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<ジャンボ、ハバリ!−その2−の2> |
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ここでウガンダの独立時から現在までの事を少し説明します。内陸国のウガンダは14世紀頃までに多くの王国が建設され、中でも最大部族ブガンダの王国は独立後も存続しました。ベルリン条約により英国が1894年ウガンダを保護領としましたが、東アフリカの他の2国ケニア、タンザニアと違って英国はブガンダ王朝に大きな自治権を認め間接統治をしたため、自主独立の傾向が強く残りました。国土も肥沃で平坦な土地が多く、湖にも恵まれ、英国宰相チャーチルをして 「アフリカの真珠」 と言わせしめた所です。しかし王国の伝統の中でブガンダ族以外の部族への差別などもあり、他の国同様部族問題が深刻化していたようです。
1962年、ブガンダのカバカ(王)、ムテサ2世を大統領、有力なランゴ族のオボテを首相としてウガンダは独立。しかしオボテは66年に軍司令官アミンに命じて王宮を急襲せて、ムテサを追放し、ムテサはロンドンに亡命し、ここにブガンダ王朝は終焉。67年の憲法改正で大統領権限の大幅強権化、外国人財産の国有化を断行。69年軍の基金の費消事件でアミンへの非難が強まったため、71年オボテのシンガポール出張中にアミンがクーデターを起こし、オボテはタンザニアに亡命。アミン大統領は30万人といわれる人々を拷問虐殺、インド人を中心にアジア人らの追放など恐怖政治を敷く。国は困窮し、野生動物は象牙や肉のために兵隊に殆ど射殺され、観光資源も喪失。内外からの非難に対して追い詰められたアミンは78年10月タンザニアに対して開戦し、攻め込む。しかしニエレレ大統領に率いられたタンザニア軍は数ヵ月後ウガンダに反撃し首都カンパラは陥落しアミンはリビアに亡命。79年4月に戦争は終結し、給料が支払われないタンザニア軍兵士は略奪や動物射殺を繰り返す。ルレ、ビナイサ、が大統領になるも次々失脚、亡命し、オボテが復権。ところがオボテも失政が続き、配下の軍の長老オケロがこれを打倒。しかしオケロの政権も腐敗が続き、一時国防大臣も務めたムセベニが西部で主に10代の孤児を中心に、圧制者のためではなく国民のために奉仕するという教育を受けたNational Resistance Army(NRA)を結成。NRAは27人のメンバーからやがて2万人のゲリラ軍に成長し、政府軍を撃破。オケロの和睦案を拒否して、86年1月NRAはカンパラを制圧。オケロらはスーダンに亡命。北西の国境を越えて亡命していた30万人が逆に帰還。現在ムセベニ現大統領による治世はかなり安定し、経済も復興、農業生産も再開、外国からの投資も増加しつつあり・・。 僕はこのウガンダの決して安定してはいない独立の頃からの血みどろの40年の歴史を見て、色々考えさせられる事があります。「食人大統領」 といわれたアミンは日本でも知られた独裁者でしたが、かといって他の政権が 「善い者」というわけでもありません。個人的には中国の辛亥革命の歴史とよく似ているような気がしますし、NRAは明治維新期の長州の奇兵隊とよく似ている気もします・・。ただNRAを軽々しく英雄視するのも問題で、91年のウガンダからルワンダに攻め込んだ軍隊がNRAの武器を携行していたという噂もありますし、世界中から非難を浴びた94年のウガンダ亡命中のツチ族によるルワンダへの侵攻、内乱とも無関係とは言い切れません・・。まだ北西部ではオケロの勢力との小競り合いも続いており、かつてゾウの王国とまで言われたマチソンフォールスは動物もいませんし、更に北の国境付近は大変危険な場所となっており、観光にも行けません。パパが最初にウガンダに来た30年前は、マチソンフォールスは素晴らしい野生動物の宝庫だったそうで、そこを観たパパが今回僕とママを連れて行けないのことを大変残念がっていました・・。 さて、話を今回の旅行に戻します。旅行社から出た僕達は、閉館の時刻を気にしてまず王宮に行きました。オボテやアミンの政権下では王宮の話をするのすらタブーだったそうで、パパが30年前に来た時、王宮を見たい、といったら誰もがそんなものはないし、知らない、と答えたそうです。政治は史跡や観光にも影響するものなのですね〜・・。
