2007/10/26 by てるてる
ミンナウリのカード〜(十四)〜
ミンジョンホはカンドックの家に潜伏していた。服もトックと同じ良民の格好であった。倭寇の密偵探索を指揮するために地方へ派遣されたというのは表向きで、実は隠密にオギョモとチェパンスルの捜索を続けていたのである。内禁衛の部下ともトックの家で連絡をとっていた。
トックのおかみさんは上機嫌だった。チョンホから家賃がとれるからであった。食費も込みでいい収入になる。いつまででもいてくれ、と言われていた。おかみさんの作る御飯もトックの造る酒もおいしいので、チョンホも、ここは上々の宿だと思っていた。トック夫婦には、もともと、イルトという男の子がいたという。チャングムより五、六歳年上で、利発ではないが気のいい息子だった。チャングムにとってはいいおにいちゃんだった。しかし、チャングムが宮中に上がって三年目に、イルトは、はやり病で亡くなった。イルトが生きていたら、チョンホと同じぐらいの齢だ。トック夫婦にとっては、チョンホの逗留は、遠くへ行っていた息子が十数年ぶりに帰って来たようなものであった。
チョンホが部下達を送り出しに部屋の外に出ると、チャングムが来ていた。ここはチャングムの実家だから、来る、ではなくて、帰る、であろう。まるで自分はこの家の婿で、妻が帰って来たのを出迎えているようだな、と想像してちょっと笑った。
チャングムは、何か重要な話があるようだった。ふたりだけで話のできる東屋に行った。チャングムは、ハン最高尚宮から、チョンホにすべて打ち明けるように言われてきた、という。以下は、チャングムとハン最高尚宮とが、お互いの知っていることを照らし合わせてわかった話を述べたものである。
チャングムの母親パクミョンイは、かつて水刺間の内人だった。その頃は、ハンペギョン、のちのハン最高尚宮も、チェソングム、のちのチェ尚宮も、内人だった。パク内人は、チェ内人が、当時の王燕山君の祖母の料理に何か入れるのを目撃し、気味尚宮に報告した。しかしその夜、パク内人は、当時のチェ最高尚宮以下の女官たちにとらえられ、チェ内人によって、王宮の武官と情を通じたとして告発され、女官の掟に従って毒を飲まされた。そのとき、ハン内人が隠れて解毒剤を飲ませておいたので、パク内人は一命を取り留めた。その後、ソチョンスという男に助けられて、一緒に暮らすようになり、チャングムが生まれた。ソチョンスは、元は宮廷の武官だったが、燕山君の母の処刑に立ち会ったかどで追われる身だった。パクミョンイとソチョンスとは、白丁の村で身分を隠して暮らした。しかしある日、チャングムが、父はかつて武官だったと人前で言ったために、ソチョンスは役人に捕えられた。その家族も役人に捕えられるというので、パクミョンイとチャングムとは、逃亡した。ミョンイは、ハンペギョンに連絡をとった。ハンペギョンは尚宮になっていた。ハン尚宮がミョンイに会うと、役人にとらわれた夫のソチョンスに会いたいという。しかしハン尚宮が次にミョンイと会う約束をした日に会いに行くと、ミョンイはチェ一族の手の者にとらわれてしまった。チェソングムも尚宮になっていた。ハン尚宮はこのままではミョンイはチェ一族に殺されると思い、役人にソチョンスの家族がチェパンスルの屋敷にいると通報した。その方が、死刑にはならないですむからである。しかし、チェパンスルの屋敷から役所に護送される途中で、チェ一族の刺客に襲われて、パクミョンイは殺されてしまった。チャングムはひとりで放浪しているところをカンドック夫婦に拾われた。そして、宮中に上がり、偶然から、ハン尚宮のもとで見習いの女官になった。ハン尚宮とチャングムがお互いの素姓を知ったのは、つい最近である。しかし、チェ尚宮にも、チャングムの素姓は知られてしまった。チャングムの母ミョンイが書き遺した手紙を、チャングムは封を切らずに隠しておいたのだが、それが何者かに盗まれてしまい、またその前に、ミョンイの料理日誌も、チェ尚宮のもとで遣われているヨンノに盗まれていたからである。