ミンナウリのカード

2007/09/28 by てるてる

ミンナウリのカード~(五)~

~(六)~

~(七)~

~(八)~


~~~~(五)~~~~

 しばらく姿を見なかったチャングムが、久し振りに本を借りに来ると、医学書のなまえを出したので、ミンジョンホは、その理由に思いを巡らした。ちょうど今、王子の手足が麻痺したことが問題になっており、王子が食べた「虫草鴨子湯(チュンジョチョナプタン)」を作った男の料理人カンドックが取調べを受けていた。水刺間では「虫草鴨子湯(チュンジョチョナプタン)」の何が原因だったのか、尚宮や内人たちが総がかりで調べていた。

 チョンホが内侍府の長官に会うと、カンドックのことを話してくれた。トックは内禁衛の兵士達の間でも人気のある男なので、チョンホも顔と名前は知っていたが、今までさして気にも留めなかった。トックは宮中に酒と食材を納めるほか、若い女官や兵士たちに、小間物や怪しげな本や薬を売りつけていた。お調子者で小ずるいが、根は悪人ではなく、お人好しで、料理の腕はいいし、いろいろと役に立って重宝する男だった。そのトックが、王子のからだに悪いものをわざわざ料理に入れるとは到底考えられなかった。トック自身が「わたしはちょろまかすことはあっても自腹を切ってまで余計なものを入れたりしません」と言った。まったく、ぬけぬけとよく言うものだが、トックは本気で無実の弁明をしたつもりなのである。

 取調べを受けるとなると、拷問が待っている。無実のものでも拷問の苦しさに負けて嘘の自白をすることがある。カンドックがもし嘘の自白でもしてしまえば、命はない。哀れ極まりないことだと、チョンホも思った。チャングムが熱心に何冊も医学書を借りに来るので、これは王子への忠誠心と、カンドックへの優しさの表われであろうと、感心した。そしてひそかに、トックには気の毒だが、それがチャングムの作った料理でなかったことに内心ほっとしていた。今回はチャングム自身が事件の渦中に巻き込まれたわけではないのだな、と思った。

だが、チョンホは甘かった。チャングムは、医学書を読んで、食べ物同士だけでなく、食べ物と薬との相性が悪いと病気の症状が出ることに気づき、自分で王子と同じ薬と「虫草鴨子湯(チュンジョチョナプタン)」の食べ合わせを試した。そして、確かに原因はそれだとわかったが、チャングム自身の下半身が麻痺してしまったのである。

 その話を内侍府の長官から聞いた時、チョンホは言葉を失った。もちろん、水刺間の最高尚宮も、チャングムを見習いの時から教育してきたハン尚宮も、なんと愚かなことをしたのかと叱り、心配した。王子の麻痺は治り、喜んだ王は、原因を突き止めた女官というのも治せるのかと、医務官にきいた。医務官は、もちろん治せますと答え、事実、医女の治療で、チャングムの足の麻痺も治った。

 何日か経って、チャングムが自分の足で歩いて本を返しに来た。チョンホはチャングムが立っていることを確かめるようにじっと見つめた。本を受け取ったとき、じわりと喜びが湧いた。チョンホは言った。

「王子様の麻痺の原因を突き止められて、ほんとうにお手柄でしたね。驚きました」 チャングムは恥ずかしそうに俯いた。チョンホは、 「今度は、何をお貸ししましょうか」 ときいた。チャングムはまた医学書の名を挙げた。チョンホは、承知して医学書を取りに行った。貸すときに、 「今度は自分でためさないでくださいよ」 と冗談を言った。チャングムは、 「はい」 と言ってうなずいた。

宮廷では、ことしの味噌の味が例年と変わっているというので、大騒ぎになった。味噌は食の基本で、宮廷はもちろん、富める者も貧しき者も、毎年、新しい味噌をつける祭りを執り行う。味噌の味が変わった原因を突き止めるようにという命令が、水刺間に下された。

 チョンホが夜間の警護に当たっていると、味噌甕の置き場で怪しい動きをしている男を見つけた。取り押さえてみると、それはあの「虫草鴨子湯(チュンジョチョナプタン)」を作って王子の麻痺の下手人の疑いを掛けられたカンドックだった。カンドックは、味噌の味を良くするために、女の白い喪服を味噌甕に巻き付けていたのだ、という。いかがわしいまじないだと思ったチョンホは、トックに、おまえを取調べる、と言った。すると、トックは、 「お許しください。私はソ内人の御蔭で命を救われました。このたびはソ内人とハン尚宮様が味噌の味が変わった原因を突き止めよと命じられております。私はソ内人をなんとか助けたくて、したことでございます」 と答えた。

水刺間の内人や尚宮のなまえが出たので、チョンホはカンドックを内侍府の尚醞の許へ連れて行った。トックは尚醞の姿を見ると、 「尚醞様。お許しください。すべて、娘のチャングムのためにしたことでございます」 と言った。

チョンホはカンドックの「娘のチャングム」という言葉に驚いた。この男が父親だというのか?

 尚醞は、また何をしたのだ、とカンドックを叱ったが、だいたいの話を聞くと、チョンホをそばへ呼び寄せた。そして低い声で、トックは変わった男だが、根は悪くないので、少し懲らしめてから解放してやってほしい、と言った。チョンホは、承知しました、と答えた。

チョンホは、カンドックを外に連れ出した。そして、 「さっきは申し訳ありませんでした。あなたがチャングムさんのお父上とは存じませんでしたから。失礼をお許しください」 と言った。トックは、 「旦那はチャングムを御存知で?」 と言った。チョンホは、 「ええ、何度かお会いしてお話ししたことがあります」 と言った。トックは、一度じゃなくて何度も? と呟いた。チョンホは、 「ほんとうにあなたがチャングムさんのお父上なのですか」 と尋ねた。トックは、 「ほんとうですとも。わたしとそっくりでしょう」 と答えた。チョンホは、 「似ていないからお尋ねしているのです」 と言った。トックは、 「性格はわたしに、顔は女房に似たんですよ」 と言った。

 確かに、チャングムがあんなに熱心に王子の麻痺の原因を突き止めようとしたのは、父親のためであったのかもしれない。そういうことならわかると、チョンホは思った。

しかし実のところ、チャングムはカンドックの養女で、血の繋がりはないのだった。そのことをチョンホは後になってカンドック自身の口から聞いた。

チャングムはその後も頻繁に医学書を借りに来た。図書の借り出し人の名義はチョンホになっているので、内禁衛の長官が目に留め、チョンホに訳を尋ねた。チョンホは、兵士達の中に腰の痛みを訴える者がいるので、と答えた。長官は、経書ではなく雑書ばかり読んでいることをお父上も心配されているぞ、と注意した。

 その腰の痛みを訴えていた兵士が、怪我をしたところを蜂に刺されて、かえって怪我が全快したばかりか、腰の痛みまで治った、という噂が広まった。