63年にでき最近近代的な立派な邸宅に作り変えられたという白亜の王宮は、ブガンダ王朝最後の王ムテサの子孫が今でも住んでおり、日本の天皇制同様主権はないもののカバカ(王)として、現在でもここに住んでいるそうです。小高い丘の上に聳える王宮の入口の門にはライオンの彫像が構えており、いかにも王宮という感じがします。K.Tが門番と交渉し、守衛所でサインして全員で5ドル払えば、庭園に入って写真をとってもよい、という許可を得ましたのでそうしました。ヨ−ロッパ建築の建物は素敵でしかも丘からの眺めも最高です。中段左上の写真はこの王宮の丘から観たカンパラの風景です。また、建物の周りは更に塀で囲まれていましたが、その中にも入ってよい、ということでしたので、王様が暮らしている建物のすぐ脇まで入って、その建物を背景に家族3人で写真を撮りました。上段左上の写真はその時のものです。近くには王立の小学校もあり、色々な人が王宮の敷地内にはいて、一緒に写真を撮ったり連絡先を教えあったりしました。ただし連絡先を教えるのは勿論注意が必要な場合が多いですので皆さんご用心〜!
王宮から見える別の丘の頂上には、また何か立派な建物があります。K.Tに聞くと、それは王様の事務所だ、ということで、早速王宮を後にしてそこに車で向かいました。議事堂のような建物の前がロータリーになっていて、綺麗な花壇や彫像があり、入口にはウガンダの伝統的な服装の白いゆったりしたローブをまとった人々が屯していて、近づくと 「ようこそ、ウガンダへ」、僕の方を観て 「ようこそジェントルマン」 等と言ってくれました(笑)。この事務所の中には王様の私設ラジオ局もあるそうで、面白いな〜と思いました。近くには最高裁判所もあり、その横も通りましたが、並木道の綺麗なこの辺りがカンパラの中心のようです。ケニアのナイロビはヨーロッパ人が造ったものだが、カンパラはウガンダ人自身の手による都市である、というのが彼らの誇りだそうですが、ここには 「アフリカの東大」 といわれ、アフリカ中から英才が集まる名門マケレレ大学もあり、落ち着いた気風があります。前述のタンザニアのニエレレ大統領もマケレレの卒業生です。 普段王様がいて執務を行うという事務所を後にし、僕らは王宮跡である王墓に向かいました。入口事務所で女性が王墓に入る時には身にまとうのがしきたり、という民族衣装的なスカートを借りて着たママは「俄か女官」に早変わり(笑)。女性差別的というなかれ・・これは伝統と墳墓の主である故王たちへの儀礼ですからね〜。墓は大きな藁葺き屋根の小屋で、その周りにも小さな藁葺きの小屋が沢山並んでいました。上段右中の写真が王墓で、その右端に写っているのは僕です。案内人の説明によると、周りの小屋は王の親族で相続権がある人々が沢山暮らしているとのことで、周りのヤシの木の葉なども織物製品などの原料に使用するとの事でした。王墓の中は薄暗い祠のようで、黒い暗幕に壁(?)を覆われて、中央にお墓や槍等の武器の棚、そして歴代の王や王族の肖像画や写真等が飾ってありました。そばで織物を編んでいる女性がいましたが、この人も王族だそうです・・.そして案内人が絵や写真を示しながら古いブガンダ王朝の慣わしや前述した独立時の様々な経緯等を一時間以上に亘って詳しく説明してくれましたが、その歴史は日本の皇室とも似ているような気もしました。とくにお墓のある部分の周りは黒い暗幕が掛かっていましたが、これは森の象徴だそうで、王は死ぬ事はなく、ただ森の中に隠れてしまう、という考えの現われだそうです。日本でも天皇が崩御される時昔は「お隠れになる」と言いましたからこの辺も同じ考え方があるのですね〜。 |