チェ尚宮が内人だったときに、先代の王燕山君の祖母の料理に何を入れたのか、まではわからない。しかし、ミョンイの手紙には書いてあるのかもしれない。それはチェ尚宮にとって致命的な内容であろう。そうと知ったチェ尚宮は、チャングムの命を狙うであろう。今、ハン最高尚宮は、チェ尚宮とクミョンとヨンノを太平館に異動させたので、取り敢えずの危険は去った。だが遠からず、チェ一族が仕掛けてくることが考えられる。ハン最高尚宮は、チャングムに、ミンジョンホに相談して助けてもらうようにと、言ったのである。
話を聞き終えたチョンホは、チャングムを宮廷に戻さずに自分の家に隠まうか、どこかへ連れて逃げたいと思った。しかし、チャングムは、母の敵をとりたいし、また、父の消息を知りたい、と言った。チョンホは、燕山君の母ユン妃の処刑に関連したかどで罪に問われた人々のなかには、連行される途中で逃亡した人もいる、そういう人も含めて、いまの中宗の御代になってからは名誉が回復されている、役所で調べれば何らかのソチョンスの消息の手懸かりがわかるだろう、と言った。また、チェ一族のことは、現在自分はちょうどオギョモ一派とチェ一族との結びつきを調べているので、調査が進めばミョンイのことも調べ出せるだろう、と言った。
チョンホは、チャングムが宮廷の女官になったのは、母パクミョンイの遺言によるものだと知った。しかし、そのチャングムが、ミョンイ自身と同じように、宮廷の武官から愛されるとは思いも寄らなかっただろう。チャングムの父親のソチョンスは、このことを知ったらなんと言うだろうか? もっとも、チャングムの両親が出合ったときには、ふたりとも既に宮中を出ていたのだが。
チョンホは、チャングムに、
「しかし、今まで、よく、くじけずに生きてこられましたね」
と言った。チャングムはうつむくのみであった。
「これからは、あなたの痛みを、わたしに分かち合わせてください」
チョンホは、今はそれ以上を口にすることができなかった。
ミンジョンホはカンドックとともに、家鴨料理で有名な温泉の村の人々に、その名物を食べて熱を出して寝込んだことのある人はいないかと、尋ねて回っていた。王が、この温泉の村に療養に来て、水刺間のハン最高尚宮がつくった家鴨料理を食べた。そのときは元気だったが、宮廷に帰ってから熱を出して倒れたのだ。王の侍医達は原因を特定することができず、ハン最高尚宮の料理のせいだときめつけた。ハン最高尚宮はこの村のことを以前から知っており、侍医達が王に温泉療養を勧めたとき、この村を推薦したのである。ハン最高尚宮はこの村の人々は昔から家鴨を食べているが誰もそれで病になったことはない、と弁明した。しかし、ハン最高尚宮は捕えられた。チャングムは医務官のチョンユンスに連れられて村に調査に来た。そこでチョンユンスは、家鴨が飲んでいる湧き水が、温泉地の硫黄分を含んでいることを知った。これは猛毒である、こんなものを飲んでいる家鴨を料理して王の御膳に出したのかと、とがめだてし、ハン最高尚宮に続いて、チャングムまで捕えられたのである。しかし、おかしなことであった。王の御膳に出された家鴨料理は、陪席した高官たちも食べたのだ。そのなかには大監オギョモもいた。そして、王以外の者は、誰も何も病の症状が出ていないのだ。たとえ王だけが特異な体質だったとしても、家鴨料理が原因だとまだ断言はできなかった。王は、温泉に行く前からかぜが長引いており、そのための療養であった。しかしかぜをひいている者がこの温泉地の家鴨料理を食べて症状が重くなった、という話も、ひとつもないのである。チョンホは、そのことを確認すると、一旦、漢陽(ハニャン)へ帰り、今度は、両班の着る平服に着替え、町の医者をつれてきた。医者は、硫黄分を含んだ水を飲んでいるという家鴨について詳しく調べた。そして、家鴨は自分のからだで解毒しており、そのためにここの家鴨はよその家鴨よりもかえって滋養がよく、食べた人は精力がつくようになっているのだ、と説明した。