~~~~(六)~~~~

内禁衛で訓練している兵士達が、揃いも揃って蜂の巣を探し回って見事逆襲され、情けなくも痛々しい姿を晒しているのを見て、ミンジョンホは、そもそも蜂についていいかげんなことを吹き込んだ菜園のチョンウンベク管理官に抗議せねばならぬと考えた。チョンホは、蜂に刺された兵士達の面々を率いて、菜園に出かけた。

門を入ってすぐにウンベクの姿を目にしたチョンホは、 「チョン管理官殿、内禁衛のミンジョンホです。おうかがいしたいことがある」 と、いつものように静かな、しかし厳かな声で話しかけた。

そして、はっと息を呑んだ。チャングムがいたのである。チャングムはチョンホの声の響きに驚き、一体どうしたことかと心配そうにウンベクの方を見た。チョンホは、書庫の管理人にあててチャングムに本を貸すようにという手紙を書いたのがウンベクだったことを今の今、思い出した。チョンホは息を整えた。チャングムに不安を与えぬよう、穏やかに、兵士達が蜂に刺されれば傷が治るとか腰痛が治るなどの効能を信じて蜂の巣を探し回り、あげくに蜂に刺されて困っている、兵士達はチョン管理官殿に教えられたと言っているのですが、と話した。

ウンベクは、確かに今、蜂の針で治療する研究を進めているが、まだ効果や方法がはっきりせず、研究途上である、しかし噂だけが先走りして広まったようである、と説明した。よく話し合ってみると、ウンベクに流言蜚語を広めた責任を問うことはできず、兵士達が早とちりをしていたことがわかった。ウンベクは兵士達の手当てをしようと言った。チョンホは丁寧に詫びと礼を言った。チャングムもほっとしたようすである。