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さて、帰りに入口近くのお土産屋に寄りましたが、ここでまたトラブル発生! 動物の絵を2枚買おうとすると、1枚500シリングで、1000シル払って欲しい、とのこと。僕らは1日の滞在なのでお金をシリングには換えておらず、一応使用できる米ドルやTCで済ますつもりでした。そこで米ドルで払いたい、と言うと、店員が、 「では10ドルをK.Tに払って欲しい、彼がその分シリングで払うだろうから」 と答えました。K.Tもそうして欲しいと言います。でもパパが 「確かレートは1500シルで10米ドルのはずだから、もし10ドル払うのなら1枚500シルの絵は3枚買えるはずだ」 と反論しました。するとK.Tは 「最近交換レートが変わって、1000シルで10ドルになったのです」 と答えます。そこで仕方なく彼に10ドル払い、彼がお店に1000シル払って、絵を買いました。ところが後で空港のレートの表示で確認すると、やはり10米ドルは1500シルだったのです〜! そういえば入口で入場料を払う時もK.Tは現地の旅行社関係者として無料で入っていましたが、店員らとは当然顔見知りで、恐らくマージンについて取り決めでもあるのでしょう。まんまと彼は利ざやを稼いだわけです。ポーターの事もあり、この一件で僕らの彼への信頼感は一気に崩れ去りました。しかも翌日更に一悶着あったのです・・。
さて、大統領とカバカ夫妻が一緒に写っている写真等を観て、ホテルへと向かいます。カンパラは「七つの丘」といわれる丘の地帯に発展した町ですが、僕らの泊まるシェラトンもその一角の高台にあり、近くに議事堂や省庁の建物など高級な官庁ビジネス街があります。このホテルは昔アポロホテルといって、30年前にパパが一人で来た時泊まったのもここでした。緑とビルが並ぶ落ち着いて洗練された雰囲気の良い区画で、ホテルも立派で快適でした。入口で偶然僕らの現地旅行社のオランダ人の女性マネージャーがいて僕らに挨拶してくれました。ホテルの部屋から眼下に眺めるカンパラの風景はとても幻想的で素敵でした。中段右上の写真がそれです。 また、ホテルのレストランで食べた夕食のナイルパウチ、テラピアといった地元で取れる魚、そして大きなエビのホワイトソース仕立て、またウガンダビーフのロースト等、ウガンダならではのナイル川やヴィクトリア湖、そして陸の産物は本当に美味しくて、思わず食べ過ぎてまた太ってしまいました〜(笑)。前ページ中段左上の写真はホテルでの夕食の風景でママと僕が写っています。 ○10日(4日目、ウガンダ2日目、カンパラ〜ジンジャー〜ナイロビ) この日は駆け足です。まずカンパラからジンジャーに向かい、そして再びカンパラに帰ってきてそのままエンテベ空港へと向かってケニアに行くのです。 ホテルでランチボックスを用意してもらった僕らは朝7時半にホテルを出発し、ウガンダ第二の都市、そしてナイル河の源流の町ジンジャーを目指しました。カンパラの中でバスが山のように沢山集中しているバスの総合出発所を古いのと新しいのと2ヶ所見ましたが圧巻でした。100台以上の真っ白なバスの群れはスクラップ場みたいでしたが、そこから国中、いやケニアやルワンダにも国境を越えてゆくバス便があるそうで、K.Tも車でナイロビまで半日かけていった事があるそうです。またカンパラから少し外れた所には日本企業も建設に関ったという大きなスタジアムやコーラの工場など色々な近代的な建物がありました。
またかなり走ると紅茶やコーヒー、バナナや砂糖黍の大きな農園もあり、とても綺麗ですが、やはりケニアやタンザニアの風景とよく似ていました。その辺はサホロという農園地帯ですが、北海道にもサホロという場所があるし、しかも同じような場所だと思うので、その名前の偶然に今更ながら驚きました。 そして大分走った所で、道の両側が鬱蒼とした森になっている所へ来ました。このマビラ熱帯林が東アフリカ最大の森林地帯で、緑の高い木や草の間の真直ぐな長い道を進むのは愉快でした。テントが道の側に見えたのでK.Tに何か、と訊くと、スーダンからの難民のキャンプだといいます。1998年8月7日にケニアとタンザニアの米国大使館が爆弾テロに遭い、多くの死傷者が出て、8月20日に米軍がアフガンとスーダンの軍事施設を報復爆撃した事件がありました。犯人は特定できないものの、これには米国とイスラエルの政治経済の関係、ユダヤ教対イスラム教の対立の構図、中東でのイスラエルとパレスチナの民族問題などが色々絡んでいるといわれています。僕はそこでこのキャンプはその時の問題での難民か、と訊きましたが、そうではない、ということで、オケロの追放とムセベニ政権成立の時に大量に流入してきた難民の物のようです。でも道の向かって右側がカトリックの集落で、左側がイスラムの集落だそうで、こんな所にも宗教問題が顔を出すのだな〜、と尽々感じました・・。