チョンホは、この医者の調査報告書と、カンドックと自分の調査報告書とをまとめて、副官に渡し、内禁衛の長官へ届けさせた。この副官は、以前、菜園の管理官ウンベク逮捕のときに、チョンホが内禁衛の兵士の訓練を「あとはおまえにまかせる」と託した部下であり、また、ウンベクの蜂の針の治療法について確認に行った時、先に兵士達を連れて帰らせるために「おまえにまかせる」と言いかけた部下でもあった。チョンホは、内禁衛でも司憲府でも、部下に対してさえ丁寧な話し方をする男だった。しかし、この副官にだけは、「おまえ」と呼びかけていた。チョンホが「あとはおまえにまかせる」というのは、この副官だけであった。
チョンホは部下達にオギョモ一派とチェ一族の内偵を今も続けさせていた。王が温泉に行っていたとき、念のために別の副官のキムヨンテクに命じて、ハン最高尚宮とチャングムを警護させていた。すると案の定、刺客に襲われたのである。キムヨンテクからその報告をきいたチョンホは、この家鴨料理事件も、オギョモ達に利用されるのではないかと警戒していた。そこで彼らの動向からも目を離さないように、部下達に命じたのである。
ハン最高尚宮とチャングムは、捕えられたといってもまだ、一室に監禁されているだけだった。内侍府の尚温とチョンホとはひそかに連絡を取り合っていた。チョンホが作成した温泉の村での調査報告書は尚温にも写しが届けられていた。尚温は宮中でのオギョモと、チェ尚宮、そして、女官長の動向を、逐一、チョンホに知らせていた。チェ尚宮とともに女官長もまた、以前から、ハン最高尚宮に敵対していたからである。
内禁衛の長官は、チョンホが提出した報告書類をもとに、まだ料理が原因とは断定できないとして、ハン最高尚宮とチャングムの取調べを保留することを主張していた。それゆえ、ふたりはまだ義禁府に送られていなかった。義禁府に送られると、牢に入れられ、官服を脱がされて罪人の白い着物になり、また取調べのときには拷問を受けるのである。
チョンホは、水刺間で高官立会いのもとに温泉地の硫黄家鴨を料理して、毒のないことを証明する機会を与えてほしいと、内禁衛の長官と内侍府の尚温に書き送った。ところがその機会が実現する前に、内禁衛の武官が一人、捕えられ、義禁府に送られた。温泉地でハン最高尚宮とチャングムを刺客から守った、キムヨンテクが捕えられたのである。キムヨンテクは、チョガンジョの弟子であった。チョガンジョはかつてのオギョモの政敵であり、「キミョサファの政変」で流刑になっていた。キムヨンテクは、チョガンジョとともに謀反を企てた、という理由で捕えられたのである。もちろんそんな事実はなく、ただのいいがかりであった。しかしキムヨンテクは義禁府に送られた。そして、キムヨンテクの共同共謀者として、ハン最高尚宮とチャングム、さらに、ふたりに硫黄家鴨を売った鳥屋まで捕えられて、全員、義禁府に送られた。
内禁衛の長官は義禁府の取り調べの前に、水刺間で硫黄家鴨の料理を再現して毒性を確認するべきだと主張した。内侍府の尚温もその意見を支持した。そこで、ハン最高尚宮とチャングムは牢から出され、水刺間で硫黄家鴨の料理をすることになった。
チョンホは、オギョモが、この機会に、キムヨンテク、ハン最高尚宮、チャングムを、チョガンジョに連なる謀反人として捕え、流刑になっているチョガンジョとともに葬ってしまうつもりなのだと知った。家鴨料理に毒性がないことがわかっても、まだ何か仕掛けてくるかもしれない。チョンホは、これまでに調べた、チェパンスルとオギョモ・パクブギョムとのつながり、贈収賄や宮中物資の横流し、人事権の濫用や利権漁りなどの事実の報告書を、オギョモとの取り引きに使わなければならなくなるかもしれないと考えた。部下達に苦労して集めさせた調査資料を取り引きに使うのは、王に仕える従事官としても、部下を束ねる官吏としても、良心の強い痛みを伴うものだった。しかし、無実の者達を救うためには已むを得ない。チョンホは、水刺間の家鴨料理の検分の結果次第では、長官にこのことを直接に頼みに行こうと考えた。