兵士達の手当てが終わり、菜園から引き揚げかけて、チョンホは、チャングムが、自分を蜂の針の治療の実験台に使ってほしいと言っているのを耳にした。思わず、振り返った。

チャングムは、先日の王子の麻痺の原因を突き止めた件で、食べ物と薬の相性が悪いせいではないかという仮説を自分で試してみて、下半身が麻痺しただけでなく、味覚も失っていたのだった。足の麻痺は治ったが、味覚はまだ戻っていなかった。ハン尚宮がチャングムをいろいろな医者のところに連れて行ったが、いつ味覚が戻るのかはわからないと、どの医者も言ったそうだ。水刺間の女官としては致命的である。

 チョンホは、カンドックの料理が王子の麻痺の原因との疑いをかけられたとき、密かにそれがチャングムの料理でなくてよかったと思ったのだが、結局はこういうことになるのか、という感慨にとらわれた。どうしても自分が渦中で苦しまずにはおれないのか。何も望んでそうしているわけではないと、チャングムは答えるであろうが。

 チョンホは、後のことはおまえにまかせると言おうと思って副官の方を見ると、既に兵士達を連れてかなり訓練場の方に戻っていた。この前のウンベクが捕えられた日に菜園に行こうとして兵士達の監督を任せて以来、副官は気が利くようである。

 チャングムは、ウンベクからまだ蜂の針の治療法は人に施す段階ではない、と説得されて、諦めかけていた。チョンホはチャングムに、これから書庫に行くので、医学書をお貸ししましょう、と言った。チャングムは、チョンホに付いて一緒に帰ることにした。

ふたりはゆっくりと歩いた。チョンホは、中国の古い音楽家の話をした。 「ある笛の名人が、耳が聞こえなくなったのです。彼は治療法を求めて、中国全土を巡り、良い医者を捜しました」

 チャングムはきいた。 「その人は、治ったのですか」 チョンホは答えた。 「いいえ、治りませんでした。その笛の名人は、自分が中国一の名医になりました」

 チョンホは空を見上げるようにして、言った。 「むずかしいですね。いい時には何を言ってもありがたく受け取られるが、本当につらいときには何と言ってあげればいいのか、言葉が見つかりません。大丈夫と言っても口からでまかせのようだし、お気の毒と言っても人の心をもてあそぶようです」

 チャングムは、少しうれしそうに微笑んだ。そして、 「今の言葉に慰められました」 と言った。

 チョンホは、袖の中にノリゲを隠していることを思い出して、今、チャングムに返そうかと思った。いつも、今度本を貸すときに返そうと思うのに、なぜかそのときになると忘れてしまうのだ。しかし、もう書庫の近くまで来ていた。チョンホは、医学書を取りに行った。書庫を出る前に、一篇の詩を認め、一番上の書物に挟んだ。

