メディア被害の問題

メディア系思考読み取り暴力加害者

放送局 NHK、TBS、フジテレビ、日本テレビ、テレビ朝日、テレビ東京各系列、CS放送局、TOKYOFM系列、各民放ラジオ
新聞 北海道新聞、毎日、朝日(たまたま読んでいた)
出版 書籍、週刊誌、漫画雑誌など多数
音楽 常連的なヒット歌手にはほとんど関わっている勢い。その他もかなり。
映画 アメリカ映画はかなりやっている
広告・CM 大手広告業界が関わっていると推測している
インターネットサイト 加害者が作っているサイトが相当ある
その他 ゲーム、商品名(菓子類)など

発信源
家庭のテレビ・ラジオ、購読する新聞、雑誌・書籍、街頭や店舗などで流れているラジオ・有線、インターネット、商品等

本人や家族が定期的に見ている番組や新聞は狙われているので特に注意が必要。テレビやラジオなどでは、被害者の行動に合わせて、確実なタイミングで攻撃を加えることができる。録画番組でも編集込みで可能。その日の行動に連動させてやらせ事件が起こることもある(例、正面からサイレンを鳴らして徐行してきた救急車をUターンして自転車で追いかけたら、その日の夕刊に天皇の車列をUターンして車で追いかけ妨害したという記事が現れる。平成15年7月)。思考・行動スパイ内容をネタにして大げさな記事が作られたりする。どこかの政党の人や野球監督が標語のように使い出す。昨年あった紅白騒ぎとて、一種のマインドコントロールといえる(実名で訴えているなどの重複。些細な問題を大きくとりあげる。加害関連組織による様々な情報攪乱戦術)。被害者の会にもメディア犯罪者の魔の手は伸びている。追い討ち行為は最も卑劣な犯罪者のやり方だ。被害に気づいていない若い人は特に店舗などで流される音楽には警戒したほうがよい。大人はニュース・新聞の類に惑わされないように。

家の中に情報は必要なんだろうか

日本は物質的に豊かになって、テレビをもっているのが当たり前になった。一家に一台だったのが、ひとり一台になっていった。最近では、インターネットとともにパソコンも普及した。デジタル・ディバイドといって、インターネットができない人は不利だと教えられている。
 メディアの情報演出は巧みだ。やはり、テレビを見る人はそれが面白いからみるのだろう。

おそらくターゲットにされる多くのひとはメディア情報の危険性についてあまり注意を払ってこなかったと思う。被害者や一般の人々の心を蝕む最大の要因は「偽善性」というメディアそのものの本質に内在している。お買得情報などといってとんでもないものを売りつけようとしたり、自画自賛にすぎない陳腐な作品が世の中を席巻したり、刑事ドラマの警官は常に善人であったり、現実味のない恋愛ドラマが賞賛されたり、女子アナがおじさんをたぶらかして偏向した観点を受け入れさせたりしている。うわべだけの友好性の陰で、受け手側を骨の髄まで搾取しようとたくらんでいる。イラク戦争の偏重報道はメディアに対する社会的な不審を広げた。先進国は都合のいい小国の紛争に国家主義の残響を求めようと目論んでいる。報道には、あたかも悪者であるかのような、無力な民衆がたびたび出現している。一方で、訴追を完全に逃れ続ける、凶悪な犯罪が隠され続けている。

「偽善性」という大いなる矛盾、都合による勝手気ままな扇動、受け手へのどこか権威的な影響づけという点において、マス・メディアは、模擬的な多重人格生成マシーンになっている。思考読み取りによる威圧によって、その権威が被害者の心にのしかかってくる。被害者の持つ意志を茶化したり、特に、知られたくないようなことをネタにしたり嘲笑したりすることが、日常的に続けられる。被害者の受け入れている情報が大量に管理されている。犯罪者に都合のいい状況・人格を作り出すために、歌詞で吹き込むような試みもされている。マス・メディアの中には、あたかも被害者の味方であるような、上っ面を見せたがる人もいる。被害者の会の参加者や、例えば医師のような、影響付けのある人物を通して、協力が必要だと被害者に取り入ろうとしたりもする。何度も言うがそういった偽善性こそが被害者の心を蝕む。報道者がなすべきことは、安全に関わる重大な情報を伝えていないことにたいする謝罪のみである。

突飛な攻撃によって現実感を失わされることがある。恐怖状態の連続は普段とは異なる意識状態を生む。信頼していた知識や観念に対する失望も起こりうる。情報を受け入れ続けてきた人にとって、情報がない状態を想像することは難しい。戦後の歴史、日本では特に安保闘争以降は、メディアの大衆心理学的乱用に歯止めがきかなくなったのではないかと思う。人々は何が重要で何が重要ではないかを容易に見誤るようになった。心理学、精神医学的技術は、赤子に対する世界のすり込み(インプリンティング)までをも問題にしているため、悪用には大変な問題があるのだ。アジア諸国の歴史的従属は、世界メディアの支配力によって、内面にまで深く完成されたものになっている。

年長者になるほどメディアにたいして多くの不満を持つはずだが、現実に対する行動力という点では低くなってしまう。マス・メディアは若者に危険を悟られないように必死に取り入っている。日本では商用主義への危惧があまりにも軽視され続けてきた。インターネット上では平等が原則である。私はネット普及を機に年配の人に社会をもう一度考え直してほしいと考えている。何かの都合に良いように若者をし向けることが社会への責任ではないと思う。後代へのツケがこれ以上大きくなってはまずい。依存による主体性の喪失が行きすぎたために、歴史的な犯罪さえ誰も止めようとしなくなっている。物質的豊かさとは反対に、心理学技術の発展は人々の心を貧しくさせるだけのものであったのだろうか。価値や判断力を人々が取り戻せるチャンスは今しかないのではないか。

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