更に寂しい集落の中に忽然と聳える東洋風の建物を見つけました。これは実は中華料理店でした。パパの話だと、昔から中華料理店はアフリカでも相当地奥地のエリアでも必ずあったそうで、華僑の商魂の逞しさはさすがに凄い、と感動してしまいました(笑)。 さて、そして午前10時前にジンジャーに着きました。中段右中の写真はジンジャーの整備された道を通行中に、町を車から撮った物で、道の果て遠く中央に少しだけヴィクトリア湖が見えます。落ち着いた綺麗な町ですが、それほど大きな都市ではありません。 そして更に10キロ程走り、いよいよナイルの源流の公園に入ります。と、この入口でまたトラブル! K.Tがゲートで車を降りて、すぐ横の入園管理事務所に行き、係員と何やら話し込んでいます。少ししてから帰ってきたK.Tは、パパに 「入園のため10ドル払って下さい」 と言いました。パパは 「それはおかしい、渡された契約書には入園料等が必要な場合、それらの費用も全て契約に含まれる、と書いてある。ここで自分たちが払う必要はないはずである」 と反論しました。すると、K.Tはその契約書を見て、また何やら係員と話しています。そして僕達に向かって、 「ここに書かれた費用は入園する自動車のためのもので、人は別です。自分は旅行社の人間なので無料ですが、人は本来外国人であれば大人1人1000シル、3人で3000シルです。でも今係員にあなた達はウガンダに住んでいる人だと説明しましたので、ウガンダ人扱いで、3人で10ドルでよい、ということになりました。そこで、自分がシリングで払っておきますから、自分に10ドル払って下さい」 というのです。パパは納得できないが、時間もなく少しでもナイルの源流を観たいので、やむなく払う、と言ってしぶしぶ10ドルをK.Tに払いました。現地旅行社からもらった契約書には確かに「Price includes」の項目に「Lunch and all entrance fees」とあり、どこにも車と人の入園料の費用の区別など書いてありません。ただ、後でパパが撮っておけ、というのでゲートの入園料の案内板の写真を撮りました。中段右下の写真がそれですが、不鮮明で字がよく読めずにすみません! それによると、確かに非ウガンダ人の大人は1人1000シル、ウガンダ人の大人は1人500シル、オートバイは500シル、小型車は1000シルなどと書かれており、人と車などは別の料金の記載となっています。しかしこれはあくまで入園の管理事務所と入園者との間の話。問題は現地旅行社がそれを既に負担済みであるはず、という点にあるわけです。しかもよく見ると看板には「免除の項目なし」とあり、入園者は等しく入園料を払わなければならないことになっています。すると「人」の項目に当たる我らがK.T君の場合はどうなるのでしょう? |
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王墓の時のこともあり、確かに旅行社関係者が無料で入れる、というのはあるようです。しかし、もし「免除なし」だとすると、10ドル即ち1500シルは彼の入園料として払われた可能性もあるのです。彼が立替えた分のシリングをいくら係員に払ったかは見ることができなかったので確認の仕様もないのですが、彼はウガンダ人ですから、そうだとすると500シルでよく、1000シル分浮くことになります。しかも案内板の表示によればウガンダ人−この場合、K.Tが言うように「ウガンダ人」にウガンダに居住する外国人」も含む場合ですが−は1人500シルですから、僕ら3人で1500シルになり、それを10ドルでよい、というのは昨日の王墓のお店での彼の主張である、 「10米ドル=1000シル」 という説明と矛盾します。やはり 「10米ドル=1500シル」 と考えないと辻褄があわなくなります。まさか1日で交換レートがこれほど大きく変わるはずがないのですから(笑)。これで彼の昨日のうそがばれたと見ていいのですが、この時はそこまで気づかなかったので、とりあえずその話はその場ではそのままとなりました・・。