チャングムは、医学書を受け取ると、 「ありがとうございました」 と礼を言うと、おじぎをして、水刺間の方へ帰って行った。その後ろ姿を、チョンホはずっと見送っていた。やはり、ノリゲを返すことはできなかった。チョンホは、自分がほんとうはそれをずっと持っていたいのだということに、気づき始めていた。


~~~~(七)~~~~

 ミンジョンホが夜間の当直のために執務室にいると、兵士が入って来た。 「水刺間の女官が従事官殿に会いに参っております」

 チョンホは、チャングムが来たのだと思ってすぐに出て行った。チャングムの姿を認めると、 「ちょうどよかった。いい医者がいると聞いたので、御紹介しようと思っていたところです」 と話しかけた。チャングムは、うれしそうに、 「チョンホさま。味覚が戻ったのです」 と言った。チョンホは、 「それはよかった」 と言って、やはりうれしそうな顔になった。チャングムが、手に持っている包みを差し出した。

「チョンホさまの詩が、とてもうれしかったです。これは、チョンホさまに慰めていただいたお礼です。わたしはいつも、召し上がる方が笑顔になるようにと願いながら、料理を作っています。わたしの感謝の気持ちがこの料理で伝われば、うれしいです」

 チョンホはあまりに喜びが大きかったので、すぐには言葉が出なかった。声がかすれないかと一瞬心配したが、ありがとう、と暖かい響きで言いながら包みを受け取った。チャングムは包みを手渡すと、愛らしい笑顔を残して、くるりと身を翻して帰っていった。チョンホは執務室に戻り、包みを開けた。見た目も美しくかわいらしい三色団子の料理だった。チャングムにそっくりだと思った。一つ食べてみた。チャングムが言ったように、自然と笑顔になった。チョンホは、ゆっくりと味わって食べていった。

また別の兵士が入って来た。 「水刺間の女官が来ております」

 チョンホは、今度もすぐに出て行った。さっそく、こんなおいしい夜食は初めてだと礼を言おう、と思った。しかし、そこにいたのは、チャングムではなく、クミョンだった。チョンホは意外に思った。王の狩猟のときに会って以来である。クミョンは、 「チョンホさまが、こどものころにお気に入りだった硯をお渡ししたいと思って、お持ちしました。おじの家で、いつも眺めていらしたものです」 と言った。チョンホは礼を言った。

「やあこれはありがとう。自分でも呆れるのですが、どういうわけか硯には目がないのですよ」 チョンホは、硯を受け取ったが、クミョンが少し顔色が悪いように見えた。 「何か元気がありませんね。どうかなさいましたか」

チョンホがきくと、クミョンは、 「いいえ。でも、このごろ、料理を作ることに、自信を失っているのです」 チョンホは同情し、慰めてあげようと思った。

「ある人が言っていましたが、料理は、食べる人が笑顔になるようにと願いながら作るのだと。すばらしい仕事です。あなたもどうか自信を持ってください」 クミョンは、ぱっと笑顔になった。そして、うれしそうに、 「ありがとうございました」 と言って、元気な足取りで帰って行った。


~~~~(八)~~~~

 ミンジョンホは、今の皇后をお育てした尚宮が病に罹り、寺で静養されるので、万遺漏のないよう手筈を整えて医務官と料理人を連れて行くようにと命令を受けた。その命令は表向きで、もう一つ、最近、成均館所有の畑の高麗人参の収穫量が落ちているので、原因を調べてくるように、という裏の命令もあった。

 チョンホは、内医院の医務官で王の侍医に継ぐ地位にあるチョンユンスと、料理人のカンドックを選んだ。宮廷の外へ出るので、チョンホは、武官の服ではなく、平服で出かけた。尚宮のいる寺へ行く途中、成均館の近くの村の居酒屋に寄った。チョンホはチョンユンスとカンドックの二人にしばらく待ってくれるように頼んで、自分ひとり、居酒屋の奥の部屋に入った。そこで部下と連絡をとるのである。四人の内禁衛の者がいた。彼らも武官の服ではなく、常民の格好をしていた。チョンホは、高麗人参の収穫がほんとうに落ちているのかどうか、原因は何か調べるように、指示を出した。

 チョンホが居酒屋を出て来ると、そこにカンドックが女とともにいた。 「旦那。いつもうちのひとがお世話になってます」 トックのおかみさんだった。よくしゃべる。トックは、チャングムのことを養女だと教える前に、性格は自分に似て顔は妻に似たんだなどと言っていたが、やはり、全然、似ていない。それでもチャングムが世話になっているおばさんだからチョンホは微笑んで話を聞いていたのだが、内禁衛に酒を納めさせてほしい、と言ったので、それには返事をしないで、トックとチョン医務官に、出かけると告げた。

 寺に着くと、実直そうな寺男がいた。カンドックのいい相手になりそうだった。医務官のチョンユンスは、いずれは自分が王の侍医になるつもりでもあり、身分も高いので、トックに対して冷たかった。

病身の尚宮は、年老いて、死期が近づきつつあり、死ぬ前に、幼い頃に兄が食べさしてくれた米を食べたい、と言っていた。そのころ、きょうだいは貧しく、食べものもろくになかったが、兄は、「もちもちして香ばしい米」を自分に食べさしてくれた後、亡くなったのである。