水刺間での家鴨料理の検分の翌日、チョンホのもとに、悪い知らせが届いた。料理を試食した奴婢の娘が熱を出して寝込んだというのである。キムヨンテク、ハン最高尚宮、チャングム、そして、鳥屋が、義禁府で取調べを受けることになった。チョンホは官服を整え、内禁衛の長官のもとへ出掛けた。長官に会って、オギョモ一派とチェ一族の調査資料を、取り引きに使ってほしいと訴えた。長官はチョンホの頼みを聞き入れた。そして、長官の屋敷にも調査書類があるので、一緒に来るようにと命じた。チョンホは長官の命に従った。ところが、長官の屋敷の敷地に入ると、長官は使用人たちに命じて、チョンホを捕えさせた。チョンホは驚いた。騒がずに縄目を受けたが、彼は内禁衛で密偵を取り調べたときのような厳かな声で尋ねた。
長官は答えた。
「キムヨンテクが、ハン最高尚宮とソ内人を警護していたのは、チョガンジョの命令ではなく、ミンジョンホの命令だと証言した。オギョモがわたしにミン従事官の引渡しを求めたので、ミン従事官は王様の御療養よりも前に全羅道(チョルラド)に派遣している、キムヨンテクに命令を下した事実はない、と言って断わったのだ。君は潜伏しているはずなのに、なぜ内禁衛に現れた。君の姿は既にオギョモの手の者に見られたと思って間違いはない。だがわたしは君をここに監禁して、あくまで全羅道(チョルラド)にいると押し通すつもりだ。安心しろ、オギョモには取り引きに応じさせる」
チョンホが蔵に入れられてから数時間後、長官の家の使用人が、鍵を開けて、水と食事を持って来た。チョンホはすわっていた。男が食事をチョンホの目の前に置いた。しかし彼はそのまま立ち上がれなくなってしまった。チョンホが男を倒したのである。縄は解けていた。服の袖に隠していたノリゲを取り出し、小刀で縄を一本ずつ切り、そのままいかにも縛られているような格好ですわっていたのである。チョンホは自分の官服を脱いで、使用人の服と着替えた。そして蔵を出て鍵を閉め、何事もなかったように長官の屋敷から出て行った。
チョンホはカンドックの家に行った。トックに、内禁衛にいる副官への手紙を渡すように頼んだ。副官はチョンホに会いに来た。彼の話では、義禁府に捕えられている人々は、激しい拷問に会っている、鳥屋が耐えられずに自白を始めた、といっても、自分がやりました、と言っただけで、あとは、役人の言うことをそのままなんでも、そのとおりです、と言うばかりである、鳥屋は拷問が中止され、牢に連れて行かれた。彼が自白したと聞いてオギョモが取り調べの場に現れ、全員を打ち首にする、と言った、するとハン最高尚宮が、自分がチョガンジョの命令でやったことであってチャングムは何も知りません、と述べた。ハン最高尚宮もまた拷問が中止され、牢に連れて行かれた、今はチャングムとキムヨンテクが拷問を受けている、と。
チョンホは副官の目の前で左手で書状を書き始めた。チョンホは、倭寇の密偵と闘ったとき、右手に扇を、左手に剣を持っていたように、両方の手が利き腕として使えるのであった。もともとは左利きだったのを、こどものときに右利きになるように躾けられたのだが、剣の師匠は、両腕が使えるほうがはるかに良いといって、仕込んでくれた。チョンホが文官でありながら武芸に優れ、三浦の乱で手柄を立てられたのも、その御蔭なのである。
チョンホは書き上げた書状を副官に見せた。普段のチョンホの筆跡とは異なっていた。チョガンジョからチョンホへの手紙であった。それは全羅道(チョルラド)に派遣されたと見せかけて、漢陽(ハニャン)に潜伏し、王を謀る奸臣オギョモの命を狙え、と命じたものであった。命じた日付けは硫黄家鴨事件よりも前になっており、その手段も事細かに指示し、家鴨料理などまったく関係なく、計画が練られていたことがわかる。自分はこれを持って義禁府に行く、あとのことはおまえにまかせる、と言った。副官はチョンホに、わたしがあなたを捕えたということにしたほうが、敵も信用するでしょう、と言った。チョンホは、その手にはのらぬ、と言って立ち上がった。