リゾート地となっているナイル河の源流ポイントは、キャンプ場等もある山がちの緑の芝生のような場所に、突然河が開けていて、向こう岸と行き来する発着場になっていました。そしてその船着場の所に大きな説明版があり、英語で説明があります。 「ここは、ヴィクトリア湖からナイルの水が流れ出て地中海に注ぐまでの3ヶ月かかる6400キロの旅の出発点です。現地の言葉で<オムガキイラ>と呼ばれるこの河の場所は、非アフリカ人としては英国の探検家ジョン・スピークによって1862年に発見され、英国王立地理院の所長の名をとって、この辺の滝が<リポンの滝>と命名されました。その後水力発電のダムが建設され、1954年に完成。ここは東岸ですが、西岸にはスピークがここを初めに見下ろした場所に、その記念碑が建っています。」 上段右下の写真は、この看板をバックに僕を撮った物です。その後鳥が沢山集まる小さな中州をバックに写真やビデオを撮ったり、発着場の売店でジュースを飲んだり−またK.Tが「親切に」立替てくれました(笑)−生暖かくて鉄っぽい味のナイルの源流の水にちょっぴり触れたり舐めたりして、近くの見晴台と開けた河岸のリポンの滝に行きました。中段左中の写真は見晴台の所で、手前のヤシの木の向こうにナイル河が見え、向こう岸にはスピ−クの碑があります。また前ページの中段右上の写真はリポンの滝をバックに僕ら3人を撮った物です。この発電設備はウガンダだけでなく、ケニア等の電力源にもなっているそうで、往きに通ったこの側の橋の上から設備の一部が見えました。でももうすぐ英国の会社がリポンの滝の辺りも発電用に埋め立ててしまうそうで、豊かな自然の観光スポットがまた1つなくなるのを、K.Tもパパも嘆いていました。開発と環境保全の問題はこんな所でも出てくるのですね〜。 死体の灰の一部がナイル河にも撒かれたという縁で、近くにガンジーの胸像がインド政府の手で1997年に建てられていたり、インド資本の設備が周囲には少しありました。かつてアミンが恐怖政治を敷いた時代、インドの裕福な資本家達は、財産没収の上、着の身着のままで3ヶ月以内に国外退去を命ぜられましたが、ジンジャーにはインド風の建物や寺院等もあり、今その頃の苦い思い出を良い活動で洗い流そうとしているようにも見えました・・。 さて、僕ら14:55発のナイロビ行きの飛行機に乗らなければならないので、11時半頃出ればよい、とのんびり言っているK.Tをパパがせかし、11時過ぎにはナイルを出発しました。案の定途中道がラッシュにかかり、カンパラまで2時間弱、更にそこを素通りしてエンテベまで40分以上かかり、結局空港に着いたのは13時半を回っていました〜(汗)。アフリカは全てポレポレ(スワヒリ語でのんびりゆっくりの意)ですが、飛行機の時間はそうも行きません。K.T君には最後まで気をもまされました〜(笑)。 空港近くの道路の脇に灰色の飛行機の残骸があって、何かと思ったら、前述のイスラエル空軍の電撃作戦の時、彼らが乗ってきた飛行機が作戦終了後、破損してそのまま廃棄された物だそうです。その生々しさが残り、僕もウガンダの血塗られた歴史を思い起こしました・・。
トラブルはあったものの愛想の良かったK.T君ともここでお別れです。名残を惜しんでさよならし、僕らはウガンダ航空の便−乗入れのため実際はケニア航空の便−に乗るためチケットと荷物のチェックに行きました。と、飛行機の時間が違っているように見えます。また今回エンテベとナイロビの間だけエコノミーなので、荷物の許容量が少ないためか、やや重さがオ−バー気味。慌てて職員に問い合わせると、時間は予定通りで、記載だけ誤謬があったそうですし、荷物はこの程度なら超過料金はいらない、ということで、「ハクナマタ−タ」(スワヒリ語でノープロブレムの意)と言われ、ホッと一安心。かつてケニア、タンザニア、ウガンダの3国は共同で「イーストアフリカ航空」という航空会社を経営していたくらいで、ケニアとウガンダは国際線といっても、国内線みたいなもので、移動は楽です。出国手続き後、こざっぱりした出発ロビーでお土産を買ったりして、一路ケニアはナイロビに向けて出発です。 「クワヘリ、ウガンダ!」(ウガンダ、さようなら!)