 カンドックはいろいろと工夫してみたが、尚宮はいつも、この米とは違う、と悲しそうに首を振った。

チョンホは、病気の尚宮のために、寺でひとり、祈りを捧げた。

 紅葉の美しい季節であった。

 チョンホが部下と連絡をとりにいって、寺に帰ってくる途中、池の端にすわっている女官を見た。もしや、という期待と、まさか、という思いとを抱きながら、近づいてみると、チャングムであった。チョンホは、美しい落葉の中で池を見ながらすわっているチャングムを見つけたことがうれしく、声をかけようと思った。しかし、チャングムのようすが、少しも楽しそうでないことに気づいた。しばらく池を見つめていたかと思うと、揃えて立てた両膝の上に顔を伏せ、両腕で覆ってしまった。チョンホは、声をかけることが憚られて、そっとその場を離れた。

 寺へ帰ると、カンドックが出て来て、旦那、お酒は買ってきてくれましたか、ときいた。チョンホは、申し訳ない、すっかり忘れていた、と答えた。それから、チャングムのことを尋ねた。トックは、チャングムはハン尚宮様の御命令で、病気の尚宮様のお世話をするように言いつかって来たんですが、なんだか全然元気がなくて、何もする気がしないようです、と答えた。チャングムは、味覚を失ったときでも、医学書を読んだり、ウンベクに相談したりして、あれこれと解決の努力を惜しまなかった。料理試験の前に菜園に遣られたときも、キバナオウギの栽培に取り組み、成功しただけでなく、飲んだくれで医務官くずれの管理官ウンベクに、やる気を取り戻させ、それが結果的に、新しい蜂の針を使った治療法の研究を始めることにつながったのである。そしてその新しい研究に、今度はチャングム自身が救われたのであった。それが今は、何もしたくないのか、何もできないのか、ただただ塞ぎ込んでいる。料理さえもトックに任せっ切りであった。こんなチャングムは今までになかった、という点で、チョンホとトックの意見は一致した。

チョンホはしばらく、チャングムに姿を見せないようにした。

翌日の午後は、気持ちよく晴れていた。チョンホは、海岸で岩に腰掛けて海を眺めていた。笠の下で、波に反射する光を見ていた。やがて、かすかな笑い声が聞こえてきた。声のする方を見た。娘が、片方の手に靴を持ち、両手で服の裾を膝までたくしあげて、波打ち際まで駆け寄り、一気に海の中まで入っていった。飛んだり撥ねたり、くるりと回ったりした。その後から親爺が、これも海に入り、両手を広げて追いかけたり、娘のまわりをまわったりした。親爺は娘を追いかけるような仕草をして、娘もふざけて、逃げるように走ったりまた立ち止まってその場で飛び跳ねたり、くるりと回ったりしながら、だんだんと、チョンホのいる方へ近づいてきた。チョンホは立ち上がり、ゆっくりと、磯の方へと歩いていった。チャングムがこちらに気づかずに、カンドックの方を見て笑っている姿を眺めていた。トックは、蟹を見つけたとか取って見せるとか言って、それ以上近づかない。チャングムはますますこちらに近づいてきた。そして、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらからだを回していき、こちらに振り向いた途端、すぐ目の前の小さな岩の上にチョンホが立っているのを見た。チャングムは驚いて、靴を落とした。チョンホはチャングムがこけないように、手を伸ばした。チャングムがからだを折り曲げて靴を拾おうとしたとき、一瞬早くチョンホの方が靴を拾った。チャングムがその靴を返してもらおうとすると、チョンホは靴を持って逃げた。チャングムは、チョンホを追いかけた。チョンホは、チャングムの手の届きそうなところに立ち止まっては、ひらりと逃げた。チャングムは笑った。チャングムが手を伸ばすと、チョンホはさっと靴を持った手を変えて、渡さないようにした。いつまでも、ふたりの追いかけっこは続いた。

とうとう、チャングムは、疲れて、チョンホが初めにすわっていた岩に腰掛けた。 「チョンホさま。どうすれば靴を返していただけますか?」 と、きらきらと光る瞳を見せて、少し困ったような、そのくせ楽しそうな顔で問いかけた。チョンホは、 「あなたが足袋をはいたら返してあげましょう」 と言った。チャングムは、服の袖から足袋を出してはいた。 「さあ、チョンホさま、靴を返してください」 するとチョンホは、黙ってひざまずき、チャングムの足に靴をはかせてやった。