だがそこへ、カンドックが駆け込んできた。オギョモが、このたびの温泉での事件に関わったものは、チョガンジョを除いて全員奴婢の身分に落とし、済州島(チェジュド)へ流刑にする、チョガンジョは打ち首にする、と判決を下した、と。
漢陽(ハニャン)のはずれから、両班の平服を着たチョンホと、武官の官服を着た副官が、ともに馬に乗り、護送される流刑囚たちに着かず離れず、付いて行った。義禁府で取調べを受けた人々は、からだが弱っていた。取調べでは足を痛めるので、男も女も歩くのがつらそうであった。やがて人家はとだえた。なだらかな勾配の草地や丘や谷を登ったり下ったりが続いた。ハン最高尚宮は特につらそうだった。よろよろとして、ついに倒れこんでしまった。チャングムが、自分の縄をほどいてくれ、背負っていく、と言っていた。チョンホと副官とが、馬を牽いて近づいた。チョンホが護送の兵士達に話しかけると、彼等はすぐに従った。ハン最高尚宮のからだをチョンホの馬に乗せた。チョンホはチャングムに、あなたも彼の馬に乗った方がよい、と言って副官の方を示した。チャングムは、首を横に振った。チョンホは、ハン最高尚宮を乗せた馬を牽いていくことにした。チャングムはその前を歩いた。チョンホの副官は一番後から、馬に乗って付いて行った。
チョンホがチャングムに声をかけた。馬を止め、ハン最高尚宮をおろした。チャングムは、よろけながら駆け寄った。ハン最高尚宮は地面にすわり、チョンホに上半身を支えられて、チャングムの顔を見た。ハン最高尚宮は話した。
ハン最高尚宮は目を瞑り、息を引き取った。チョンホはそっとハン最高尚宮の全身を地面に横たえた。チャングムの縄を解いてやった。チャングムはハン最高尚宮のからだを抱いて泣き続けた。
他の流刑囚達を先に行かせた。残った護送役人のひとりとチョンホの副官とが道端に穴を掘った。チョンホとチャングムとでハン最高尚宮のからだをそのなかに横たえた。再び、役人と副官とで穴を埋めた。チョンホはチャングムを馬に乗せた。その馬を牽き、役人と副官とともに、先へ行った人々を追った。
済州島へ向かう船の出る港に着いた。囚人達が乗せられた後、チョンホは、副官に一通の書類を渡した。「あとのことは」と言いかけると、副官が、「お引き受けできません」と答えた。
済州島へ向かう船のなかで、鳥屋が息を引き取った。哀れであった。キムヨンテクも、今際の際が迫っていた。ミンジョンホはそのそばにいた。チョンホは言った。
チョンホは、チャングムも死ぬのではないかと心配でたまらなかった。チャングムのそばに行った。チャングムは目を瞑っていた。そっと、頬に触った。冷たかった。頸に触った。脈はあった。チャングムの手をとった。その手に、ノリゲを握らせた。チャングムは目を開けた。チョンホは、チャングムの目の前に、その手を持って行ってやった。チャングムはノリゲを見た。涙が浮かんだ。
船が済州島に着くと、ミンジョンホはチャングムと別れ、チョンホは乗船客のひとりとして、チャングムは奴婢として役人に護送されながら、船を降りた。チャングムは島の役人に引き渡された。パククマンという男で、人の良さそうな顔をしていた。チャングムはこれから先、済州島の役所の所有する奴婢として、この島で暮らすのだ。役所の許可がない限り、島の外に出ることはできない。
チョンホは、囚人が医者に診てもらえずに取り調べの拷問の後で苦しみながら死ぬのを、目の当たりにした。チャングムのことが心配であった。チャングムを診てくれる医者はいないか、さがすことにした。宿をとり、女将に、いい医者はいないか、ときいてみた。女将はすぐに医女のチャンドクの名を挙げた。チョンホは、チャンドクの診療所に行ってみた。患者が数人、診察を待っていた。チョンホも順番を待つことにした。奴婢の女が薬を調剤室から持って来て、診察室の棚に仕分けて入れていた。その女が調剤室に帰ろうとするところに、声をかけた。