約1時間のフライトで、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ空港に到着。パパとママには1年ぶり、僕には3年ぶりのケニアです! 外に出ると、すぐに若い日本人女性が僕達の方にやってきます。パパとママのことを直ぐに分かったようで挨拶してくれました。今回ケニアでお世話になる旅行社の担当のS.Kさんです。彼女は実は去年の旅行でパパとママがお目にかかっており、それですぐ分かったようでした。S.Kさんと、今日と明日の担当の運転手を務めてくれる、キクユ族のM.Nさんの案内で、今度は何のトラブルもなく(笑)、荷物を積んで、今日泊まる市内のホテルに向け出発。パパとママはともかく、3年ぶりに見る僕にとって空港の周囲もナイロビの市内も随分変わり、新しい建物とかが増えていて新鮮でした。S.Kさんの説明では、2年位来ないと状況が分からなくなるそうです。 20分程のドライブでホテルに到着。ここ「ザ・スタンレーホテル」は前から何度も泊まっていますが、来る度にデラックスになっている気がします。 そして、到着するとロビーには現地旅行社の社長のY.Eさんと、前に何度かお世話になった社員のM.Mさんがわざわざお出迎えに来て下さり、そこで、今後のスケジュール調整をしました。今回お世話になったこの旅行社は前から何度もお世話になっており、社長以下多くの社員は日本の方ですし、日本の旅行社と提携してお仕事をされていて、何かと面倒見の良い会社なのでよく利用させて頂いております。 さて、細かい打ち合わせの後、夕食をどうするか、ということになり、何年か前に食べた事がある鉄板焼きステーキのお店に行きたい、と僕らがリクエストを出すと、Y.Eさんは、 「丁度それならつい最近その支店のようなお店が近くにできて、評判もいいし、経営者も知っているので、自分がご案内しましょう」 となんと社長自ら申し出て下さいました〜。 あ、勿論これはお客さんのエコ贔屓とかでななくて(笑)、個人的にも前からよく知っている、という仲であったればこそですし、勿論料金は折半ですので、念のため(^^)。 今丁度水不足で水が出ないホテルもあると聞いていましたが、幸いそういうこともなく、ホテルの部屋で一休みして、待ち合わせをした19時に近くの鉄板焼きレストラン、「FURUSATO」に行きました。ここは前に行った、近くのホテルで鉄板焼きをやっていた韓国人シェフが独立して出したお店で、半分は鉄板焼き、半分は寿司屋、という変わったお店です。奥では確かに見覚えのあるオーナーと、現地の「寿司シェフ」が高いコック帽を被ってカウンターで寿司を握っています。僕達は鉄板焼きのテーブルで色々動物の情報の話などY.Eさんと興味深い会話を楽しみ、魚や野菜、オーナー夫人のお手製の「特製韮キムチ」や野菜と肉を混ぜて焼く、一風変わった鉄板焼きステーキに舌鼓を打ちました。赤坂で修行したシェフのメニューは日本のそれと一寸違いますが、美味しかったですよ〜! 隣では大きな宝船型のまな板にお刺身を乗せて供されたフルコースを楽しんでいる外人さんのご一行もおられました。 オーナーも夫人も後に挨拶に見えられ、前にホテルでお目にかかりましたね、と驚くべき記憶力を発揮されていました・・! すっかり満腹してよい気分になり、ホテルに帰って、この長かった一日はようやく終わりました。 「ジャンボ、ハバリ!−その2−の3」へ |