて、やってきたのだった。だが、そのチャンドクとは、劇的な、あるいは最悪の、出会い方をした。チャンドクが診ている患者が、ウンベクからも治療を受け、ふたりの治療法が喰い違っていたために、チャンドクが、ウンベクを悪徳医者と決め付けて怒鳴り込んできたのである。その場にチャングムがいて止めに入ったからいいようなものの、ウンベクはチャンドクから散々に殴られてしまった。チャンドクは度胸があるうえに腕っ節も強いのであった。

 ウンベクがチョンホにわざわざ会いに来たのは、チャンドクとチャングムについて、憂慮すべきことがあったからである。チャンドクが済州島にいるのは親の敵をとるためで、その敵は今、チャンドクの患者になっており、いずれは診察中にその男の命を奪うつもりだとわかった。ウンベクはチョンホに、チャンドクを止めるようにと頼みに来たのだ。チャンドクの親の敵というのは今は流刑囚になっていて、チャンドクはその男を、チャングムが島に来る前から往診していたのだった。ウンベクはチャングムがチャンドクの許で修業することも気に入らなかった。チャングムも、ハン尚宮の敵をとるために医女になって宮廷に戻ろうとしている。しかし、そんな心で医術を学び、人に施そうとするのは間違っている。ウンベクは、復讐の道具にするのなら医術を学んではならぬ、と厳しくチャングムに言い渡し、チャンドクから引き離そうとした。しかしチャングムは言うことを聞かないのである。ウンベクは、チャングムも引き止めてほしいと、チョンホに頼んだ。

 チョンホは、ウンベクが衷心からチャングムのことを心配しているのだと理解したが、医術を復讐の道具に使うのかどうか決めるのはチャングムだと言って、自分が引き止めに入ることを断わった。チャングムにとっては、ウンベクもチャンドクもりっぱな師匠である。どちらも正しく、大切だ。しかしそのどちらか一方に従わなければならないとき、決めるのはチャングム自身である。医術を知らないチョンホが口出しする訳にいかないのだった。

 後にチョンホが聞いたところによると、チャンドクは最後まで医師として、親の敵の流刑囚の治療を行ったそうである。医術を復讐の道具にすることを思い止まったのだ。その日、チャングムは、自分の進むべき道について考え、迷い、一人、海辺にたたずんでいた。チョンホはその姿を見ていた。声はかけなかったが、心の中で、きっと、チャングムさんの心は決まっているでしょう、とつぶやいた。


〜〜〜〜(二十三)〜〜〜〜

(「ミンジョンホの日記」……ミンナウリのモデルと言われている男の日記。一部写本で伝わる)

某月某日。このところ、チャングムさんは、海岸の洞窟で一人で修業を続けている。どんなに寒い日でもやめようとしない。チャンドクさんを相手にした鍼の練習で間違えたので、一人でずっと練習を繰り返しているのだ。「武術を志すものは、人を殺すためにツボを覚えるけれど、医術を志すものは人を救うために確実に覚えなければならない」という。

確かに我々は、人を殺すためにツボを覚える。敵を倒し、王と国を守るのが私の仕事だ。誤れば、自分が倒される。王と国を守ることもできぬ。

しかし、チャングムさんは、敵を倒すためではなく、人の命を救うためにツボを覚えなければならない。間違えれば、人を殺してしまう。敵ではない人を。

では、医家は、敵に会ったときには、どうするのか。敵の命を救うことは、味方を殺すことにつながるのだ。では、医家は敵を治療しないのか。それとも、わざと間違えるのか。それは、医術なのか、武術なのか。味方の振りをして命を助けると見せかけて殺すとは、武人として最も卑怯な振る舞いだが、戦であれば時にはそうした手段も避けられぬ。しかし、医家は、武人とは違う。

チャングムさんは、宮廷に戻り、ハン尚宮殿の敵をとるために、医女になろうとしている。しかしそれは、医家と、武人と、両方の志を、医術だけで遂げようとするものだ。チャングムさんは自分から苦しい道を選んだのだ。

チャングムさんが苦しんでいるにも関わらず、チャンドクさんは励まそうとしない。チャングムさんは鍼を打ち間違えた自分自身が許せないのだ、という。チャンドクさんがもうよいと言えば鍼が打てるようになる、というわけではないのだ。

チャングムさんは言う。どうしても無になれないから、鍼が打てない。志があれば出来ると思っていたが、出来ない。復讐のために医術を学ぼうとするなど、自分は傲慢だったと。だがどうしても医術も復讐も両方とも成し遂げたい。必ず成し遂げる、と。