「チャンドクさんは、往診もしてくださるときいて、来てみたんだが」
それからチョンホは辛抱強く順番を待っていた。そのあいだ、チャンドクのようすを観察したり、ときどき用事で調剤室から入ってくる奴婢の女と話をしたりした。だいぶようすが分かってきた。やっと、チョンホの順番が来た。
チョンホは、役所の奴婢達の住まいがある村に、チャンドクを連れて行った。チャングムは狭い一間きりの宿舎にいた。
しばらくして、チャンドクが出て来た。チョンホは、ようすをきいてみた。
チャングムの傷が癒えて、他の奴婢の女達と同じ部屋に移った。チャングムと女達は馬の世話をしに牧場へ遣られた。ミンジョンホは牧場でそのようすを見ていた。馬の群れが逃げ出した。役人達は皆、馬を追って行った。チャングムが逃げるのが見えた。チョンホはチャングムを追った。海岸の近くまで来たが、役人達も気づいて追ってきた。椿の林の中に逃げ込んだ。チャングムは何かに躓いてころんだ。今にも役人に見つけられそうであった。チョンホはチャングムを捕まえ、一際深い繁みの中へ連れ込んだ。役人達のようすを伺いながら、繁みから繁みへと移った。夜になった。やっと、役人達の声が聞こえなくなった。チョンホとチャングムは、海岸近くの、大きな岩と樹木に囲まれた、外からは見えない場所を見つけ、落ち着いた。
チョンホはチャングムに言った。
明け方、船頭が迎えに来た。チャングムは彼の後に付いて歩き出した。チョンホはすわって見ていた。チャングムの足取りは、重かった。船頭が振り返って、もう少し早くと、せかした。しかし、チャングムの足は相変わらずだった。かえって、段々、歩みが遅くなり、ついには、すわりこんでしまった。船頭ははるか先に行ってしまった。チャングムは、動かずに、すわりこんだままだった。船頭はついに諦めて、ひとりで舟に乗った。チョンホは、チャングムに近づいて行った。チャングムの隣にすわった。船頭は舟を漕いで、沖へ出て、それから向きを変え、島の港のある方へと消えていった。
チョンホは、チャングムを連れて、島の役所に自首した。二人は縄を掛けられた。島の判官が来て、二人を尋問した。チョンホはチャングムのために弁明した。
そのとき、判官に近づいて耳打ちする者があった。判官は振り向き、こちらへ、と言った。すぐに、ひとりの武官がやって来た。さっきから脇でようすを見ていたらしい。チョンホは彼が、済州島へ船が出るときに別れた副官であることに気づいた。彼は、判官に低い声で、ミンジョンホ殿は新しく赴任された水軍の指揮官です、と伝えた。判官は途端に態度を変え、チョンホの縄を解かせた。副官がチョンホに近づいた。
チョンホは、役所で手続きを済ませると、副官に、宿に来るようにと言った。しかし、彼は、すぐに漢陽(ハニャン)に帰らなければなりません、と言ったので、港まで送っていくことにした。
〜〜〜あとがき〜〜〜
(十五)(十六)で、キムヨンテクが、ミンジョンホの命令でハン尚宮とチャングムを護衛していたと、義禁府で証言してしまった、としています。
〜〜〜〜(十五)〜〜〜〜
「長官、これはどういうお考えでなさるのですか」
長官はチョンホを蔵に閉じ込めた。
チョンホは、副官に見せた手紙を破り捨てた。そして、トックに一礼をすると、副官とともにその家を出た。
「チャングム。皆はおまえを誤解している。おまえのいいところは、人より秀でていることではない。おまえのいいところは、何があってもひるまずに前に進むところよ。おまえは投げ出されても花を咲かせる花の種。わたしが逝っても、おまえは先へ進みなさい。わたしは、さきに、宮中に、もどって、いるわ。わびの、…ことばは…、……その…ときに…いうわ」
「中味は存じております。お引き受けできません」
チョンホは、言った。