夜になった。チョンホは、チャングムが蟹を焼いている側に行って、横倒しになった丸木に腰を掛けた。チョンホが、 「トックさんは?」 ときいた。チャングムは、 「お酒を飲みすぎて気分が悪いと言って寝てしまいました」 と答えた。チャングムは続けて、 「おじさんは、うちでお酒を飲むとおばさんに怒られるので、外ではめをはずして、つい飲みすぎてしまうんです」 と言った。ふたりで、ちょっと笑った。

静かであった。ふたりともしばし黙って火を眺めた。やがて、チャングムが言った。 「わたしの父は、むかし、武官だったんです。そのことを隠して、わたしと、母と、三人で暮らしていました」

チョンホは、チャングムの顔をみつめた。チャングムは続けた。 「ある日、わたしが、言ってはいけないと言われていたことを、人にしゃべってしまったために、父は囚われました」 チャングムは、涙を浮かべた。チョンホは、痛ましさを感じ、黙って頷いた。

チャングムが続けた。 「そのために、母も、また」 チャングムは涙が流れ、声がつかえた。チョンホは、痛ましそうに見つめ続けた。チャングムはそれ以上は何も言わず、涙を流していた。

翌日、チョンホが出かけようとすると、ちょうどチャングムが医務官のチョンユンスから薬を買ってくるようにと言われていた。チョンホはチャングムと一緒に行くことにした。途中で、チャングムは薬屋に、チョンホは、配下の者が待つ居酒屋へと、分かれた。帰りにまた同じ場所で落ち合うことにした。

 チョンホが部下達に会って報告を聞くと、高麗人参の収穫量は実際には落ちておらず、豊作だが、収穫された人参はチェパンスル商会に横流しされていることがわかった。チョンホは、自分達の仕事は今回はここまでだと言って、部下達をねぎらって帰らせた。

チョンホは薬を買って来たチャングムと落ち合い、寺へ一緒に帰り始めた。しかし、数人の男達に後を付けられていた。チョンホはそのことに気づいていた。村里から離れ、道が二つに分かれているところが見えてきた。一方が寺へ帰る道である。チョンホはチャングムに、低い声で話しかけた。

「チャングムさん。このまま振り返らず、何も知らない振りをして聞いてください。わたしはあの分かれ道のところでかがんで靴を直しますから、あなたはそのまま寺への道を歩いていってください。六歩まで歩いたら、何があっても全力で寺まで走り出すんです。いいですね」

 チャングムはそのとおりにした。チャングムが走り出したのと、チョンホが立ち上がって振り返り、襲ってくる男達の相手を始めたのとは同時だった。男は八人いた。チョンホは剣を持っていなかったが、跳躍し、舞うような動きをしたかと思うと、二人の男を同時に倒していた。更に二人倒したところで、チョンホは寺への道を走り始めた。道は細かった。チョンホは振り返り、また二人倒した。その二人が邪魔になって、後の二人が手間取っているあいだに、また逃げた。

チョンホはチャングムに追いついた。その手を引いて更に寺へ向かって走った。やっと、寺男が海草を干しているところにまで帰って来た。チョンホは、追手を撒きたい、匿ってくれ、と言った。寺男は蔵のような部屋に二人を入れてくれた。そこにはいろいろな海産物があった。チャングムは、それらに興味を示した。やはり、きのう、海へ行ってから、ようすが変わってきたな、とチョンホは思った。かなり経ってから、寺男が戸を開けて、もう大丈夫だと言った。外はすっかり暗くなっていた。寺男は御飯を用意しましょう、と言った。そして、海産物を中心にした料理を運んできた。宮廷の料理とは比べ物になりませんが、と言った。しかし、チョンホが箸をつけてみると、意外においしかった。チョンホはチャングムにも食事を一緒にとることを勧めた。チャングムも箸をつけてみた。チャングムの顔色がたちまち明るくなった。料理への興味が戻ってきたのだった。

翌日から、チャングムは、筆と料理日誌を片手に、寺男を質問責めにし始めた。チョンホはそのようすを見て、元に戻ったな、と思って嬉しかった。病気の尚宮が食べたいといっている米は、「オルゲサル」というものではないかと、寺男が言った。実りきる前の稲をついて乾かしたもので、乾ききるのに四日かかると言っていた。