チャングムさんはなんと矛盾した道を選んだことだろう。ほんとうにどうしても医女にならねばならないのか。いっそ、このまま、この島で私と添うことはできないものか。

私は何を考えているのだ。自分の想いを遂げたいがために、奴婢の娘が、役人になど逆らえないのをいいことに、その志を踏み躙ろうというのか。相手が苦しんでいるのをいいことに、親切ごかしに大切なものを奪い去り、なお恩に着せようというのか。もし私と同じ身分の男が、そのようなことをしたと知ったら、私はその男をなじるだろう。それなのに自分は構わぬというのか。卑しいことだ。

チャングムさんは、鷲の心を持った小鳥のようなものだ。からだが小さいからと、小さな駕籠に入れていたら、駕籠を破って逃げてしまう。大きな頑丈な檻に入れても、隙をついて飛び去ろうとする。小さな窓しかない鉄の箱にでも入れれば、逃げることはできないだろうが、そのかわり死んでしまうだろう。大きな、居心地のよい駕籠で、つがいにしてやり、雛でも育てるようになれば、逃げようとはしなくなるかもしれない。だがそのときには、鷲の心が、人知れず涙を流し続けるようになるだろう。涙は心を曇らせ、たとえ幸せな暮らしに見えても、晴れやかになることはないだろう。


〜〜〜〜(二十四)〜〜〜〜

 ミンジョンホは、済州島の長のハンドンイクから、全羅道(チョルラド)まで献上品の馬の護送をするように、との命令を受けた。それでは島の警備が手薄になってしまう、と反対したのだが、ハンドンイクは、島の警備は残った者だけで充分にできる、安心しろ、と言うのだった。チョンホは、心配だったが、結局、ハンドンイクの権力には逆らえず、牛島(ウド)の放牧場まで馬を引き取りに行き、それから全羅道(チョルラド)へ向かうことになった。医女のチャンドクも同行することになった。牛島(ウド)で病人が出たというのである。チョンホは、パククマンに後の警備を頼んだが、不安はぬぐえなかった。こんなときに、あの内禁衛の副官がいたら、と思わずにはいられなかった。


〜〜〜〜(二十五)〜〜〜〜

(「ミンジョンホの日記」……ミンナウリのモデルと言われている男の日記。一部写本で伝わる)

某月某日。水軍の指揮を預かる身として、倭寇の襲撃のことを第一に書かないわけにはいかない。しかしそれはもう公式の記録に書いた。だから、ここで私が、一人の男としての胸のうちを書き綴っても許されるだろう。もともとこの日記はそのためのものなのだ。

遂に、チャングムさんが鍼を打つことができた。なんと、倭寇の頭を治療したのだ。治療しなければ村人を殺すと威されてしたことだ。しかし、倭寇の副将は、敵ながら、人を励ます術を知っていたということだ。誰にでも何にでも最初はある、と言ったのだと、チャングムさんは言う。治療しなくても、治療に失敗しても、村人たちが殺されるというぎりぎりの状況で、しかも敵を相手に最初の鍼治療が出来たとは、皮肉なことだ。だが私はこの倭寇の副将という男に感謝している。また倭寇といえども自分が仕える主人には忠実なのだ。私は武人であるから敵を容赦せぬ。チャングムさんに倭寇どもの人数や武器の数を教えてもらい、全員、討ち取り、または、捕縛した。副将という男は手強かったが捕えられてからは覚悟を決めたようである。いずれ処刑は免れないが、無用な苦しみは与えてはならぬ。兵士たちにも心得させた。このたびの倭寇は、村人は一人も殺しておらぬ。しかもいずれ死罪になる者共ばかり、このうえ無益な責め苦は与えるな、と。

私はいささか、手柄に酔っていたのだろうか。チャングムさんの手引きで倭寇を捕えられたこともうれしかった。何よりチャングムさんが鍼を打つことができたことは喜ばしかった。今だからこそ言えるが、ほんとうは鍼など打てなければよい、医女にならず、このままこの島で共に暮らせればよいと思っていたと、打ち明けた。言っているそばから胸が熱くなり、言い切ることが出来なかった。しかし、私の想いは伝わっていた。チャングムさんは、「私の才能を才能として、志を志として。女としての私を私として、人間としての私も私としてすべてを受け入れてくださっている。どんな立場にいようと、ありのままを見てくださっています。だから、とても幸せです。心から申し訳なく、心から幸せだと思います」と言った。あれほど苦しんでいたというのに、幸せだといってくれるのかと思うと、手を握り締めずにいられなかった。チャングムさんはその手をずっと私に預けていた。

やっとの思いで捕えた小鳥が、逃げずに私の肩に止まり、囀っているのを聞いているような気持ちだ。小鳥は、駕籠に入れずとも逃げず、飛んで行ってもまた帰ってくる、それでこそ、ほんとうに囀りを楽しむことができるのだ。


ミンナウリのカード〜目次〜