「長官の家の蔵に、わたしの官服を残してきた。あのときに決めた」
副官は低い声で繰り返した。
「お引き受けできません」
チョンホは、しばらく副官の顔をじっと見た。それから、優しい、穏やかな声で言った。
「あなたはもう、わたしの副官ではないのです。わたしは既に内禁衛の職を退いたのですから。もうお帰りなさい。長官殿がお待ちでしょう」
そう言うと、背を向けて、船に乗った。
副官は、じっと立ったまま、涙が頬に伝っていくのに任せていた。船が出ようとするときに、チョンホが、彼に何かを投げてよこした。白い下着の一部を破り、小石を包んで放り投げたのであった。布切れにはただひとこと、「世話になった」とだけ、書いてあった。
〜〜〜〜(十六)〜〜〜〜
「済まなかった。わたしがあなたにハン最高尚宮とソ内人の警護を頼まなければ、こんなことにはならなかった。あなたはわたしの身代わりになったようなものだ」
ヨンテクは言った。
「ミン従事官の、御命令だと、証言して、しまいました。あのときは、チョガンジョの、謀反などと、でっちあげだ、というため、だったのですが、後から、今度は、従事官殿が、罪に問われると、気づきました」
チョンホは言った。
「わたしの罪なのだ」
ヨンテクは言った。
「いいえ、従事官殿は、一度も、間違えたことが、ありませんでした。今度も、間違えた、はずが、ありません」
チョンホは言った。
「もう、何もしてあげられない」
ヨンテクは言った。
「従事官殿、おわかれ、……です」
ヨンテクは、少し苦しそうな息をしたが、やがてその息も絶えた。
「おとうさん」
チャングムはノリゲを顔に押し当てて泣いた。
「おとうさん」
チョンホは、チャングムの父親のソチョンスがノリゲを買ってやったのだと思った。しかし、そうではなかった。ソチョンスがノリゲを作ってやったのだった。チャングムはそのことを、長い間泣いた後で、チョンホに話した。
「父は、わたしが野山で遊ぶのがすきなので、小刀を、字を習いたがるので、筆と墨壺を付けて、ノリゲを作ってくれました。父は、その小刀で自分を傷つけてはいけない、と言いました」
それから、チャングムは眠そうに目を瞑った。チョンホは、チャングムのからだを抱いてやった。役人たちは見て見ぬ振りをしていた。チャングムはチョンホの腕の中で眠った。
〜〜〜〜(十七)〜〜〜〜
奴婢の女は答えた。
「ええ、島の両班の家にも呼ばれます。旦那も、奥様か、おかあさまを診てもらいに来られたんですか」
チョンホは頷いた。
「母親ではないが」
奴婢の女はちょっと声を潜めて言った。
「チャンドクさんは、ちょっとお高いですよ」
チョンホは心得ているという顔をした。
「それは構わない。ただ、ちとむずかしいのだよ」
奴婢の女は自慢気に言った。
「チャンドクさんは島一番の名医ですからだいじょうぶですよ」
「往診してもらいたい女の患者がいるのです」
チャンドクは言った。
「じゃあちょうどここの患者も途切れたことだし、さっそく、出かけましょう」
「チャングムさん。医女を連れてきました。開けてくれますか」
チャングムは戸を開けた。窶れた顔をしていた。チョンホは痛々しい思いでその顔を見た。
「こちらは医女のチャンドクさんです。部屋に上げてください。わたしは外で待っています」
チャンドクは、部屋に入った。チョンホは戸を閉めて、軒下に立ったまま、待っていた。
「チャングムさんの傷は、長引かずに治るのでしょうか」
チャンドクは答えた。
「からだの傷はともかく、心に深い傷を負っていますね。あなたはそれを治してあげようとして、この島まで来られたんですか」
チョンホは言った。