 病気の尚宮はいよいよ弱ってきた。医務官チョンユンスが治療に当っているところに、チョンホとカンドックも同席した。チャングムは、尚宮に米を持って来た。尚宮はその米を食べてみて、よく似ているけど違う、でもありがとう、と言った。チャングムはがっかりした。

 尚宮の部屋を辞してから、チャングムに聞いてみると、「オルゲサル」というのは乾燥に四日かかるというが、尚宮様の死期が迫っているので、早く食べさせてあげたいと思って火で乾燥させたのだが、味が似て非なるものになってしまった、ということであった。

 翌日、寺男が、天日で四日かけて乾燥させた「オルゲサル」を持って来た。それを皆が見守る前で尚宮に差し上げた。尚宮は、「この味です」といって涙を浮かべて喜んだ。チョンホも、チャングムも、カンドックも、ほっとした。やっと、満足のいくものを食べさせてあげることができた。

 尚宮の部屋から下がってから、チャングムは、チョンホに言った。 「わたしは、一番たいせつな真心を忘れていました。おいしいものを食べていただくには、何も秘訣なんかない。お寺のおじさんがやっているように、毎日、日が照れば海草を干し、曇れば海草をしまう。オルゲサルも同じです。手間を惜しまず、真心を込めて、同じことを毎日繰り返して、時が満ちるのを待つんです。貧しい家の母親は、家族に栄養のあるおいしいものを食べさせようと心を砕きます。お寺のおじさんの料理には、それがありました。わたしは、宮廷での料理の競い合いに勝つことばかりにこだわって、料理の秘訣を知ろうと焦り、知識や技術に頼って傲慢になっていました。だからハン尚宮様が怒って、お寺に行くようにとおっしゃったんです。わたしの、思い上がりの心を直すために」

チョンホは、チャングムが寺へ来た当初、元気がなかったのは、ハン尚宮に叱られたからだったのだと理解した。そんなチャングムが、何がいけなかったのかを悟り、再び、元気を取り戻して、料理の心を学ぼうとする姿を、まぶしく思った。 「だいじょうぶですよ。チャングムさんは、今回はうぬぼれたかもしれませんが、料理を作るときには、食べる人が笑顔になるように心をこめる人です。人間の心を忘れる人ではありません」

~~~~~~~~

その翌日もまた、チャングムは、筆と料理日誌を片手に、寺男を質問責めにしていたが、それは、きのうまでとは違った質問だった。きのうまでは秘訣を教えてくださいと頼んでいた。今は、いろいろな山菜や海草の干し方を教わろうとしていた。

 チョンホは、チャングムが、相変わらず大きな筆で小さな料理日誌に書き留めているので、日誌の大きさに合う小さな筆を買ってあげたい、と思った。ほんとうは、ノリゲを返すのが一番いいのだろう。だが、そのノリゲは、自分が持っておきたいのだった。小さな良心の呵責を覚えながら、市場へ行き、細い筆を探した。チャングムに似合いそうな筆を選ぶのは楽しかった。やっと似合いそうな筆を見つけ、寺に戻った。チャングムは寺男に話しかけながらせっせと書きとめていた。チョンホは、少し間が空くのを待って、話しかけた。

「チャングムさん。この細い筆を使って御覧なさい。わたしの筆ですが、何本も持っていますから、これはあなたにあげましょう」

そういって、買ってきた筆を差し出すと、チャングムは、喜んで受け取り、すぐに寺男の方に向き直って、また聞き取りと書きとめを始めた。チョンホは、そんなチャングムをうれしい思いで、眺めていた。寺に来たばかりの頃と違って、今は生き生きとしている。普段のチャングムに戻っている。チャングムを見ていることが、無性に楽しかった。

尚宮は、やがて、最期の日が来た。その死は安らかであった。手には、あの世で兄に会うためにと「オルゲサル」が握られていた。チョンホは、女官というものの寂しい最期に胸が迫った。カンドックも、チャングムも、寂しそうだった。寺で、葬式をした。奴婢の女達や男達も参列した。チョンホは寺のお堂で作法に従ってひれ伏して祈りを捧げた。

葬式が終わると、医務官のチョンユンスは先に帰った。

チョンホとカンドックとチャングムは、少し遅れて、三人で、名残が惜しいとか、もっと一緒にいたかったとか、言いながら、寺を後にした。


ミンナウリのカード~目次~