「それもあります。しかし、それだけではない。漢陽(ハニャン)からここへ来るまでに、三人、亡くなりました。ひとりは、船に乗る前に、ふたりは、船の中で。皆、あのひとと同じ、無実の罪に陥れられたのです。生き残っているのはあのひと、チャングムさんひとりだけです。船に乗る前に亡くなったのは、チャングムさんを母親代わりに育てた人です。その人は道端に埋めてきました。その人の汚名を雪ぎ、名誉を挽回しなければ、チャングムさんの心は晴れないでしょう。わたしも同じです。船の中で亡くなったうちのひとりは、わたしの元の部下です。今は何としてもチャングムさんに生き延びてもらいたい。それが何よりも、悪事を働いた者達への復讐になります」
チャンドクは、深く頷いた。
〜〜〜〜(十八)〜〜〜〜
「ハン尚宮殿が、先に宮中に戻っている、とおっしゃったので、あなたが逃げるだろうとは思っていました」
チャングムは、黙って頷き、涙を流した。
「しかし、逃げればいずれ、捕まります。運良く逃げおおせても、あなたの御両親と同じように、一生、逃げ回ることになるでしょう」
チャングムは、
「それでも、わたしは諦めません」
と言った。
「いいでしょう。わたしは明け方にあなたを乗せてくれる船頭を雇っています。あなたがそれで逃げようと思うなら、わたしも一緒に行きましょう。でも、ここに残って、時を待ち、無実の汚名を晴らそうとするなら、わたしもここにいて、手伝いましょう。一年後、三年後、十年後でも、わたしはあなたのそばにいます」
チャングムは、小さく、息を呑んだ。そして、涙の溜った眼で、チョンホを見た。それから、チョンホの眼差しを避けるように顔を逸らして俯いた。
「この娘は慣れない馬の世話を任され、自分のしくじりで馬の群れを逃がしてしまったことがこわくなり、思わず逃げ出したのです。しかし、わたしの説得に応じて、このとおり自首して来ました」
判官は、チャングムに怒り、鞭で打ってから閉じ込める、と言った。チョンホは、
「自ら名乗り出たものにそれは重すぎる罰でしょう。しばらく閉じ込めるだけで充分です」
と言った。判官は、チョンホの声の調子が気に入らなかった。何者か知らないが、いやに重々しく、どちらが判官かわからないような落ち着きと威厳である。
「その方は何者だ。先程、ミンジョンホと名乗ったが、そもそも、なぜここにいる。流刑になった両班の一族の者か」
「遅れて申し訳ありませんでした。辞令をお持ちしました」
チョンホは辞令を開いて見た。内禁衛の長官の仕業であった。副官はさらに言った。
「お預かりしたものもこちらに」
副官の後ろに控えている兵士が、官服と笠と剣を持っていた。
チョンホは、
「御苦労」
と言った。それから判官に向かって言った。
「こちらの娘の縄は解かれないのでしょうか」
判官は困った顔をして答えた。
「この娘は罪人です。奴婢として引き取り手が現れませんと」
すると、チャンドクの声がした。
「わたしが引き取ります」
チャンドクはパククマンに呼ばれて来ていたのだった。チャングムは縄を解かれ、チャンドクに連れて行かれた。
「よく来てくれた。おまえはまったく都合の良いときに現れたものだ」
副官はおもしろそうに、声を出さずに笑った。それから表情を改めて言った。
「長官殿は、たいへん残念がっておいででした。職を辞してまで行くとは、とおっしゃってからしばらく考え込まれました。それから、水軍の指揮官に任命するといって辞令を書かれ、わたしに一刻も早く届けよ、と命じられたのです」
チョンホは、しんみりとした声で言った。
「船の中で、キムヨンテクが息を引き取った」
ふたりとも、しばらく黙って歩いた。船着場に来た。チョンホが言った。
「オギョモ一派とチェ一族の内偵は、これからも続けなければならない。漢陽(ハニャン)では、隠密の探索が必要だ」
副官が言いかけた。
「あとのことは」
「おまえにまかせる」
チョンホが後を取った。ふたりは顔を見合わせて、ニッと笑った。それから、ミンジョンホの副官は船に乗り込んでいった。
これは当時の私の記憶違いによるものです。ドラマの中では、ミンジョンホの命令であることを黙っていたために、激しい拷問にあって絶命したのです。
二次小説を作るための脚色ではなく、記憶違いによるものですが、こういうのが、この頃は、多々、ありました。